第6章 復活の偉大さ

T. オースチン-スパークス

「……神の大能の力の働きにしたがって、信じる私たちに働く彼の力の卓越した偉大さ。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上においてご自身の右に座らせ、彼を、すべての支配、権威、権力、主権の上に置き、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました。」(エペソ一・十九~二一、アメリカ標準訳)

高く上げられたキリストは人の完全な代表である

今回の私たちの主題は、これらの御言葉の中に入り込んで、その意味するところを理解・感得することです。この目的を達成するために、私たちは主に全く拠り頼みます。この節全体を熟慮しつつ読むなら、次のことがわかるでしょう。すなわち、キリストが神の右におられることには目的があるのです。その目的とは、キリストを私たち信者全員の総代表とすることです――「信じる私たちに」とあるとおりです。これには関連があります。神は「キリストをご自身の右に座らせ」ましたが、これはキリストを死者の中からよみがえらせたこの卓越した偉大な力を行使した最終段階でした。そして、この句の終わりで、神は「キリストを万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会は彼のからだです」と述べられています。キリストは神の右に単独者として――高く上げられて孤立している、誉れある主として――つかれたわけではありません。そうではなく、神の御思い、意図によると、キリストは私たち信じる者、彼のからだである教会と関係しておられるのです。神の御言葉が示す根本的なキリスト像は、キリストは人の代表たる立場、地位にあるというものです。これこそ、イエス・キリストについての啓示全体の最も根本的なものです。キリストは人に関する神の思想の化身です。しかし奇妙なことに、この化身たる御方は究極的には人間経験を全く超越した領域に移されます。この御方は他のだれもいたことのない所に置かれます。キリストは完全にまた最終的に代表者として公にされます。それは死を通り抜けて死を超越した経験と立場によります。私は言いますが、人類史上、他の何者もそこに達したことはありません。一見、この事実は「キリストは代表である」という観念を粉砕するかのように思われます。他のだれも到達したことのない領域や立場でキリストが代表であると言っても、どうやってキリストはすべての人の代表になれるのでしょう。しかし、これについてさらに注意深く考えるなら、まさに正反対であることがわかります。これこそキリストが代表たりうる理由であり、その方法なのです。なぜなら、どの領域や関係においても、その完全な代表となるには、その領域の目的や可能性をすべて実現する必要があるからです。ある花を取り上げて「この花はこの種類の花の完全体です!」と言うには条件があります。その条件とは、その花があるべき姿を完全に表すこと、そして創造時に内包していた可能性をすべて開花させることです。その花が成長を遂げて、神に定められた生来の目標に完全に達しないかぎり、完全体とは言えません。ですから復活したキリストは――こう言ってもよろしいでしょうか?――人を創造したときに神が抱いておられた御思いの完全体であり、それゆえ、キリストは他の何人も到達したことのない領域の中に入っていかなければならなかったのです。人に対する神の当初の御思いに完全に応える地位と豊かさをキリストは持たなければなりません。

復活したキリストはあらゆる制約を一掃する

しかし、私たちはこれに取り組まなければなりません!聖書の中には、旧約と新約のどちらにも、死者の中から甦った他の人々がいます。ラザロが顕著な例です。しかし、あまり議論するまでもなくわかることですが、復活後のラザロと復活後のキリストとの間にはとても大きな違いがあります。ラザロは死者の中からよみがえりましたが、依然として同じ人のままでした。ラザロに何らかの変化があった形跡は一切ありません。ラザロは前と同じまま戻って来ました。ラザロの復活は神聖な意味における復活ではなく、甦生でした。復活と甦生との間には大きな違いがあります。主イエスの場合、これについて独特な点があります。キリストの独特さはその性質にあります。復活後、キリストはその性質を帯びておられました。多くの違いがありました。その違いはあまりにも現実的だったため、キリストと最も親密な関係にあった人々、最も親密にキリストと同行していた人々でさえ、神からの特別な力づけがないかぎり、キリストを見分けられなかったことがわかります。キリストが彼らを受け入れたのは、昔の根拠に基づいてではありませんでした。キリストは昔の愛情に満ちた人間的抱擁や接触を全く許可されませんでした――「わたしに触れてはいけません」(ヨハネ二〇・十七)――なぜなら、抱擁や接触は天然的生活の古い水準にある仕草だったからです。他方、キリストはご自身に触れることを許されましたが、それは信仰による接触でなければなりませんでした。キリストは「わたしに触ってみなさい」と疑いを持つ者を招かれました――「あなたの手を伸ばして、わたしの脇に入れなさい」(ヨハネ二〇・二七、アメリカ標準訳)――しかしこれは疑いと不信仰に打ち勝ちなさいという信仰への招きでした。これはそれまでとは異なる種類の関係でした。というのは、キリストはある領域の外に出て行って、別の領域の中に入られたからです。今や、昔の制約や束縛はもはやありません。空間はなくなり、時間もなくなりました。キリストは姿を消されますが、離れるわけではありません。そこにおられるのであって、やって来るのではありません。今や、新たな力、新たな能力、新たな才能があります。すべてが別の領域にあるのですが、それでも大いに現実的です。キリストはその現実を強化されます。なぜなら、信者たちは二つの世界の間にあるからです――昔の世界と今の世界です――信者たちはその違いを学ばなければなりません。それは全く新しい種類の命と新しい体制についての啓示です。あの世の目に見えない世界に対する好奇心に、主はつけ込もうとしておられるのではありません。霊的現実を強烈に印象づけようとしておられるのであって、それこそ主が深く悟らせようとしておられることです。復活したキリストを見て、復活の側にあるこの人の性質を理解するとき、私たちは人が造られた目的をキリストの内に見るようになりますし、キリストが人に対する神の御思いの化身であることを見るようになります――キリストは私たちが経験する生活上の諸々の制約の全く外側にあってそれを超越しており、空間や時間の支配の外側にあって、私たちがほとんど知らない力や、私たちがみな望んではいるものの朧気にしかわかっていない能力を持っておられるのです。

キリストは何をなさったのでしょう?死に至らせるものや、死が包含しているものを、すべて取り除かれたのです。死は万物の上に制約を課すものであり、天と地の間に割り込んで来て、人を束縛し、人の成長を強固に阻んで、虚無に至らせるものです――死は人のあらゆる奮闘や努力を虚無に至らせるものです。キリストはこの死を対処し、それを道から除いて、人に対する神の御旨がすべて力強く成就されることを可能にされました。キリストは死の行程を逆転させて、人が成熟に達する邪魔者である死を取り除かれました。そして復活により、命と不朽――不朽性――を明らかにされたのです。

ですから、復活後にキリストが行われた最初のことの一つは、聖書をひもといて、聖書全巻に記されているご自身について示すことでした。キリストはモーセの書からはじめて、当時の聖書の最初から最後まで解き明かされました。聖書全巻――これは何を示しているのでしょう?それは歴史です。聖書は常に神を見据えつつ人の歴史を示します。そして、人の歴史は神の御思いに関するかぎり、失敗の歴史です。しかし今、復活により、キリストは失敗と無力さの歴史全体をひもといて、「この失敗、この無力さは永遠に続くものではありません。それは必然的なものではありませんし、最終的なものでもありません。わたしはここにいます!」と語りかけるものが、いかにずっと現存していたのかを示すことができます。ラザロのよみがえりの記録から、主がどのようにこの特別な真理を用いられたのかわかります。「あなたの兄弟はよみがえります」。「はい」とマルタは言いました。「終わりの日に彼がよみがえって復活することは存じております」。主はさえぎって言われました、「終わりの日ではありません!わたしがいるからには、終わりの日は今なのです。時は過ぎ去り、昨日も今日も明日もありません」――「わたしは復活であり命です」。「わたしがここにいるからには、時は完全に包囲・網羅・排除されているのです」。「わたしは在る(I am)」――前にこの言葉を聞きました!この永遠なる御方は復活であり命です。なぜなら、永遠が到来する時、時間は退散するからです。聖書はすべて、この御方を示しているので、「確かに、地上の歴史は今あるとおりのものかもしれません。しかし、わたしがここにいます。最後には、この歴史は一変するでしょう」という語りかけが込められているのです。これはキリストが復活の日に言われたのと同じことです、「わたしは生きています。わたしは全聖書を成就しました。わたしは全聖書、神に関わる人の歴史全体を集約して、それを成就しました。わたしは神の御旨をすべて実現し、歴史からは不可能と思われたことをすべて実現したのです」。

復活・昇天したキリストの表現である教会

さて、復活して神の右に座しておられるキリストに関して、新約聖書は私たちに二つのことを示しています。それが私たちに示しているのは次のことです――これまで指摘してきたように、それはこのエペソ書に特に記されています――すなわち、キリストのからだである教会は御霊により今や、復活したキリストと一つなのです。「……キリストを万物の上にかしらとして教会にお与えになりました。この教会は彼のからだです」。これはかしらなきからだではありませんし、からだなきかしらでもありません。かしらとからだは一つです。同書が述べているように、私たちは神の御思いによればキリストと共に天上に座しています。教会は、霊的立場から見ると、復活したキリストと一つです。これが新約聖書が私たちに教える第一の偉大な項目であり、特にパウロを通して御霊の啓示によって与えられました。たとえ地上のある場所にいる小さな群れが教会を代表しているだけだったとしても、もしその群れがキリストの立場に真に立つなら、時間も空間も制約もすべて取り払われて、地の最果てまで一瞬で影響が及びます。地上のある小さな群れが、再生により、キリストを死者の中からよみがえらせたこの同じ御霊の力強い働きにより、復活したキリストの立場に立ち、その最も内なる存在においてキリストと共に新創造の立場の上に真によみがえらされて、御霊によって治められているなら、その群れが聖霊によって機能するとき、空間は取り払われ、地理は全く消え去り、その地点から地の果てまで影響が及びます。一瞬のうちにどこでも何でも起こりえます。これは何週間、何ヶ月、何年も待たなければならない問題ではありません。もし主がそう望まれるなら、教会は一瞬でその効力を及ぼせるのです。なぜなら、時間はもはや支配していないからです。御霊の中にある時、あなたは時間の領域の外にいるのです。御霊によって祈ることは、神の右におられるキリストを動かすことにほかなりません。復活したキリストが機能されるのです。ですから、復活したキリストは言われます、「見よ、わたしはこの時代の終わりまでいつもあなたたちと共にいます」。「天と地のあらゆる権威がわたしに与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい」(マタイ二八・十八~二〇)。

しかし、誰が行くべきでしょう?教会です。そして、教会の最低限の核は二人です。これは団体的なことであって、からだの意義を見せています。御霊による機能が働いている時、それは復活・昇天して高く上げられたキリストがそのからだを通してまさに御業をなしておられるのです。制約はすべて取り払われます。これは途方もないことです!もちろん、これは私たちにとってあまり驚異的には聞こえません。なぜなら、私たちはこれについて前に聞いたことがあり、教えとしてそれについていくらか知っているからです。しかし、この類のことをそれについて聞いたことのない世の中に持ち出すなら、それは馬鹿げた異様な思い込みに聞こえます。しかし、キリスト教はそのような世間の中にあるので、途方もない信仰が必要です。これは真実か否かのいずれかです。もしこれが真実なら、これは途方もないことです。もし真実でないなら、私たちは愚か者です!しかし、これは事実です。ああ!復活したキリストとの生ける合一の意義を教会がさらに学べますように!二、三人以上の一つの群れが必要です。この地上では時間や空間によって制限されているかもしれませんが、それでも聖霊によって真に機能している群れが必要です。それはこの宇宙的キリスト――神の右におられるキリストの全き意義――が表現されるためです!私は神に求めます。これをあなたが御霊によって考え、知り、理解することができますように。というのは、これは大きな違いを生じさせるからです!これを適切に理解するには、さらに長い道のりを行かなければなりません。しかし、これは真実なのです!

すでに述べたように、神の御心によると、復活して神の右におられるキリストは人の総代表です。神の右にキリストがおられることは何を意味するのでしょう?キリスト復活後の四十日は何を物語っているのでしょう?キリストは別の領域におられて、全く別の立場に立っておられることを物語っているのです。古い人の天然的な事物は過ぎ去りました。キリストはそうしたものを許されません。すべてが新しくなりました――新しい力、関係、能力、理解力が到来しました。状況は一変しました。この状況は古い状況を超越しており、その遥か彼方まで及びます。そして、今や可能になったものは、私たちの理解力を超えています。これがコリント人への第二の手紙五章十七節の意味です、「だれでもキリストにある人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、新しくなりました」(アメリカ標準訳)。

このような事柄に触れる時、人の言葉は無力で表現不能です。「彼の力の卓越した偉大さ」――この領域における最上級表現です!ああ、キリストのパースン、死、復活の偉大さを新たに理解することにより、このように広げられますように!

ですから、新約聖書が示している最高のことは、真の霊的基盤の上にある教会は復活したキリストと調和しているということです。私たちがこの地上で知っている「教会」のことではありません。なぜなら、そのようなものは復活したキリストと調和していないからです。しかし、教会に関する神の御思いは無理なものでもたんなる理想でもありません。実際的なものです。単純で謙遜な二人の聖徒が御霊の中で実際に共に集まるなら、その二人がたとえこの世では重要人物ではなくても、天と地のあらゆる権威を委ねられたキリストの機能的道具となることができます。この二人により、昔の制約はすべて取り払われます。そして、この二人は地の果ての至る所に一瞬で影響を及ぼせます。あなたはこれを信じるでしょうか?実際のところ、これこそが、私たちが復活したキリストに栄光を帰す意味です。それは感情以上のもの、輝かしい教理以上のものでなければなりません。そうです、私たちが同意する真理以上のものなのです。それは大いに実際的でなければなりません。復活したキリストは教会にとって最も実際的な命題です。キリストは復活したとき言われました、「天と地のあらゆる権威が、たった今、わたしに与えられました。ですから、あなたたちは出て行って……」――これは教会に対して語られました――「見よ、この時代の終わりまでわたしはあなたたちと共にいます」――天と地のあらゆる権威を持つ方が私たちと共におられます。その実際上の意義や価値を私たちは理解してきませんでした!私たちはただその断片を拾い上げて、それを世界的な伝道や宣教の根拠としてきたにすぎません。復活したキリストがこの御言葉に込められた素晴らしい意義を、私たちはまだ汲み尽くしていないのです。

霊的なものは究極的には文字どおり完成される

これに関連して新約聖書が私たちに示しているもう一つのことは――これについては触れるだけですが――霊的なものは究極的には文字どおり実現されるということです。キリストとの合一は今は霊的な問題です。それは霊の命に関する事柄であり、私たちの内におられる御霊に関する事柄であり、私たちが御霊の中にあることに関する事柄です。しかしこれにはもう一つの面があって、この霊的なものは究極的には文字どおり完成されるのです。霊的なものの究極的完成とは、この卑しい朽ちるべき体が個人的にも団体的にもキリストの栄光の体のように変えられることです。これは個人的な事柄です。なぜなら、これをコリント人への第一の手紙十五章は意味するからです。これはまた団体的な事柄でもあります。なぜなら、からだ全体が変えられるからです。教会は、しみやしわやそのようなものの全くない、輝かしい教会、栄光の教会になります(エペソ五・二七)。腐敗の痕跡は何もなく、腐敗するおそれもありません。キリストの栄光の体のようになります。これが霊的なものの究極的完成です。「私たちは聖霊によりその保証を持っている」と使徒は述べています。

どうか主が、実際的なものであるキリストの復活の意義を、私たちに垣間見せてくださいますように。この実際的意義は何らかの行動を促すべきものですから、私たちはそれをまず信仰によって理解し、次にそれに基づいて行動を始めようではありませんか。私たちが共に集まるのは、たんに祈りの言葉を唱えたり、あらゆる種類の嘆願をするためではありません。生ける主に、御霊により、場所や空間や時間の領域を超えて働く機会を与えるためです。また、主ご自身が御座から教会を通して地と天の全領域に触れて、御旨として示されたことを行えるようにするためです。主は時間の外側におられることをわかっているのに、なぜ今ではないのでしょうか?主は事を望んでおられるのに、なぜ遅延を受け入れるのでしょうか?私たちはもっと実際的でありたいのです。私たちは復活して御座に着かれた主と一つであることが真実なら、それは絶大な影響を及ぼしてしかるべきです。どうかそうなりますように!