第五章 ナアマンの癒し

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:列王記下第五章

厳密に言うと、この出来事は罪人の救いの範疇に入りますが、他方、さらに広い範疇にさらに豊かに適用できる諸々の一般的原則も含んでいます。ですから、この出来事は主ご自身の民が真剣に考慮すべき問題になります。

ここで、エリシャが型として表象している立場を思い出すことにしましょう。私たちが携わっているのは、エリシャの生涯の学びや、聖書の中の一冊の書物の学びではありません。キリストの復活の力によって主を知ることを求めているのです。復活の命の力と豊かさこそ、エリシャの生涯と務めに意味を与えるものです。

天然の人

ナアマンは外面的にも内面的にも天然の人を表しています。

ナアマンは主人の前に偉大な人、誉れある人、評判の良い人、地位のある人、能力のある人と述べられており、彼自身の領域で成功を収めていた人であると述べられています。しかしそれでも、彼のあらゆる偉大さ、名声、地位、能力、成功にもかかわらず、死が彼の中に働いています。他のすべてに敵対する一つのものがあり、それがその上に影を落とし、それをみな死の領域にもたらします。死が活動しており、死が働いています。死が状況を支配しています。ですから、他のものはみな空しさの支配下にあります。つまり、すべては束の間であり、せいぜい一時の間ながらえるにすぎません。何かが起きないかぎり、それはすべて過ぎ去ります。示されているのはこの人、天然による人です。

次に、彼は神聖な事柄の領域の中にもたらされます。この問題の主導権は彼から離れて、彼の外側にあります。最初に行動すべき者は彼ではありません。彼の妻の小さなはしためが、彼と命の源とを結ぶ道具となります。時として、ごく小さなものが、神の御手にかかると、そのような結びつきをもたらす道具となります。人間的に言って無価値なものがしばしば用いられます。この物語で注目すべき点は、主の方法や手段が、ナアマンが自分にふさわしいと考えるものとは、全く異なる性格のものだったことです。恵みはしばしば、ほとんど思いもよらぬ手段や、評価されている気配が全くない事柄を通して、私たちの益のために働きます。

この単純で、言わば取るに足りない道具を通して(結局は大いに価値ある道具になったわけですが)、ナアマンは命の務めの圏内にもたらされます。これは偶然の出来事のように見えました。この出来事は手筈の整っていない、偶然の産物のようでした。この小さなはしためは女主人に言いました、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はそのらい病を癒したことでしょう」。それは同情の叫びにすぎませんでした――「あなたがこれこれという主が用いられる手段と接触できればよかったのに!」。しかし、暗示やたんなる示唆の中に、途方もない結果を内包する神聖なエネルギーの働きがあるものなのです。

人々は大きな運動を組織して、これこれの運動に参加すべき理由について、人々に大きな圧力をかけます。とても多くの場合、主はご自身の偉大な目的をもっとずっと単純な方法で遂行されます。その方法は時として、たんなる偶然の突発的なものに見えます。主が主要な目的を果たされる方法には、素晴らしい単純さと静けさがあります。ひょこっと生じるのです。示唆、暗示、ほのめかしにすぎないのですが、究極的な神の御旨に向かう方向にあるのです。

これは決して仕組まれたものでも、事前に考案されたものでも、精妙に案配されたものでもありません。とても単純な方法で、ひょっこり生じたのです。これは考慮すべきことです。それは、主の方法のあまりの単純さのゆえに、それが無警戒な状態のときに私たちにふりかからないようにするためです。私たちは天からの声や、私たちを神の全き御旨に至らせる神の派手な方法を期待していましたが、そのせいで神の御旨の方向を指し示していたこれらの単純な動きを見落としているのです。このはしためのとても単純な気持ちの表れに、なんと多くのことがかかっていたことでしょう!

このことからナアマンは最終的にこの道具、命の器――この命は豊かな命であり、彼の内に働いている死に勝利する命です――と直接接触するようになります。しかしその時、彼の真の困難が始まります。彼が命そのものと接触するようにならないかぎり、この人の真の状態は明らかになりません。彼は自分がらい病であることを知っています。すなわち、所有するいっさいのものにもかかわらず重大な欠け目があること、この欠け目が直らないかぎり、人生は彼にとって結局のところ幻滅であり、決して満足を与えられないものであることを知っています。すべてが影で覆われています。この一つの欠け目のせいです。しかしながら現実には、この人の状態全体の真の性格は、彼を解放する手段と直接接触するようにならないかぎり明らかになりません。その時、別の種類の過程が始まりますが、これは最善の状態にあったとしても天然の人がいかなる性質のものなのかを如実に私たちに示します。

これをみな一つの包括的文章にまとめると、彼の困難は十字架の全き意義を受け入れることだった、と言えます。自分が深刻な必要を抱えている事実を彼は受け入れることができます。自分の必要はある行程で全く満たされるという事実を受け入れることができます。そして、自分の必要を満たしてもらうために、その道を進む覚悟もあります。しかしその時、この道が意味する完全な意義に出くわします。そしてその時、その意義を完全には受け入れられないことに気づきます。彼は天然の人なので、自分自身の資質を多少は認めてくれるよう求めます。自分自身の人となりを考慮してもらう必要があります。彼は評判の良い人であり、尊敬を受けています。したがって、彼の立場にふさわしい相当立派な方法で扱ってもらわなければなりません。こういうわけで、彼にとって、また彼の立場から見てきわめてみすぼらしい方法を採用してその道を進むよう提案された時、彼は自分がパウロの言う「十字架のつまずき」に直面していることに気づきます。「ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。私はこれらの川で身を洗って清まることができないのであろうか?」。私のような者には立派な方法、もっとふさわしい方法があるのだ!これが彼の問題の根幹です。

これは多くの方法で適用できます。様々な人が別の線でこの同じ行き詰まりに直面します。知的行き詰まりに直面する人もいます。彼らは知的救いを受けることに固執します。すべてを自分の知性で了解できないかぎり、それは彼らにとって考慮に値しないもの、自分にふさわしくないものです。他の人々は自分たちにふさわしい他の器や他の手段によって救いを受けることに固執します。しかし、それがどうであれ、神には十字架によって示されているご自身の立場があります。神が髪の毛一筋ほどでもこれから逸れることは決してありません。神の立場は徹底的自己放棄です。これが十字架です!ヨルダン川に行くことは、名声、地位、栄誉、天然の人の領域にあるそのようなものをすべて全く放棄することを意味します。そうしないかぎり、ヨルダン川には決して辿り着けません。ナアマンは他の群衆が戦いに直面したように、この全く同じ立場に関して戦いに直面したかもしれません。しかしついには、自分を全く無価値な者と見なして、自分のことを全く顧慮しなくなる境地に達しました。ヨルダン川の水は人に対する神の裁きを依然として象徴しています。そうである以上、それは人をとても低い所に置いて、名声も栄誉もない者にまで低くします。天然の人が空っぽにされて、自分のことを神の前に何の価値もない者と見なすようにならないかぎり、決して突き抜けて主の豊かな命には至れません。

これらは単純な真理ですが、未信者にあてはまるのと同じように信者にもあてはまります。長年の間、十字架の全き意義は主の民の前に明確に保たれてきませんでした。不幸なことに、福音の宣べ伝えの大部分は人の満足、人の益と祝福しか強調してきませんでした。その結果、後になって、数年後、主は天然の人を排除するものとしての十字架の事実を明らかにしなければなりません。その結果、私たちはクリスチャンを聖別するために大会や特別集会を開かなければなりません。しかし、聖別とは実は全き明け渡しの問題です。しかし、これはなんと明らかな間違いであることか。これはみなまさに最初のうちに何も保留せずになすべきことだったのです。十字架の全き意義がまさに最初から示されていれば、信者は最初から大会生活の水準に基づいて生きていたでしょう。私たちはみな、この間違いのとばっちりを受けて苦しんでいます。私たちの大部分、私たちの多くは、大いなる弱さと効率の悪さの中でもがきつつ年月を費やしてきました。私たちに関する十字架の全き意義を最初から全く見ていなかったためです。私たちはカルバリが罪人のための救いであることは見ましたが、カルバリはその人自身を排除したことをはっきりと見ていなかったのです。これを見る時はじめて、私たちは豊かな命に到達します。私たちは自分の天然の命からとても多くのものを新創造の立場の上に持ち込んでしまいました。そして、それを用いようとして、それが絶えざる重荷であり障害であること、それに対して、すべては神からでなければならないことを十字架は意味することに気づきました。この「すべて」は包括的・決定的な「すべて」です。

ナアマンに対して十字架の全き意義が示されました。彼の肉は少しも顧慮されませんでした。彼の肉のための備えは何もなされませんでした。彼は華やかに従者を引き連れてエリシャの庵に来て、人を遣わして自分の到着を知らせました。しかし、預言者は椅子から立ち上がってどんなに素晴らしい人なのかを見ようともしませんでした。彼はただ自分の作業を続けて、「ヨルダン川へ行って七回身を洗いなさい」と言いました。この誉れ高い人は自分を無視されたことに傷つき、憤慨して立ち去って、「見よ、私は、彼がきっと私のもとに出て来て立ち、その神である主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病を治すと思っていた」と言いました。エリシャの態度は、「断じてそんなことはしません。私は肉に敬意を払いません!」というものでした。神は天然の人を少しも顧慮されません。

これは、とても多くの主の僕が学ぶべき痛ましい学課です。主はその人が何者かを少しも顧慮されません。その人が救われているかすらもです。そのような人に神は目をとめません。預言者はナアマンを見るために目を上げることすらしませんでした。これが神の姿勢です。神は天然の人をご覧になりません。ただ無視して排除します。カルバリはこれを示します。

これが命の道、豊かさの道です。これらの段階を通る時、これらの原則を適用される時、全く正反対のように思われます。この方面には全く何の命もないように思われます。希望はほとんどないように思われます。全くそのとおりです!その方面には天然の人である自分に益となるものは何もないと、天然の人は当然のように思うかもしれません。神がご自身の道を行かれる時、私たちの肉は救いから何も得ません。私たちの天然の命は決して満足しません。十字架を負って自分自身を否むことは、それが霊的に遂行される時、とても過激な性格を帯びます。それは自己否定なのです!

これが十字架の意義であり、このような示しによりナアマンの真の心の状態が明らかになります。これは死の何たるかを私たちに示します。死の働きとは、結局のところ、天然の命の働きです。人々にはそれは偉大なもののように見えるかもしれません。それには人が素晴らしいと言うものがあるかもしれません。それはこの世で大きな成功を博しているかもしれません。しかし神の御前で、そうしたものをすべて無に帰して、考慮に値しないものにする何かがそこにあります。霊的死が支配しているのです。ナアマンは、復活の命、死に打ち勝つ命の問題に本当に真剣なのかどうかに関して、徹底的な試練の中を通されました。「ヨルダン川へ行って七回身を洗いなさい」。「七」は霊的完全さを意味します。ナアマンは霊的完全さの地点に引き出されました。

ナアマンは二度目、三度目、四度目の後、途中でやめてしまった、とはこの物語はいっさい告げていません。これは、今や彼がこの問題に断固として向き合った上で、これを本当にすべてやり抜こうとしていたことを意味します。彼の僕たちが彼を説得して、彼はその説得に耳を傾けました。そしてこの問題に向き合って、事実上こう言いました、「わかりました、もしこれが道なら、私は何も保留せずにこの道を行きます。代替案は、この生ける屍のような状態で、もと来た祖国に帰ることです。私にその覚悟はあるでしょうか?それとも、私は何も保留せずこの問題に全力で取り組む覚悟があるでしょうか?」。問題の重大さのゆえに、彼はこの道を進み抜くことに決めました。もし完全な献身に少しでも欠けていたなら、彼はヨルダン川に二回身を浸してやめてしまい、「それ、見たことか!何も起きなかった!思ったとおりだ!」と言っていたかもしれません。その代わりに、ナアマンが忍耐したことがわかります。さあ、三回目ですが、何も起きません!四回目も何も起きません。五回目も何も起きません!六回目も何も起きません!しかし、彼は七回目に達しました。彼の信仰はこの問題に関してまさに最後まで試されました。

これが自分自身の経験で何を意味するのか、私たちは知っています。神は私たちの前にある問題を置かれます。この問題は死に勝利する命という事にほかなりません。これは救われていない人にあてはまるだけでなく、聖徒にもあてはまります。この命の完全な現れを使徒パウロに見ることができます。彼は前進してある地点に達していたにもかかわらず言いました、「私はすでに獲得したわけでも完全にされたわけでもありません(中略)ただこの一事を努めています。すなわち、後にあるものを忘れて(中略)前に向かって進み、キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのです」。「何とかして死者からの復活(ギリシャ語では格別な復活)に達するためです」。この復活は賞与の復活であり、一般的な復活ではありません。一般的なものではなく特別なキリストの復活の力の現れです。ですから、死に勝利する命の全き意義という問題は使徒パウロのようなタイプの聖徒に関係するものであり、クリスチャンの生活と経験に長く関わってくるものであることがわかります。しかし、私たちの救いにおけるキリストの復活の最初の現れと、死者からの格別な復活におけるその完全な究極的現れとの間には、継続的転機、この命の漸進的成長があります。さらなる豊かさに至るどの新たな段階も、まさにこの性格を帯びた転機によって特徴付けられています。すなわち、さらにどれだけ多くの自己を後に残す覚悟があるのか、ということです。ある時は私たち自身の個人的意志が主の御旨に逆らっているかもしれませんし、あるいは、罪の一種があってそれをやめる覚悟がないかもしれません。他方、それは積極的自己中心性の領域にはなく、むしろ素晴らしい性格を帯びているかもしれません。そうしたものに私たちは、物・地位・関係を手放して主と共に新たな領域に進み入る覚悟を決める問題で、出くわすかもしれません。その新たな領域は代価を要するものであり、新たな方法で自分自身の感性、感情、考えを脇にやることを意味します。それはさらに豊かなキリストの復活の力に至るためです。進み続ける時、私たちは絶えずこうした問題に直面することになります。私たちにとって、キリストの復活の力は、私たちの信仰を拡張して前よりも進んだ点に至らせることと関係しています。これは事実を述べたものです。主と共に進み続けるなら、これが真実であることがわかるでしょう。そして、いま私たちの前にあるものの価値がわかるようになるでしょう。その時、問題や危機に直面しても私たちはこう言えるでしょう、「これこそまさにそれです。目下の問題は、このさらなる一歩を踏み出す覚悟があるのか、ということです。これによっておそらく私はさらなる困難に巻き込まれるでしょう。これは自分自身の個人的考えを新たに脇にやることを意味します」。こういうわけで、それはかつてない信仰の一歩です。しかし、それは命の道であり、増し加わりの道です。ナアマンは神と共にその道を進み通し、神も彼と共にその道を進み通されました。第七段階にまで至ったのです。

七回目の後、ナアマンは再び健康になりました。らい病が治っただけでなく、彼の肉体は幼子の肉体のようになりました。これは死の活発な働きが除かれたことだけでなく、彼が全く新しい領域に入ったことでもあります。幼子の肉体は全き新しさ、新しい命、新しい領域を物語っています。彼にとってそれは――予型として述べると――赤ん坊として人生を全くやりなおすようなものでした。すべてが彼の前にありました。新しい世界が彼の前に広がっていました。

これが、肉なる者が復活の命の中に進み入る時に経験する霊的効験です。キリストの命の新鮮な経験に触れられる度に、私たちは世界が新しくなったことを感じます。新たな可能性が拓けます。過去の制約は、復活の命のこの度量という立場に基づいて私たちに臨んだこの新たな可能性によって無に等しくなります。あと残っているのは、特定の方面でこの命の新しさを表すことだけです。

自分の霊的益のために用いられた僕に対する新たな態度

癒される前、ナアマンはエリシャに激怒しました。怒って立ち去ろうとしました。しかし今、エリシャのもとに来ます。今や名声の問題はなく、今や自尊心の問題もありません。彼は直ちに真っ直ぐエリシャの庵に向かいました。祝福の器との交わりを求めました。もはやこれを恥ずかしいとは思いませんでした。

交わりは命の中で確立されるというこの原則は広く適用することができます。命の分かち合いが交わりの基礎だからです。命を一度でも真に分かち合うなら、交わりの基礎が築かれ、分裂させる要素はすべて除き去られるからです。

ナアマンはエホバを礼拝した

彼はエホバを礼拝して言いました、「私は今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました」。これは事実を述べたものであるだけでなく、試金石でもあります。主の復活の命を知る純粋な知識は、主をあがめること、主を礼拝すること、主ご自身への献身となって表れます。教えを受け入れただけなら、あまり遠くまで進めません。ある運動と関わりを持つだけなら、私たちはこの域に達しません。しかし、主の復活の力を個人的に知るとき、私たちの生活は主ご自身に対する深い敬虔な献身という印を帯びるようになります。それこそが証しです。証しは私たちが話すべき事柄ではありません。私たちの教え、私たちの体系、私たちの運動ではありません。地上の専門的な何かを代表するような私たちの交わりですらありません。証しとは私たちの主です!自分たちが受け入れた教えや、特定の場所で特定の人々が代表している教えについて話しているのを、決して見られないにしましょう。次のことに気をつけましょう。私たちにとって、これは主の問題なのです。そして、この教えがもし私たちを主にもたらさないなら、どこかが間違っているのです。おそらく、教えではなく私たちの理解が間違っているのでしょう。礼拝が、キリストの復活の力を知る人々の支配的特徴にならなければなりません。

自分の持ち物を主にささげる

注目すべき第三の点は、ナアマンは自分の持ち物を主の奉仕に使ってもらうことを望んで、贈り物をささげたということです。これが常に真の命の特徴でした。ペンテコステの時もそうでした。主が内側で御業をなして、ご自身の新たな豊かさをもたらされる時、私たちは自分の富をすべて主に使ってもらうことを望むようになります。とにかく、これがナアマンの気持ちでした。

ここで、もう一つ考えるべきことがあります。このように贈り物を差し出されましたが、エリシャはそれを断りました。ある危険性を察知したからです。エリシャはシュネム人の手から物質的な好意を受けることに何の困難も覚えませんでしたが、ナアマンの手から何かを受けることは徹底的に拒みました。この二人の人は霊的に全く別の立場に立っていました。この特定の方面でエリシャがはっきりと見抜いた危険性とは、「結局のところ、この問題に自分はいくらか寄与したのであり、代価を払ったのである」とナアマンが感じながら立ち去ることがあってはならないということでした。支援的行為であることを少しでもほのめかすようないかなる贈り物や財物も、主は用いることを望まれません。肉の応答や天然の応答のための余地、その領域にある何かを満足させるための余地を、主は全く残されません。それでエリシャは、この時なおも、自分のしたことで自己満足することを好む天然の命が少しでも潜り込む可能性を察知して、それに対する扉を閉ざし、その可能性をいっさい許さなかったのです。彼はナアマンを祝福と共に送り返しましたが、個人的贈り物は受け取りませんでした。

この時、ゲハジの悲劇が起きます。ゲハジは事の顛末を見て、ナアマンが帰路につこうとした時、その後を追って、自分の主人であるエリシャからのような長い物語をでっちあげ、贈り物を求めてそれを得ました。それがナアマンにどんな悪影響を及ぼしたのかはわかりません。しかし、それによってゲハジの上に恐るべき裁きが下ったことは知っています。「それゆえ、ナアマンのらい病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。

この解き明かしは何でしょう?主イエスご自身がルカによる福音書四章二七~二九節でこれに対する洞察を私たちに与えてくださっているように思われます。

「『また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちの一人もきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた』。会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し……。」

ゲハジはエリシャと親しく接してきました。その働きを見、その言葉を聞いてきました。エリシャが代表していたものを、ゲハジはすべて利用できました。しかしゲハジは、それをみな知っていてそれと関わってきたにもかかわらず、たんなる形式的立場にとどまって、決定的立場には決して立ちませんでした。さて、主がユダヤ人に何を言っておられるのかがわかります。多くの言葉を費やしてそう言う代わりに、主はゲハジの状況を当時のユダヤ人にあてはめたのです。「あなたたちは聞いてきました。命の器と親密に関わってきました。その働きを見てきました。それに身近に接してきた観点から、それについてすべて知っています。しかし、表面上神を代表するにすぎないたんなる形式的立場にとどまって、決して生ける立場に至りませんでした。あなたたちへの裁きはらい病、死です!」。これがイスラエルに起きたことです。

ゲハジは形式的立場に立ちました。シュネム人の息子が死んで、彼女が息子をエリシャのベッドの上に横たえ、彼に会いに行った時、彼が形式的な方法で行動したことがわかります。預言者はゲハジに言いました、「……私の杖を手に持って行きなさい。(中略)そして、私の杖を子供の顔の上に置きなさい」。すると、ゲハジが形式的なもったいぶった仕草で杖を取ったことがわかります。偉大な預言者の代表者として出かけて行き、杖を息子の上に置いて、何らかの結果が生じるのを期待しましたが、何も起きませんでした。おそらく、杖をあちこち振り回そうとして、何らかの反応を得ようとしたのでしょう。しかし、形式にすぎないものに死は決して屈しません。死はただ命にのみ屈します。勝利の命の化身である人自身がその体の上に身を伸ばす時、死は命に呑み込まれます。しかし、形式的なものにはこれは不可能です。

ユダヤ人の指導者たちは全く無能でした。神の代表者と思われていたにもかかわらずです。命と密接に関わっていましたが、それでも死んでいました。キリストによって代表される立場に至らず、ゲハジのように自己を追求していました(まさにこの自己追求のせいで偏見を抱いたのです)。そのため、裁きが彼らの上に下り、彼らは滅びました。何世代もの間、それ以来彼らはこの裁きの下にあり、今日もそうです。らい病と死がこの時代のあいだ彼らにとりついています。

これがこの出来事の教訓です。この証しととても親しく接すること、物事に触れることは可能です――耳で聞き、目で見、知識を得て、形式的なものと関わるのは可能です――しかしそれでも、この復活の立場の上に生き生きと決して立っていないかもしれないのです。そのような立場にあるのは恐ろしい悲劇です。しかし、そのような人が大勢います。その方言を話し、その表現を用い、その用語を再現することはできるのですが、命を持っていないのです。それと関わりを持つ特権を持っていても、それでも合一の命の中にいないおそれがあるのです。

この物語の結末に来る時、この警告の言葉を省くことはできません。この警告の響きに打たれて、この警告を考慮するよう強いられます。それでも、主が私たちを召しておられるさらに高い立場に再び言及して終わることにしましょう。主は私たちをキリストの復活の力によって絶えず増し加わる主ご自身を知る知識に召しておられます。神聖な命のこの増し加わりは、私たち自身の利益、私たち自身の考えを放棄する道によります。死によらずして命なし。損失なくして獲得なし、です。

どうか主がこのメッセージを、各自の必要に応じて、私たちの心の中に語り込んでくださいますように。