第六章 天の御座

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:列王記下六・八~二三

エリシャの生涯のこの区分に達する時、私たちは復活の力の究極的特徴に触れます。それは天の御座と関係しています。列王記下第六章と第七章に示されているのは、エリシャが天の御座に関して持っていたこの秘密の奥義的な接触です。あなたはここで、どちらかというと偶発的性格を帯びたものから離れて、状況の背後にあるものに至ります。エリシャと天の神の御座との間に秘密の隠れた交流があったことがわかります。シリヤの王の計画と狙いが暴露されます。エリシャは人によらず、いかなる人間的観察にもよらず、秘密の情報を得ます。何が起きているのか、自分自身の内で知ります。彼はすべての情報の供給源であるかしらと接触を持ちます。御座とのこの隠れた霊的接触に基づいて、彼は活動し、行動します。そして、死と破壊をもたらす諸々の計画を打ち破ります。

新約聖書の言葉を用いると、エリシャは敵の策略について無知ではなく、それらを悟る地点に達します。これは霊的知覚です。霊的知識です。天にある統治の御座との霊的結合から発する知識です。

シリヤの王が彼を襲おうとする時、同じ性格を帯びた二つの他の事が私たちの前に現れます。

1.エリシャの僕の目が開かれる

主はエリシャの僕の目を開いて、主人がすでに見ていたもの、すでに知っていたもの、すなわち主の僕に味方する霊の軍勢を見せました。

ここにもまた、大いに現実的な形による御座との合一、御座の一切の力との合一があります。

2.シリヤの軍勢は盲目にされる

同じようにこの合一により力が発揮されて、エリシャを捕らえるためにシリヤの王が遣わした大軍を盲目にしました。この御座との接触のおかげで、エリシャは敵軍の指揮を取り、統治者、支配者、指揮官となります。

ある意味において、これはローマへの航海でパウロに起きたことを予表しています。彼がこの航海を始めたとき、人間的に言うと、彼は囚人でした。しかし最後には指揮官となり、すべて――船、乗組員、他のすべてのもの――が彼の指揮下にありました。これは、彼が御座に触れていたことによる霊的優位性の一つの事例にほかなりません。

次にまた、七章に記録されている飢饉の逆転にも、この同じことが示されています。恐ろしい悲惨な飢饉があって、それには恐ろしいゾッとする面が伴っていました。翌日、ただ同然で食物が手に入ります。略奪軍の軍勢はある噂のために引き返し、引き返すときに軍勢の食糧をすべて残していきました。この食糧は神の民のための食糧になりました。エリシャの口が語った主の御言葉によって、これが起きたのです。

これらすべての事柄において、二つの点、すなわち一つのことの二つの面を見ます。死に勝利する命の力がそこにありますが、それは御座との合一を表すものとしてです。これを認めるとき、次のことを認めなければなりません。すなわち、主とその復活の力を知ることの究極的結果・目的は、今生においてすら、御座との合一なのです。それは主との天的な合一です。

ここにおいて、エリシャの生涯の基礎を成すものが、その最も充実した最も高邁深遠な姿で現れます。つまり、エリシャは天に行った主人との霊的合一を確立したうえで、その生涯の務めを始めたのです。エリヤの霊がエリシャの上に下ったことにより、彼らは一つになりました。天にいるエリヤと地上にいるエリシャは、この霊のゆえに一つです。エリシャの生涯に起きることはみな、エリヤが天にいることの意義の表れにほかなりません。

このすべてにおいて、いと高き方の右手に上られた主イエスの高揚の型を、とてもはっきりと見ることができます。キリストの僕であり、地上におけるキリストの器である教会は、聖霊によってキリストに結ばれています。したがって、キリストがおられる御座と堅く結合されています。教会が地上にあるのは、昇天した主のこの御座の力と主権を表すためです。この中に信者はみな、個人的にも団体的にも、主によって召されています。

これはここで切り上げて、まず第一に主との合一の事実を簡単に見ることにします。

1.主との合一の事実

御言葉に向かってこの事実を立証するには、あまり長くかかりません。これを明確に立証するには、御言葉の一部を取り出すだけですみます。しかし、それ以外にももっとたくさんあります。ヨハネによる福音書を例にとると、主との合一がこの福音書の大きな特徴の一つであることがわかります。まさに最初からこれが様々な形で描写されています――二章、三章、四章、五章、六章もそうです――主との合一という様々な面を持つ一つの真理が示されています。次に、主がその描写と強調を終える時が来ます。これがご自身と弟子たち、弟子たちとご自身との間の関係の最も深遠な現実であることを示した後、主は去ることについて話し始めます。やがて間もなく去ることについて、多くのことを話されます。このような発言によって、主は弟子たちの間にかなりの不安を引き起こされます。それで弟子たちは大いに困惑します。

次に、この不安、恐怖、恐れ、心配が弟子たちの間である点に達した時、したがって、状況が圧倒的絶望に立ち至ろうとしていた時、主は慰めの言葉でこの状況をすっかり変えてしまわれます、「心配してはいけません……」。この時から主は続けて次のことを示されます。すなわち、主がそれまで合一について述べてきたことは、弟子たちとの間の主のいかなる地的関係よりも深遠な強い性格を帯びた霊的なものにならなければならない、ということです。去って行くけれども、依然としてとどまっていることを主は示されます。主は天におられるようになりますが、依然として弟子たちの間におられます。この合一は途方もない現実です。これは地上における人々の関係よりも遥かに現実的であると、主は明言されます。

この福音書からヨハネの第一の手紙に移ると、そこでもこの同じ事がいかに強調されているのかがわかります。「……私たちの交わりは御父との、また御子との交わりです……」。これがこの手紙の基礎です。その性質がこの手紙の中で展開されています。しかし、私たちはその性質について扱っているのではなく、天の主との合一という事実を見ています。

これは異教における神と礼拝者たちとの関係のようなものではありません。異教の神々とその礼拝者たちとの間にはある関係があります。しかし、それを合一とは決して呼べません。これは創造主と被造物との間の関係ではありません。主人とその僕たちのような関係ではありませんし、職人とその道具のような関係でもありません。こうしたものはみな、ある関係を表していますが、決して合一を表していません。主が計画されたものは、そのような関係とは大いに異なっています。このような関係しか知らない人々が少なからずいるのではないかと、私たちは恐れます。神は彼らにとって創造主であり、彼らはその被造物です。神は彼らにとって神――おそらく唯一まことの神――であり、彼らはそのまことの神の礼拝者です。しかし、それは合一ではありません。神は合一を望んでこられました。これは聖書全巻を通して啓示されている偉大な事実です。

2.この合一の性質、基礎、計画

(a)その性質

その性質は、いま述べたような関係を遥かに超えたものです。この関係の性質は本質的に霊的です。つまり、霊の合一なのです。「主に結合されるものは一つ霊です……」。「……神を礼拝する者は霊の中で礼拝しなければなりません……」。なぜなら、「神は霊」だからです。ですから、この合一は霊の合一です。これは他のいかなる種類の合一よりも深いです。これ以上深く進むことはできません。これが人の最も深い性質、人間存在の最も現実的な部分を決めます。それは、神から見た人の根本的な部分、すなわち霊です。

(b)その基礎

その基礎は命です。これこそヨハネが明らかにしていることです。福音書では絵図によって、手紙では直接的な言葉で明らかにしています――「……神は私たちに永遠の命を与えてくださいました。この命は御子の中にあります」。「御子を持つ者は命を持ちます」。これは、私たちの関係は御父と御子との関係である、という基本的宣言を述べた御言葉です。この関係はまさに彼の命を持つことであると説明されています。神との合一の基礎は、神ご自身の命が新生のときに私たちに与えられることです。この基礎の上に神はすべてを建て上げ、この基礎に基づいて神はすべての価値を測られます。そうでないところでは、合一に関する限り神は何も行えません。

神のすべての御旨を達成・実現するために、神はその存在のまさに本質、すなわちその命を人の中に注入しなければなりません。神は霊的な永遠の普遍的御旨を天然の命に基づいて実現することはできません。聖書が明確にしているように、人自身の天然の命は神の御旨達成の基礎には決してなりえません。神の命だけがそれをなしえます。このように、その希望をすべてかなえるために、神はまず第一にご自身の基礎を据えなければなりません。神の希望はご自身の命の中にあります。私たちの命の中にはありません。神はご自身の希望の基礎を新生の時に内側に据えます。そして、この基礎に基づいてご自身のすべての御旨を進展させ、すべての意図を成就させます。

この命は光をもたらします。光は命です。命なくして光はありえません。光は本質的です。なぜなら、人は意志を持たない被造物ではなく、一つの命の基礎の上で神と賢く協力することによって、神の諸々の御旨を実現するよう定められているからです。ですから、光が必要です。もし私たちが光の中を歩くなら、私たちは交わりを持ちます。ですから、合一の基礎は命であり、命は光という結果になります。これによって、また従順がもたらされます。

ご自身との霊的結合をもたらすこれらすべての働きにおいては、御言葉がその道具であることがわかります。命は御言葉によって臨みます。光は御言葉によって臨みます。創造の初めのとき、被造物を御旨のためにご自身との生ける合一にもたらすとき、その道具となったのは第一に御言葉でした。再創造すなわち再生にあたっても、それは御言葉でした。「初めに言葉があった」。最初は常に御言葉です。こういうわけで主イエスは、「わたしがあなたたちに話す言葉は霊であり、命です」と言われました。ですから、生ける御言葉による命と光が神との合一の基礎なのです。

(c)その所在

この合一の所在は、新約聖書の言葉を用いると、「心という内なる人」です。「……私たちの内なる人は日毎に新しくされていきます」、「……どうか神が、御霊を通して力をもってあなたたちの内なる人を強めてくださいますように」(エペソ三・十六、アメリカ標準訳)という句をパウロは好んで用いました。この内なる人とは何でしょう?私たちの存在の最も深い部分である、私たちの霊です。これが合一の座です。合一の性格は、もっぱら肉体的なものではありません。これは言うまでもありません。私たちと神との間の合一は精神的なものに由来するものではありませんし、感情的なものでもありません。私たちと主との間の合一は、もっぱら私たちの魂の領域の中にあるものではありません。私たちの霊の中にあります。それは私たちの魂よりも深いものです。つまり、私たちの理性よりも深く、分析や理解のための私たちの天然的知力よりも深いのです。私たちの感情よりも深く、私たちの感覚よりも深いのです。主との合一の事実は、それが確立される時、たとえ私たちの感覚がことごとくそれに反する時でも残ります。私たちの理性の力がことごとく完全に混乱してしまう時でも残ります。理性の領域や感覚の領域の中に「この合一は存在しない」というきわめて大きな証拠があるように思われたとしても、この合一は残ります。

私たちと主との間の合一は、私たちの感情や理性とは何の関係もありません。主の民がこれをよく理解することが重要です。時折り座り込んで自分の理性に任せるなら、この合一は存在しないと私たちは結論づけるでしょう。このような合一に対する強固な積極的反論がかなりあるからです。自分の感情や感情の欠如が基準になることを許すなら、私たちはこの合一をすっかり放棄して、「そのようなものは完全に神話である」と宣言するでしょう。主との合一の事実に感情が全く反することも時々あります。それでも何も変わりません。一度合一が生じたなら、合一は常に存在します。「それを感じる必要があるのであって、感じない限り信じない」という立場を取る人々は、惨めな時を過ごすことになるでしょう。「知力を尽くした議論によって、この合一を説明しなければならない」と要求する人々にも同じ事が言えます。

霊の命は人の知性の範囲を遥かに超えたものです。それを据えるのはとても幸いなことです――ただしそれは、真に新生していて、積極的に熟慮の上で意図的にこの新しい命の法則を破らない場合の話です。この命の法則を破るなら、この命は不従順のせいで麻痺して停止し、しばらくのあいだ働かなくなってしまいます。私たちは持っている光の中を、主に対して従順に歩む必要があります。主の感覚が私たちの魂の領域から消え去って、私たちの知性の領域がまったく混乱・矛盾しているように思われる時もあるでしょう。それにもかかわらず、この事実は残ります。この合一は存在します。主は私たちの感覚よりも忠実です。

これを知ることは次のような時に大きな慰めです。すなわち、私たちの感情が移り変わり、私たちの感覚が変化する時、また、おそらく肉体的・精神的疲れのせいで、こうしたいわゆる強い霊的感覚が消え去り、一時的に霊の命の高次の恍惚状態から落ちて、味気ない状態になったかのように思われる時です。しかし、しばらくするとこれは過ぎ去ります。そして、主は依然として臨在しておられることがわかって、私たちは再び前進します。変わったのは主ではないこと、自分が惨めな時を過ごしていただけであって、この惨めな時によって根本的変化は何も生じなかったことを、私たちは理解するようになります。私たちは不従順によって神の活動を妨げることはできます。光に対して罪を犯すことにより、神聖な命を麻痺させることはできます。しかしそれでも、「……たとえだれかが罪を犯しても、私たちには御父と共なる助け主があります……」。ヨハネはこれを彼の手紙の中で交わりに関して述べていますが、これは慰めです。それはこう述べています、「……私たちの交わりは御父との、また御子との交わりです……」。私たちは「彼が光の中におられるように、光の中を歩む」べきです。そうする時、「……御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清めます(ギリシャ語では、清め続けます)」。

この合一はまさに私たちの奥底の霊の中にあります。移ろいゆく魂の命よりも深く、思いよりも深く、感情よりも深いです。そうです、意識よりも深いのです。この問題においては、私たちの意識は神の御業の深みに達しません。「これはどういう意味ですか?」と尋ねる人もいるでしょう。その意味はレビ記が意味するところとまさに同じです。無意識のうちに罪を犯してしまった人のために、ある特定の備えがあることがわかります。無意識のうちに罪を犯す、ということがあるのでしょうか?これは、罪の意識はないにもかかわらず、それでも罪であることを意味します。最終的基準は意識ではありません。最終的基準は神の規準であって、私たちの意識ではありません。私たちの意識は、結局のところ、限られています。神の規準は限られていません。神の備えが関係しているのは神ご自身の基準であって、私たちの意識の基準ではありません。私たちはこれから助けを受けるべきです。神の備えはご自身の要求の目的に対するものであり、私たちがそれらの要求にどれだけ気づいているのかという基準に対してではありません。神の働きは私たちに属するいかなるものよりも深いのです。

3.合一の結果は統治である

これまで述べてきたこれらの特徴を、列王記下六章と七章に追うことができます。暗闇の所在に注意してください――霊的暗闇がエリシャの僕によって表されています。この僕は霊の事柄が見えませんでした。彼は霊の事柄をどのように理解するようになったのでしょう?第一に、エリシャとの合一を通してです。エリシャは復活の命の力です。次に、光である方との合一のゆえに、彼は光の中に入ります。しかし、その手段は何でしょう?御言葉です。その結果は何でしょう?権威、優位性、主権です!「ああ、わが主よ!どうすればいいのでしょう?」という言葉に示されている恐れと恐怖の場所から、「……私たちと共にいる者たちは、彼らと共にいる者たちよりも多い……」という真理を悟る場所に直ちに移ります。命による合一を通して照らされることにより、私たちは大いなる霊的力の場所の中に入ります。

これは重要な大いに価値のある黙想の広大な領域を開きます。神の御旨の全き領域の中に私たちを直ちに連れて行きます。これを創造の順序の中に絵図として見ることができます――最初に暗闇、命の御言葉、光、秩序、そして主権の地位にある人です。これは神ご自身と新創造との間の霊的関係に関する神の御旨の、創造における絵図です――混沌、暗闇、命の御言葉、光、交わり、主権です。これをずっと辿ると、新約聖書に啓示されているキリストによる神の御旨は、人を御座にもたらすことであることがわかります。これはヨハネによる福音書の中に描かれており、霊的な形で示されています。「……わたしがいるところに、彼らもまたいるようになるためです」。これがペンテコステの時に聖霊によって霊的事実として実現されます。霊的にはこの時以降、主の民は霊的に絶対的な優位性と主権の地位にあるものと見なされていることがわかります。これが使徒パウロ自身の生涯のまさに最後まで大いに豊かに示されているのがわかります。環境や、地上における彼の生活の状態がいかなるものであれ、彼は霊的に天の御座と一つです。ですから、牢獄にいる時でも、彼は決して自分のことを皇帝の囚人とは呼びませんし、決して自分のことをネロの囚人とも言いません。彼は自分のことをイエス・キリストの囚人と呼びます。そして牢獄の中にあって、地的制限にもかかわらず、天上の無限の広がりの中を動き回っています。彼は囚人ではありません。天におられる自分の主との合一の意義を霊的に知っています。これが彼の実り豊かな効果的人生の秘訣です。

神のこの御旨に関して、時折、明確な言葉が述べられてきました。「勝利を得る者をわたしと共にわたしの王座に座らせよう。わたしが勝利して、わたしの父と共にその王座に着いたのと同じように」。神の御旨はこれです。今はこれは霊的なものですが、次に文字どおり実現します。今はこれは御座に着いておられる御方との内なる合一であり、霊的力と他のすべての勢力に対する優位性とを伴っています。次に、これは文字どおり完全に現されます――教会による普遍的主権として現されるのです。

これが復活の命のまさに性質です。これはみな、キリストの死、復活、高揚についての私たちの理解と結びついています。あなたはキリストの死をどのように理解しているでしょう?あなたはキリストの死が、決して治めることができず決して御座に至れなかった人の死であり、この人を除き去る死だったことを理解しているでしょうか?アダムは、罪を犯した後、決して御座に至れませんでした。神はそのような人を主権者にすることは決してできませんでした。アダムは自分の主権を失いました。神は堕落した人を決して主権者にはされません。キリストの死は、決して統治できないこの人を法理的に除き去って、統治できる人のための余地を設けます。私たちは主イエスの復活を、御座に進み出ることのできる別の人を生み出すものとして理解しているでしょうか?主イエスとの私たちの復活による合一のまさに本質は、御座におられる方と地上にいる私たちとの間の一つ命による合一です。あなたは主イエスの高揚をどのように理解しているでしょうか?あなたが高く揚げられたことを表すものとして理解しているでしょうか?彼が死なれた時、あなたも死んだこと、彼が復活した時、あなたも復活したことを理解しているでしょうか?これは霊的現実です。

今や、肉から生まれたものは去りました。復活により、御霊から生まれたもの、すなわち霊の人が生じました。これは主イエスと共に復活したあなたです!死と復活に言えることは、高揚にも言えます。つまり、彼が高く揚げられた時、あなたも彼にあっていと高き大能者の右手に上げられたのです。キリストが彼処におられることは、私たちも彼処にいることを表していることを、私たちは理解しているでしょうか?これは客観的真理であるだけでなく、いま私たちの内にある彼の昇天の命のおかげで現実のものとなっています。聖霊は天におられる彼とここにいる私たちとの間に生き生きとしたつながりを造ってくださいました。彼が万物の上におられる事実は、彼にあって私たちも万物の上にあることを物語っています。

「それは理論的には正しいかもしれませんし、教理的には正しいです。私はこの話に異議は唱えません。しかし、私の場合はそうではありません」と、あなたは言うでしょう。これは主のせいではありません!これは私たちが主の復活の命の基礎の上で生きることを学んでこなかったせいです。私たちは依然として私たち自身の命という基礎の上でクリスチャン生活を送ろうとしています。私たち自身の命は決して御座に至れません。努力によって、自分自身の試みによって、クリスチャンたろうとしている人々は、絶えず御座からかけ離れた所にいます。キリストに敵対するあらゆる勢力のおもちゃになっています。しかし、聖霊によってキリストの命に基づいて生きる秘訣を知る時、キリストは私たちから離れて彼処におられるのではないこと、主権を持つキリストと私たちとの間には、キリストご自身の命の力によって合一が存在することを、私たちは徐々にますます知るようになります。まさに復活の命が、主権を持つキリストの命そのものなのです。私たちの内にある復活の命が道を得るたびに、それは私たちを主権の中にもたらします。キリストの命が私たちの中で自由に働くたびに、それは私たちを優位な立場に置き、私たちを上に引き上げます。これは霊的な力であり主権です。

4.合一の法則は信仰である

ここで、主イエスを信じる信仰は、おそらくこれまでの私たちの理解を超えたものになります。キリストを信じる信仰とは何でしょう?それは、神の右手に私たちのために、また私たちとしておられる主の何たるかについての理解です。そこにひとりの人がおられます。その人は私たちに対する神のすべての御旨を細部に至るまで貫いて実現されました。ひとりの人によって、私たちに対する神の御旨は完全かつ決定的に達成されました。この人は私たちを神の御旨にもたらすのに必要なものを――ご自身のためではなく私たちのために――すべて持っておられます。キリストは私たちの勝利です。キリストは私たちの命です。キリストは私たちの知恵です。キリストは私たちの聖潔です。必要なものの目録をすべて調べても、私たちを神の全き御旨にもたらすために、キリストが私たちに対するそれとされていないものは何もありません。信仰は、それを受け取って、それに基づいて行動することにより、それを生きたものとします。

敵が荒れ狂っているのでしょうか?キリストは勝利しておられ、敵を征服した勝利者です。信仰はキリストを招き入れて、敵が大いに活動している状況に対してキリストを立てます。私たちが神の御旨に達するのを制限しようとするものが何であれ、キリストはそれに処するための備えです。しかし、キリストがそうされるのは、私たちが信仰の線上にあるときだけです。キリストを信じる信仰は素晴らしいものです。あなたや私がさらに学ぶべきは、必要が何であれ、キリストを私たちのために状況の中に招き入れることです。それは私たちがキリストによって生きるためです。そこには常に、私たちに関する限り、「私にはできない」の総目録があるでしょう。しかし、「私にはできない」で私たちは済ませようとしているのでしょうか?それとも、自分にはできないことをきっぱりと認めようとしているのでしょうか?これは決着済みです!これ以上何も言う必要はありません!しかし、まさにここで主には「できる」が始まります。私たちは消極面で立ち止まるのではなく、積極面から始めます――「私はキリストを通して何でもすることができます……」。これはキリストを信じる信仰に関する私たちへの挑戦です。これはキリストをあらゆる状況の中に招き入れます。これが統治、主権です。これが御座です。なぜなら、彼は高く揚げられた、統治するキリストだからです。

キリストがそこにいてその地位についておられることを私たちは喜びます。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました。この教会は彼のからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。信仰はこれを理解します。信仰はこれを見ます。信仰はこれを適用します。それは天におられるキリストの何たるかです。

ことの順序はこうです。最初、私たちはキリストにあって御父との合一を持ちます。最後には、キリストとの合一を御父にあって持ちます。これは御言葉が教えていることです。まず、私たちの合一はキリストによる御父とのものです。次に、御言葉が示しているように、この過程の目標は、最終的に、キリストとの御父による合一です。

合一は漸進的なものです。信仰は今のところ、キリストによる御父との合一の方向に向かって働いています。信仰の最終的働きは、私たちを御父によるキリストとの合一にもたらすことです。この意味は――これを言う必要があるでしょうか?――神格の中に吸収されることや、神性にあずかることではありません。

私たちの黙想の主要な点は、復活の命、キリストの復活の力は、その性質上本質的に、主との御座結合であるということです。そして、それはいま霊的な形で実際的に完成されなければならないということです。究極的に、それは普遍的に文字どおり完成されるでしょう。私たちの今の仕事は、このひとりの人、イエス・キリストによって、命の中で支配するすべを学ぶことです。

命の中で支配することの意味を主が私たちに教えてくださいますように。