第9章 第四部:神の御言葉の偉大さ

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ヨハネ一・一、十四:黙示録十九・十三:ヨハネ六・六三:ヨハネ八・四七:十四・十

神聖な啓示の四大項目の四番目に来ることにします――神の御言葉の偉大さです。直ちにこう言わせてください。神の御言葉が偉大であることを論じるつもりはありません。あらゆる種類の証拠を掻き集めて、神の御言葉の地位を実証する議論を構築することもできたでしょう。しかし、今このとき検討しようとしているのは、この偉大さの性質についてです。

序論として、この問題についても、私たちの心を捕らえている他の三つの問題と同じように、こう述べさせてください。新たな理解が大いに必要です。聖書の霊感を示す議論から始めたところで、真の霊的価値という点であまり遠くまで進めないと思います。「根本主義」運動に興味を持って、聖書は表表紙から裏表紙に至るまで神の御言葉であることや、聖書が霊感されていること(逐語霊感や完全霊感)を証明しようとしたところで、それは霊的に私たちをあまり遠くまで導いてくれません。そのような運動を軽んじるわけではありませんが、大事なのは神の完全な御心と御旨にもたらされることです。そして、それは霊感に関する理論や解釈ではなしえません。それが実現されるのは、ただ神の御言葉の何たるかを真に知ることによります。なぜなら、神の御言葉は書き記された文字を遙かに超えているからです。

神のパースンと神の御言葉の同一性

序論を述べたことで、神の御言葉の偉大さの何たるかを示す地点に直ちに達したことがわかります。神の御言葉の偉大さの何たるかは、ヨハネによる福音書のまさに最初の御言葉の中に見いだされます。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。ご存じのとおり、ここでは特別なギリシャ語が使われており、他の箇所では別の言葉が使われています。「わたしがあなたたちに語った言葉は霊であり、命です」(ヨハネ六・六三、アメリカ標準訳)。この二つの御言葉の間に次の御言葉を置くことにします、「神に属する者は神の御言葉を聞きます。それゆえ、あなたたちが聞かないのは、あなたたちが神に属していないからです」(ヨハネ八・四七)――しかしそれでも、主はまさにこの御言葉を語って、その当人たちに聞かせました。彼らは他の人と同じように主の実際の御言葉や発言を聞きました。しかし、「あなたたちは聞いていません」と主は言われました――実にそれ以上のことを主は言われました、「あなたたちはわたしの言葉を聞くことができないのです」(ヨハネ八・四三)。これは神のパースンと神の御言葉の同一性を示しています。この問題については、キリストご自身や教会について言えることが神の御言葉にも言えます。これまで見てきましたが、キリストは天然の人にとって全くの謎であり、彼が人々の間を行き来されたこの世にとっても全くの謎です――普通の知性を有する人々や並外れた知性を有する人々、無学な人々や大学者、大いなる洞察力、天然的理解力、良い判断力と理解力を生来持ち合わせていたであろう人々、このような人々にとってキリストは全くの謎でした。キリストはこのような人々の間をいつも行き来されましたが、人々はキリストを知りませんでした。「父以外に子を知る者はいません」(マタイ十一・二七、アメリカ標準訳)。それは受肉した神の奥義だったのです。

前の黙想では、これを教会にあてはめました。真の教会は、神の御心と啓示によれば、この地上で認識したり識別したりできるものではありません。真の教会は何か隠されているものであり、何か天的なものであって、奥義です。この地上に存在していますが、奥義です。その真の性質や正体は、知恵あるものや思慮深い者からさえも隠されており、人々の最高の能力・頭脳・知性をもってしても謎のままです。教会を人に理解させようとしたり、教会を人の理解・了解・知性の圏内にもたらそうとすることは、教会からその神聖な本質的要素を除き去ることであり、教会が力を剥ぎ取られる水準にまで教会を引きずり降ろすことです。この先どうなるかはこの事実に大いにかかっています。また、この事実は今日のいわゆる「教会」の弱さや効力の無さの大方の理由でもあります。

さて、キリストと教会に言えることは神の御言葉にも言えます。神の御言葉は奥義です。神は隠れた方法でご自身を現されます――これは矛盾、パラドックスですが、これが奥義の意味です。

神の御言葉は神の固有の言語である

神の御言葉は第一に神の言語であり、ヘブル語、ギリシャ語、この地上のいかなる既知の言語でもありません。神の御言葉は神の言語であり、人のいかなる能力をもってしても知ることはできませんし、学ぶこともできません。今私が述べていることから、あなたは多くのことを聞いています。真理であると私が信じていることを聞いています――私はそれらが神の真理であると信じています――しかし、あなたは立ち去って、私が述べたことにある種の判断を下して、それっきりにしてしまいます。聞くことにより、また聞くことを通して何か別のことが起きないかぎり、肉体の耳で聞いたことよりも深い、そのさらに背後にあるものにもたらされないかぎり、そうなってしまいます。神ご自身から何かがあなたに臨まなければなりません。これが起きないかぎり、たとえあなたが何を聞いたとしても、それはほんの数時間、数日しか残らず、ついには全く消え失せて、聞いたことに対するあなた自身の決定や判断しか残らないでしょう。神の御言葉は、私がそれについて述べていることや神について述べていること――自分は真理を話していると私は信じていますが――とは、大いに別のものです。神の御言葉は奥義です。それは神の言語であり、神の言語を理解するには神から賜った何らかの能力を持たなければなりません。神の言語はこの世の外側にあるものであり、この世のあらゆる国民、言語、方言の外側にあるものです。それは何か異なる別のものであって、あなたは天から新たに生まれることによって天的な能力を受けなければなりません。そして、全く新しい言語を、まさに初歩である天のイロハから学ばなければなりません。たとえ聖書を表表紙から裏表紙まで知っていたとしても、神の言語の言葉を知らないおそれがあります。聖書の中に神の言語があるかもしれませんし、確かにあります。しかし、神の言語は実際の文字や言葉の中に含まれているものではありません。神の御言葉はそうしたものを超えたものであり、神のより深い言語です。この全く神聖な尊い書を読んだとしても、全く神の語りかけを聞かないおそれもあります。神の言語を聞くには、神の主権的働きが必要です。「イエス・キリストは神の御子である」と認識・識別することについて前に述べましたが、これもそれと同じでなければなりません。「これをあなたに啓示したのは血肉ではなく、わたしの父です」(マタイ十六・十七)。ですから、御言葉なる御方は御言葉として次のことを要求されます。すなわち、彼を識別するには、神の啓示というこの主権的働きが必要なのです。その認識は、以前引用した事例のペテロと同じように、束の間のものにすぎないかもしれません。そして、その受け手の内側に何か恒久的なことがなされないかぎり、なくなってしまうかもしれません。それは神の働きであるという事実は、人に責任を免れさせるものではありません。なぜなら、私たちは偏見を制することができるからです。聞いて受け入れようと熱心に待ち構えていることが、神と交わって活かされるのに必要不可欠な要素です。

神の御言葉の本質はその霊性、その霊的性質であって、その天然性ではないことがわかります。史的イエスはあなたを決して救いません。復活・昇天して聖霊の力の中で到来されるキリストだけが、すべてに効力を与えることができます。歴史的文書としての御言葉はあなたを決して救いませんし、決して何事も成し遂げません。御言葉がその目的を果たすには、復活した主の御力の中で、聖霊の御力の中で臨まなければなりません。霊のものこそ神の真の御言葉です。「わたしがあなたたちに語った言葉は霊であり、命です」(ヨハネ六・六三)。「……文字からではなく、霊からです。なぜなら、文字は殺し、霊は命を与えるからです」(二コリント三・六)。御言葉が語られたとしても、神の働きがなければ、あなたにはそれが聞こえず、すべてが無駄になります。ですから、キリストと十字架を宣べ伝えても、それを人の知恵によって宣べ伝えたせいで、全く効果がないこともあるのです。

御言葉による神の衝撃力

さらに、これまで見てきたように、キリストは神の人格的衝撃力です。キリストが真に触れてくださる時、あるいは霊的な方法で真にキリストに触れる時、神を見いだします。前の黙想では、群衆がキリストに群がって押し迫った事例を示すことにより、これを示そうとしました。群衆はキリストを取り囲みましたが、何の効力もありませんでした。キリストは群衆にとって彼らの中の一人にすぎませんでした。しかし、群衆とは全く別の領域にいる一人の婦人がいました。彼女は信仰、神との本質的つながりを持っていました。彼女は言いました、「彼の衣に触れさえすれば、健康にしてもらえます」(マルコ五・二八、アメリカ標準訳)。そして、彼女は群衆をかき分けて進み、触れました。するとまさにその瞬間、彼女は健康になったのです。そして、キリストのすぐそばにいた群衆はキリストから何の益も受けなかったのですが、彼女はこの御方によって自分が神を見いだしたことを知りました。彼女は証しを得ました。その証しは全群衆の証しと対照的です。群衆はみなキリストを見、キリストから聞きました。また、キリストは始終群衆と共におられました。しかし、これを見いだしたのはただ一人だけでした。すなわち、ただ一人だけが神の衝撃力に出会ったのです。

キリストについて個人的に言えることは、御言葉としてのキリストにも言えますし、神の御言葉にも言えます。

神の御言葉は神の行動である

神の御言葉は常に行動であることがわかります。これを忘れないでください!書き物としての聖書は必ずしも行動とはかぎりません。自分の聖書を読んでも何も受けなかった経験を、あなたはこれまで何度されたでしょうか?多くの人が私に言います、「真に生けるものとしての聖書を私は知りません。聖書を読みはするのですが、何かを得ているようには思えないのです」。これが普通の経験ではないでしょうか?ああ、そうなのです。神の御言葉はその枠組み、その経路よりも内側のものであり、神の真の御言葉は神の行動なのです。「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立つ」(詩篇三三・九、アメリカ標準訳)。「信仰によって、世界は神の御言葉によって形造られたことを、私たちは理解します」(ヘブル十一・三)。ヨハネ十四章の「わたしがあなたたちに語る言葉は、わたしが自分自身から語っているのではなく、わたしの中に住んでおられる父が御業をなさっているのです」というこの節に気づかれたでしょうか?キリストはこの御言葉を首尾一貫させて、後半部分を前半部分に対応させられるだろう、とあなたは予期されたかもしれません。しかし、「わたしがあなたたちに語る言葉は、わたしが自分自身から語っているのではなく、わたしの中に住んでおられる父が語っておられるのです」とは彼は言われませんでした。「言葉…御業」と言われたのです。主イエスの御業のほとんどは御言葉によってなされました。主イエスが言葉を発すると、何かが起きました。「わたしがあなたたちに語る……」神の言葉は行動なのです。

聖書を正しく知るとき、聖書はたんなる本では全くないことがわかります。聖書はある御方です。聖書は諸々の真理、教理、律法、戒め、細則を集めたものではありません。聖書はまさにひとりの御方です。聖書が常に私たちをこの御方に導かないかぎり、聖書はその目的を果たし損なったことになります――その御方とは主イエス・キリストです。全聖書にはたった一つの体系しかなく、それは人格的な体系――キリスト――です。あまり理解できないかもしれませんが、これについて考えてみてください。神の御言葉は創造的です。何かが起き、何らかの結果が生じるのです。

以上述べたことは、「書き物としての御言葉そのものには何の価値も目的もない」ということではありません。聖書を手にしているというこの事実こそ、裁きの根拠になるでしょう。書き記された神の啓示を手にしているだけで、私たちは神に対して責任を負います。しかし、それが私たちの生活に何らかの効果を及ぼす力は信仰によります。信仰に基づく御霊の働きの連携によって活かされて、「知る」ようにされないかぎり、御言葉自体は文字の羅列のままであって「命」ではないのです。

神の御言葉は霊である

これを説明するために、次のような方法を試させてください。神の語りかけの目的は何でしょう?神の啓示全体の目的は何でしょう?神の御言葉の目的は何でしょう?たった一つの目的しかありません。それはご自身との失われた関係を回復することです。徹頭徹尾、神の御言葉の唯一の目的は、ご自身との失われた人格的関係を回復すること、元どおりにすること、再確立することです。これはどのようになされるのでしょう?人の言語や言葉で、どうやってそれが可能なのでしょう?人格的方法による以外にありません。ですから、生ける御方との関係が大切なのです。しかし、人が生ける神と生ける関係を持つことは、どうすれば可能なのでしょう?ありのままの人では全く不可能です。神は霊であり、ただ霊だけが神との生き生きとした関係を持つことができます。ですから、神の御言葉の目的が神との関係を回復することである以上、霊なる神とつながろうとしている人々の内に何か霊的なものが生じなければなりません。神の御言葉、キリストが語られた御言葉は、霊であり、命です。ですから、神の御言葉が常に必ず及ぼすべき効力は、私たちの霊を活かすことであり、私たちを神聖な命によって生かすことです。

これが事実である以上、きっとあなたは私が冒頭で述べた、「神の御言葉について新たに理解することが今日大いに必要であり、神の御言葉に関するこの点を理解し損なったせいで、おびただしい弱さや損失が生じた」という言葉に同意してくれるでしょう。たとえ徹底的な根本主義者になって、聖書の権威や霊感について論じたとしても、依然として霊的に死んでいて効果がないおそれがあります。神の御言葉はそれ以上のものなのです。

さて、神の御言葉を台無しにするには、イエス・キリストのパースンを台無しにすればいいことがわかります。逆もまた真です。これこそまさに悪魔がしようとしていることです。この二つは分けられません。この二つは共に進みます。キリストが神の御子であるなら、受肉した神であるなら、神の御言葉は至高の地位に立ちます。さて、神の御言葉のこの権威と至高性を排除するには、イエス・キリストのパースンを傷つけなければなりません。これこそまさに近代主義で起きていることであることがわかります。なぜ悪魔はキリストからその本質的神格を取り去って史的イエスにしようとしているのでしょう?人々をよみがえらせて生かすための、神の御言葉であるキリストの強力な衝撃力を奪い去るためです。ですから、神の御言葉は常にこの御方と共に進みます。近代主義は神の御言葉を人の言葉におとしめることによって、キリストを偉人の水準にまでおとしめずにはいられません。それが論理的必然です。この二つは共に立つか、共に倒れるかのいずれかです。

神の御言葉は全存在の原因である

次に、これが事実であるからには、私たちはさらなる次の事実に導かれます。すなわち、私たちの存在のまさに原因、目的、理由は、神の言語であり神の行動である神の御言葉なのです。「信仰によって、この世界は神の御言葉によって形造られたことを、私たちは理解します」。神は命じて語られました。それは神の行動でした。ですから、この世界や諸々の時代が存在するのは、神が語られることによって何かが起きたためです。親愛なる友よ、私たちは主の新創造として、神が語ってくださったおかげでまさに存在しています。私たちは神の御言葉によって再び生まれました。御言葉の文字を受け入れて、それに応じようと努力し、何らかの決断を下したという理由だけで、再生されたのではありません。ああ、誤解して欲しくありませんし、批判的だと思われたくもありません。神に属しているものや、神に用いられる可能性のあるものを、それが何であれすべて、どれほど私たちが尊んで感謝しているか、神はご存じです。しかし、この一連の黙想で前に述べたように、福音的キリスト教の今日の大きな危機は、何でも安売りして、だれでもきわめて安易な道で中に入れるよう、可能なかぎり目いっぱい門戸を開け放つことにより、ひどく安直なものにしてしまったことです。事を難しくしたいわけではありませんが、この問題に関して次のことを理解する必要があると思います。すなわち、だれかを立ち返らせて神との関係を回復させるには、天然を全く超えた何かが必要なのです。ほかならぬ神の御言葉―行動が必要なのです。神との関係に関するかぎり、神の御言葉―行動は存在に至らせるものであり、それなしにいかなる存在もありません。神が語ってそれがなされる時だけ、新創造の一員としての私たちの存在が可能になります。自分を欺かないようにしようではありませんか。これはそうでなければなりません。「光あれ!」と仰せられた神が、私たちの心の中を照らさなければならないのです。

そして、そのような時、私たちがキリストと教会について述べてきたように、永遠が時間の中に侵入します。永遠の到来により、時間の存在は一掃され、私たちは永遠なる神と結ばれます。何かが起きました――「わたしは彼らに永遠の命を与えます」(ヨハネ十・二八)。新生は新創造を生み出す御言葉の活動です。新創造の中には、永遠とつながっている新しい命があります。神の御言葉は何と途方もないものなのでしょう!それはまさに存在そのものの問題なのです。

神の御言葉によって支えられる

それだけではありません。主イエスは、後で使徒たちによって解き明かされなければならないことを語られました。その解き明かしは聖霊が来臨される時になされるべきものでした。彼は言われました、「人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きます」(マタイ四・四)。人の存在が今話している神の御言葉のおかげであるだけでなく、人の生存もこの同じものに基づきます。この分与された霊の命を維持して、全行程にわたってそれを支えるのは、神の御言葉によります。そして、それは聖書を読む以上のことです。もう一度尋ねさせてください。私たちは大いに正直になろうではありませんか(正直になる余地がありますし、その必要もあります。誤解されかねないことを私は承知しています。しかし、核心に迫って、人々を欺きや誤った立場から救うために、私は危険を冒すことにします。ここで正直さが必要になるのです)――あなたは聖書を読むことによって、自分の霊の命が支えられ、養われ、建て上げられるのを、常に継続的に経験しておられるでしょうか?聖書を学ぶことによって、自分が霊的に前進して成長するのを、あなたは常に経験しているでしょうか?大学は法律や哲学の博士をつくることはできますが、真の意味で、神の御言葉の博士をつくることはできません。ただ聖霊だけがつくることができます。なぜなら、それは霊的な事だからです。正直にこの事実に向き合わなければなりません。聖書はあらゆる本の中で最も偉大な本であり、神が与えてくださった本ですが、本としての聖書を読むことと、神が聖書を通して到来されることとの間には、ある違いがあります。聖書を通して神が到来される時、私たちはこう言わざるをえません、「ああ、これまで何回もこの節を読んできましたが、このようなものをその中に見たことは決してありませんでした!神は今、この御言葉によって私に語ってくださいました。この御言葉は幼少の時から知っていましたし、私にとって最も馴染み深い聖書の句でした。神はこの御言葉を通して、かつてない方法で、今語ってくださったのです!」。これが私の言わんとしていることです。神の御言葉が背後にあるおかげで、私たちの命はまさに支えられているのです。その意味は、神からの何かが彼方から到来しつつある、ということです(彼方と言っても、様々な経路や方法を通して来ることもあります)。何か特別なもの、何かさらに優れたものが、背後から、彼方から到来して、私たちに届いているのです。この問題について結論を下す時、「自分は聖書に関する何か新たな理解に達したのではなく、この御言葉という手段によって、主を知る新たな知識に達したのです」と私たちは言わざるをえません。書き記された御言葉と共に働いてそれを主の化身とする、神の主権なるものが存在するのです。

神の御言葉には人間的解釈ではなく神聖な解釈が必要である

これから一、二のことがわかります!第一は、なぜ互いに相反して排斥しあっている施設がこんなにたくさんありえるのか、ということです。それらの施設はどれも「聖書に基づく」と主張しているにもかかわらず、この有様です。「自分たちの存在及び制度は聖書によって保証されている」と主張しない教派や宗派は一つもありません。それにもかかわらず、ほとんどの場合、互いに排斥しあっています。これはどう説明できるのでしょう?よく聞いていただきたいのですが、このようなものが存在する事実のせいで、霊的に制約されているのです。特別な制度、規約、聖職上の地位や、そうしたものに属するあらゆるものをしばし忘れて、主の民がどこか一つの場所に集まり、その場所でただ主の民として過ごすなら、皆が自分たちの様々な教会部門主義の線に沿って進む場合と比べて、より多くの命と豊かさを経験するでしょうし、主をよりよく感じることができるでしょう。そこで主に出会うからです。このような状況があるべき状況ではないでしょうか?

今しがた述べたような意味で――すなわち、神が到来して照らし、生かし、新創造の働きを行ってくださる、という意味で――私たちが神の御言葉を持っていたなら、そこには多様性もあるでしょうが、他方において、そこには本質的一つや合一があって、なんの矛盾もないでしょう。自然はこの大いなる比喩です。奇妙なことに、自然の中には神が与えられたあらゆる色彩があるにもかかわらず、不調和は実際のところ見られません。しかし、もしあなたがそうした色合いの衣を着ようとするなら、不調和が生じます。あらゆる色彩を帯びた園でも、その中にはなんの不調和もありません。神の領域には、たとえ無限の多様性があったとしても、なんの矛盾も不調和もありません。聖霊は唯一であり、神は唯一です。神の御言葉を人間的に解釈する立場、人の知性で聖書を取り扱って理解する立場を離れて、神聖な意義を啓示する神の啓示を得るなら、その時、絶対的な一つが生じ、矛盾や排他的姿勢は消え去るでしょう。あなたは地的立場を離れて、天的立場に達します。

ですから、神の御心によると、天的なものである教会は全くこの地上に属しませんが、この教会に言えることが神の御言葉にも言えます。あなたがこの立場に真に達する時、文字の立場ではなく神の御言葉の本質的性質の立場に達する時――あなたは地的水準からかけ離れた水準に達し、不調和や矛盾がなくなるのを経験します。こうしたすべての問題について、神の民が人の水準を離れて神の水準に達することが大いに必要です。神の御心と御旨の核心の中に直ちに入り込むことが必要です。それには代価が必要です。前に述べたように、キリスト教は現在がんじがらめの組織になってしまっており、その中にいる大部分の人が神の完全な御想いの中に入れずにいます――特に、その中で働いている人にとってそうです。なぜなら、神の完全な御想いの中に入ることは、あらゆる手を尽くしてこの組織から逃れることを大いに意味するからです。しかし、ああ!人が神の完全な御想いの中に入るとき、その人はこの組織から逃れ、代価を払い、従順になります。天のビジョンが到来するとき、それに逆らうことはできません。神が語られるとき、あなたは聞かざるをえず、語っておられるのは神であることを知ります。そして、あなたは心から神に応答し、あらゆる代価を払って前進します。その時、あなたは霊的に大いに拡大される域に達し、豊かな領域に達します。

信仰が神の御言葉に伴わなければならない

要約します。神の御言葉の本質的性質は、「神は霊である」という神の本質的性質と同じです。神は霊なので、神の御言葉も霊です。そして、伝達手段としての神の御言葉が、生ける御言葉であるキリストの本質的性質を決定します。なぜなら、キリストを知るには御霊による以外にないからです。これまで述べてきたように、人々は自分の目でキリストを見たにもかかわらず、彼を理解することも、彼に聞くことも、彼を知ることもできませんでした。元来、キリストの実際の性質は、彼が霊的に何であられるかです。パウロはこれを完全に明らかにしています、「かつては肉にしたがってキリストを知っていましたが、今はもはやそのような知り方はしません」(二コリント五・十六、アメリカ標準訳)。パウロは断言しているわけではありませんが、明らかに次のことを示唆しています。すなわち、キリストを知る私たちの知識は、今や、史的イエスを知る知識ではないのです。今から後、私たちは御霊にしたがってキリストを知ります。神の御言葉の実際の性質は、キリストが本質的かつ霊的に何であられるかです。ですから、神の御言葉の本質的性質は、教会が霊的に何であるかでもあります。神は霊です。神の語りかけの手段・媒体は、御霊にしたがって知るキリストです。神の語りかけを盛る器――教会――は霊的です。教会として、私たちはこれによって試されます。私たちが聖書に聞く時、人々が書き記した言葉以上のものを聞いているでしょうか?神が与えてくださらないかぎりだれも聞くことのできない、さらに優ったもの、別のものを、私たちは教会として、聖書から聞いているでしょうか?私たちはこれを聞いているでしょうか?これが真実となるとき、教会は霊的力、霊的命を帯び、霊的に成長します。教会に言えることは、もちろん、その各肢体にも言えなければなりません。このからだの一人一人の肢体が霊的人物にならなければなりませんし、霊的誕生によってそうならなければなりません。「御霊から生まれた者は霊です」(ヨハネ三・六)。神の御言葉を絶えず実際に聞くには(とはいえ、神は主権をもって行動して、再生されていない人でも、御言葉を通して自分に語られていることを知ることができるようにしてくださいます)私たちの内側で何かがなされなければならず、それを絶えず維持してもらわなければなりません。万物の背後に神と共に在るのは霊のものです。神はご自身を天然のものよりも霊のものに結びつけられました。これについてこれ以上述べるのはやめることにします。

これには大きな違いがあります。また、神の御言葉は実際のところ何なのか、その可能性や潜在力はいかなるものなのか、そして、その偉大さの性質はいかなるものなのかを知ることが大いに必要です。主の助けによりこれをあなたが理解できるかどうか、私にはわかりません。大切なのは口先だけの言葉ではありません。大切なのは神ご自身の衝撃力であり、その衝撃力は傑出しています。そこで、宣べ伝える時、聖書を読もうとする時、信仰が必要なのです。神の到来を伴わない宣べ伝えもありえます。そのようなことがかなりあります。しかしそれでも、宣べ伝えを通して到来することを神は定められました。ですから、だれであれ宣べ伝える人にできるのは、ただ信仰によって宣べ伝えて、神の真理を宣言することだけです。宣べ伝える人は次のことを思い出さなければなりません。すなわち、神の主権的働きが必要であり、神が語っていることを神が各人に悟らされることが必要なのです。人だけでなく神が必要です。数百の人が集まるかもしれませんが、神の語りかけを聞くのはその中の一人かもしれません。私たちは神のこの主権にかかっています。神はほむべきかな、それはこのように働くのです!人々は言うことができますし、私たちも自分自身の霊的経歴を回顧して言うことができます、「私は聖書を十分よく知っていました。聖書を引用したり、解析したり、示すことができました。しかし、ある日、神は聖書を通して臨んで私を打たれました。その時から、私にとってとても馴染み深かった聖書は、新しい生活と全く新しい立場の基盤となったのです」と。神の御言葉の到来とはこういうことです。

今日実際に必要とされているのは、神の御言葉の本質的・内在的偉大さを回復することであり、御言葉は神であって私たちに人格的影響を及ぼすという事実を回復することです。