第三章 ノアと命の法則

T. オースチン-スパークス

この黙想を進めていくにあたって、あなたたちに示したい基本的性格の御言葉が他に二つあります。一つは一ペテロ三・二〇~二一です。

「……昔、ノアの時代に箱船が用意されつつあった時、神は忍耐して待っておられました。その箱船に乗り込み、水によって救われたのは、わずかに八名でした。この水はバプテスマを象徴するものであって、今や私たちをも救うのです。それは、イエス・キリストの復活によるものであって、肉の汚れを除くことではなく、神に対する正しい良心の応答です。」

私たちの今の黙想にとって決定的に重要なこの文脈から切り離さずに、私はこの御言葉の後半の部分「それは、イエス・キリストの復活によるものであって(中略)神に対する正しい良心の応答です」を強調したいと思います。

次に、きわめて馴染み深いローマ六・三~八の御言葉に戻ることにします。

「あなたたちは知らないのですか?私たちがイエス・キリストの中へとバプテスマされたのは、彼の死の中へとバプテスマされたのです。ですから、死の中へとバプテスマするバプテスマによって、私たちは彼と共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえらされたように、私たちもまた命の新しさの中を歩むためです。なぜなら、もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられているなら、彼の復活の様にもあずかるようになるからです。私たちはこのことを知っています。私たちの古い人が十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、私たちがもはや罪に仕えないようになるためです。なぜなら、死んだ者は罪から解放されているからです。今、もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きるようになると信じます。」

正しい良心の基礎

今、命の法則の働きを説明するために、神によって用いられた三番目の人物であるノアに移ることにします。この人々の一人たりとも、他の者たちや残りの者たちから切り離したり分けたりできないことは、すでに見ました。彼らはみな重なっており、成長して他の人に至り、また、他の人から成長します。私たちは実際のところ一本の鎖、七つの輪からなる鎖の中にあることがわかります。この書を手に取る時、死の道のこの鎖の輪がはっきりとわかります。「彼らの目が開かれた」(創三・七)これがこの鎖の第一の輪です。第二の輪は「そして、カインは主の御前から去った」(創四・十六)です。第三の輪が直ちに続きます、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。(中略)そして神はノアに言われた、『すべての肉が滅びる時が来た。地は彼らによって暴虐で満たされたからだ。見よ、わたしは彼らを地と共に滅ぼす』」(創六・五、十三)。さて、この三章七節から何が起きたのかがよくわかります。彼らの目が開かれた、と述べられています。これは良心が生じたこと、そのときやましい良心も生じたことを意味します。その時まで、良心は支配的器官ではありませんでした。しかし今、良心が生じました。そしてそれはやましい良心だったので、彼らはあのように行動して隠れました。アダムと共にやましい良心が生じました。アダムと共に生じたこの誤りは治癒されなければならないことを、私たちは見なければなりません。やましい良心から解放されて、正しい良心から神に応答しなければなりません。

アダムの種族自身は正しい良心によるこの応答を全くすることができません。天然の人の中で良心がどのように働いたとしても、それは常に罪定めの下にあることを露呈します。なぜなら、天然の人の中では、良心の働きはたいていの場合、訴えるか弁解するかのいずれかだからです。この両方とも同じように罪定めの下にあることを示します。良心のとがめと、人は正しい良心から神に応答できないことは、神に関するかぎり、人は死んでいること、神に対して死んでいることを意味します。正しい良心から神に応答するには、天然の立場とは全く別の立場である生ける立場、命の立場の上にある必要があります。だから一ペテロ三・二一では、イエス・キリストの復活による、神に対する正しい良心の応答について述べているのです。さて、これにノアは私たちを導きます。ここで私たちは、正しい良心から神に対して応答することと結びついている命の問題に直面します。なぜなら、命と正しい良心、つまり、神に対する正しい良心と命とは同行するからです。同じように、やましい良心と死も同行します。

黙想の一つ前に戻ってアベルを見てごらんなさい。アベルの場合、この問題は十字架の死の面と関係しています。アベルとそのささげ物について黙想した時に見たように、アベルは次のように判断して結論を下しました。すなわち、アダムの不従順の後、神の満足のために天然の何ものも持ち込むことはできず、命の唯一の道は死による、と。被造物は死ななければなりません。魂は死へと注ぎ出されなければなりません。カインがしたように、その働き、成果、善を持ち込んではなりません。ですから、アベルは十字架の死の面を表しています。十字架で魂は死へと注ぎ出されます。

さて、ノアに来る時、私たちは普遍的死の状況を見ます。死が視野のほとんどを占めます。それにもかかわらず、ノアの事例を支配しているのは積極面です。これを認識することがとても大切です。ノアの場合、すべてが水の中に沈んだにもかかわらず、最も重要なのは死の面ではありません。ノアの場合、支配的なのは命の面、積極面です。

ペテロが述べていることを再び示すことにしましょう。

「ノアの時代に箱船が用意されつつあった時、神は忍耐して待っておられました。その箱船に乗り込み、水によって救われたのは、わずかに八名でした。この水はバプテスマを象徴するものであって、今や私たちをも救うのです。それは、イエス・キリストの復活によるものであって、肉の汚れを除くことではなく、神に対する正しい良心の応答です。」

これは積極面、命の面であることがわかります。これはすべてあるもの、つまり、復活、命を見せています。復活、命は、古いアダムの天然の命、魂の命を拒否した時だけ存在しえます。これがノアの証しの一つの面です。神は常に積極的な線上で最終的に働かれます。神は「すべての肉が滅びる時が来た。(中略)わたしは彼らを地と共に滅ぼす」と恐るべきことを仰せられる一方で、それでおしまいにすることは神の御旨ではありません。神は積極的な線上で働いておられます。神は、当初の御旨に適うものを確保するために、再活動されます。神は御旨を放棄して、「わたしは意図したように行うことが全くできない。人のせいで、わたしが心に定めたことを成し遂げるのは不可能である。わたしは敗北し、望み無き状態にある。すべてを一掃して、やりなおそう」とは仰せになりません。神は決してこのような方ではありません。地を清めるためにどんな手段に訴えたとしても、神は別の何かのために地を清めておられるにすぎません。神は積極的な目標をもって活動しておられ、再活動しておられます。さもなければ、神は何度も何度も敗北することになります。望みなき無力な神は歴史を通して無益な試みをしてきたのであり、この宇宙で最大の失敗はイエス・キリストの死だったことになってしまいます!しかし、主イエスの死はこの宇宙で最大の神の勝利だったことを私たちは知っています。主イエスの死は新創造のために地を清めました。神は常に積極的な線上で働いておられます。しかし、神が拒否されたものを拒否しないかぎり、決して積極面に至れず、決して命に至れません。神は、人を支配するものとしての天然の命、人の魂の命を拒否されました。これはどうしてでしょう?前に見たように、アダムの違反と堕落以降、人の天然の命、魂の命は偽りの命だからです。カインによってこれは大いに明らかにされています。

天然の魂の命は偽りの命である

ここで前の黙想で述べたことを再び強調しなければなりません。カインはとても宗教的な人です。彼なりのやり方でとても信心深い人であり、神を礼拝の対象として理解・認識していました。自分の労働の成果である畑や木々の実を見渡した時、彼はおそらく最善のものを摘み取り、最も完全なものを選び、何が神に相応しいのかに関する自分の最高の判断にかなう供え物をささげました。私たちはそのことのゆえに彼を誉めるかもしれませんが、彼がまさにそうした公算がきわめて高いと思います。彼は携えうる最高のものを持って来て、そうやって神を礼拝しようとしました。そして、その線に沿って命を求めました。しかし、彼の魂は暗くなりました。魂から出たあの行動、魂から出たあの力、あの動き、あの命、あの天然の命は、偽りの命だったことがわかります。この偽りの命が彼を誤導し、欺きました。そして、神に関するかぎり、何の出口も脱出路もない袋小路に至る道に彼を進ませました。それは偽りの、欺かれた命の導きであり、私たちのこの天然の命も同様です。それは偽りの命、欺かれた命であり、たとえ礼拝しているときでも私たちを欺きます。礼拝中、私たちは恍惚状態になりかけるかもしれませんし、大いに感情的になるかもしれません。礼拝中、真の苦悩らしきものがあるかもしれません。私はそのようなものを見たことがあります。私は聖体祭や他の時に、南ヨーロッパや地中海沿岸の大聖堂や教会の中に入って、人々が苦悶せんばかりの姿で床の上に広がっているのを見ました。聖体が上げられた時、人々は呻き、汗をかかんばかりでした。しかし、その半時間後には、路上で互いにナイフを使って喧嘩していたのです。これは偽りの命、欺かれた命であることがわかります。もちろん、これはその極端な表れですが、もっと別の形でこの同じものを見ることができます。誠実だからといって必ずしも本物とはかぎりません。私たちは識別しなければなりません。私たちは良かれと思っているかもしれません。カインもそうでした。しかし、彼は殺人を犯しました。私たちのこの命は欺かれた命であり、礼拝している時でも私たちを欺いて、徒労に終わらせます。

いわゆる神への奉仕においても、私たちは自分自身の情熱、自分自身の熱心さ、自分自身の熱意で奉仕して、奉仕に打ち込んでいるのであって、神の御霊の力と活力――神に仕えるのはただこれによってでなければなりません――で奉仕しているのではないかもしれません。さて、聖霊が私たちを捕らえる時、私たちは物事に打ち込まなくなる、と述べているわけではありません。たしかに、聖霊が私たちを捕らえるとき、聖霊は私たちを用い尽くされます。なすべきことは何でも全力を尽くすよう、主は要求されます。力を尽くし、知性を尽くし、心を尽くして主に仕えるよう、主は要求されます。そうなのですが、聖霊が指導し、推進し、支配する責任を担わなければなりません。さもないとすべてが無駄になり、私たちは主に仕えようとして欺かれて、徒労に終わってしまいます。問題は、この源が何かということです――私たち自身でしょうか、それとも主でしょうか?神から出ているのでしょうか、それとも何が神のためであるのかに関する私たち自身の判断からにすぎないのでしょうか?さて、ここで理解力を照らしてもらう必要があります。ここで事をそのあるべき所に置く必要があります。この天然の命は神に辿り着けません。それゆえ、霊的成熟に決して達しません。神のための働きにきわめて精力的に取り組んで、自分の力を徹底的に用いている人々が、依然として神を知る霊的知識をほんの僅かしか持っていないのは、奇妙なことではないでしょうか?私たちのこの魂は私たちを霊的成熟、神を知る現実的な正しい知識に決して導きません。主を知る知識において成長すること――これがすべての試金石です。自分がどれだけのことをしてきたのか、自分がどれほど誠実で熱心だったのかは、最終的問題ではありません。長い目で見て大事なのは、自分がどれだけ主を知っているのか、自分が主を知る知識においてどれだけ成長したのか、自分の霊的知性がどのように増し加わったのか、ということです。これこそが重大な問題であり、これは命、神の命の問題です。

洪水はカインの道の上に下された判決でした。この鎖の第二の輪は、前に述べたように、「そしてカインは主の御前を去って、ノドの地に住んだ」です。その後、何が起きたのでしょう?彼は文明を起こしました。そこに何が記されているのかに注意してください。町々、貿易、芸術、産業といった人間生活の様々な面がすべてカインから出て来たことがわかります。カインは文明を築き、自分自身の種類にしたがった世界を生み出しました。天然の命、魂の命、魂の世界です。神からではなく彼自身から出た世界です。洪水がカインの道、天然の栄光の世界、神から離れて人が生み出した豊穣な世界の上に下された神の判決でした。ですから、命の法則はこの線――死の道――ではなく別の線に沿って、洪水をくぐり抜けた復活の立場という反対側の立場の上で働くことがわかります。

真実な安定した立場の重要性

さて、天然の命を拒否することを前提とする復活の立場を離れるなら、必ず直ちに命は阻まれて、死がそれに乗じます。私たちは天然と手を切って、天然の立場を自分の希望、確信、信用、期待の立場とすることをやめなければなりません。私たちは一度かぎり永遠にこれに決着をつけなければなりません。しかし、自分自身の天然とのこの恐るべき戦いを終わらせてこの問題に決着をつけるには、なんと長い時間がかかることか!私たちは何であれ天然のものに少しでも期待を抱いているでしょうか?もちろん、この教理になじんでいるあなたは、「いいえ、決して!」と言うでしょう。それが実を結ばない無益なものであることを私たちは理解しています。そこに何の希望も抱くことはできません。それなら、自分自身の内に何の善も見つからないからといって、どうして惨めな気持ちになるのでしょう?これは、自分からのものにあなたが期待していることを意味します。この立場を取ることは死の立場を取ることです。もしあなたが復活の立場を取るなら、それは自分自身から何らかの善が生じるのを期待することを一度かぎり永遠に全くやめることを意味します。ああ、これに決着をつけなさい。悪魔に関して決着をつけなさい。なぜなら、これは私たちにとって重大な争点であるだけでなく、サタンの根拠でもあるからです。この鎖の各々の輪、この命の法則の各面は、サタンの働きを覆します。サタンが魂を支配的な誤った地位に置いた以上、サタンの根拠を除くために、魂の命は注ぎ出されなければなりません。

自分の霊的生活にいつも問題を抱えていた農夫の話を聞いたことがあるでしょう。その問題は、サタンがいつも彼のところにやって来て、「お前は赦されておらず、キリストにある真の信者でもない。お前は本当に救われてはいない」と彼に言うことによって引き起こされたものでした。ほぼ毎日、この訴えによって彼は落ち込み、ついに生活に耐えられなくなりました。ある日のこと、この訴えとその下で落ち込む惨めな気持ちのせいで、もはや進めなくなって、彼は座り込んでこの問題と対峙しました。彼は神の御言葉を前にして自問しました。彼は言いました、「私は神の御言葉を受け入れているだろうか?それを信じているだろうか?もちろん、心を尽くして信じている。それなら、神は『あなたは赦されている』と仰せになっている。神は、『それゆえ今や、キリスト・イエスを信じる者は罪に定められることはない』と述べておられる」。そこで彼は、サタンがたびたび自分と会った畑に出て行きました。そして一本の杭を取り、それを地面に深々と突き刺して、「これで一件落着だ!」と言いました。それから、畑作業を続けました。彼が反対側に着くと、サタンが戻ってきて彼を再び試みようとしました。彼は言いました、「ここを見るがいい、サタンよ、私についてこい。あの杭が見えるか?あそこにこの杭を立てた理由をお前はわかっているだろう。私があれを立てたのはこの問題に一度かぎり永遠に決着をつけるためである。神がこれを語られ、私はそれを信じて受け入れた。この問題はこれで終わりだ!」。

サタンと討論してはなりません。既成事実を指摘して、そこにとどまりなさい。あなたの事実から離れてはなりません。もし復活の立場とその意義から離れるなら、それは死です。天然の命を何の希望もないものとして拒否したことを意味する復活の立場にとどまりなさい。あなたはキリストが希望、確かな希望、唯一の希望であることを見ました。この立場を保ちなさい。そうすれば、キリスト・イエスにある命の霊の法則は罪と死の法則から解放します。これが命の法則が復活の立場に基づいて働く方法です。これ以外の立場では、正しい良心は得られません。これをあの農夫は、サタンの側に行ってサタンの言うことを受け入れた時、はっきりと知ったのです。

ノアは天然の命の空しさ、空虚さ、不毛さを永遠に証しします。その証しは実際的証しです。彼が天然の命の空しさを証ししたのは、それから逃れるために箱船を建てることによってでした。それがノアにとっては、天然の命から逃れる命の道でした。キリスト・イエスにある命の法則は、私たちが天然の外側で霊の中にあることを前提とします。さもなければ、この法則は私たちのための法則ではありません。私たちにとって何の意味もなく、私たちに関しては働きません。命の法則は、私たちが天然の命の外側にいてキリスト・イエスの中にあることを前提とします。

区別の喪失に反対する証し人であるノア

さて、もう少し詳しくノアについて調べることにします。ノアの時代の顕著な特徴の一つは、清いものと清くないものとの間の区別の喪失でした。創世記六章二節に神秘的な記述があります。「神の子らは人の娘たちを見て(中略)選んだ者を妻に娶った」。最後の句「彼らは選んだ」はとても示唆的です。この記述の最初の部分の説明に立ち入ることは慎重に避けつつ、その上辺を解釈することにしましょう。ここに神の系統に連なる者たちがいます。こう述べるにとどめることにします。神の系統に連なる者たちと神の系統に連なる者ではない者たちとがいます。神の子らと人の娘たちがいます。両者は混合し、区別は失われていました。神に属するものと神に属さないものとの間の区別は失われていました。両者はいっしょくたにされて、一つにされました。これが結婚の意味です。しかし、そうなるように導いたのは何だったのでしょう?「彼らは選んだ」。ここで魂が働いていることがわかります。神に属するものと神に属さないものとをわきまえずに、魂は願い、そして選びました。この原則がわかります。これを少し取り上げて、保持し、考えていただけないでしょうか。魂が働いています。願いは魂の感情の面であり、選ぶことは魂の意志の面です。神に属するものと神に属さないものとを区別せずに、願い、選んだのです。これこそまさに天然の命の流儀であり、まさにカインによって例証されているものです。天然の命は物事をまぜこぜにします。神に属するものと神に属さないものとを認識して見分ける力はありません。この二つを一緒にしてしまいます。今日、これがキリスト教の悲劇であり、いわゆる「教会」の悲劇であり、主の働きの悲劇です。これらのものがみなまざってしまいました。神に属するものが人の手に渡って、人が神の事柄の中に乗り込んでいます。これはみな、魂と神の事柄との混合です。

さて、これがノアの時代の状況の顕著な特徴でした。そして神が最も忌み嫌われるのは混合です。混合に立ち向かう、と神ご自身が御言葉の中で示しておられます。神にとっては、光があり闇があり、死があり命があります。神が御旨を達成される時、命の水の川は水晶のように透明であり、何の暗さも見あたりません。新エルサレム、聖なる都は碧玉のように澄んでいて透明です。これはみな神にしたがっています。「神は光であって、神の中に暗闇は少しもありません」。神は徹底的であり、混乱を憎まれます。神は混乱の神ではなく、混合に耐えられません。神は常に、これかあれかである!と仰せられます。「あなたは冷たくも熱くもないので、わたしはあなたをわたしの口から吐き出そう」(黙三・十六)。神は混合に吐き気をもよおされます。それがここでは優勢になっていました。天然の命が神聖な事柄をごちゃまぜにしていました。これによって混乱、裁きがもたらされました。これが死の道です。命の霊の法則は徹底さを要求します。さもなければ、働くことができません。命は、神のように絶対的に明確で、まぎれのない、透明なものの線に沿って進みます。命は混合を容認できません。

ここで、この命の欺きが神の裁きを招いたことがわかります。欺きとは何でしょう?この欺きは多くの形で働きます。しかし、魂に関するかぎり、次のような形で働くことがありえます。すなわち、どんな問題でも自分自身の意見に断固として固執する、という形です。自分自身の判断以外のどんな判断にも喜んで従おうとしないのです。最初から最後まで自分でやり通します。問題を自分で引き受けて、その問題に関する他人の判断を受け入れる用意がありません。もしだれかがそういう有様なら、その人はとことん欺かれていると考えられます。

ノアの証しは本質的に復活を含む

さて、しめくくらなければなりません。ノアについて注目すべき二つの点があります。彼は義人であり、神と共に歩んだ、と述べられています。義人として、彼はアベルの特徴を持っていました。アベルは義人であるとの証しを得ました。また、神と共に歩んで、エノクの特徴も持っていました。エノクは神と共に歩みました。このどちらもあなたを直ちに復活の立場にもたらして、ノアが何を象徴しているのかを示します。御言葉が述べているように、もしノアが義人であるなら、その義はどこにあるのでしょう?主イエスの復活の立場以外にありません。私たちは彼の命、つまり復活の命によって義とされます。イエス・キリストの復活は神ご自身の御業であって、罪と咎はすべて対処されて取り除かれたことを証しするものでした。この立場に基づいて私たちは義とされます。それは彼の義、私たちに与えられた神の義によります。これは神と共に歩む命です。誰が神と共に歩めるでしょう?復活の立場の上にない人、その意味で神の御前に義でない人は、だれも神と共に歩めません。

このように多くの方法でこの要点を強調し続けることができます。ノアが象徴しているのは積極面、復活です。また、命の霊の法則は復活の立場に基づいて働きます。これは、私たちが天然の命の他のすべての立場を離れて、キリストにあって外に出たことを意味します。その年月のあいだずっと、ノアは地上の物事の外側にあることを物語る働きに従事しました。その年月のあいだずっと、ノアは箱船を建造していたからです。毎日、彼はこの事実――自分はこの中にいないこと、外に出て行くこと、これを拒否すること――を強調し続けました。私について霊的に言えることが文字どおり起きる時が来ようとしています。これがまた私たちの立場でもあります。私たちもまた、霊的に外に出ています。そして、私たちに霊的に言えることが文字どおり起きる時を待っています。私たちは外に出て行くでしょう。しかし、キリストは外に出ておられます。復活の命は、私たちが地上の物、天然、この世、自分自身の外に出たことを意味します。ノアは箱船と共に絶えずこのこと――外に出ること、常に出ること――を証しします

しかし、そうであっても、霊的に外に出ているにもかかわらず、依然としてそのような状況に取り囲まれて、それによって悩まされ、煩わされ、天然の命によって圧迫されているわけですが、これには多くの忍耐が必要です。「忍耐によって、あなたたちは自分の魂を勝ち取ります」。

もう一度強調させてください。これは復活の立場の上に立つことを意味します。これがローマ六・三~八を読んだ理由です。それが示しているのは死を通して「外に出る」ことです。ローマ六章と一ペテロ三・二一を結び合わせてください――水を通して救われて復活の立場の上に導かれます。キリストの死の様の中に植えられて、私たちはまたキリストの復活の様の中にもあるようになります。八人(八は復活の数字です)が水を通して救われました。「この水はバプテスマを象徴するものであって、今や私たちをも救うのです。それは、イエス・キリストの復活によるものであって(中略)神に対する正しい良心の応答です」。私たち全員が完全な正しい良心を持つことは大いに可能です。幸いな状況です!あなたは正しい良心を持っているでしょうか?あなたは訴え、罪定めの下にあるのでしょうか?自分の心が悪いことを思い悩み、心配しているのでしょうか?これは、あなたが正しい良心によって神に応答していないことを意味します。何が問題なのでしょう?あなたは依然として天然に、自分自身に何かを期待しているのです。あなたは諦めた方がいいのです。なぜなら、それを拒否することが唯一の脱出の道だからです。「自分の中には、つまり自分の肉の中には、何も良いものが宿っておらず、自分はそれに何も期待しない」と自分自身に向かって、また悪魔に向かって告げなさい。悪魔はこれを知っていますが、それにもかかわらず、あなたを無理な探求の旅に就かせようとします。その旅で目当てのものは決して見つからないことを悪魔は知っています。このような方法で悪魔はあなたを煩わせます。ですから、主の立場に立って、悪魔をやっつけてはどうでしょうか。あなたの杭で追い払いなさい。自分自身の中には決して何の良いものも見つからないことを決着済みにしなさい。良いものはすべて別の方の中に、私たちの主イエスの中にあります。これがキリスト・イエスにある命の霊の法則です。主よ、その意味をすべて説明してください。