聖書朗読:創世記三・一~七、二二~二四、ローマ人への手紙八・一~二
長く生きれば生きるほど、そして、物事について考えれば考えるほど、神と人との間のすべてを支配する究極的問題は命の問題であることを、人はますます確信するようになります。私たちの聖書はここで、命は法則であると述べており、さらにこの命は聖霊の御手の中にあると述べています――「命の霊の法則……」。
法則は定まった確立済みの原則です。それには様々な可能性があります。それに適応してそれによって治められるなら、特定の結果が必然的に生じることを、それは意味します。その法則が確立される時、それが秘めている可能性は確実に実現されることを意味します。ですから、ここで述べられているのは、ある事柄が聖霊なる神に属する印は命である、ということです。何事も聖霊なる神に属するものなら、それは生きます。その主な特徴は命となります。これは法則であり、確立済みの原則です。神にしたがっているものは生き、その内に神ご自身の命を持ちます。そしてこれは、原則として、導きの法則です。それは神の民を導くための原則です。
しかし、初めに気を付けるべき別の点があります。それは、定まった原則としての命の問題においては、この命はキリスト・イエスにあるということです。「キリスト・イエスにある命の霊の法則」。この事実に基づいて、神に属するものはすべてキリスト・イエスにあることを、聖書はことさらに強調しています。神に属するすべてのものの印が命である以上、命はキリスト・イエスにあり、ただ彼にのみあります。
キリスト・イエスにある命の七重の表現
私たちの目的は、命について調べて、命の構成要素に注目することです。つまり、命の法則がどのように働いて、その始まりから究極的完成へと至るのかに注目することです。主が私たちを力づけて導いてくださるなら、命の構成要素は七重であることがわかるでしょう。それはプリズムによって分かれ出た光の色のようです。キリスト・イエスはプリズムです。キリスト・イエスにある命の多彩な表れがどのようなものか、その命の法則の七重の表れがどのようなものか、私たちは見ることになるでしょう。命を知るには、彼を知り、彼を理解しなければなりません。彼を真に知ることは命を知ることです。こういうわけで、この真理に沿って、キリスト・イエスを啓示すること、彼を知らせること、私たちを命である彼の中に導くことが、命の霊である聖霊の働きになります。しかし、このように彼を知らせて彼の中に導くことは霊的教育の問題であり、全生涯にわたるかもしれません。これが理由で、神の御言葉の中には、神にある真の命が始まるとき、私たちは命の中に入り、命は私たちの中に入るという記述がある一方で、私たちは先に進むにつれて、この命に関してさらなる行動を取らなければならないという記述もあるのだと思います。モーセがイスラエルの子らに命じたように、神の民ですら、時々、命を選ぶよう命じられます。命を選ぶ決意をしなければならなくなる時、私たちの霊的経験に特定の危機が生じます。私たちの前には二つの道があり、私たちは一方を断固として拒絶し、他方を積極的に選ばなければなりません。次にまた、私たちは命を握るよう強い勧めを受けます。さらに、命は依然として未来のものであり、私たちはまだ達したわけではなく、命は私たちの前にあることを示唆する御言葉もあります。私たちは進み続けて命に至らなければなりません。永遠の命を受け継がなければなりません。これは、キリストを知る知識は段階的であって、絶えず成長するものだからです。これは学びであり、私たちがキリスト・イエスにある永遠の命という神の無代価の賜物を受けた時から始まり、終わりはありません。ひたすら進み続けて、彼岸に至ります。その時、私たちは依然として「神のパラダイスの中央にある命の木」から食べているでしょう。この命に終わりはなく、決して尽きず、その最果てに到達することはできません。しかし、私たちはこの地上のこの短い期間と関わっています。この期間は命の霊の法則、命の法則に関する学びの時であり、この学びはこの法則の七重の表現と関係しています。すでに述べたように、それはキリスト・イエスです。
さて、キリスト・イエスは常に命として躍動しておられます。神が御旨に到達するために着手される時は常に、絶えず、最初から最後まで、キリストという手段によります。つまり、神は常に、命としてのキリストの構成要素、すなわち、御子に属するものを、さらに多く引き出すことによって、御旨に向かって動かれるのであり、したがって、豊かな命への進歩は、キリストがどのような御方かを絶えず新たに発見することによるのです。神はキリスト抜きで御旨に向かって動こうとは決してされません。神が用いられるものは何であれ、その本質がキリストであるものです。ですから、キリストによって、神は御旨を究極的完成に至らされます。
次に、創世記のとても馴染み深い基礎に進むことにします。創世記は死と生の基礎をすべて包括しており、これらの問題はすべて七人の人に集約されています。各人物がキリストの命の特定の面を見せています。この七人の各々が示す命の各面は、命の法則全体の一部です。命の法則全体が、この七人の人により、七重の方法で総括されています。この七人とはアダムからヨセフまでです。
アダムにおける神の御旨
アダムとキリストが最初からすべての時代を支配する立場にあったことに、まずは注目しなければなりません。アダムは来たるべき方の絵図である、と述べられています。アダムはいわば影でした。永遠の光を背にしたキリスト・イエスが、いずこかに立っておられました。そしてそこで、この実体と影がすべての時代を見下ろして立っていました。それはすべての時代を神の御旨にしたがって統治するためでした。
キリスト・イエスにある命の霊の法則は、創世記では「命の木」によって表されています。アダムは命の道を示すはずでした。もしアダムが神の御旨の道の代わりに別の道を選んでいなければ、アダムは命がどのように働くのか、命の法則がどのように働くのか、そして、この法則の働きにより、神はどのように御旨に到達されるのかを示していたでしょう。絶えず常に生き生きと、ある定まった法則の働きによる命の道を示していたでしょう。しかし、アダムは失敗しました。彼はこの法則の代表者、化身となるべき者でした。しかし、この命の道は失敗し、彼は今や死の道の代表者となっています。しかし、今や最後のアダムとして知られているキリストが介入されました。そして、彼自らがこの命の法則を体現されます。彼は命の道を示されます。彼はアダムが成就しそこなったことを成就して、命の小径によって神の御旨を達成されます。
さて、初歩的なことをすべて述べたので、この命の法則の七重の表現の最初の人であるアダムから始めることにします。しかしもちろん、私たちは今アダムを逆の方向から考えて、命とは何なのか、命の法則とは何なのかを、アダムの場合その逆のものがどう働いているのかを黙想することによって学ばなければなりません。私たちは消極的なものを通して積極的なものに、偽りによって真実に導かれます。
命や死の始まりを理解するために、アダムとキリストの誘惑の性質を理解しなければなりません。なぜなら、これらの誘惑に何か一つ真実な点があるとするなら、それは、命と死、死と命の問題が丸ごとこれにかかっている、ということにほかならないからです。ですから、数分の間、これらの誘惑について新たに考えなければなりません。キリストの誘惑について理解するために、アダムの誘惑について考えることにします。
サタンの人への接近
第一に、誘惑者の姿と誘惑があります。創世記三章から、エバとアダムがどこでなぜ堕落したのかが正確にわかります。上辺はとても単純です。おそらく、これがその主な脅威であり狡猾さです。その機会は良さげに見えるものでした。サタンの誘惑やそそのかしは通常、善のために望ましく見える形で示されます。これを常に覚えておいてください。サタンがこれまである人を、堕落というおぞましい結末を知らせることによって誘惑したりそそのかしたりしたことがあるのかどうかは疑問です。サタンは常にその正反対の道を取って、善であるかのように人の判断に訴える形で誘惑してそそのかします。問題は、いつも人が物事しか見ないことです。キリストはサタンを見ました。提案の形で誘惑が臨んで、善のためのものとして示された時、キリストはそれを見抜き、その裏を見抜いて、「わたしの後に引き下がれ、サタン」と言われました。さて、強調する必要も、述べる必要もほとんどないでしょうが、サタンがあなたを誤導し、欺き、誘惑し、命の道から連れ去ろうとする時はいつも、相変わらず良い提案、つまり良いと人が判断する提案を持ち出すことによってそうします。我が道を行くことを欲する時、私たちは必ずもっともな口実を持ち出すものですが、これにはとても明確な意義深い意味があります。つまり、私たちは常に良い口実を持ち出して、それでバランスを取っているのです。これはとても意義深いことだと言えます。いまだかつて一人も、悪くなる良い口実なく悪くなったためしはありません。ただし、良い口実と言っても、それは人間的観点から見たものです。常に議論が続いて、すっかり逸れてしまうのです。
さて、ご存じのように、誘惑はまず獲得能力、つまり獲得力に対してなされました。この場合は知識の獲得でした。さて、愛する人よ、知ること自体は悪ではありません。しかし、もちろん、人はあることを知らない方が、つまり、ある種の知識を持たない方が良かったでしょう。しかし、この問題の要点は人が獲得した知識の種類だとは私は思いません。この誘惑は知識欲から始まりました。その訴えは獲得力、所有力に対するものでした。ここでは、それは知識を得るためでした。しかし、知識自体は悪ではありませんが、他方、この場合、隠れた要素がありました。この出来事の背後にあったのは、所有したいという動機でした。つまり、所有することによって、もはや神に拠り頼んだり従ったりしなくても済むようにしたいという動機です。目的は地位の変更であり、別の地位を得ることでした。これがこの誘惑の背後にあったものです。それは神に対する人の依頼心、神に対する人の従順に、直接一撃を加えるものでした。あるいは別の言い方をすると、それは神の地位に直接一撃を加えるものだったのです。
神の性格に対する非難
さらに、中傷も隠されており、それは二つのものについてでした。第一に、神の愛に関する中傷です。この誘惑の奥底には、神の愛を疑うようにという誘いが秘められていました。神は愛することと被造物の益を図ることとを公言されたけれども、実は最善・最高・完全なものを差し控えているのであり、実は被造物の生活を不必要に勝手気ままに制限している、とほのめかしたのです。神は実は愛ではない、そんなことをする神は愛ではないから、というのです。さて、私が述べているのは、人はこれをすべて察知したということではなく、聖書全体と人の歴史全体がこれを立証しているということです。サタンが最初に仕掛ける基本的かつ狡猾な悪魔的攻撃は常に神の愛に対してであり、サタンは決してこの攻撃をやめません。あなたも私もこの地上にいるかぎり、この点に関して誘惑されるおそれが全くなくなることはありません。神は愛である、とあなたは私に告げられるでしょうか?このことやあのことを見てください!それは制限以外の何物でもなく、あなたは本来持てるしまた持つべきものをすべては持っていないのではないでしょうか?
次に、それは神の誠実さに関する中傷でした。つまり、神は真実なのか、神は本当に信頼できるのか、に関する中傷でした。「神はそう言われたのですか……?」。さて、何が起きるのかわかります。誘惑のとき、神の善良さが常に非難され、神の真理が常に疑問視されます。神の愛と神の誠実さを示す他のすべてのしるしが常にぼかされます。気をつけて目を覚ましているすべての人への明確な答えは、「ああ、そんなことはありません!見てください、至る所見回してください。神の愛の証拠やしるしが至る所にあります。私には神の愛を示す証拠がたくさんあります。ただそれについて黙想しさえすればいいのです。座ってそれについて考え、状況を判断すればいいのです」というものです。しかし、あなたたちのうちどれくらいの人が試みの時にそうして、それにより逃れの道を見いだしたことがあるでしょう?試練、誘惑、圧迫、攻撃を受けるとき、それまでの祝福がすべてぼかされてしまう、というのは真実ではないでしょうか?どういうわけか、それらの上にかすみがかかってしまいます。濃霧と煙幕がかかってしまいます。そして、自分の現在の逆境と当座の困難しか見えなくなってしまいます。神と、その愛、その忠実さ、その真実さとに関する疑問に取り憑かれてしまいます。最後の啓示の中でイエスが「忠実で真実な者」(黙十九・十一)と呼ばれているのはこれが理由である、と私は信じています。これは人における勝利の偉大な称号です。この勝利は人におけるものであり、神の愛と神の真実さに関する疑問を絶えず引き起こすサタンのすべての働きに対する勝利です。この称号の背後にはその基礎として、「わたしは死んだが生きている者である」といった御言葉があります。しかし、ちょっと待ってください。「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか?」というこの叫びを聞いてください。それはキリストにとって誘惑の時、暗闇の時でした。キリストはそれからどのように抜け出されたのでしょう?「神の愛は破綻し、神の真実さは頓挫した」というサタンの示唆を弄んで育んだ者として抜け出したのではなく、あなたや私なら決して経験しないであろうこのような時に、サタンの示唆や中傷の総計に打ち勝った勝利者として抜け出されたのです。キリストは出て来て、忠実さや真実さという特徴の化身となられます。
真の狙い
さて、ここに二重の中傷があって、神のあわれみと善良さを全く見えなくさせます。次に、さらに隠されていものがあることがわかります。それは、神をその地位から追い出して、その地位に自分がつくための、サタンの巧妙な隠れた方法です。考えてみればよくわかります。これがまさに起きました。神は退けられて、サタンがその地位につきました。これこそまさにサタンが狙っていたことです。サタンは、常にそうするように、神に関する疑義を携えて入り込み、自分の話に傾聴する耳を見つけたことがわかります――ああ、サタンになびきやすい耳、サタンとの交渉は、なんと危険で災いなことか!キリスト・イエスは決してそうされませんでした。自分の問いかけに対して開かれている耳を見つけて、サタンは速やかに行動し、このわずかな強みを活かして嘘、明らかな嘘をつきました。「あなたが死ぬことは決してありません」。サタンは今や本腰を入れて確信に導こうとしています。その皮相的な利点を強調して、奥深くに何かを打ち込もうとしています。「あなたが死ぬことは決してありません」。それだけでなく、直ちに別の何か――誤った立場にある真理――が続きます。「あなたがそれを取って食べる日(中略)あなたは神々のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです」。全くそのとおりです!神は後に、「人はわれわれのひとりのようになって、善悪を知るようになった」と仰せられなかったでしょうか?しかし、この真理は誤った立場にあり、その恐ろしい悲惨な結果は示されませんでした。知識を得た事実が問題なのではなく、神に背く形で知識を獲得したこと、あなたを神から引き離すような形、神から遠ざけ、神を私たちから遠ざけるような形で知識を得たことが問題なのです。問題は、神から独立させようとする巧妙な隠れた意図を持つサタンのそそのかしで知識を得ることです。人が一たび神から独立した時、サタンは狙いを遂げました。サタンが神の地位にあります。
さて、愛する人よ、これが死の道であり、それはすべて一言にまとめられます。死の道は神から自己と独立へと向きを変える道です。その独立とは、判断の独立、願いの独立、意志の独立です。ですから、「罪を犯す魂は死ぬ」。魂とは知性、心、意志です。神からの独立は死の道です。自分自身の考えを持つこと、自分自身で判断すること、自分自身の立場を固守すること、自分自身の結論に固執することは死の道です。なんという領域をこれは開くことか!これは、そのからだである教会に関する主イエスの至高の頭首権という問題全体を開きます。そして、この霊的なからだの個々の肢体がいかなる形であれ独立することを禁じます。これは、もちろん、それ以上の問題に触れます。死の道はアダムの道であり、判断の問題で自己に向かうこと、願いの問題で自己に向かうこと、意志の問題で自己に向かうことです。
命の道の模範であるキリスト
さて、これにより私たちはキリストに導かれて、最初のアダムの立場とは逆の立場にある最後のアダムにおける命の働きを見ます。彼が取られた道を見ます。ああ、誘惑におけるサタンの狙いを常に覚えておいてください。神の御子の場合もそうであり、私たち一人一人の場合もそうです。私たちはサタンの狙いを押さえなければなりません。主イエスの誘惑に関する私たちの解き明かしや説明の大半は十分ではない、と私は感じています。究極的な点に至らずにいます。助けにはなるのですが、要点を外しています。主イエスに対するサタンの誘惑の支配的原則は死であり、それ以外の何物でもなかったことを、私たちは認識しなければなりません。サタンは主イエスの命を狙っていました。主イエスが人の命になれなくなることを狙っていました。言わば、命の流れをまさにその源から止めることを狙っていたのです。誘惑の目的は常に命の問題です。サタンは死を狙っていました。そのため、御言葉はサタンのことを「死の力を持つ者」(ヘブ二・十四)として描写しています。死はサタンが神の子供たちに対して振るうものです。しかし、キリストの道を見てください。キリストの道は常に自己から、独立から、御父へと、神へと至る道でした。キリストの生涯で注目すべき素晴らしい点の一つは、いかに躊躇や保留をせずに、彼が常に自己から御父へと向かわれたのか、独立するよう提案されても御父に拠り頼まれたのか、という点です。自分からは何もしない、が彼の生活態度でした。キリストの場合、これは不動のものでした。自己に諮らず、自己を顧慮せず、自己の意見、自己の願望、自己の意志はありませんでした。キリストの場合、常に「わたしの意志ではなく、あなたの御旨……」でした。「わたしが来たのはあなたの御旨を行うためです」「わたしはあなたの御旨を喜んで行います、ああ、わが神よ」。自己から、神に対する独立から、かけ離れています。これがキリストの務めの始まりにおける誘惑のまさに核心であることがわかります。誘惑は神から独立して自分自身で、自分自身から行動することでした。しかし、彼は毎回、問題をこの一点に戻されます、つまり、神はこの問題に関して御旨を知らせてくださっている、神はこれに関して表明しておられる、こう書かれている、こう書かれている、こう書かれている、という点にです。どの問題でも神が最終決定者です。私の便宜、私の慰め、私の昇進、私の益、私の自己実現、私の目的ではありません。私の命ですらありません。御父をおいて他にありません。
キリストへの同形化が、愛する人よ、キリストにある命の法則の至高の要素です。これがキリストにある命の法則です――常に自己から、自分自身の魂から、神へと向かうことです。自分自身の理屈、自分自身の願望、自分自身の意志から離れることです。これが神の御子のかたちに同形化されることです。これはとても実際的です。御子のかたちに同形化されるよう予め定められたことについて述べる時、これは何か秘密の、隠された、知覚できないものであって、自分の知らぬ間に聖霊の御手によってなされることである、と私たちはおそらく思うかもしれません。しかし、そうではありません。神の御子のかたちへの同形化は、断固たる選択、慎重な選択という線に沿ってなされます。神の御子を支配していた法則――常に自己から離れて神に向かうこと、知性・心・意志の独立から全く遠ざかって神へと向かうこと――に従うことによります。神はとても実際的な方法でこれを試されます。
これは、ですから、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」です。アダムとキリストの場合に見られる命の霊の法則のこの最初の点とは何でしょう?それは、主に対する最初の服従、十分な服従、継続的な服従、最終的な服従の法則です。これが命の道です。サタンは「これは減少の道であり、制限の道であり、失う道である」と言います。神は「これは命の道である」と仰せられます。サタンの道は死の道であることが判明しました。命の道を取りえた者、神が定められた命の原則を確立しえた者から、この命は断ち切られ、差し止められました。神は主であり、主権者です。これは確立されており、疑問や疑いや議論の余地はありません。神は愛であり、神は真実です。これから髪の毛一筋ほどでも逸れるなら、命から逸れてしまいます。それが意味するところを把握してください。そうするなら、あなたは突き進んで命に至ります。