第5章 キリストの死の偉大さ

T. オースチン-スパークス

「神のパンは天から下って来て、世に命を与えるものです。(中略)わたしは命のパンです。(中略)わたしは天から下って来ました。(中略)わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンから食べるなら、その人は永遠に生きます。そうです、わたしの与えるパンはわたしの肉であり、世の命のためです。(中略)人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません。(中略)わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物です。(中略)わたしは天から下って来たパンです。」(ヨハネ六・三三、三五、三八、五一、五三、五五、五八)

「キリストが信仰を通してあなたたちの心の中に住んでくださいますように。それはあなたたちが愛の中に根ざし土台づけられて、すべての聖徒と共にその広さ、長さ、高さ、深さを理解するよう強められ、人知を超えたキリストの愛を知り、満たされて神の全豊満に至るためです。」(エペソ三・十七~十九)

主が力づけてくださっているので、キリストと私たちとの関係、十字架によるキリストから私たちへの移行について理解するようにしたいと思います――ここで言う「私たち」とは主の民のことです。これまでキリストの偉大さについて考えてきましたが、その際、キリストのパースンについていくつか述べました。第一に、子たる身分に関して、キリストの永遠性――永遠の子たる身分――について考えました。次に、その対極にあるものとして、人の子であるキリストについて考えました。神の御子は永遠ですが、人の子は時間の中におられます。神の御子は天におられますが、人の子は地上におられます。私たちはこれまでこの二つの身分に含まれる偉大さについて理解しようと努めてきました。また私たちは十字架の偉大さについても考えました。キリストについて述べたことの一つは、キリストはこの宇宙の外側に一人っきりでおられるのではないということです。そうです、キリストについての啓示が――永遠の子たる身分の啓示ですら、他のすべての能力の啓示と同様に――目的としているのは、キリストは私たち人と密接な関わりがあることを示すことなのです。「キリストの永遠の子たる身分は、たんにそれだけのものなら私たちとは何の関わりもない」と述べたことを、あなたは覚えておられるでしょう。もしそれが私たちに何らかの影響を及ぼすものでなければ、私たちはそれにあまり関心を持たなかったでしょう。ですから、人に対する啓示のまさに本質とも言えるのは、神は人がそれを知ることを願っておられるということであり、それには偉大な御旨があるということなのです。神がこれらのことを私たちに示してくださるのは、たんに何かとても素晴らしいものを私たちに見せるためではありません。神の啓示にはある目的、大きな目的、しかし大いに実際的な目的があります。神が述べておられるのは実際的にはこういうことです、「さて、これはあなたに関係することです。あなたはこれと関連しており、関係しているのです」。ですから、子たるキリストの偉大さ――神の子、人の子としてのキリストの偉大さ――を、新約聖書は私たちに関する実際の日常的関係の中にもたらします。御子キリストは多くの子たちを栄光に導かれます。人の子キリストは新創造の長子です。そして、キリストの人性の中で、キリストのかたちにしたがって、新創造は神に立ち返り、キリストにあって神にささげられます。さて、これはみな共通の土台ですが、私たちはそれらすべての内なる実際的意義に至らなければなりません。

子たる身分に関する神の永遠の御思いはキリストによって確保されていた

これまで御子の永遠性について、また御子の永遠の命への私たちの参与について述べてきました。これは実際のところ何を意味するのでしょう?それは永続する、始まりも終わりもないものという思想を、私たちの思いに伝えるだけでしょうか?それでは曖昧で、ほとんど助けになりません。啓示として私たちに示されていることの実際的・実行的な意義・価値は何でしょう?それが意味するのは次のとおりです。すなわち、子たる身分という思想、概念は、私たちが造られる前から神の御心の中にあったものであり、それは被造物に伝達されるべきものだった、ということです。それは時間の前にまで遡ります。私たちにとって、時間とはこの物質的世界体制をまさに意味します。時間の始まりとは私たちにとって、神が物質界を創造し、天体をあるべき場所に置いて、年、月、日、季節等をつかさどらせた時のことです。これが私たちにとっての時であり、それゆえそれは物質的被造物に属します。しかし、時の前に遡るなら、時間の外側にある神の御思いに至ります。何なら、それを永久、永遠と呼んでもかまいません。神の御思いは時間の外側にあり、時間の前にまで遡って、時間にある性格を帯びさせ、被造物にある性質を帯びさせます。神が創造しようとしておられたものは、神の御旨によると、神の御心にしたがってこの性格を帯びるべきものでしたし、したがって、その性質だけでなくその概念や観念においても、神の永久の御思いと関係したものになるべきものでした。今や、キリストこそこれなのです。

しかし、再び言いますが、今、それは私たちにとってどのような実際的意義があるのでしょう?その意義とは次のとおりです。すなわち、キリストは時間の前の神の永遠の御思いを成就されたのです。そして、キリストは立って、造られた万物を治めておられ、時間が神の御思いを損なわないように見守っておられるのです。時間の中に到来するものが何であれ、最終的にこれを退けることはできません。なぜなら、神の御思いは永遠であって、常に立って治め続けるからです。最終的に、事物は神の永久性により当初の御旨に立ち返ることになります。被造物は時間がたてばたつほどますます神の御思いから遠ざかって行き、その軌道からすっかり外れてしまうかもしれませんが、時間はやがて終わります。結局のところ、時間に神の御思いを退ける力はありません。キリストにあって、時の前から神の御思いは確保されていたのであり、最終的に実現されることになります。被造物は神の永久の御思いに立ち返るでしょう。そして、かつて時間の中に到来したなにものにも最終的には神の御思いを変える力はなかったことが示されるでしょう。これは途方もないことです――そしてこれこそ子たる身分の実際的意義です。子たる身分は永遠の思想であり、最終的に被造物は子たる身分に到達します。最終的に、被造物や人々は子たる身分を体現するようになります。これが神が常々御心に留めてこられたことであり、決意してこられたことです。

神の永遠の御思いは十字架によって確保される

しかし、それはどのようにして可能なのでしょう?永遠の事実がある一方で――時間があります。地上には時間的条件があり、私たちはこの造られた世界の中にいます。私たちはこの永遠の御思いからかけ離れています。ですから、どうやってこの永遠の御思いは成就されうるのでしょう?御子によって成就されたこの永遠の御思いと、この御思いの究極的実現との間に、十字架は立ちます。十字架は片腕をもって永遠、この御思い、この神の御旨に至ります。そして、もう一方の腕で来たるべき永遠、この御思いの究極的完成に至ります。十字架は永遠の過去と永遠の未来とをつなぐ橋であり、一方においてこの御旨を引き受け、他方においてそれを確実に実現します。十字架により、御子と多くの子たちに関する神のこの永遠の御思いは実現可能になり、確保されます。この十字架の永遠性という点に十字架の偉大さがあります。これが、「この世の基が据えられた時から屠られていた神の小羊」(黙示録十三・八)といった句の意味です。時間は想定済みでした。時間と共に到来するものが何であれ、たとえそれがこの永遠の御思いに大いに反するものだったとしても、神はこの世の基が据えられた時から屠られていた神の小羊によってそれを想定しておられたのです。十字架は架け橋です。時間と共にあらゆる変化――人の性質や性格の変化、この世の変化、被造物の性格の変化――が生じましたが、キリストはそうした変化に対して十字架につけられました。そして、私たちはこの十字架につけられたキリストと信仰によって結合されます。私たちは十字架の一方の側に立ち、信仰によってキリストと一つとなり、この変化に対して死にます。神の御思いを損ない、否定し、それに矛盾する一切のものに対して死にます。また、私たちは十字架のもう一方の側に立ち、復活したキリストと信仰によって一つとなります。キリストは時間と共に到来した一切のものに打ち勝って復活されました。この時、私たちは私たちの主イエス・キリストにあって永久の命、永遠の命の賜物を受けます。あるいは、こう言ってもいいでしょう。その時、私たちは永遠の過去からキリストにあった者と見なされるのです。私たちは時間の中から、時間が今意味するところのものの中から引き上げられました――なぜなら、時間は今や、混乱、無秩序、腐敗を意味するものであり、死の支配の同義語にほかならないからです。死は命を制限し、「ここまでです。これ以上はだめです」とすぐに言い出します。これが死であり、時間です。キリストは時間が意味するところをすべて死により滅ぼし、それを全く取り去られました。そして、私たちは永遠なるキリストに結び合わされました。私たちは新生の時、聖霊を通して潜在的に子たる身分を受けました。そして、聖霊の絶えざる働きにより私たちが成熟に至る時、子たる身分は完成されます。この子たる身分は神の永遠の御思いの成就であり、神が私たちについて常々思ってこられたことの実現です。そして、十字架こそ、これがすべて可能になる点です――いいえ、キリストにあってそれはすでに確保されているというべきでしょう。十字架は何と偉大なのでしょう!

神のものである天の人

これに続いて(別の言葉に重点を置いて同じことを述べているにすぎませんが)、このヨハネによる福音書にはこう記されています。「わたしは天から下って来た生けるパンです」。「わたしは天から下って来ました」。ここでほぼ同じ調子で一つの句が繰り返されています。永遠という言葉は、確かに過去に遡る言葉です。ここでは「天から」という言葉が使われています――この言葉は上を指す言葉です。しかし、「わたしは天から下って来ました」とはどういう意味なのでしょう?キリストが語られたのは全く奥義的なことであって、聖霊が心に解き明かしてくださらないかぎりわからないことだったのです!キリストは天にいる人の子について話されました(ヨハネ三・十三)。キリストは地上にいてこの御言葉を語っておられるのに、「天にいる人の子」について語られたのです。これはどういう意味でしょう?新約聖書の後の書が示しているように、キリストが言わんとされたのは次のことにほかなりません。すなわち、キリストはこの被造物には属しておられないのです。キリストはこの地上の人類の通常の方法で生み出されたわけではありませんし、アダムの通常の系統にしたがって誕生されたわけでもありません。「わたしは天から下って来ました」。キリストにまつわる最も本質的で深遠な現実は、キリストは別の体制に属しておられるということです。確かにキリストはマリヤから生まれましたが、キリストはユニークな方法で聖霊からお生まれになりました。何かが働いていたので、誕生の前から御使いはキリストについて「あなたが身ごもっているその聖なる方」(ルカ一・三五)と言うことができました――この言葉は聖潔の完全性について述べています。この聖潔の完全性は聖霊なる神の介入の結果であり、聖霊はこの堕落した被造物の遺伝からこの御方を切り離されたのです。ですから確かに、天から下った聖霊により、キリストは天から下られたのです。要するに、キリストは人類の別の体制に属しておられるのです。キリストには他の人と異なるユニークな特徴があります。キリストのような人は他にいません。「わたしは天から下って来ました」。

これはまた神の御思いでもありました――時間の中や私たちが知っているこの地上には見つからないある種の人、私たちに馴染みのない人類が神の御思いでした。その人は別の体制に属しており、この領域やこの人類という種族の全く外側におられます。私たちは「御子のかたちに同形化されるよう予め定められ」ました(ローマ八・二九)。あなたも私も、生来属しているのとは全く別の体制に属するようになります。この造られた世界で今私たちが属しているこの体制は、神の御思いに全く従っていません。悪化し、堕落して、神の是認や受容から外れてしまっています。何か別のものであり、混乱し、汚染され、もつれ、毒されているのです。

天からのこの御方は、人がそうなるように神が意図されたものを代表しており、その具体化であって、それを包括しておられます。一方にはこの被造物がありますが、他方において――「御子のかたちに同形化され」、復活において御子のようにされて、霊的に内側で別の者にされます。そうです、しかし今は胚芽にすぎません。胚芽とは何かご存じでしょう。胚芽には命はありますが、まだ発達しておらず、完全な意識を持つ命ではありません。次第に発達していき、意識が成長していきますが、最初はそうではありません。再生された時の私たちも同様です。命を持ってはいますが、この命の意義をどれだけ意識し、理解しているでしょう?ほとんどしていないのです!この地上には数百万という主の民がいますが、自分が救われた目的や、神が自分を救ってくださったこの偉大な目的を意識している人は、その中にどれくらいいるでしょう?彼らは再生されたので命を持っていますが、この命は胚芽的な命にすぎません。というのは、その意義の意識が大いに限られているからです。しかし、この命が成長するにつれて、自分が再生された目的をますます意識するようになります。若いクリスチャンたちは熱意、活動、力に満ちているかもしれませんが、もし力だけで理解に欠けるその地点にとどまり続けるなら、成長していないことになります。小さな赤ん坊はみな、僅か数時間であなたをうんざりさせます!子供のすることを真似して、それにどれくらい長く耐えられるか試してみなさい!子供には命や力はたくさんありますが、知性はあまりありません。成長の真のしるしは力だけでなく、知性です。ですから、霊の命の真の発達過程とは、自分が召された目的、自分が救われた目的、自分の内に起きたことの神聖な意義の何たるかを、ますます見て取るようになることです。このように成長している人は比較的少数しかいません!

さて、最後には全く成長した人、キリストの完全な身の丈に到達した人が現れるでしょう。そして、子たる身分に完全に到達するでしょう。なぜなら、子たる身分はキリストにあって安全に守られており、遥か昔に十字架によりキリストにあって確保されたからです。

しかし、神が永遠の過去に御子にあって確保して計画されたことと、その究極的実現との間には、天然的な私たちがいます。私たちは神の御思いにかなう者ではありませんし、さらに悪いことに、私たちの内にはそうなる力もありません。たとえ人間中心主義者が何と言おうと、またどんな偽りの信条がはびころうと、この事実に変わりはありません。今世間には、「神は万物の父であり、人類はみな兄弟です。人は啓蒙と教育を受けさえすれば、自分の力で自分を救うことができます」といった類の偽りがはびこっています。それにもかかわらず、人がそうなるよう永遠の昔から神が意図してこられたものになる力は、私たちの内にはありません。最近の歴史に照らして見ると、人は何と盲目なのでしょう、「数千年の時を経て、人は神に近づいている」という信条をなおも保持しているとは!私たちは初めから少しも神に近づいてなどいません。神は必ずそのような類の盲目をすべて滅ぼされます。しかし、人々は盲目であり、依然としてそのような信念にしがみついています。この徹底的に堕落した領域では、そうした信念はそう簡単にはなくならないのです。しかし、希望はどこにあるのでしょう?この両者の間に十字架は立ちます。十字架は永遠のものを守るだけでなく、天的なもの、この全く「別の」ものをも守ります。一方において十字架はありのままの私たちを担い、他方において神の御旨の実現を確かなものとして、両者を共に十字架につけられたこの人に渡します――この御方は復活により、人がそうなるべき者の最初の者になられました。この方は十字架によりそうなられたのです。主イエスの十字架、十字架につけられたキリストは、この別の種類の人を確保します。そして(これまで述べてきたように)私たちは再生される時、この新しい体制に属する胚芽的命を受けます。キリスト・イエスにある命の御霊の法則に従いさえするなら、私たちはこの同じ形に変えられ、造り変えられ、成長してあらゆる点で彼に至ります。私たちは少しずつ彼に似た者になり、次に、彼が私たちのために最後に介入されるあの大いなる日、「私たちは彼のようになります。なぜなら、私たちはありのままの彼を見るからです」(一ヨハネ三・二)。私たちはみな変えられます。そして、この朽ちるものは朽ちないものを着、死は勝利のうちに飲み尽くされます(一コリント十五・五三~五四)。十字架がこれを成し遂げます。十字架は何と偉大なのでしょう!

裂かれたパンであるキリスト

主イエスがご自身について「わたしは命のパンです(中略)わたしは天から下って来ました」とこのように象徴的に語られたのは、これが理由であることがわかります。「わたしを食べる者は……」、「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません」。明らかにこれが意味するのは、このパンは裂かれなければならないということです。彼がこれらの言葉を語られたのは、個人に対してだけでなく、信者の群れ全体に対してでもあります。「わたしを信じる者は」と言われたからです。このパンは分配されなければなりません。この御言葉につながる出来事として、群衆の養いがあったことがわかります。群衆を養うためにパンを裂いたことが元となって、命のパンである彼ご自身に関するこの素晴らしい啓示が与えられました。裂かれたパンはどこで分配されることになっていたのでしょう?十字架においてです。十字架はパンを裂くことであり、それは私たちがキリストを受けられるようになるためです。パウロはこれをすべて解き明かし、その奥義に直接至ります。エペソ三章十七節、十八節というこの比類ない節で彼はこう述べています。「それはキリストがあなたたちの心の中に信仰を通して住まわれるためです」。キリストはどのようにして私たちの心の中に住まわれるのでしょう?キリストは裂かれて、信仰に対して与えられるのです。信仰が手を伸ばします。すると、この裂かれて分配されたキリスト――キリストは裂かれましたが、それでも完全な御方です――が来て、私たちの心の中に住んでくださるのです。「……それはキリストがあなたたちの心の中に信仰を通して住まわれるためです。それは、あなたたちが愛の中に根ざし土台づけられて、すべての聖徒たちと共に理解するよう強められるためです……」。「私たちは数は多いですが、一つパン、一つからだです」(一コリント十・十七)。そうなったのは、私たち全員の心の中に信仰を通して住まわれるキリストによってです。「……その広さ、長さ、高さ、深さをすべての聖徒たちと共に理解するよう強められ、人知を超えたキリストの愛を知り、あなたたちが満たされて神の全豊満へと至るためです」。この御言葉は私たちがこれまで述べてきたことを一つの包括的文章にまとめたものにほかなりません。

神の愛の偉大さ

キリストの愛の四つの寸法について新たに強調して終わることにします。愛はエペソ書で、「恵み」というこの偉大な言葉と手を取り合って進みます。恵みと愛はエペソ書では双子です――あるいは、「恵みとは行動する愛である」と言えるでしょう。エペソ書で恵みという言葉を読む時、それは私たちを地獄から救って天の保証を与えるために私たちに与えられる神の恵みを意味するだけではありません。それは私たちを救って高く豊かな全き神の御思いに至らせる神の恵みをも意味するのです。恵みの目的はこれに尽きます――この巨大な永遠のものが恵みの目的であり、すべては教会と関係づけられるようになります。これがこの書における神の恵みです。次に、恵みは神の愛のゆえであることが示されます。「キリストは教会を愛して、そのためにご自身を渡されました」(エペソ五・二五)――これは裂かれたパンです。この愛は十字架から発します。ここでまず十字架が示されます。「この方にあって私たちは贖われました」(エペソ一・七)。「あなたたちを彼は生かしてくださいました。あなたたちは自分の咎と罪によって死んでいた者であり、かつてはそれらの中で、この世の行程にしたがって歩み、空中の権を持つ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。また、私たちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲によって生活し、肉や思いの欲するままを行い、他の人々と同じように、生まれつき怒りの子でした。しかし神は、憐れみに富んでおられるので、私たちを愛してくださったその大いなるのゆえに、私たちが自分の咎のゆえに死んでいたにもかかわらず、私たちをキリストと共に生かしてくださったのです」(エペソ二・一~五、アメリカ標準訳)。これが十字架において示された神の偉大な愛であり、十字架により私たちをこの恐るべき死から甦らせてくれるのです。

次に、この愛の四つの寸法――広さ、長さ、高さ、深さ――が示されます。この寸法は何でしょう?それは十字架が及ぶ範囲の壮大さを示しています。十字架の広さ――ああ!十字架は何と広大なのでしょう!神の愛は何と広大なのでしょう!神の愛によって、あなたは心底「心の広い教会人」になることができます!ああ、神の愛は私たちが思う以上に遥かに大きく、遥かに広いのです。ああ!私たちの心を広げてくれるこの愛がもっと必要です!私たちはあまりにも狭量で、卑劣で、けちけちしています。神の愛について広い観点で考えるのを恐れないようにしようではありませんか。神の愛がなしてきたこと、神の愛が救ってきた人を主が示される時、私たちの中には驚く人もいるでしょう。ああ、神の愛の広さよ!これは私たちを「あなたたちも心を広くしてください」というコリント人に対するパウロの勧めに連れ戻します。

これが広さであり、外側に及びます。今度は神の愛の長さについてです――これは前後に及ぶものであり、永遠の過去に、堕落の前に、あらゆる出来事の前にまで遡ります。十字架の愛はその彼方にまで及び、凌駕します。神に感謝します、サタンやアダムを通してこの被造物に到来した一切のものを十字架は凌駕して、もはや時がなくなっても進み続けます。十字架、神の愛は永遠の過去にも永遠の未来にも伸びているのです。

「……その広さ、長さ、高さ」――ああ、神の愛の高さ、私たちの主イエスの十字架の高さよ!何という高さまで私たちを連れ上れることか!「……そして私たちを天上で彼と共に座らせてくださいました」(エペソ二・六)。十字架の力の何という高さ!私たちを引き上げる十字架の何という有効範囲!私たちは自分がどうなるのか想像もつきません。ヨハネは言います、「愛する者たちよ、今私たちは神の子供です。私たちがどうなるのか、まだ明らかにされていません。私たちはこのことを知っています。彼が現れる時、私たちは彼に似た者となるのです」(一ヨハネ三・二)。変貌の山での彼をご覧なさい!ダマスコ路を照らした真昼の日の光よりも明るい彼をご覧なさい!黙示録の冒頭に記されている、ヨハネが見た彼をご覧なさい。「彼を見た時、私は死人のように彼の足下に倒れた」(黙示録一・十七、アメリカ標準訳)。私たちは彼に似た者になるのです!私たちにはそれを描写できませんが、これが十字架の高さであり、神の愛の高さです。ああ、十字架は何と高く上げることか!神の愛は何と高く上げることか!これは実際的なことであり、たんなる教理ではありません。神の愛が実際に人生を握る時、それは引き上げます。神の愛は引き上げます。ああ、神が今あなたの傍らに個人的に訪れて、この方は大能の神、永遠なる御方であることをあなたが知り、この御方があなたに「わたしはあなたを愛しています!」と仰せられたなら、あなたは直ちに地上からきれいさっぱり引き上げられるでしょう。十字架は神が私たちを愛しておられることの偉大なる啓示です。「神はそのひとり子を賜るほど愛してくださいました」(ヨハネ三・十六)。ああ、この愛が私たちの間にあって、地上における私たちの存在が他の人々を引き上げるものとなりますように!そうでないことがあまりにも多いのではないかと、私は恐れます――私たちは投げ棄てたり、抑圧したりしていて、引き上げる影響を及ぼしていないのです。ああ、この引き上げる神の愛の中へと、神が私たちをさらに救ってくださいますように!

それから、神の愛の深さと、十字架の深さです。私たちは歌います。

「ああ、私にその意義を教えてください。
 あなたの愛は比類なく、
 その愛は深みにまで及びます、
 私の絶望よりも深いのです!」

私たちの中にはこの深さ――自分に対する絶望の深さ――を知っている人もいます。彼はすべての人のあらゆる絶望、失望、恥、罪というアビスを、そのどん底に至るまで担ってくださいました。そして、十字架、神の愛はそこにまで届いて、引き上げてくれたのです。その深さはいかばかりでしょう?この愛に触れた時、使徒が我に返って、意味をなさない言葉を語ったのもうなずけます。「……人知を超えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ三・十九)。人の言葉では到底表現できないのです!エペソ書は最上級表現の書です。この書を書く時、パウロは言葉では表現しきれませんでした。なぜなら、彼はこの生活、この世、この被造物を全く超越していたからです。彼は永遠に、天に、神に触れていたのです。それを描写しようとしても人の言葉ではどうにもならないほどだったのです!「その力の卓越した偉大さ」(エペソ一・十九)。「……すべてを遥かに超えて豊かに行える御方」(エペソ三・二〇)。言葉では描写できません。ここに愛の四つの寸法が示されていますが、それは人知を超えています。それはたんなる修辞的表現にしか聞こえないかもしれません。そうなのですが、ああ、私はこう信じています。この言葉を通して、神の霊は私たちの心に強い印象を与えて、「神の愛は人が思いはかるよりも広いのです」と語ってくださると。神の愛はこの世の絶望、恥、罪の深さよりも深いのです。神の愛は、それがなしうると私たちが考える最高の考えよりも高く、私たちを時間の外側の永遠につなぎとめるのです。