第三章 エリシャと預言者の子たち

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:列王記下第二章

この章で、エリシャは預言者の子たちに関連して現れます。彼らは他の時にも何度も言及されています。多くの場合、彼らはエリシャとその務めに関連して現れます。これには調べるべき意義があります。その真の意義を理解するために、私たちは主の助けを求めなければなりません。御言葉をいくつか引用しましょう。

列王記下二・三、五、七、十四、十五~十六。四・三八~四一。六・一~七。

預言者の子たちとは誰で何者なのか

この特別な形態の預言の務めの序論のために、サムエルの時代に遡らなければなりません。元々、後に預言者たちが担った働きは、祭司たちによってなされていました。律法や神の道に関して民を指導することは祭司の職務でした。しか士師たちの時代に、祭司たちは大いに堕落して、祭司の奉仕はきわめて水準の低いものになったため、絶滅しかけて、まったく非効率的で無力なものになりました。その後サムエルが登場したわけですが、疑いなく彼自身も祭司でした。彼と共に変化が訪れて、彼と共にある改革が臨みました。その一つが預言者学校の設立でした。サムエルを校長とするそのような学校の一つがラマにあったという句が見つかります。それについてはサムエル記上十九章に記されています。

おそらく述べるまでもないでしょうが、「預言者の子たち」という句を文字どおり受け取ってはなりません。これが意味するのは、この人たちは預言者らの息子たちだったということではありません。彼らは霊的に有望な若者たちであり、霊的奉仕に備えるために一緒に集まっていました。この備えはあるきわめて明確に定められた線に沿ったものでしたが、その主要な目的は一つでした。彼らは律法、特に象徴律法とは異なる口伝律法を徹底的に教え込まれなければなりませんでした。

祭司の指導は主に象徴律法の線に沿ってなされました。つまり、祭司たちは言葉よりもむしろ行動によって教えたのです。祭司たちが行ったことは、もともと指導する方法でした。しかし、それは象徴や型であり、したがって、民には識別力と判断力が大いに必要でした。象徴的行為を通して神の御旨を洞察できなくてはなりませんでした。状況が純粋な状態にある時、人々は多かれ少なかれ、このような祭司の行動の意義を理解しました。外側の行動によって示された神の御思いを理解できました。士師たちの時代のように、状況が堕落した時、霊的知覚と理解力はほとんど完全に消え去りました。

エリの健康状態について述べられていることは、民の霊的状態を象徴しています。彼の目は霞んでいたため、ほとんど視力がありませんでした。彼はとても衰弱していたので、自分自身の家庭の道徳生活すら治める力もありませんでした。これは祭司制度末期下の民の霊的状態を二重に表しています。霊的知覚、洞察力がなくなってやんでしまったため、民は道徳的に麻痺して、神の御心にしたがった統治は事実上姿を消しました。それで、霊的洞察力や識別力(当時「幻」と呼ばれていたもの)が姿を消したので、新しい形の指導が必要になりました。それは口伝形式でした。預言者たちの訓練は、神の御心の象徴的表現や予型的表現によってではなく、言葉による直接的宣言によってなされました。ですから、彼らが訓練を受けたのは口伝律法によってであり、彼らは主の御心が何であるのかを、象徴的行為で宣言するだけでなく、自分の口で言葉として宣言しなければならなかったのです。

これらの預言者学校が設立されたのは、神の御心を直接的方法で宣言する人々を整えることを目的としていました。これに関係する他の事柄もありました。たとえば、神の観点から見た、民の霊的歴史やこの世の歴史です。イザヤ、エレミヤ、ヨナ、ハガイ、ダニエルの預言を読めば、直接的あるいは間接的に歴史に関わる内容がいかに多いかが分かります。それらの内容は学んで得たものでした。ダニエルが告げるところによると、彼は書物を通して知るようになりました。特に、エレミヤ書を学んだことについて彼は述べています。彼はこれらの預言書を通して知識を得ました。エレミヤ書を見ると、この書き物は多くの歴史を含んでいることが分かります。ですから、預言者学校が設立された付随的目的は、「霊的歴史」を教えることだったのです。

次に、これらの事柄に関係するもう一つの面がありました。それを霊的愛国心と呼べるでしょう。「霊的」という言葉を強調したいと思います。なぜならこの言葉は、神が一つの民を選ばれたこと、一つの民を分離されたこと、この民は諸国民の間で神のために何かを代表していたこと、そして、彼らが神のために代表していたもののゆえに、神は彼らに対して妬み深かったことを示しているからです。ですから、預言者たちは「この民は神聖な使命を果たさなければならない」という聖なる妬みで燃えていました。これが彼らの霊的愛国心の性質でした。彼らはイスラエルの神聖な使命のゆえに、イスラエルに対して妬み深くありました。預言者たちの学校では、いわゆる「霊的愛国心」が涵養されていたように思われます。

これらの事柄は、預言者学校では二次的・付随的事柄だったと言えるでしょう。本分は預言の務めのまさに本質、すなわち、神の御心を霊感によって啓示することでした。研究や人の知的推論によって示すことだけでなく、霊感によって啓示することでした。神の御心を啓示することでした。なぜなら、神の御心は神の御霊によって啓示されるからです。

このように、預言者たちは神の示しの道具として、神の御思い、神の願い、神の御旨を宣言するだけでなく代表する手段として立ちました。預言者はたんなる代弁者であってはならず、告げる真理の体現者でなければなりませんでした。ですから、主は預言者たちにある経験を通らされたことが分かります。その経験によって、彼らに任されたメッセージが彼ら自身の心の中に注入されたのです。それは、彼らが代弁者となるだけでなく、その真理の生ける表現となるためでした。

これはエリシャの時代の預言者学校を彷彿とさせます。彼らの目的は、神の御思いを生き生きと示す人々を輩出することでした。これが、エリシャとこれらの預言者の子たちとの関係の出発点です。

覚えておくべき、このもう一つの要素があります。預言者の子たちは預言者とは違って、未熟で、準備段階にありました。ですから、エリシャと関わりを持つことで学ぶようになったのです。引用した御言葉を見ると、どの事例にも未熟さのしるしが多く見られます。また、自分の預言の務めを果たして神に仕える地点に彼らをもたらすには何が必要だったのかが分かります。

エリシャが示していること

エリシャが何を示しているのかに進む前に思い出さなければなりません。彼は復活の命の力、死に打ち勝つ命、十字架の完全な結果を示しています。エリシャの起源はヨルダン川にあり、そこから彼は始めました。ですから、次のことが分かると思います。エリシャが預言者の未熟な子たちと関わっていたとき、彼らは自分たちの務めにとって何が本質的なのかをエリシャから教わっていたのであり、その教えをエリシャ自身が体現していたのです。つまり、エリシャがすべての務めに必要不可欠な要素を持っていることを彼らは見るようになったのです。

第二章の、ベテルとエリコにおける、この預言者の子たちに対する最初の言及を取り上げましょう。彼らは言いました、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか?」。ここで、とても初歩的なことから始めることにします。おそらく、言及するにはあまりにも初歩的すぎるかもしれません。しかし、この中のだれかはこれに注意を払う必要があるかもしれません。この章のこの時まで、これらの預言者の子たちはエリシャを敬っていなかったことがわかります。それどころか、彼らはやや軽々しいぶしつけな態度で彼に話しかけます。エリシャはエリヤの僕にすぎないと見なされています。ですから、この偉大な主人が先に進んで行って、エリシャが彼と一緒にいるのを見るたびに、彼らはぶしつけにも、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか?」と言ったのです。エリシャはエリヤの僕にすぎず、彼らの態度、姿勢、言葉は、「自分の方が優れている」という彼らの考えを表しています。

これは霊的高ぶり、欺瞞です。彼らはこの平信徒を少しも尊敬していませんでした。彼らは預言者の子たちです。主の働きの道の中にあります。「奉仕するよう召されて」います。公職者の風格があります。この人には何の官職もなく、最近主人に従うようになったにすぎません。主人が行く所に僕はどこにでも行きます。その霊的意義を彼らは何も感じません。だから、彼を見下します。エリシャが神と共に過ごした隠れた過去を何も知りません。神がエリシャに何をしておられるのか、彼らは全く感知しません。だから、このような高ぶった姿勢、おそらくは見下した姿勢を取ったのです。

これから、とても初歩的な要素が分かります。しかし、この要素は現代の預言者学校では珍しくありません。これはこの施設が抱えている危険性の一つです。ああ、主に仕えるには「召し」を受けなければならない、という危険性。ああ、主に仕えるための「召し」の危険性!ああ、「自分は主に選ばれた」という意識の危険性!同じようにこの召しを耳にして選ばれていない人々とは違う、と思う危険性!霊的未熟さの印の一つは――顕著な特徴ではないかもしれませんが――欺瞞、高ぶりです。これはとても厳しい言葉です。膨大な知識があるかもしれません。その知識はどれも、特別な大学だけでなく一般的な学派でも与えられるものです。聖書の教えをきわめて包括的に理解しているかもしれません。そしてそれに付随して、霊的高ぶりと優越感があるかもしれません。この道に入らなかった人々、これらの学校を卒業しなかった人々を、何か劣った者と見なしてしまうのです。このような知識がどれほど包括的で膨大なものだったとしても、もしそこにこのような霊的優越感の痕跡が一つでもあるなら、「未熟である」と即断できます。それは霊的成長を少しも示すものではありません。このような人々は最初から学びなおさなければなりません。「霊的高ぶり、優越感、欺瞞から私たちを救ってください」と絶えず主に求めようではありませんか。「欺瞞」という言葉の意味は、「諸事を自分の内に持つ」ことにほかなりません。私たちは時々、「問題の根源は自分の内にある」と言いますが、この句はそれとはまったく違った意味です。欺瞞の反対は、すべてを主の内に持ち、自分の内には何も持たないことです。これが霊的成長です。

ここでは、預言者の子たちのあまり良くない面が示されています。しかし、彼らは未熟な準備段階にあったことを思い出さなければなりません。むしろ、彼らの例から私たちに対する警告を受けなければなりません。神はエリシャの内に何かをしておられました。神は御手をエリシャの上に置いておられました。エリシャと主、主とエリシャの間には、他のだれにも見えない内なる歴史がありました。公職にある人々はまったくそれを見抜けず、そのせいで誤解しました。私たちも注意しようではありませんか。主が他の人々の生活の中でなさっている、まだ外側には現れていない働きを、「自分は才能ある、ひとかどの者である」と自惚れて、無視してはなりません。生活の中で進行している深い働き――主がなさっている目に見える働きは今はまだ現れていません――は、私たちには決してわかりません。

「霊的高ぶりを帯びているものはみな、人を盲目にする」というのは至言です。それは霊的に視力を麻痺させます。ですから、いかなる自己充足も、神が他の場所でなさっていることを見えなくさせます。「主は自分たちと実際に密接な関係にあり、主の関心は最初から最後まで自分たちにしかない」と自己満足しているなら、主がどこか他の場所でなさっている働きを見ることは決してできません。高ぶりは人を盲目にし、霊的感覚を鈍らせます。もしエリシャが実際よりも器量の小さな人間だったなら、預言者の子たちの軽薄でぶしつけな態度のせいで、酷く痛みを感じたとしても無理ありませんでした。しかし、彼は器量の大きな人であり、彼らに対するその後の関係から、彼が少しも恨んでいなかったことがわかります。彼は真に、自分が示しているものを生かし出していました。下界に何の関心も持たない生活、天的な生活、天上の生活を生きていたのです。

二章七節に進むことにします。この出来事の後、エリヤは携え挙げられ、その外套は落ち、エリシャはヨルダン川の水を打って、「エリヤの神、主はどこにおられますか?」と叫びます。すると、水は左右に分かれて、エリシャはその間を通りました(二・十四)。

これから十五~十六節に至ります。ここには進展、良い動きがあります。今や、預言者の子たちは、エリシャのこと、神が彼にしてこられたこと、神が彼に与えられた地位を、幾分認識します。エリシャは復活の力を現していることを思い出してください。預言者の子たちがこれをこのような言葉で表現しなかったことは、間違いありません。しかし、彼らの行動を霊的に解釈して解き明かすとこうなります。すなわち、彼らは復活の力の絶対的卓越性を認識し、受け入れ、生活の中でそれに服したのです。つまり、これが自分たちをも支配しなければならないこと、自分たちの全生涯、奉仕、前途は復活のキリストの支配下になければならないことを、彼らは理解して受け入れたのです。彼らは自分たちの務めをキリストの復活の力によって果たさなければなりません。「復活の命が支配しなければならない」という原則に基づいて、復活の主に服さなければなりません。これが霊的解き明かしです。これが、ここでのエリシャの立場の予型的意義であり、この原則を認識して受け入れ、それに服した預言者の子たちの予型的意義です。しかしさしあたって、これは形式的かつ外面的なものにすぎませんでした。つまり、エリシャが霊的に真に示していることの意義や真価が、まだ彼らの内に造り込まれていなかったのです。

これを新たに経験・適用することがまさに意味するのは、ある偉大な事実、包括的事実に直面する時が来る、ということです。その事実とは、その時から先、生活と務めはすべてキリストの復活の力によるものでなければならず、他の力はまったくあってはならない、というものです――復活の主の復活の命の絶対的主権、統治、支配の下になければならないのです。これが私たちに示されて、これを私たちは見、守り、考慮して、「確かに、これは真実です。これが真理であることはわかります。私はこれを受け入れ、これに明け渡し、これに服します」と言うかもしれません。そのつもりです。それから逃れることはできません。それに反駁することはできません。これは私たちにとって決定的真理です。それに黙って従います。それは憤りを催すものではありません。これは私たちのための神の道であること、神がこれを定められたこと、神の御旨はこれであることがわかります。そして、この預言者の子たちのように、それに従い、その時から、復活のキリストという偉大な真理、キリストの復活の命の統治という偉大な真理に同意するようになります。私はそれに自分を委ね、明け渡し、それを受け入れます。その時から、これは私の生活の第一原理になります。

このような境地に預言者の子たちは達しました。私たちもそこに達します。しかし依然として、このような立場を受け入れることと、その意義を自分の存在のまさに本質中に造り込まれることとの間には、大きな違いがあります。その時から、これは彼らの中に実際に造り込まれなければならなかったことがわかります。それは、これを知性で理解して一般論として受け入れるだけでなく、実際に経験するためです。

ここでまた、ある難問に直面することになります。なぜなら、神の御旨、神の道、神の意図、自分の生活に影響を及ぼす神の御思いと願い、という偉大な事実と現実に、私たちはたびたび直面して、自分がそれに閉じ込められていることに気づくからです。エリヤの霊がエリシャの上にとどまっていることが、預言者の子たちにとって明らかだったように、明らかになります。その様子を見て、私たちはそれに従い、それを受け入れ、「今からこれに服します」と言います。これはとても素晴らしいことです!これは素晴らしい一歩です!これは確かに、立場上大きな前進の一歩であり、この預言者の子たちは前章でこの立場にあったことがわかります。しかし、決して思い違いをしないようにしようではありませんか。ある立場を知性や心の中に受け入れたからといって、その立場に達したわけではないのです。受け入れたものが実際のものとなるには、依然としてある道のりを行かなければならないかもしれません。依然として、その実際的意義が私たちの中に造り込まれる必要があるかもしれません。多くの人は遺憾なことに、これをとてもはっきりと見ますし、とてもはっきりしています。反論や疑問は全くありません。それは事実であり、決定的です。それから、こう考え始めてしまうのです、「自分はこの真理を確信しており、この真理に圧倒されてすらいるのだから、自分はこれを持っている」と。そして、それについて話し始め、説き始めます。彼らはあるものを見ているのですが、あまりにも多くの場合、それは彼らの生活の中で崩れ始めてしまいます。まごごろを込めてそれを抱きしめたのに、それは経験上実際のものではなかったことに、彼らは気づきます。そして、自分たちが受け入れたものに悩まされるようになります。彼らは――神の観点では――この立場に自分たちを経験的に導く諸々の経験を通りますが、それらの経験はさしあたってそれと大いに矛盾しているように見えます。そこで、往々にして彼らはこう言います、「やれやれ、これはうまくいきません。これが正しいことは確かでした。これに関する知的疑問はありませんでした。今でも、他のものは見えません。しかし、自分に関する限り、これはうまくいきません」と。そして彼らは混乱と矛盾に陥り、これを丸ごと捨ててしまいます。他の人々はこの謎のさなかで踏ん張り、神と共にくぐり抜けて、明るい場所に達します。

この預言者の子たちが理解力をもって何かを受け入れたことは明白です。彼らはとても純粋に受け入れました。しかしこれは、それが彼らの心の中に造り込まれたことを意味しませんでした。神の観点によると、このように――完全に、丸ごと、正直に、断固として――受け入れなければなりません。しかし、それから主はその適用を開始されるのです。

霊的行程の観点から見るときわめて意義深いことに、彼らはエリシャを受け入れて彼に従った後、間髪を入れずに彼との口論を始めました。十六節から十八節で分かります。これは服従違反であり、自分たちの統治原理として彼を受け入れたことを否定するものでした。直ちに分かるのは、全き誠実さで受け入れたのに、それは依然として彼らの存在の一部ではなかった、ということです。その意味するところに気づいたでしょうか?エリシャは死に打ち勝つ命の力であるからには、絶えず死の諸々の特徴に直面することになります。そしてこの出来事は、預言者の子たちが死に門戸を開いた一つの例となりました。エリヤはつむじ風によって天に引き上げられました。そして、彼らは「主の霊が彼を引き上げて、山か谷に投げたのかもしれません」と論じました。絶対的かつ究極的なものよりも遥かに劣るもののために余地を設けたのです。まるで、「結局のところ、エリヤはどこかに死んで横たわっているのかもしれない」と言わんばかりでした。

この問題を新約聖書の領域に適用すると、ここには熟考すべきことがたくさんあります。天のキリストの現実、神の右におられる主イエスの意義を、私たちが把握しそこなうのはどうしてでしょう。そこから落ちてしまうのはどうしてでしょう。その完全な意義を理解・認識しそこなって、あらゆる死を招き入れてしまうのはどうしてでしょう。しかし、この領域を探索するつもりはありません。これを述べるのは、これにはとても大きな要素が絡んでいるからです。

当面の目的のために単純な文脈に従うことにして、次のことを指摘することにします。ここでは、霊的事柄の領域で天然的理屈の水準に従って行動したせいで、死に門戸を開くことになりました。ここには、この預言者の子たちの前に立つまさにこの人が体現している、ある偉大な霊的要素がありました。もしエリヤが天に入っていなければ、このような能力と賜物を持つエリシャはいなかったでしょう。彼らは復活の力の事実を前にしていました。しかしそれでも、このような霊的威光を天然的な知性で取り扱い、それを天的現実という高い水準から人間的理屈という低い水準まで引きずりおろさずにはいられなかったのです。霊的な事柄を自分自身の天然的な知性で検証せずにはいられなかったのです。

これは私たちをローマ八・六「肉の思いは死であり……」に連れ戻します。この人々は、結局のところ、知的には栄光、高揚、携挙の領域ではなく、死の領域の中に住んでいました。霊の中で天上にいたわけではありませんでした。知的には死の領域の中に住んでいました。「主の霊が彼を引き上げて、山か谷に投げたのかもしれません」。これが彼らの地平線であり、この領域の中で彼らは生活・思考していました。しかし、それはまさに死でした。なぜなら、それは肉の思いだったからです。

ローマ書からコリント書に移ることにします。「さて、天然の人は神の御霊の事柄を受け入れません。それらは彼には愚かなものだからです。彼らはそれらを知ることができません。なぜなら、それらは霊的に識別されるものだからです」。これは死です。このような私たちの知性、この天然的理屈で、天的・霊的事柄を取り扱い、解析し、洞察しようとするとき、私たちは行き詰まり、袋小路に陥って、霊的死の領域の中に入り込んでしまいます。

この人々はこの出来事を目撃しました。彼らはヨルダン川が二つに割れるのを見ました。復活して昇天した主を知っていました。しかし、自分の立場を経験的な形でその上に取っていなかったのです。彼らは感覚の領域に確かな保証を望みました。ああ!天然の人は感覚を通して確証を得ることをなんと望むことか。見ることを願い、感じることを願い、証拠を握ることを望みます。キリストの復活の力の中に生きている人々は神の命の充満を絶えず感じる、とあなたは思っているのでしょうか?多くの場合、パウロのように、自分自身はどうしようもないほど死んでいるのを彼らは感じます。しかし、それでも奇跡的なことに、彼らからではない何かがあって、それが彼らを力づけて働かせ、彼らを前進させます。彼らは弱さ、空しさ、心もとなさを感じますが、それでもそこには神からの何かがあって、それが彼らを前進させます。もし彼らがじっと立ち止まって、「私の存在の各部分と、私の命の各要素の中に、キリストの復活の充満を感じるようにならない限り、これ以上進むつもりはありません」と言うなら、彼らは前進することはないでしょう。主は決してそのような立場に基づいて私たちと会われません。この人々は、感覚の領域に証拠を欲したことで、未熟さを露呈しました。エリシャは感覚にすぎないすべてのものに対抗しましたが、これは彼が復活の命の原則をいかに徹底的に現しているのかを示します。肉は自分の流儀で裏付けや証拠を求めずにはいられませんが、霊は別の領域を見渡してその中を行動します。「肉から生まれる者は肉であり、御霊から生まれる者は霊です」(ヨハネ三・六)。

ですから、この預言者の子たちは、復活の命を握って、人の疑問という制約の中に引きずりおろそうとしました。もしあなたや私がそうするなら、主が私たちを召してくださったこの務めと証しの領域から落ちてしまうでしょう。自分の感覚や天然的知識の領域の中に霊的な事柄の証拠を求めようとするとても大きな誘惑が常にあります。私たちは自分自身の力で前進するのではありません。また、私たちに関する限り前進するのは不可能ですが、それでも、私たちの命であるキリストのおかげで私たちは前進しつつあります。これを十分に理解して前進しない大きな誘惑が常にあるのです。

天然的に見ると、主イエスの復活の命を知り、その原則に基づいて生きている人々はみな、実に哀れな輩に見えます。死に勝利する命の原則に全く基づいて生きてきた、この新約の経綸のすべての男女を集められたとして、人々が見るようにその人々を見たなら、「何と哀れな群衆か」とあなたは言うでしょう。パウロを見てみなさい!ありのままのパウロを見たら、ひどく驚く人もいるでしょう。約二千年間、私たちはパウロの務めの効力を夢見てきました。パウロとその生涯、手紙、働きについて、膨大な文献があります。パウロが当時のままの姿で私たちと会えたとしても、もし私たちに霊的認識力がなく、彼をただの人としてしか見ないなら、「こんな人がこの文献をすべて造り出し、この議論をすべて生じさせ、約二千年間世界を根底から震撼させてきたのですか?この人に見るべき点は何もありません!」と私たちは言うでしょう。しかし、もっと深い面があります。そこで、あなたはこう尋ねます。「パウロよ、あなたの全生涯を通して、あなたがこの偉大な働きについていた時、苦痛、痛み、疲れ、抑圧、恐れ、心配を決して感じさせないような復活の力を、あなたは経験していたのでしょうか?」。彼はこう答えるでしょう、「外での戦いも、内なる恐れも、ほとんどの人が知らないほど知っていました。抑圧とは何かを知っていました。疑うよう誘惑されること、究極的難問が持ち上がる暗い土地を通り抜けること、生きる望みを失うことがどういうことか、知っていたのです」。パウロがキリストの復活の力を何ものにもまして感じているわけではない時がたくさん、たくさん、あったことが分かります。しかしそれでも、彼はそれに基づいて生きていました。これですべてに説明がつきます。

現実と意識とは別物かもしれません。「自分の状態にもかかわらず、自分は前進している」ということしかわからないことが、時々あります。私たちを支えているものは何でしょう?思考、理解力よりも深い、他の「何か」です。主が私たちにあって進んでおられるのです。

預言者の子たちは、人間的証拠、感覚による証明への扉を開くことにより、死が入り込む余地を設けました。これは霊的未熟さです。エリシャに言えることが彼らにも言えるようにならない限り、彼らが卒業して完全な預言の務めに至ることは決してありません。次のことを理解しようではありませんか。エリシャはヨルダン川から出て来て、彼の起源はカルバリにあったがゆえに、彼は十字架の意義の化身でした。そうである以上、この預言者の子たちにとって、そして霊的に私たちにとって、キリストの復活の命を知ることができるようになるには、天然的知性を十字架に渡すことが絶対に必要であることを、彼は指し示しているのです。彼らは自分の働きによって義とされようとしました。それで、山や谷を探し回りました。霊的立場を取って信じていれば、彼らは義と認められていたでしょう。

四章三八~四一節に向かいましょう。この箇所では、この預言者の子たちが食事のために野菜を集めに出て行ったことがわかります。彼らが野ウリを見つけて、それを鍋に放り込んだ時、それは惨事を引き起こしかけました。この教訓は単純かつ明白です。またもや死の要素が入り込んだのです。「…鍋の中に死があります」。ここで、預言者の子たちの間に死が入り込みました。霊の命を維持するのに何が適しているのかを識別する力に欠けていたからです。その土地に飢饉があって、主の民の命が危機に瀕して脅かされていました。ですから、命を支えて維持するのに必要な物が第一の問題でした。(もう一度注意してください)この人々は霊的務めのために準備しているところでした。そして、彼らの務めに確実に生じるであろう問題、主要な問題は、神の民の霊的命のために何が適しているのか、という問題でした。この務めを果たすために彼らに必要なのは、識別力を持つことでした。さらに、彼らは厳しい欠乏や圧迫の時に務めを果たそうとしていました。なぜなら、すでに見たように、預言者たちは霊的衰退の状況に関連して登場したからです。預言の務めが遂行されるべき時は、おもに、神の秩序の完全性と明確性が確立されていない時、状況が神の完全な御思いから逸れている時、そして、天的秩序の栄光がもはや存在しない時です。ですから、預言者たちがその務めを果たすときは、圧迫と困難があります。人々は大きな霊的必要を抱えた状況にあり、預言者たちはその必要を満たすのに何が適しているのかを告げる立場になければなりません。

将来に目を転じると、真の預言者と偽預言者との衝突が目に入ります。ある偽預言者たちは人気を博すために、心地よいことを預言しました。人から期待されていることを預言しました、利益が得られるようなことを預言しました。それで、彼らは人当たりの良いことを預言したのですが、それらは死でした。真の預言者は偽物に対抗して、多くの場合、人気が無くて受け入れてもらえないことを預言しなければなりません。この預言者の子たちは霊的務めのために備えているところであり、その務めは死に勝利する務めでなくてはなりませんでした。そのような務めの重大な一つの要素は、命に属するものと死に属するもの、生きているものと死んでいるものとを識別する能力です。

四章のこの出来事では、彼らは実際的経験を通ります。逼迫した日に彼らは食物を求めて集まります。しかし、彼らは識別力を持たずに集まって、鍋の中に死を見つけます。このような状況で必要に迫られている時、ごちゃまぜにしてしまうのはいとも簡単です。見たところ全く問題がなさそうだということで、実は命ではないものを持ち込んでしまうのはいとも簡単です。悪魔は今日の霊的飢饉の時を利用して、鍋の中に致命的な毒を入れています。今日、主の民は大きな必要を抱えています。真の霊的食物が不足しており、それと共に欠乏感があります。敵はこの欠乏感を利用しています。そして不幸なことに、霊的識別力を持たない僕たちが、主の民にとって致命的なものを持ち込んでいます。今の時代の印の一つは、識別力と認識力の不足、本物と偽物を見分ける識別力の欠如――偽物が本物のように見えること――です。野ぶどうと野ウリはとてもよく似ています。簡単に見かけに騙されてしまいます。それで、みんな一緒に放り込まれます。今日、偽物と本物がごちゃまぜになっていることがわかります。これは致命的な要素です。本物もあるのですが、何か別のものが混ざっていて、やがて次のことが明らかになります。すなわち、それは当初期待されたような命ではなく、死、致命的欺瞞、致命的矛盾、致命的否認であることが明らかになるのです。

要点は霊的理解力の絶対的必要性です。これにより、何が真の霊的命に適しており、何が適していないのかを、霊的に識別することができます。神に属するものを、人やこの世に属するもので養うことはできません。それは不適切です。神に属するものは、神に属するもの以外のなにものによっても成長できない類のものです。他の別のもので養うなら、あなたは毒を入れることになります。主に属するもの以外のなにものによっても、私たちは主の復活の命を生きることはできません。それで、エリシャはその鍋の中に粉を放り込みました。この粉は主イエス、神への穀物のささげ物、キリストに対する神の絶対的満足にほかならないのではないでしょうか?預言者たちは、神の民にとって何が真に命のある食物なのかを、常に分かっていなければなりません。主の民を養うことは、道徳的・霊的に卓越しているキリストを分け与えることによります。

最後に、六章一~七節です。「私たちがあなたと共に住んでいる所は狭くなりました」。家を広げたいという願いは、とても結構な願いかもしれません。これについて言うべきことは何もありません。預言者の子たちは斧を取って下って行き、拡張用の資材を精力的に集めました。家を広げるために一連の行程に取りかかりました。木を倒している時のことです。一人の人の斧の頭が外れて水の中に――ヨルダン川の中に――落ちてしまいました。これは不幸な出来事でした。しかし、不幸な出来事の中には常に教訓が潜んでいるものです。ここで描かれているのは力の要素です。この力は斧によって示されています。斧は力の象徴です。斧は行動の力を物語っています。しかし、この物語に出て来る人の斧は緩んでいました。彼の力、エネルギーは、量的にも質的にも不確かでした。そのため、完遂することができず、途中で壊れてしまいます。このたとえ話はきわめて明白です。それを当てはめる必要はほとんどありません。目的、意図、動機は良いものであり、目的は大いに称賛すべきものでした。しかし、人が主導権を握っており、その力は人からのものでした。神の事柄では、人の力は量的にきわめて不確かであり、遅かれ早かれ破綻します。そして、死の状況が生じます。その斧の頭はヨルダン川の底にあるからです。

少しの間とどまって、聖書の別の箇所で述べられている斧の頭について思い出すことにしましょう。事故で他人を死なせてしまった人のために備えられた逃れの町のことを覚えておられるでしょう。次のような描写があります――二人の人の事例が想定されています。この二人はある日、木を切り倒すために森に出かけました。すると、一方の人の斧の頭が外れて他の人に当たったので、その人は死んでしまいました。興味深いことに、この事例は人が事故で死ぬ有様の描写として引用されています。逃れの町は人を死なせてしまった人のために備えられました。それは、血の報復者が死んだ人の命のためにその人の命を奪うことがないためでした。しかし、思い出さなければなりません。あなたの斧の頭が緩んでいないかどうか注意する所定の責任があるのです。「あれは事故だった」と言うのは全くもって結構なことです。しかし、仕事を始める前に斧の頭がしっかりとついているかどうかを確認する責任についてはどうでしょうか?ここには道徳的原則が含まれています。

ここでは、ある人が斧を借りて仕事を始めました。しかし彼は、自分の斧の頭が完全に安全かどうかを決して注意して見ませんでした。その緩んだ斧の頭は、ヨルダン川に落ちる代わりに、他の人の頭に当たっていたかもしれません。そうなっていたら、死の問題が生じていたでしょう。原則的には同じことです。道徳的には一つのことです。その斧の頭はヨルダン川の底にあります。そして型として、死の状況が生じます。霊的に解釈すると――天然的な力で霊的な事をしようとしたせいです。

この出来事から結論を引き出す以外に、それ以上何も述べる必要はありません。斧の頭は戻り、仕事は終わりました。ただし今や、復活の命によってです。エリシャが復活の力として、すでにヨルダン川を征服している者として、ヨルダン川によって示される死に打ち勝った者として、その場に居合わせていなければ、その人の仕事は中途で終わっていたでしょう。

他の点もありますが、触れないことにします。私たちはただ、これらの出来事の核心と思われるものを取り上げているにすぎません。

こういうわけで、私たちは次の事実に導かれます。復活の命によって主に全く有用な者となるための備えは、私たちはある経験を通らなければならない、ということを意味します。その経験により、私たちの力は終わらされ、肉の強さはヨルダン川に葬られ、キリストの復活の力を見いだしたおかげで初めて前進できるようになります。

エリヤの体を探すことでは、あなたは天然的な知性を働かせました。食物を探すことでは、天然的な心を働かせました。斧の頭を失ったことでは、天然的な意志を働かせました。知性、心、意志は、すべて死を通って、キリストの復活の力の領域に達しなければなりません。

このように、預言者の子たちとのエリシャの関係は絵図に満ちています。予型論しか考えないなら、的を外すかもしれません。私たちが予型論を用いるのは、事の霊的側面に達するためにすぎません。新約聖書に行って、この原則や他の原則、別の原則を据えるのは、とても簡単です。しかし、それはたんなる発言にすぎないおそれがあります。私たちはこれまで、旧約聖書に行って、様々な原則を図解することを好んできました。それらの原則はまごうことなくはっきりと新約聖書の中にあります。例えば、霊の事柄に関する限り、十字架は天然的知性の終結を意味する、といったことです。「キリストのものである者たちは、肉とその情欲を十字架につけてしまった」ことを十字架は意味します。「私」の力はキリストと共に十字架につけられなければならないことを、十字架は意味します。しかし十字架はまた、知性、心、意志の中に、キリストの復活の力が確立されなければならないこと、そして、それは可能であることを意味します。

この預言者の子たちは、最初にこの立場を受け入れました。他方、それが彼らの中に造り込まれることは、経験を通して段階的に進みました。その各段階は、エリシャとの関係の意義、自分たちの頭であり命の統治原則である彼にまつわるものを、彼らの内に現実化するものにほかなりませんでした。

そこに私たちを導く諸々の経験を私たちは通ります。しかし、それらの経験を通る時、私たちはキリストとその復活の力を知る地点に達します。

主が私たちにその意義をさらによく教えてくださいますように。