第二章 エリコの水

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:列王記下二・十九~二二、ローマ八・二〇~二五、一~二、六。

エリシャがエリコに滞在している時、その町の人々が彼の所にやって来て、水の状況とその状況がその土地の作物に及ぼす影響について相談しました。水のせいで作物は実がなる前に枯れてしまい、成熟に至らないというのです。

この出来事の意義と真価を完全に理解するには、今日までの主の民と関連づけてエリコの歴史を見渡す必要があります。神の民が初めてエリコに出会った時のことを私たちは覚えています。その時、彼らは良き地を占領する直前でした。私たちはその歴史と詳細を知っているので、それを直ちにすべて要約して、その意義を正確かつ完全に理解することができます。

1.肉を通して働くサタンの力に対するカルバリの勝利の包括的表れ

この「包括的」という言葉を用いた理由は、良き地でその後に起きたことはエリコによって示されているという事実を再認識してもらうためです。エリコは言わば、万事のしるしであり表象でした。エリコには良き地の完全な征服という意味が込められていました。神がその民にエリコを与えられたこと、そしてその与え方は、神が良き地全土を与えられたことのしるしでした。エリコを復活の初穂と呼べるでしょう。この初穂は代表としてすべての作物を含んでいます。

エリコはヨルダン川徒渉の最初の結果、すなわち復活の初穂でした。これを理解するなら、主がその民のために与えようとしておられるものがすべてわかります。主がその民のために与えようとしておられるものがエリコによって示されているのです。ですから、エリコはカルバリの勝利の包括的表れであり、特に肉を通して働くサタンの力に対する勝利の包括的表れです。なぜなら、エリコは霊の勢力によって力づけられている肉の力を示しているからです。

約束の地の実体であるキリストを彼の民の嗣業として学ぶとき、私たちが自分の天的地位につく唯一の道は戦いと争いであることがわかります。エペソ書にある「天上の」地位は、「主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、悪の霊の軍勢」と関係しています。そして、キリストの満ち満ちた豊かさに到達してそれを維持する唯一の方法は、天上で戦うことです。良くご存じのように、悪の勢力の手先、手段は彼らによって力づけられている肉です。そしてまた、ヨルダン川は敵そのものに対する勝利を示しているだけでなく、敵に対する勝利が肉の体を取り去ることによって敵の有利な立場を除き去ったことによることをも示しています。もしこれが霊的戦いにすぎなければ、この戦いは全く人の領域外でなされていたでしょう。そして、そのような人がこの戦いに巻き込まれることはなかったでしょう。ですから、受肉には意味がないことになっていたでしょう。天の霊の勢力が直面しうるのは地獄の勢力だけであり、この戦いは純粋に霊的戦いだったでしょう。しかし、神が肉において現れて悪魔の働きを滅ぼされた事実は、この戦いを別の領域に移します。そしてまた、敵の力と優位性は肉によるものなので、敵を滅ぼすのは肉においてでなければならないことを示しています。主は肉身をとられましたが、それは肉において悪魔の働きを滅ぼすためでした。ですから、カルバリの勝利は肉を通して働くサタンの力に対するものであり、これをエリコは示しているのです。

エリコ

(a)人にとって手強すぎるもの

ここに人の手に全く負えないものがあります。偵察が最初に出かけて行った時、大多数の報告は「この任務は自分たちの力を超えている」というものでした。彼らは壁が天に向かってそびえ立つ大きな町々と巨人たちを見ました。彼らの報告は「これは血肉が対抗できるものではなく、無理難題である」というものでした。彼らに関するかぎり、これは至極もっともなことでした。彼らの問題は、彼らが主のための余地を残さなかったことでした。

肉は常にこのようなものであり、これに対応するものがローマ人への手紙の中にあります。八章に来るまでに七章を読むと、自分がサタンによって力づけられている肉と戦っていることがわかります。この肉を対処しようとする人の試みはすべて、「ああ、私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰がこの死の体から私を救ってくれるのでしょう」という叫びという結果になります。七章すべてが、肉を全く対処できないことによる、延々と続くうめきです――「私の肢体には別の法則があって、私の心の法則に対して戦いを挑んでいるのがわかります」。「私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っています」。これが肉であり、不活発なものではなく、罪と死の活発な法則によって力づけられており、もちろん、悪の知的勢力によって支配されています。常にこの特別な要素があります。そして、この特別な要素ははっきりとわかります。肉には私たちを捕らえる狡猾な方法があって、したくないことや全く不都合なことを私たちにさせるからです。ある知的存在が全体の時と計画を仕組んでいます。この知的存在は非凡で狡猾な用心深い者であり、神聖な他の事柄と全面的に関わってそれを挫折させます。これはたんなる機械的に働く肉ではありません。これはある知的存在によって力づけられている肉です。ですから、エリコは肉を通して働くサタンの力――人の手には負えないもの――に対するカルバリの包括的勝利を物語っています。

(b)「七」という数字が示す満ち満ちた豊かさ

六日間の間、一日に一回エリコを一周すること、そして、七日目には七周することを、主はご自身の民に命じられました。「七」は常に、完璧さ、完整さ、霊的完成を示す数です。ですから、まさに七周することは主の絵図的方法であって、これは征服の完全完璧さを示すものであることを告げています。

(c)アカン

さらに、このアカンの要素は意義深いです。アカンの罪に関連する二つのものがありました。すなわち、この罪が取る姿の二つの形がありました。この二つとは金のクサビとバビロンの衣でした。

ちなみに、金のクサビは利得と関係していました。なぜなら、硬貨ではなく金のクサビが当時その地域で通貨だったことが発見されているからです。これによって商取引や支払いがなされました。一言で言うと、信用はこれらの金のクサビにかかっていたのです。アカンが取ったのは、この世に対して商売的に値打ちのある金のクサビでした。

他方、バビロンの衣は異国的要素であり、宗教組織、バビロンの宗教組織と関係があったことがわかっています。このバビロンの衣はバビロンの礼拝組織とまさに関係するものだったからです。それはおそらく祭司の衣だったのでしょう。

金はエホバが要求されたものでした。この町が占領された時、金は主の御旨のために主にささげるよう命じられました。つまり、主は金を要求されたのであり、金はすべて主の資産であり、その権利は主のものだったのです。ですから、アカンは主に属するものを着服して、自分のものにしようとしたのです。これこそ肉が常にしていることです。肉は常に主に属する栄光を横取りします。肉は常に神の権利を神から奪おうとします。肉は常に神の地位につこうとします。

バビロンの衣について。これは主によって完全に滅ぼされるべき体系全体の一部であり、神に敵対する霊的体制、この世の神によって力づけられている礼拝、神の地位を横奪しようとするその宗教組織を表していました。この組織は、そのすべての付属物、そのすべての機構と共に徹底的に滅ぼされなければなりませんでした。しかし、アカンは唯一の神である神に霊的に敵対しているものを表すものをとっておきました。ですから、アカンの罪はとても深刻な罪でした。

エリコがいかに包括的なものだったのかがわかります。その特徴はすべて、良き地征服のあるべき姿を予表・予示していました。アカンの罪の裁きによって、神に優先権があること、肉は神のものを横取りしてはならず、神の地位を占めてはならないことが示されました。その地は偽りの霊的組織を表していることが示されました。この組織は一掃されなければならず、一片たりとも残しておいてはなりません。アカンがバビロンの衣を取った時、彼は良き地征服の支配的原理を犯したのであり、神聖な秩序を破る敵の手先になりました。このように、エリコはその全地のあらゆるものの縮図でした。使徒行伝が告げるところによると、主はイスラエルよりも大きな七つの国民を追い出されました。エリコの「七」という数は、滅ぼされるべきこの七つの国民の象徴であり、エリコで仮想的に滅ぼされたのです。

このように、サタンによって力づけられている肉、そのすべてに対するカルバリの包括的勝利があります。これが第一にエリコが物語っていることです。

2.十字架の力を信じる信仰の全能性

これはすべて信仰の働きでした。一日に一周することは信仰の働きでした。毎日、この行進が行われましたが、何も成し遂げられたようには思われませんでした。一日の終わりを一日の始まりと比べると、究極的結果に近づいたように思える日は一日もありませんでした。六日間の最後になっても、人が判断するかぎり、全く何も成し遂げられませんでした。六日前に始めた時と比べて、人々は征服に向けて少しも近づいていませんでした。七日目に人々が一回、二回、三回、四回、五回、六回巡っても、何も起きる兆候はありませんでした。信仰が育まれて、究極的信仰、第七段階の満了、信仰の霊的完成に至りました。次に、信仰が完成点に到達した時、信仰を表明する必要がありました。声を出して叫ぶ必要がありました。「そんなことは全く馬鹿げた、空しい、愚かなことだ」と反対する非常に多くのものに直面していたにもかかわらず、そうする必要がありました。そんなことはまるで無益であることを示す証拠が山ほどあるように思えたでしょう。しかし、そのような証拠の山を前にして、信仰によって勝利を叫ぶことを命じられました。信仰が育まれ、拡大されました。敵のすべての力に対する十字架の御業の無限の価値を信じる信仰です。信仰がこの点に達する時、神が到来してカルバリの正当性を示されます。これがエリコによって示されている、十字架の力を信じる信仰の全能性です。

3.サタンによって力づけられていたアカンのすべての働きの上にとどまる呪い

ヨシュアはエリコを呪いました。そして、エリコはサタンによって力づけられている人のあらゆる働きを示すものになりました。サタンによって力づけられている人のあらゆる働きの上に呪いがとどまることを理解することがとても重要です。これはエデンの園にまで遡るものであり、歴史全体を通してそうです。この呪いの特徴は二重です。

(a)死

ここに、霊的死が何であるかの絵図があります。霊的死は存在の停止どころか、膨大な活動を伴いつつ進行するものです。霊的死には多くの働き、多くの活動があって、大量のエネルギーを注ぎ出しますが、長期的に見て、それらすべての働きを正当化する決定的な何かに欠けています。エリコの水にはこの本質的要素が欠けていました。人々は畑で労苦して、身を入れて働きました。耕し、世話をして、見張りました。彼らはあるところまで成功を収めました。あるところまで彼らの労働の成果が見られました。しかしその後、すべてが止まってしまいました。その時から、成長がやんで、しぼんでしまったのです。

(b)虚無

これが霊的死の性質です。これが「虚無」とパウロが呼んでいるものです。働き、労し、エネルギーを注いでも、決して成熟に至りません。そこに達するよう神が意図された最終段階に達しません。死と虚無!虚無は霊的死の仕業です。虚無は必然的に肉のすべての働きの性質です。たとえその働きが上辺は神のためのものだったとしてもです。あるところまでは成功するように思われますが、それ以上先に進みません。それ以上、進展がありません。確かに、肉によって何かを生み出すこと、ある点まで達すること、ある程度の成功を収めることは可能です。しかし、もしそれが肉の働きなら、そこそこ進めるだけで、あとは消え去ってしまいます。主の御名によってなされてきた非常に多くの働きがこの印を帯びています。神の働きのために非常に多くの活動がなされてきましたし、大量のエネルギーや多くの組織的努力が傾注されてきました。まるで大成功を収めたかのように見えます。人数が記載され、総計が出され、報告書が提出されます。それから数年後にその成果を見に行くと、成果はどこにあるのでしょう?その大部分は無くなってしまっています。その働きは神のためのものであり、最善の意図をもってなされましたが、人によって生み出されたものだったのです。そこそこ進んだだけで、決して完成に至りませんでした。これは常にそうです。これを悟ることは、キリストの外にいる人々にとってだけでなく、主の民にとっても重要です。旧創造の水準を決して超えられません。パウロは言います、「被造物は虚無に服している」と。これから逃れることはできません。

これが最初のエリコです。これがすべてエリシャに受け渡されました。このエリコの歴史がエリシャの時代に引き継がれました。ですから、エリシャが表しているもの、彼がこの状況をどう対処したのかを思い出す必要があります。

エリシャは復活の力を表しています。ですから、彼が死と大いに関わりがあったこと、そして、彼の道に最初に舞い込んできたまさに最初の出来事がこの線に沿って死を対処することだったのは、意義深いことです。彼は昇天した主と連携して、復活の立場に基づいて登場します。

エリシャの原点はヨルダン川にある

彼の原点はすべてここにありました。彼は言わば、カルバリに根ざして立ちます。これが彼の生涯と務めの主な意義です。エリヤの外套を受け取った時、彼は死に対するこの勝利の力を立証しました。彼がヨルダン川の水を打って、「エリヤの神である主はどこにおられるのか?」と言うと、水がこちら側とあちら側に分かれたので、彼は渡りました。彼はヨルダン川の水で復活した主の力を立証したのであり、この力によって前進したのです。彼の原点はヨルダン川にありました。言い換えると、彼の人生の基盤はまさに十字架の力だったのです。

パウロはとりわけ新約におけるこの実例です。そうである以上、パウロの原点が十字架にあったことも同じように明らかです。他の使徒たちに優って十字架の力について知っている使徒がいるとするなら、それはパウロです。彼はあらゆる領域で勝利するその普遍的な力強い勝利を見ていました。ですから、彼は特別な形で復活の命の使徒なのです。

エリシャの力は復活にある

特に、これが持つ一つの意義について指摘しましょう。復活にある彼の力は、この性質のものでした。復活の立場のゆえに、彼は対処すべき状況の外側に完全に立っただけでなく、その状況を超越しました。復活が常に意味するのは、私たちはこの世の外側にあるということです。復活後、主イエスは二度とこの世にご自身を現されませんでした。復活後、ご自身をこの世に向かって個人的に現されませんでした。復活が意味するのは、彼はこのような意味でこの世から出て、それから離れて立たれたということです。この世に対する彼の力は、世から離れていることにありました。彼がこの状況を対処できるのは、彼がもはやその状況に巻き込まれることはないからです。復活が意味するのは、私たちは霊的にこの世の外側にあって、それを超越した立場にあるということです。

ですから、エリシャは死の光景の中を、それによって打ち負かされずに進めました。むしろ、その状況を常に超越して、絶対的権威をもって対処できました。彼は決してその状況の一部ではなかったからです。彼の力はこれにありました。

私たちはキリストの復活の力によって生きるすべを学ばなければなりません。それは、私たちの周りにある死が私たちに影響を及ぼして、私たちを捕らえることがなくなるためです。主イエスとの復活による合一が意味するのは、私たちは周囲にある死に巻き込まれることがないということです。死の光景の中を進んでも、死は私たちに触れません。死のただ中で命の中にとどまること、これは学ぶべきとても重要な学課です。

エリシャの権威は油塗りにある

彼は御霊を受けていました。エリシャには何かしら独特な点があることがわかります。彼は油塗りを受けた唯一の預言者でした。王たちは油を塗られました。祭司たちも油を塗られました。預言者たちは油を塗られませんでした。しかし、エリシャは独特であり、唯一の例外でした。主はエリヤに、エリシャに油を塗って後を継がせるよう仰せられました。これには独特な意味があります。エリシャは後継者だからです。これはエリヤとエリシャは二つの部分からなる一人の人であることを意味します。

これを新約に適用すると、その本体はかしらであるキリストと、そのからだである教会であり、この両者は一つの油塗りの下にあります。教会はまさに地上におけるキリストの器であり、その目的はこの油塗りの力によって御業を遂行することです。エリシャの油塗りの真価・力は、エリヤの天への昇天に基づいて有効になりました。

エリシャの権威はこの油塗りのおかげです。油塗りが常に意味するのは、神はご自身を委ねておられ、神の権威はこの油塗りのあるところにとどまるということです。

エリシャがからかわれたささやかな出来事を見てください。子供たちが出て来て、「上れ、この禿頭」と言いました(子供たちと訳されているのは残念なことです)。原文には子供たちという意味は全くありません。これは若者たちを指すのに使われる言葉であり、チンピラたちを指すのにも使われます。明らかに、これは相当大きな一団でした。その中の四十人が熊によって傷を負ったからです。これは若者たちの大きな一団で、主の僕をからかうために出て来た者たちでした。彼らはエリヤの昇天を念頭に置いて、事実上、「エリヤが上って行ったように、お前も上って行け」と言い、携挙を嘲ったのです。今日、携挙の概念を嘲る多くの人々がいます。しかし、さしあたっての要点は、エリシャは即座に、自分の上にとどまっている権威を行使して――天罰として――彼らを呪った、ということです。すると、熊たちが現れて彼らを掻き裂いたので、多くの人が裁きの下で苦しみました。エリシャの権威は上からのものであって、復活の立場に基づいており、油塗りによるものでした。

エリシャの器は新しい壺である

原点であるヨルダン川、復活による力、油塗りによる権威、これらはどれも旧創造には当てはまりません。これらをすべて行使して、このような霊的生活を送るには、新しい壺が必要です。この新しい壺とは、キリスト・イエスにある新創造です。この新創造はこの立場に立つものであり、主とのこのような関係にあります。その土台は十字架にあり、その命は復活にあります。また、その権威は聖霊によります。

エリシャの手段は塩である

塩は朽ちないもの、腐敗や死に対しても朽ちずに対抗して勝利するものの象徴です。これは主イエスの復活の命以外の何物でもありません。この復活の命は死や腐敗に力強く対抗します。

これらのものがすべてエリシャの中にありました。これらのものがすべて詰まっているこの人が、エリコの水に導かれました。この人がキリストの復活の命、死に打ち勝つ勝利の命の型であることは、きわめて明白ではないでしょうか?

この型がこんなにも完全に、豊かに示されています。しかし、その霊的意義は何でしょう?それは私たちにどう適用されるのでしょう?ローマ書八章を見ると、これがきわめて明白に示されていることがわかります。その後半の節、二〇節から二五節に、全被造物の生活の霊的背景が示されています。そこで使徒が述べているように、被造物は虚無に服しています。これは神意によるものでした。ある時、何らかの理由で、被造物は虚無に服するようになりました。それには意図がありました。つまり、神は被造物の上にこのような性質を帯びた呪いを置かれたのです。一つの立場によらないかぎり、被造物は決して成熟に至りません。ですから、一つの立場によらないかぎり、全被造物は達すべき目標に到達できません。使徒が言うには、私たちの存在の一部は未だにその中にあります。私たちの体は未だにその中にあります。「私たちは自らの内でうめきつつ、子たる身分を受けること、すなわち、体の贖いを待ち望んでいます」。しかし、使徒が言うには、被造物――私たち自身もこの被造物の中に含まれます――が虚無に服したのには希望があります。すっかり絶望的ではありませんし、希望が無いわけでもありません。しかし、どこに希望があるのでしょう?主イエスは全被造物の代表者です――なぜなら、万物は彼によって、彼のために造られたからです――この被造物は、反逆のせいで、そのために生み出された目的から逸れてしまいました。御父は御子に被造物をお与えになりましたが、今や被造物は堕落してしまいました。では、御父は御子からこの賜物を永遠に奪ってしまわれるのでしょうか?否!御父は被造物を虚無に服させますが、希望があります。今や、主イエスご自身が被造物の代表者となり、人としてその状況の中に身代わりとして入り、まさにその呪いの下に身を置きさえされます。その額の茨はまさに、神が地を呪われるやいなや芽を出した茨と藪の象徴です。この呪いが型として彼の額にありました。次に、彼は呪いの下で死なれます。彼が死なれた時、どこに希望があったでしょう?天然の目で彼を見るなら、どこにも希望はありません。しかし、神は彼を死者の中から復活させられました。ここにすべての希望があります。パウロは言います、「死者を復活させる神によって…」。死者の中から復活させられたキリストは希望であり、復活の初穂です。希望は復活のキリストにあります。希望はキリストにある復活です。

もう一度、パウロの偉大な章であるコリント人への第一の手紙の十五章を読んでください。復活の意味という主題に関する最高の説明があります。もし死者が復活しないなら、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です。私たちの宣べ伝えは空しく、あなたたちの信仰は空しいです。依然としてあなたたちは自分の罪の中にあり、神なく、望みもありません。「しかし今や、キリストは眠った者たちの初穂として、死者の中から復活させられました」。ここに希望があります。

さて、注意してください。私たちは初穂を持っている、とパウロは述べています。これは真実ですが、私たちの存在中には依然として空虚な領域の下にある部分があります。私たちの体は依然として死の支配下にあります。私たちはまだ完全には贖われていませんが、御霊の初穂を持っています。すでに私たちの内におられる御霊により、復活の命を持っています。これが御霊の初穂であり、希望の根拠です。私たちの内側にはすでに復活の命が宿っているので、私たちの体もまた復活することが保証されています。

これには現在、どんな益があるのでしょう?「ですから、今や罪に定められることはありません……」。裁きや呪いはありませんし、神の呪いの下にとどまることもありません。「ですから、イエス・キリストにある者たちは、今や罪に定められることはありません。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです」。主イエスの復活により、私たちは呪いから――すなわち、空虚さをもたらす死から――解放されています。そして、進み通して神の御旨に到達できる地点にもたらされています。もはや空虚さが私たちの上にとどまることは全くありません。もはや足止めを食らうことはありません。ある点までは進むのですが、そこで終わりで、それ以上進めない、という立場にはもはやありません。今、進み続けることができます!命の実は成熟に達することができます。なぜなら、呪いによる死の力は、キリストの復活の力によって無効化されたからです。罪定めは取り除かれました。

キリストの外側にあるすべての人々の上にとどまっているこの大きな罪定めは別として、次のことは真実ではないでしょうか?すなわち、敵からの罪定めの霊の下に落ち込むことを自分に許すなら、私たちはたちまち捕らわれてしまい、その結果、それ以上進めなくなって、手前で立ち止まり、生活はすっかり枯れ果てて、実は落ち始めてしまうのではないでしょうか?これが罪定めの効果です。敵は常に神の子供たちを罪定めの立場に戻らせようとします。それは、キリストの復活の証しを覆すためであり、復活の立場に基づくキリストとの合一の実を台無しにするためです。自分がローマ八章一節の立場にあることを絶対的に確信しておらず、この問題に決着をつけていない人々は、大して進歩しない人々です。そこそこ進んで止まってしまい、その実は熟す前に落ちてしまいます。つまり、彼らは確信をもってはっきりと、「キリスト・イエスにある者たちは、もはや罪に定められることはありません」と確証できる人々ではありません。また、さらに進んで、「キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放しました」と確証することもできません。私たちはこれを喜び確信しつつ生きなければなりません。その確実さと素晴らしさに浴しつつ生きなければなりません。すべてを駄目にする敵の力は、私たちが次の事実を見るとき滅ぼされます。その事実とは、私たちの立場は主イエスの十字架に根ざしているということ、そして、私たちはキリストの復活の力により、油塗りの聖霊により天におられるキリストと結ばれているため、もはや罪に定められることがなく、キリストの豊満に至らずにいるべきいかなる理由ももはや存在しないということです。私たちがこれを悟る時、敵は力を失います。

前に指摘しましたが、ローマ人への手紙の第七章の終わりの節と第八章の始まりとの間にはなんと大きな変化があるのでしょう。この同じ変化が列王記下のこの第二章にも見られます。ローマ七章をエリコの水の章と呼べるでしょう――呪いのせいで死と空虚さの中にあります。これは痛ましい章です。目標に到達できず、何も成し遂げられません。すべてが停滞しています――「なんと惨めな人でしょう…」。第八章は命の中を進み通す扉を開きます。なぜでしょう?使徒がここに第七章を挿入したのは第六章の帰結である第八章の栄光を示すためだったからにほかなりません。第六章はヨルダン川です。「もし私たちが彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるでしょう」。「私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました。それは、この罪の体が滅びて、私たちがもはや罪の奴隷となることがないためです。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからです。もし私たちがキリストと共に死んだなら(中略)また彼と共に生きます。キリストは死者の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを知っているからです」。「このように、あなたたち自身も、罪に対して死んだ者であると認めなさい」。パウロがいわゆる第七章をここに記したのは、これに完全に矛盾することを示して、「これは理論的には真実ですが、自分自身の経験には全く反します」と言うためでしょうか?いいえ!彼が第七章を書いたのは、第六章で扱ったことを示すためです。第七章は実は、第六章で対処された状態なのです。続けて彼は言います。「この状態は対処されており、これが私たちの真の立場であることが、今わかります。これは第六章のおかげです」。――「ですから、今や罪に定められることはありません」。「キリスト・イエスにある命の御霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。第七章と第八章を一緒にすることはできません。例えば、「しかし、私の肢体の中には別の法則があって、私の思いの法則に対して戦いを挑んでいるのを、私は目にしています」「自分の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っています」という経験を、「もはや罪に定められることはありません」という経験と共にすることはできません。パウロが述べているのは、第六章は第七章に見いだされるものを対処する神の方法であり、その結果が第八章である、ということにほかなりません。それは開けた道を切り開くキリストの復活の力であり、競技場で死体を引きずって行き詰まっているこの人は、この出口の無い人生、この目標に到達することのない人生から抜け出して、キリストの豊かさへと至る開けた道の中に入ります。なぜなら、復活の立場の上にあるからです。

キリストは眠った者たちの初穂であり、私たちはこの初穂を持っています。ですから、私たちは初穂であるキリストと復活の中で結ばれています。初穂は常に、それに続く収穫全体の保証として刈り取られます。それに続く収穫はすべて、素晴らしい収穫になります。その一部として、私たちの体の贖いもあります。