聖書朗読:列王記下三章、四章
これらの章を黙想する時、私たちは新たな一歩を踏み出すたびに、エリシャ自身の意義を思い出さなければなりません。つまり、彼は、主の民の生活と証しの性質を示すために、復活の立場に基づいて登場したのです。これは油塗りによって、すなわち、彼の昇天した主人の霊が彼の上に臨んだことによって示されています。これが示しているのは、カルバリを通して、十字架の働きを通して、彼は復活の命の中で天と一つであり、彼の生涯に起きたことは何らかの形でこの復活の命の現れだった、ということです。こうして、彼は様々な方面で、復活の命の中で、人々や状況に触れるようになりました。そして、エリシャが触れたものは何でも、死に勝利する命の問題と関係していました。
今、私たちの前に三つのことがあります。その詳細は扱いませんが、中心的思想を取り出すことでよしとすることにします。
1.水で満たされた谷 外部の敵対的世からの圧迫のただ中にある復活の命
三章はイスラエルに対するモアブの反逆、反乱で占められています。おそらく、ダビデがモアブ人を制圧したこと、そして、毎年十万匹の羊や小羊を貢がせていたことを、あなたは思い出すでしょう。この貢ぎ物はアハブの治世の間ずっと続きました。アハブの死と共に、モアブは反逆しました。この反逆は、列王記下第一章一節のまさに冒頭に述べられています。ここで通俗史の記述が中断して、この中断中にエリヤは携え挙げられ、エリシャがその地位につきます。まさにこの時点でエリシャが登場するのは、興味深く意義深いです。
新約聖書の光の中で、霊的解釈のさらに広い背景を理解するなら、ダビデが現しているのは、すべての敵を征服する絶対的主権者である主イエスであることがわかります。ダビデは、主の民に刃向かったことがあるすべての敵の全地を巡って、彼らをすべて制圧し、普遍的勝利の上に自らの王座を確立しました。これは、十字架によってすべての霊の敵に打ち勝つキリストの型です。しかし次に、十字架の普遍的勝利が霊的に確立されてから間もなく、教会に対する敵対勢力が突如として現れたことがわかります。これはこの勝利に矛盾するように思われますが、それでも実はそうではありません。エリシャは型として教会と関係しています。彼の務めは力――その力によって教会は昇天した主に関わる勝利の命を経験します――を示してもたらすことです。この力は復活の命の力です。
ですから、エリシャが務めにつくやいなや、モアブがイスラエルに反逆するのを、私たちは見いだします。主の民の間の状況はあまりかんばしくありませんでした。霊的衰退、弱さ、矛盾のかなり多くはアハブの責任でした。彼は不忠実という遺産を残したので、当時の状況は霊的に低調でした。ユダの王であるヨシャパテとイスラエルの王がサマリヤで同盟を結んだのは聖くないことであり、逸脱と弱さの状況でした。これにより、エリシャは真価を発揮します。エリシャがこの時に登場した理由を、これは明確に示しています。つまり、その必要性がこの状況によって大いに明らかになったのです。
ですから、この箇所が主の民に与える第一の教訓は、たいていのものが霊的に低調な時代、モアブによって示される外界から厳しい圧迫がある時に、神の右におられる御方の絶対的主権に対する証しを疑問の余地がないほどに確立する方法です。キリストの普遍的主権の証しはどのように示されるのでしょう?いかなる立場に基づいてそれは地上で維持されるのでしょう?その目的のために神が用いた手段を、エリシャは彼自身の予型的人格によって、私たちに大いに明らかにします。これは、内的に弱い時代にこの世と戦う問題です。
ご覧のように、この状況はとても危険なものになります。モアブのこの計画的抵抗により、主の民には戦い抜く力がないことが明らかになります。彼らは外に出て行きますが、この状況に処する力はありません。攻撃を開始する実際の時になっても、霊的力の欠如のせいで、全く無能で麻痺しています。あてにしていた水はなく、干上がっていました。水の流れがあるはずだと思っていた所にこの人々が来てみると、流れはそこになく、力不足のため全軍が滅亡の危機に陥りました。
この問題は全く明白であり、イスラエルの王がそれを述べています。この同盟軍は滅びかけており、状況はすべて死、災い、滅びで終わろうとしています。しかし、この状況下で霊的直感を象徴するヨシャパテ――だれよりも神に触れていて、主を知っており、主との関わりを持っている人――は、主の預言者を通して主に相談してはどうかと問題提起します。「ここには主の預言者が一人もいないのですか……?」。これによりエリシャと相談することになりました。
エリシャは最初、聖くない状況に憤慨します。イスラエルの王と関わりを持つことを拒みます。イスラエルの王は聖くない状態にあったからです。エリシャはすべてをひっくり返したがっているように思われます。しかしその時、彼はヨシャパテのことを思い出して言います、「……私はユダの王であるヨシャパテのためにするのでなければ、あなたを顧み、あなたに会うことはなかったでしょう」。真に真心を込めて主の方を見る時はいつでも、主はそれを蔑んだり、それを顧みることを拒んだりされません。ですからエリシャは、ヨシャパテを顧みて、悪い状況に心の底から酷く憤慨していたにもかかわらず、状況のこの面から目を転じようとして、「楽人を連れて来なさい」と言います。エリシャは楽人によって霊感を受けようとした、とこれを誤解しないようにしましょう。そんなことはありません!彼は霊感を受けるためにいかなる魂的刺激も求めませんでした。神の啓示はそのような形では臨みません。エリシャは主の民の間の邪悪な状況のゆえに酷く激怒しており、彼の霊がそのようなものにまとわりつかれている間は、静かに主の言葉を述べるのは全く不可能でした。楽人を求めたこの要求は、自分を静まらせるため、自分の霊をこの状況から引き離すためにほかなりませんでした。ご存じのように、楽人の静める効果は、聖書の他の箇所に二回以上述べられています。エリシャはこの状況から離れ、次に、この分離によって、自分を主に向かって開き、主の言葉を受けられるようになりました。「主はこう言われます、『この谷を溝で満たせ』」。この物語の詳細をすべて考える必要はないでしょう。中心的使信に注目することにします。
ここでは、敵対する団体との戦い、主の民による主の証しを完全かつ徹底的に滅ぼすことに熱中している勢力との戦いの中にあります。この勢力は、広範にわたる霊的衰退の時代に乗じています。私たちの内には、これらの勢力やこの状況に処する何の力もありません。では、どのようにそれに処すればいいのでしょう?どのような根拠に基づいて、この証しを維持して完成に至らせればいいのでしょう?復活の力により新たな方法で主を知ること、ただこの根拠のみによります。これはとても単純な教訓ですが、新約聖書を途切れることなく貫いています。
これが使徒パウロの生涯を特徴付けているのを、何度も目にします。彼が代表している証しを消し去るために敵の勢力が台頭するのがわかります。時々、これらの勢力が優位になるかのように思われます。それで、主の僕は時々行き詰まるかのように見えます。しかしその時、何の物音も風の音も無く、雨も見えないのに、復活の力によって強められます。そして、彼によるこの証しに対して荒れ狂っていた勢力はことごとく散らされて混乱に陥ります。そして、勝利が確立され、戦勝祝賀がなされます。
ある時、これらの勢力が立ち上がって、証しの器に刃向かいました。彼らが優勢になって権力の座につくかのように見えました。その次に記されているのは、パウロが起き上がってその町の中に戻って行ったことです。そしてルステラでは、使徒の内に働く復活の力によって、永続的な一大祝賀がありました。エペソでは、別の形で同じことが起きました――この証しに敵対する勢力が立ち上がり、暴動を起こして、使徒を追い出しました。どう見ても、敵が優勢でした。それにもかかわらず、エペソ書を見ると、その中にはエペソ人の会衆を確立する偉大な物語が記されています。その地の証しはきわめて明確で積極的な形のものでした。エペソに関して、「その地で私は生きる望みを失った」と使徒は述べています。生きる望みを失うほど落ち込んだのです。エペソは、教会としては今日存在していませんが、依然として大能の力によって霊的に進んでいます。エペソ人への手紙を読むたびに、その活力に気づかずにはいられません。この手紙は過去の世紀を通して霊的に力強く存続し続けてきました。時には負けたかのように見えたエペソのための戦いから生じた素晴らしい成果が、永遠の代になって初めて分かるでしょう。この証しを確立した力は、キリストの復活の力でした。
ルステラやエペソに言えたことは、他の多くの方面や他の多くの場合にも言えました。諸々の勢力が集結するのが見えます。状況はこの証しにとってきわめて危険に見えます。しかし次に、大音を立てずに、この器の中にある主の復活の命の力が立ち上がって働きます。そして、主の戦勝祝賀がなされます。証しの器が滅びる代わりに、この命は敵対勢力を滅ぼしました。
この物語を詳しく読むと、主の民の命になったものが、敵には死となったことがわかります。今日、私たちはまさにこの立場にあります。主の完全な証しは激しい迫害を受けています。信仰告白は大いになされており、キリスト教の伝統もたくさんありますが、真の証しは聖徒たちの内側で生きている命による復活の力に対する証しです。この証しは比較的少数に限られており、この証しを消し去るために、重圧がこの証しの上にのしかかっています。必要なのは、この箇所に見られるものです――すなわち、主の復活の力により、新たに主を知ることが必要なのです。
この状況のための救済手段がたくさん提案されています。多くの会議が開催されて、主の働きはどうすればもっと良い状態になるのか、どうすればもっと勝利を得られるのか、議論されています。どうすればもっと成功を収めて、もっと効率を上げられるのか、等のことが議論されています。私たちはこうした無益な会議、議論、円卓に死ぬほどうんざりしています。この状況全体の核心に触れて、すべての問題を解くのに必要なのは、主の復活の力によって主ご自身を新たに知ること、主ご自身の復活の命を新たに経験することです。こうした霊的問題を解く他の方法、こうした霊的行き詰まりを取り除く他の方法はありません。唯一の方法は、主の命の豊かな現れです。その時、世は知るでしょう。今日、主は彼の民にこう言われるでしょう、「必要なのは、より優れた方法や手段ではなく、高く上げられたかしらのこの復活の力によって、さらに強く力づけられた命なのです」。
エリシャがこの場面に登場するのは、彼の主人が天に引き上げられるのを見て、その霊の二倍の分を受けたからです。このエリシャは永遠にきわめてはっきりと私たちに次のことを告げます。すなわち、衰退と敵意の時代における教会の力は、復活・昇天した主の力なのです。これがこの物語の核心です。しかし、覚えておきましょう。信仰を実際に行使しなければならないのです。昇天した主の力を信じる信仰の従順は、世に打ち勝つ勝利となりました。
2.やもめの油
四章一~七節の次の出来事に移ることにします。ここに出てくる婦人は、預言者の子たちの一人のやもめでした。預言者の子たちは、主の民の間における主の権益に責任があるものの、未熟で修行の段階にある人々を表しています。これがこの章を霊的に解釈する正しい背景です。
(a)責任を果たせない教会の状態
預言者の子たちの一人のこのやもめは、悲惨な貧困の状態にあることがわかります。彼女は主の民の霊的状態を表しています。その状態とは、責任を果たせない状態です。「あなたの僕である私の夫が死にました。ご存じのように、あなたの僕は主を畏れる者でありましたが、今、債主が来て、私の二人の子供を取って奴隷にしようとしているのです」。「私は債主に対面できません。私はこれらの要求に応じられる状況にありません。私の二人の息子は取られて奴隷にされようとしています」。型としてこれが意味するのは、彼女の人生の働きと成果の型である息子たちが、形式的なものにすぎない宗教界に取られようとしている、ということです。教会は自分の活動の成果をすべて失おうとしている、ということです。
(b)「教会」に対するこの世の力
これがまさに今日明らかに起きていることです。この世は「教会」を自分の目的のために用いています。今日、「教会」から利益を得ているのはこの世です。ただし、霊的な正しい意味で利益を得ているのではありません。今日、「教会」はこの世の奴隷です。教会はまさにこの世に屈しています。「教会」での演奏会、バザー、娯楽、そのような類のものはすべて、教会が自立した生活を送れていないことを示しています。もっとも、教会はこれを明らかにすることを望んでおらず、おそらくそのつもりもないでしょう。教会は生活のためにこの世に依存しています。これらのものによって、教会はこう告白しているのです、「前進しようとしても無駄です。現状を維持することはできません。やりくりできません。目に留まるのはこの世の要求、この世の力だけです」。どうしてあなたはあなたの若者たちのために、あなたの「教会」の中に娯楽のようなものを設けるのでしょう?そうしなければ、あなたの若者たちを得られないからです。若者たちを(いわゆる)教会につなぎとめるために、この世のものを持ち込まなければならないのです。こうして「教会」はこの世の奴隷となり、この世に屈します。
それで、「教会」からその真の霊的価値を奪い去るために、債主がやって来ます。「教会」は自分では責任を果たせない状況にあります。責任を果たす霊的力がないのです。
(c)わずかな油
教会には、このやもめのように、わずかな油があります。全く御霊がないわけではありませんし、絶対的かつ決定的に主を失っているわけでもありません。外部の資源から独立して立ち、生活していくことがどうしてもできない、ということです。別の言い方をすると、自分自身の中に豊かな命がなく、そのせいで自分に対する要求に直面できない、ということです。人間的努力によって拡大し、人の組織によって拡張する、一組織になってしまったのです。そのせいで、自分自身の霊的成長を上回る要求に巻き込まれてしまったのです。霊的成長の歩調が外面的発展に見合っていません。命が引き受けた仕事に見合っていないのですが、その仕事をしようとします。これがこの状況です。この婦人の声を通して、この状況の中から叫び声が上がります。「ある婦人が叫んだ……」。これは哀れな状況です。
解決策は何でしょう?同じ解決策を別の方面に適用したものにほかなりません。それは第一に、エリシャです。すなわち、またもや復活の力、主の復活の命、霊的死を絶対的に上回る十字架の御業の完全な結果です。このようにエリシャは登場して状況に触れます。ここでわかるのは、霊的要求に応じられない霊的無力さの時に必要なのは、主の復活の命により主を新たに知ることである、ということです。
復活の命は、モアブによって示されているように、敵対する外界からの圧力に対して働くこともありますし、自分に課せられた義務に応じられない主の民の内的貧しさのゆえに表されることもあります。パウロはこれらの要求を自覚しており、それらが間違っているとは言いませんでした。彼は言います、「私はギリシャ人にも未開人にも負債を負っています……」。彼はすべての人の霊的必要を満たす責任を負っていました。しかし、この世の霊的必要を満たせるのは、私たちが主の復活の命の豊かさを知る時だけです。
「あなたの家に何がありますか?」。「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。「行って、器を借りなさい……少しばかりではいけません」。刷新(何ならリバイバルでもかまいません)のためのどの行動においても、主の復活の力によって主を再び知るにあたっては、信仰が試されることがわかります。「この谷を溝で満たしなさい」。この人々を見てください。雨が降る気配は全くなく、一体どこから水がやって来るのか見当もつきません。それでも従順に溝を掘って、谷を溝で満たしました。彼らのなすべきことは、信仰によって従順になることでした。あとのことは忠実な神に任せなければなりませんでした。「行って、器を借りなさい……」。天然の人ならこのような指図に対して疑問をもって応じたでしょう、「しかし、この器のためにどこから油がやって来るのですか?どうしてそんなことがありえるのかわかりません!」。天然的姿勢は常にこうです。働く前に、感覚への訴えかけを真っ先に願います。神の原則は信仰の従順です。「行って、あまねくすべての隣人たちから器を借りなさい……」。「しかし、隣人たちは何と言うでしょう?私を笑いものにするでしょう!」。それにもかかわらず、信仰による従順はしばしば私たちを、この世にはとても滑稽に見える状況の中に巻き込みます。このような従順により、アブラハムはとても滑稽に見える状況に巻き込まれました。「さて、主はアブラムに言われた、『あなたの祖国、あなたの親族から離れて、わたしがあなたに示す土地に行きなさい』」。「……それで彼は行き先を知らずに出て行った」。行き先を尋ねるすべての問いに、彼は「わかりません」と答えなければならなかったでしょう。これはこの世にとってなんと滑稽に見えることでしょう!しかし、まさにそこで信仰が真価を発揮します。他の人々がどう思おうと気にせずに、神に信頼して進む用意をするときに、信仰が真価を発揮するのです。
どうすればこれらの要求に応じられるのでしょう?その手段は主の復活の命です。まず第一に、主の御言葉に基づいて信仰によって踏み出すことが必要です。次に、あなたが持っている主からのわずかなものを働かせることが必要です。わずかでもあなたは主を知っているでしょうか?一びんの油を持っているでしょうか?信仰によってそれを働かせなさい!主の民のとても多くの人たちは、全く動いていないのに、主についてさらにもっと知ることを願っています。彼らには主を知る知識が少ししかありません。私たちが持っているものを完全に発達させないかぎり、決して増し加わりはない、というのが主の原則です。あなたには主を知る知識が少しばかりあるでしょうか?それなら、それを最大限に発達させて、それと連携して信仰によって行動しなさい。そうするなら、この方法で増し加わりがあることがわかるでしょう。あなたの命の度量は今はごく限られているかもしれませんが、神にあるこの命は豊かな命であることを信じてください。期待する根拠は、私たちが持っている分量ではなく、私たちがすでに持っているものをそこから受けた源です。その豊かさ――その中から私たちはおそらくごくわずかしか受けていないかもしれませんが――を私たちは確信しなければなりません。
この女が一びんの油にしか注意を払わず、「自分の希望や期待はこれに尽きます」と言っていたら、何も起きなかったでしょう。しかし、彼女はこの器を無限の豊かさとの関連で見なければなりませんでした。もし自分のわずかばかりのものがすべてだと思うなら、あなたはあまり大して進めないでしょう。しかし、もし自分のわずかなものを神のすべてと関連づけるなら、あなたは前進できます。大事なのは神の豊かさであって、神の豊かさの中から私たちが経験した分量ではありません。神の豊かさは、私たちの現在の経験を上回る事実です。しかし、この事実に関して、私たちは信仰によって行動しなければなりません。
この女に課せられた信仰の要求は、器を持って来ることでした。御言葉の務めを果たしている人たちは、私たちが何を言っているのかよくわかっています。例えば、自分が空っぽだからといって、主の民を集めるのをやめたりしません。空しさ、弱さ、能力の少なさを意識しつつ、進み続けます。そして、信仰によって前進する時、主が必要に応じてくださることを見いだします。時折、自分の感覚に従って行動していたなら、「今日は集会をやめにしましょう。与えるものが何もありません」と言っていたでしょう。しかし、主は私たちの力であり、私たちが進み続ける時、主はやって来てこの空しさを満たしてくださいます。これは主の僕たちがそれに基づいて働くための健全な原理です。もし私たちが主の証しの道の中にあるなら、何かの折りに自分にはごくわずかなものしかないと感じたとしても、「主はすべての必要を満たしてくださる」と信頼することができます。「主は必要を満たすことができ、どこで必要が生じても満たすことができる」と私たちは信じるでしょうか?主の御前に持って行くなら、満たされない必要はこの世に一つもありません。これについて少しでも疑いがあるなら、そこで証しは止まってしまいます。「この状況を主は解決できる」と信じるのを止めるとき、あなたの証しは役に立たなくなります。主の復活の力を否定してしまいます。主イエスの復活の命の力は無限です。主が必要に応じられない状況や生活は一つもありません。
この女の場合、ひたすら同じことをし続けました。彼女が制限を設けたのであって、主ではありません。彼女が器を探すのをやめた時、油はやみました。制限は主の側にはありません。
証しはこれらの線によります。適用の仕方は様々です。これがどのように私たちや私たちの状況に触れるのか、あなたや私は知るようになるでしょう。時々、これが自分のいる立場に当てはまることがわかるでしょう。適用のすべての領域を網羅するのは、私たちにはとても無理でしょう。しかし、ここである事実が表明されます。この要求に応じるのは主の復活の力です。私たちが持っているものではなく、主が持っておられるものです。私たちがすでに受けているものの分量ではなく、依然として受けられるものの分量です。私たちに対する主の御旨は豊かさです。しかし、私たちはそれを一度に全部得るわけではありません。主の豊かさは漸進的に私たちに臨みます。私たちは豊かさを自覚しながら常に生きているわけではありません。「必要が生じるたびに、何度も何度も満たしてもらえる」と自覚しながら絶えず生きることができるのです。
3.シュネム人の息子
四章の後半、八節から三七節に向かうことにしましょう。これをできるだけ明確な思想に凝縮したいと思います。ここにはいくらか意義深い変化があります。
預言者の子たちの妻の事例では、明らかに貧困、空しさ、欠乏に瀕している女性がいますが、油が彼女の空しさを豊かさに変えます。このシュネムの女の場合、全く別の状況に遭遇することがわかります。彼女は「偉大な女性」と呼ばれています。これが意味するのは、現世の事柄に関するかぎり、彼女は供給を豊かに受けており、安楽、豊かさ、豊富の中にあって地位もあった、ということです。もう一方の女性とは正反対です。ザレパテのやもめの場合、この女性のもとにエリヤは行って、何か食べる物をくれるよう説得しようとしました。それとは違って、この女性の場合、食べるよう預言者を説得しなければなりません。全く正反対です。彼女はあらゆる面で富んでいますが、一つのものに欠けています。預言者はこの女性を見つめます。その家、食卓、僕たち、持ち物をざっと見ますが、その家に不足しているものは何もないのを見ます。彼にとって、彼女をさらに豊かにするのは大きな難問です。必要なものは明らかではなく、熟慮が必要です。このような女性に何をしてあげられるでしょうか?ゲハジが急所を突いて、「彼女には子供がいません……」と言います。さらなる深みに触れたのです。これは一つのことにすぎませんがすべてであり、他の何ものよりも本当に価値があります。この一つのことは、こうした外面的な何ものよりも価値があります。この事実を息子に関する預言者の言葉は明らかにします。女は「はしためを欺かないでください」と応えました。あたかもこう言っているかのようです、「一生の願いが一つあるのですが、それは不可能です。そんなことはありえないと、きっぱりと決着をつけなければなりません。私は自分なりに戦ってきたのです。無理だと諦めてきました。今や扉は閉ざされています。この問題を再燃させるような状況に私を引き込もうとしないでください。そんなことをすれば、私はこの戦いをやり直さなければなりません。そんなことを言わないでください。そんなことは決して起きるはずがありません。どれほど持ち物があっても、これに欠けているせいで私にとっては無に等しい状況に、私を舞い戻らせないでください!」。それにもかかわらず、預言者の言葉は成就します。そしてその時から、すべてがこの息子に向けられました。その後、「……ある日、その子は刈入れ人たちの所に出て行って、父のもとへ行ったが、父に向かって『頭が、頭が』と言ったので、父は僕に『彼を母のもとに運びなさい』と言った。彼を運んで母のもとに行くと、昼まで母のひざの上に座っていたが、ついに死んだ」。母はその子を取って預言者の寝台の上に置き、預言者のもとに出かけて行きました。あとの話はご存じでしょう。
最も必要なもの:豊かな復活の命
人生における中心的現実、最高の要素とは何でしょう?他のものはたくさんあるかもしれません。主はアジアの諸教会の一つに向かって、「あなたは『自分は富んでいる、豊かになった、何の不足もない』と言っているが、実は、みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを知らない!」と言われましたが、そのような状況があるかもしれません。あるものに欠けているせいで、あなたが持っている他のものはすべて無に等しくなってしまいます。あなたはこれをすべて持っているかもしれませんが、一つのものに欠けているせいで、これらすべてに囲まれていても心の中は実は空っぽなことが明らかになります。何よりも重要なこのものとは、あなた自身の内側でキリストの復活の力を知ることです。良い物を外面的にはたくさん持っているかもしれませんし、宗教的に持っていさえするかもしれませんが、主が最も大切なものとして指摘しておられること、主のすべての子供の生涯で最も重要なことは、持ち物の豊かさではなく、キリストとその復活の力を知ることです。
ピリピ人への手紙第三章を見てください。そこでパウロは価値のあるもの、人々が尊んで持つ価値があると見なすものを挙げていますが、それらをすべて踏み越えて行きます。そして、それらすべてを要約して言います、「結局のところ、それらが人の目にいかに偉大に映ったとしても、私はそれらを塵芥と見なします。私はあらゆることで損失を被っていますが、それは私がキリストとその復活の力を知るためです」。この女はこれを徹底的に知るようになりました。息子が与えられましたが、これは全くもって驚異でした!しかし、それでも依然として、「その理由は天然的に説明がつくものであり、子が与えられたことは天然的な理由で何とか説明がつくのではないか」という考えが残っていたかもしれません。心理学はこれまで、神が目的をもってなさる神だけが行える働きの領域全体を、攻撃する傾向がありました。しかし神は、これが全く自然の領域の外側にあったことを示されます。ですから、息子は死んで、生き返らされます。そして、天然が関与しているのでは、という疑問はすべて封じられます。死者からの復活という問題になると、天然的なもののための余地は全くありません。これが究極的証しです。これを説明できるのは「神」をおいて他に何もありません!復活とは神を知ることです。心理学はクリスチャン経験の多くを説明しようとします。そして、私たちの中には、宗教的経験の心理学的説明のせいでとても痛々しい経験をした人もいます。しかし、主は私たちをその領域の外に置いてくださいます。それは、心理学が決して説明しえないもの、「キリストとその復活の力」を私たちに知らせることによってです。心理学は死者をよみがえらせることはできません。キリストの復活の力という理由以外では説明がつかないような形で主を知ることには、隠れた内的な経緯があるのです。
証しはここにきわまります。これは、イエスは死者の中からよみがえらされた、という証しです。これは証しの基礎にすぎないかもしれませんが、たんなる信条や教理ではなく、復活の主を内的に知る知識です。原則として、すべての疑問が払拭されるまで、これがこの女のまさに存在中に造り込まれなければなりませんでした。その全き御旨は何だったのでしょう?子たる身分です。ローマ人への手紙の八章とガラテヤ人への手紙を読んで、子たる身分が何なのか、その完全な意味を見てください。子供が生まれた時、それは私たちが再生によって神の子供となることについて新約聖書が述べていることを示すものでした。子供がよみがえらされた時、それは復活による子たる身分について新約聖書が述べていることを示すものでした。新約聖書が二つの異なるギリシャ語で教えているように、私たちは新生によって神の子供(children)になりますが、子たる身分(sonship)は幼年期の先にあるものです。子たる身分は、子供が復活の力によって円熟にもたらされたものです。ご存じのように「採用(adoption)」という言葉が使われています。しかし、新約聖書が言う採用とは、外部の者を家族に迎え入れることでは全くありません。これが意味するのは、成年に達した自分の子供を、誉れと責任ある地位に採用することにほかなりません。ギリシャ人の父親は、自分の息子が成年に達した時、その息子を採用しました。それが、彼が子供(child)ではなくなって子(son)になった瞬間でした。これが新約聖書の教えです。
ここに子供を得た女性がいます。これは素晴らしいです。私たちが再生される時、それは奇跡であり、輝かしいことです。しかし、主が私たちに諸々の経験を通らせて、私たちがキリストをその復活の力によりまさに自分の存在において知るようにされる時――これは私たちの外側でなされることではなく、私たちの内側になされたことです――私たちがどん底を通らされて、ついに私たちのまさに内側でキリストとその復活の力を知るようになる時、それこそが証しです。満ち満ちた証しと関係しているのは、霊的赤子ではなく、霊的円熟です。この女は偉大でしたが、それでも「しかし」がありました!私たちは多くのものを持っているかもしれませんし、私たちのクリスチャン生活や働きにおいても多くのものを持っているかもしれませんが、それでもこの「しかし」が残っているかもしれません。外面的なもの、表面的なものがたくさんあるかもしれません。肝心なのは、これが私たちの内なる存在の深みに降りてくることです。それは、私たちが自分の存在のまさに本質において、復活であり命であるキリストを知るようになるためです。
この立場に到達するとき初めて、主の民は主の全き証しの器に成ることができます。これが、主がいま子供である私たちにどん底の経験を通らせる理由です。それは私たちがキリストを知ることを学べるようになるためです。
どの方面でもこの原則は同じままです。周囲にいる敵勢との戦い、私たちに責任がある集会の奉仕、生活、主の全き御旨に至ること、そのどれについてもこの原則は同じままです。この一つの支配的原則とは「キリストとその復活の力」であり、主の復活の命を知ることです。