第七章 最後の場面

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:列王記下十三章十四~二五節

これらの節はエリシャの生涯の最後の場面について記しています。際立った三つの点があります。

1.主の解放の矢
2.矢で地面を打つこと
3.死んだ兵士の体がエリシャの体に触れて生き返ったこと

この三つの事例は、その生涯の霊的意義に照らして見るとき、エリシャの生涯の結末にとてもふさわしいです。つまり、エリシャは復活の命の力を一貫して代表しているのです。すなわち、命の証しは一貫して、様々な多くの形を取る死に対する証しの一つなのです。ここでは、人生の終わりにあるエリシャが描かれていますが、その命はなんと見事に保たれていることでしょう。

過去に起きたすべての出来事に、これらの出来事はなんとふさわしいことか。最後まで死に勝利する命!彼は病気であり、それによって死んだと御言葉は述べていますが、それは一つの面にすぎません。これは器である人に関係しています。エリシャは決して死ななかったという別の面もあります。器であるこの人が死ぬ時でも、死に打ち勝つ命の証しは保たれます。ですから、死人ですらこの証しによって生き返らされます。この証しはその器が亡くなっても継続します。それは力強い命です。

ここでエリシャは寝床にいます。老人であり、人間的には弱さの中にあります。間もなく亡くなろうとしています。イスラエルの王が彼の所に来たので、彼は寝床で体を起こし、王に弓と矢を持って来て、弓に矢をつがえるよう命じます。それから、預言者は王の手の上に自分の手をのせて、二人で目一杯弓を引きます。そして、この矢は復活の命の力によって、寝床から開かれた窓を通って進んで行きます。復活の命がその矢の中にあります。死に打ち勝つ勝利の命は、主の解放のこの弓の力です。

次に、矢で地面を打つように王は命じられます。王は三回打って、それきりです。神の人は王に怒ります。生き生きとしている王よりも瀕死の預言者の方に、依然として多くの力があります。彼は最後までまさに力の化身です。こう言っているかのようです、「なぜあなたは続けないのですか?なぜこんなにすぐやめてしまうのですか?なぜこれをやり通さないのですか?」。彼は命と力を呼吸します。

次に、たとえ彼の体は死んで墓の中にあっても、それに触れることは命です。これは素晴らしい結末であり、意義と霊的価値に満ちています。その全生涯にふさわしいこれ以上のものはありません。これ以上に素晴らしい結末や大団円はありえません。何か悲劇に見舞われて、悪の餌食になって殺されるか、あるいは、場面から簡単に消え去るなりして、もしエリシャが亡くなっていたなら、それは残念なことだったでしょう。あらゆる方面で死に対する勝利を一貫して表しているものについて、そのような連想は決してできません。この証しがずっと未来まで保たれて、時の中から永遠の中に入ることを期待します。まさに、そうなります。この死に打ち勝つ勝利の命は、ここで終わるものではなく、継続します。これはその器よりも長持ちする証しです。

この三つの出来事に戻って、それが私たちに語りかけていることをある程度理解しようと努めることにします。エリシャの生涯、エリシャの全生涯におけるこれらの出来事にはどれも、汲めども尽きぬ深みと豊かさがあります。しかし、エリシャの人生の最後のこの三つの出来事には、私たちが学ぶべき、多かれ少なかれ明らかな教訓と思われる点がいくつかあります。

1.主の解放の矢

これは敵に対する勝利の問題でした。そして、これは敵に対する完全な決定的勝利を与えるという主の御旨の問題でした。イスラエルの王があずかったものと主の御旨とは異なっていました。王は限られた形でしか勝利にあずかれませんでしたが、これは彼自身の落度でした。主はそれを遥かに超えるものを備えておられました。私たちはすぐにこの点に戻って来ることにします。

この問題は神の観点から見ると、主の敵を完全かつ決定的に征服することでした。解放と勝利の全容はエリシャの預言と関係していました。さしあたって、主の民の代表である王の理解が限られていたせいで、この預言の完全な成就は遠い未来に延期されたとはいえ、それにもかかわらず、主の解放の矢は放たれています。そして、この延期にもかかわらず、究極的に主の民は完全な全き解放を得ます。この預言の中で彼らに対して解放が保証されています。この解放の矢は預言の矢であり、エゼキエルのような他の預言書の中にさらに豊かに見られます。エゼキエルは枯れた骨の谷の幻を見ましたが、これには主の民を復活させる輝かしい活動の面もあり、最終的に彼らは自分たちの足で立って強力な軍隊になりました。これはみな、この解放の矢と関係しています。しかしそれ以上に、この絵図、この型では、最後の敵に対する神の民の究極的かつ完全な霊的勝利が予見されています。「滅ぼされるべき最後の敵は死です」。この最後の敵である死に対する決定的勝利の保証、証拠、権利証書は、復活の命がすでに主の民に与えられている事実です。

この最後の敵は、キリストのからだである教会により、キリストの復活の力によって征服されます。教会はその意義に長らくあずかってきました。教会は、自らの弱さのせいで、そのごくわずかしか知りませんが、最終的にこれは完全に実現されます。最終的にこの最後の敵は教会によって滅ぼされます。主の御言葉はこの事実で満ちています。最後の敵が滅ぼされて、死が最終的に追放されるのは、キリストのからだである教会によってです。

この保証は、すでに死に打ち勝っているキリストが、そのからだの中に住んでおられるという事実です。エペソ一・十七~二一といった節を見てください。キリストの復活の力の内なる働きに由来する普遍的主権をそこに見ます。これを聖書の言葉で言い換えると、「御力の卓越した偉大さ」――これは復活によるものです――となります。これによって神は死者の中からイエスを復活させられましたが、これは普遍的権威という結果になります。このように、敵のあらゆる力に対する普遍的権威がキリストの復活の力の中に宿っています。死を完全かつ決定的に滅ぼす力を復活の命は宿しています。キリストのからだである教会は、この力を知ることにより――「……どうか私たちの主イエス・キリストの神が(中略)知恵と啓示の霊をあなたたちに賜って神を認めさせてくださいますように。(中略)それはあなたたちが御力の卓越した偉大さを知るようになるためです」――かしらがすでにおられる所に到達します。

この節から同じ手紙の三章二〇節に行くと、同様のことが述べられています。「……私たちの内に働く力にしたがって」。これはどんな力でしょう?「御力の卓越した偉大さ(中略)これを神はキリストの内に働かせて、死者の中から復活させました……」。「この御方に教会により、またキリスト・イエスにより、代々かぎりなく栄光がありますように」。ここに復活があります。

繰り返しましょう。この最後の敵である死は、教会の中で、また教会によって、決定的かつ完全に打倒されます。これは、キリストのからだである教会の中に働く主イエスの復活の命に基づきます。こういうわけで、あなたも私も、復活の命の基礎の上で生きることを学ぶ必要があります。これが、主がわざわざ私たちを、ご自身の復活の命だけが私たちの必要を満たせる所に連れて行かれる理由です。これが、主の命以外の他の命の基礎をことごとく私たちの足下から断ち切るために、常に十字架が適用される理由です。これには重大な結果が絡んでいるからです。すなわち、教会は選ばれた手段であって、これにより復活したかしらは死の問題に最終的決着をつけるのです。

これは私たちをエリシャのこの物語の興味深く意義深い点に導きます。イスラエルの王がエリシャにどのように呼びかけているのかに気づいたしょうか?十三章十四節を見てください。驚くべき呼びかけであることがわかります。王は何を言わんとしたのでしょう?エリシャはエリヤと同じ道を行くものと期待していたのでしょうか?エリシャがまさに携え上げられようとしていることについての感慨を述べたのでしょうか?ヨアシの観点からはわからないことを、私は告白します。しかし、聖霊の側に立って何かを見ることはできると思います。なぜなら、これが聖霊の霊感によるものである以上、そこにはある霊的意義があるからです――「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ!」。これは死に対するエリヤの勝利でした。この形の勝利はエリシャにはありませんが、同じ言葉が述べられています。エリシャはエリヤのように火の戦車によって天に上ったわけではありません。それにもかかわらず、全く同じ言葉がエリシャにもあてはまります。彼は死を征服して死によって征服されなかった人々と同じ列に連なりました。しかし、その違いは何でしょう?エリヤが外面的に携え挙げられたのだとすると、エリシャは内面的に携え挙げられたのであり、これは同じ事だったのです。復活の命はいかなる場合も携え挙げという結果になります。その結果は勝利です。それは死に対する勝利であり、死に対する勝利は携え挙げです。携え挙げとは何でしょう?栄光です!携え挙げの原理と基礎――それはキリストの復活の力です――に関するかぎり、その外面的結果の如何にかかわらず、これはそうなのです。

人生の最後の時にあったパウロは、そうなりたいと最初に望んだとおりの者ではなかったでしょうか?彼の最初の手紙であるテサロニケ人への手紙を読むと、教会と共に携え挙げられることが彼の考えであり希望だったことに疑いはありません――「……私たち生き残っている者たちは、携え挙げられるでしょう……」。多くの年月が過ぎ去って、人生の最後に向かいつつあった時、自分の去り方はそうではないことを彼は理解するようになりました。そこで、率直に言いました。「……私はすでにささげられています。私が去る時が来ようとしています」。どのような形でそうなるのか彼はわかっていました。しかし霊的に彼の内なる命においては、最初に願ったとおりに、彼は最後に本当に携え挙げられたのです。それは死ではありませんでした。敗北ではありませんでした。死の支配ではありませんでした。死に対する勝利であり、死を征服したのです。それは栄光でした。彼は全き確信と全き勝利のうちに突き進むことができました。霊の中で叫びつつ突き進むことができました――「イスラエルの戦車よ、その騎兵よ!」。彼はすべてを超越していました。行程がいかなるものであれ、復活の命は本来、携え挙げの化身です。ですから、文字どおり戦車で上ったエリヤであれ、霊的に戦車で上ったエリシャであれ、その結果は同じことなのです。

しかし、それ以上のことがあります。パウロは復活の二つの相を心に思い描いて信じていました。第一に、彼は内なる復活を持っていました。復活の命が彼の内に常に働いていました。ですから、死の働きをすべて超越していました。霊の中で彼は常に死を超越していました。復活の力を内なるものとして知っていたのです。

しかし、第二に、彼はその結果の特別なある形の上に、自分の心を定めて信じていました。彼だけがそれを「死者の中からの格別な復活」と呼びました。このようなものを見せてくれるのがパウロです。彼の願いと志は、たんに死者の中からの復活に達することではありませんでした。もしあなたが救われているなら、達成したことが何もなくても、死者の中からの復活を享受するでしょう。永遠の命を持っている事実が、あなたが死者の中から復活する保証です。与えたいと思う者に永遠の命を与えて、終わりの日によみがえらせることを、主イエスは完全に明らかにしておられます。しかし、終わりの日に先立つある日があります。その日はパウロが追い求めていた日です。彼が述べたのは終わりの日の復活ではなく、死者の中からの格別な復活です。これは彼にとって携え挙げを意味しました。主の民全員がこれにあずかるわけではありません。ピリピ三・十には意味があり、その言葉は真剣に受け止めるべきものである以上、これは次のことをきわめて明確に示しています。すなわち、この復活は永遠の命の賜物と共に与えられる一般的復活ではなく、賞なのです。死者からの一般的な復活は賞ではありません。神の無代価の賜物に伴うものです。賞は常に、パウロが完全に明らかにしているように、そのために働いて追い求めるべきものであり、失うおそれがあるものです。この格別な復活は、彼がそれに向かって懸命に身を伸ばした賞です。

ここでこの章の第一局面が終わります。そして、第二局面が必要になります。なぜなら、一本の矢の後に他の矢が続かなければならないからです。

2.矢で地面を打つこと

エリシャはこの一本の矢を放つだけでは済ませません、この一本の矢は完全な決定的解放を預言するものでしたが、彼は直ちに別の道を取ります。それによって、これを王に完全に所有させようとします。結末に期待しつつ、それを前もって確保させようとします。この一本の矢が放たれた時、「これは主の解放の弓である!いつの日か――だいぶ先になるかもしれませんが――完全な解放が成し遂げられます。この矢はそれを告げるものです」とエリシャは言ったかもしれません。彼はそれで済ますこともできたかもしれませんし、それはある程度慰めを意味するものだったでしょう。その慰めはテサロニケ人への第一の手紙四・十六~十七節から得られるものであり、究極的にはすべての聖徒――亡くなった人も生き残っている人も――よみがえらされるという慰めです。これはいつか最終的勝利を迎えます。これは大まかに述べたものです。テサロニケ人への手紙に記されているのは概要にすぎませんが、この概要の中に入り込むにはもっと多くの聖書の御言葉が必要です。パウロはそこでは包括的にしか述べておらず、それ以上のことを私たちに告げていません。これを噛み砕くにはもっと詳しい説明が必要です。この概要を取り上げて、「携挙、復活、主の来臨に関する教理はこれに尽きる」と言うのは公正ではありません。

エリシャはこれをそれでは済ませません。彼はヨアシに言います、「矢を取って(中略)地面を打ちなさい」。結末に期待して、今それを握りなさい。今それを有効化しなさい。ヨアシは自分の矢を取って、一度、二度、三度打ちますが、それでやめてしまいます。エリシャは尋ねます、「なぜそこでやめるのですか。なぜもっと得られるのにそうしないのですか。なぜいま最後まで突き進んで、すべてを一気に所有しないのですか」――「……今、あなたはシリヤを三度しか打てません」。これがあなたの栄光の度合いです。あなたはもっと先に進んでさらに大いなる栄光を得、もっと優位に立って勝利を知ることができたのに、あなたはその度合いを自分で制限してしまったのです。

これがピリピ人への手紙の三章になんとぴったりなのかを見てください。勝利と栄光の度合いは、キリストの復活の力を信仰によって適用する度合いです。私たちが今扱っているのは救いの問題ではなく、救いに関する神の全き御旨です。パウロがピリピ人にこの手紙を書いて、この手紙の第三章にさしかかった時、彼はまるで打ちまくって、ついにはすべてを得たかのようでした――「……この一事を私は努めています。後にあるものを忘れて……」――これはキリストとその復活の力をきわみまでも握ることでした――「……それは私が彼を知り(中略)何とかして格別な復活(ギリシャ語)に達することができるためです……」。ここに神の全き御旨に達しないままやめてしまわない人がいます。

主の民は多かれ少なかれキリストの全き栄光に至ろうとしており、多かれ少なかれ普遍的主権の地位に至ろうとしています。それは、キリストの復活の力をいま信仰によって適用する度合いに応じてです。パウロは別の箇所で、「復活においては、等級に違いがあります。太陽の栄光、月の栄光、星の栄光が異なるように、復活においてもそうです」と述べています。あなたは太陽の栄光、キリストの全き栄光を望むでしょうか?それには、キリストの復活の力を信仰によって適用する道をいま突き進む必要があります――「……私がいま肉体にあって生きている命を、私は信仰によって、神の御子を信じる信仰によって生きます」。次に、基礎を据えたら、キリストとその復活の力を知る事を追い求めなければなりません。

要点は、失いかねないものがあるということです。それは私たちの救いではないかもしれませんが、栄光の度合いや、主が私たちに占有させて享受させようとしておられる地位かもしれません。それに届かないかもしれないのです。神の御言葉が指摘しているところによると、荒野で倒れたヘブル人の世代は自分たちの嗣業を失いました。パウロはこの原則を推し進めて、「あなたは救いを受けることができますが、火を通って命からがら救われるだけかもしれません。あなたが救いを失うことはないかもしれませんが、神が救いによってあなたに得させようとしておられる他のものをすべて失うかもしれません」と述べています。神が用意しておられる、条件を満たさなければ得られない何かがあるのです。これを、「聖徒たちのうちにある嗣業」という神ご自身の必要と、神ご自身の御旨の光に照らして見る時、また、神とその御子がどんな代価を払われたのかという光に照らして見る時、神の全き願いに満たないもので満足することは罪となります。カルバリが意味するところを主イエスがすべて忍ばれたのは、私たちを地獄から引き上げて救うためだけではありません。主イエスの十字架はそれを遥かに超えたものと関係しています。これは新約聖書の地位にかなりの光を投じます。

3.死体がエリシャの体に触れて生き返ったこと

「さて、モアブの略奪隊は年が改まるごとに、国に侵入するのを常とした。時に、一人の人を葬ろうとする者たちがあったが、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れた。その人はエリシャの骨に触れるとすぐ生き返って立ち上がった」。

キリストの復活の力を知ることは、その死に同形化されることによります。それは死におけるキリストとの一体化という基礎に基づきます。この箇所で、この人はエリシャの墓の中に落ちて、エリシャの死と一体化されました。型として、彼はパウロが「……それは私がキリストとその復活の力を知り、その苦難の交わりとを知って、その死に同形化され……」と述べている立場に至りました。しかし、キリストの死への同形化こそまさに、キリストの復活の力を知る道でした。キリストとの死における一体化がまさに、復活の命という結果になったのです。

主イエスの死は受動的なものではないことを、私たちは常に覚えておかなければなりません。主イエスの死は強力なエネルギーであり、強力な力です。主イエスの死には、死が立ち向かえない何かがあります――「……それは死を通して、死の力を持つ者を滅ぼすためでした」。これには一つの謎があります。どうやって死が死を殺すのでしょう。しかし、キリストの場合、そうだったのです。主イエスの死は他の人のどんな死とも異なります。それは異なる死であり、強力な死であり、力ある死です。

この人はエリシャの骨に触れて、この死の立場の中に死に対する勝利、死を滅ぼす力があることを見いだしました。

これは、死におけるキリストとの一体化に関する私たちの考えに対する、とても強力な追加の言葉となるべきです。なぜなら、「このような言葉が用いられる時、それは出て行ってすべてを失うことです。すべてが死、死、死です!」と、人々は考えてばかりいるからです。復活の命を新しくさらに知ることなく、死における主イエスに触れることは決してできません。主イエスが御霊によって私たちをその死のさらに豊かな意義の中にもたらされる時、それは次のことを意味します。私たちはきっぱりとこれに決着をつけようではありませんか。すなわち、それ自体が復活の命の新たな度量を意味するのです。この二つは同行するのであって、それ以外にありえません。それは命に至る死です。益に至る損失です。この命と益は死や損失とは異なる種類のものです。死と損失は、遅かれ早かれ、いずれにせよなくなるものにすぎず、たとえ残ったとしても、その価値はきわめて疑わしいものです。しかし、この命と益は永遠であって、その中に神のすべての富があります。だからパウロは、喜びをもって、キリストの死への同形化を賛美できたのです。彼はこれを、まるですべてを失ってしまうかのような嘆きの言葉で決して述べません。キリストの死に同形化されることについて述べる時、彼の顔に影は無く、彼の声にうめきはありません。それは勝利の叫びです。彼の追い求めているものがここにあります。

パウロはこの交換の価値を熟知しています。この交換は、自分の命を主の命と交換することです。この交換について、彼はまさにこの手紙の中で述べています――「私にとって益であったものを、私はキリストのゆえに損失であると見なしました(中略)私の主であるキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに……」。この知識の性質は何でしょう?「それはキリストとその復活の力を知るためです」。これがこの知識の卓越した性質です。それはこの世で人に臨みうるいっさいのもの――人がそれをこの世で益と見なすであろうもの――に優ります。パウロはそれらをすべて集めて分類しました。彼は権力、人気、名声、地位、財産を知っていました。彼は言います、「キリスト・イエスを知る知識は、これらすべてに優る」と。それはどんな知識でしょう?「キリストとその復活の力」を知る特別な知識です。なぜでしょう?これが導く結果、この復活の命と力が持つあらゆる可能性のためです。その究極的結果のためです。それが彼を導きうる立場のためです。その立場は主ご自身の御座に決して劣るものではありません。

私たちはかなり多くの点を省いて、様々な文脈や生じ得たかもしれない問題を追いませんでしたが、多くの特徴をまとめた大まかな概要を与えて満足することにします。問題もあったかもしれませんが、まず第一に、この諸々の事実に向き合おうではありませんか?これらは事実なのでしょうか?偏見を除き去って、大まかな質問をしましょう――「これを受け入れてはいけない理由が何かあるのでしょうか?何が妨げているのでしょう?」。もし私たちがとても率直で開いており、このような問題について偏見を抱いていないなら、私たちは光を得るでしょう。そして、その光はとても多くのことを意味するものになるでしょう。しかし、もし私たちに先入観、強い先入観があるなら、こうした事柄に触れる時、私たちは靄の中に入ってしまうでしょう。開かれた心は、多くの光を与えるための道を主のために備えます。主からのものを喜んで受け入れようとする心は、主がご自身のものを示すことを可能にします。

さしあたって詳細はすべて措くことにして、この御言葉を正面から見て、この力強い「何とかして」に向き合うことにしましょう。「何とかして格別な復活(ギリシャ語)に達するためです……」。この「何とかして」になんということがかかっていることか!この「何とかして」にかかっているのは自分の救いではないことはわかります。私たちの救いはキリストの完成された御業と、それを信じる私たちの信仰にかかっています。しかし、この「何とかして」にかかっているものがあるのです。

どうか主がご自身の力強い促しと、全き御旨に至らせる卓越した偉大な力の内なる働きとをもって、私たちを鼓舞してくださり、私たちが御旨に達しないことがないようにしてくださいますように。