第六章 ヤコブと命の法則

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:創世記二八・十六~十七、十九/創世記三一・十三:三五・一、六~七/二九・十五~十八/コロサイ一・二四

さて、キリスト・イエスにある命の霊の法則のこの働きの六番目に来ることにします。私たちはヤコブに導かれます。命の法則の働きの別のさらに進んだ面を見ることにします。というのは、この先わかると思いますが、これらの段階の一つ一つは、前の段階よりも進んだものだからです。私たちは前に向かって進んでいるところであり、神の御旨に至ろうとしています。私たちは目標を見ています。豊かな命が私たちの前にあります。そして、私たちはこの継続的な段階によって豊かな命に至ります。この各段階は私たちをいっそう目標に近づけます。各段階それ自体がその豊かさを増し加えるものです。ですから、この命の問題において、ヤコブによって示されているこのさらなる発展がどのようなものなのかを、私たちは見なければなりません。

ヤコブの事例では、他の事例よりもいっそう明らかに際立っている三つの点があります。第一は生得権、第二はベテルつまり神の家、第三は奉仕です。この三つの本質は実際には一つです。一つのことの三つの相です。生得権は祝福です。根本的な祝福、最高の祝福、第一の祝福です。神の家――もしくは新約聖書の名称を用いると神の教会――は至高の祝福を得るものであり、この祝福は卓越性を意味します。これがヤコブにどう作用したのか、この生得権が彼にとって何を意味したのかに注意してください。父親から祝福を意味する言葉を得ただけではありませんし、あるものを得ただけでもありません。この祝福によって彼は第一位に置かれたのです。ですから、兄が弟に仕えました。この祝福は彼を卓越した者にしました。神の家、キリストのからだである教会は、このために選ばれています。「ヤコブをわたしは選んだ」「ヤコブをわたしは愛した」。奉仕は常に神の家と関係しています。ですから、ここには一つのことの三つの面があります。

奉仕の基礎

さて、三番目の面から始めることにします。ヤコブについて考えると、彼のとても活動的な性質に強い印象を受けるでしょう。心も頭脳も機知も活動的であり、意志も活動的であり、取引や履行も活動的です。活発に絶えず警戒し、行動し、好機や機会を窺っています。彼の生涯はまさに活動の生涯です。にもかかわらず、彼は高遠なものに目を留めています。そうです、神の事柄に目を留めています。もしそうでなければ、ヤコブには救いとなる特徴が何も見あたりません。彼は神聖な事柄の卓越した価値を認識していました。それゆえ、彼はその地位を得たのであり、それに基づいて神は働くことができました。これは、神の働きの基礎となるものが、もし人の中に何かあるとすればの話です。この生得権――彼はその性質、範囲を理解していました。その意義、それが自分をどこに導くのかを知っていました。彼には神聖な事柄を重んじる価値観がありましたが、彼の兄エサウにはありませんでした。彼がベテルにやって来て、そこで夢を見て、朝起きた時、「確かに神はこの場所におられる(中略)この場所はなんと恐ろしいところだろう」と彼は言いました。そして、彼は夢を実際的な形で表現し、柱を立ててそれに油を塗り、その場所の名をベテル、神の家と呼びました。

ヤコブと共に進み続けるとき、厭うべき点が多々あるにもかかわらず、彼の生涯における大きな一歩はどれも、神の事柄に対する認識、霊的識別という印を帯びていることがわかります。彼の心は正しい方向を向いています。彼は正しい考えを抱いていました。問題は彼の知性と意志にありました。目的は正しかったのですが、それに到達しようとする方法が全く間違っていました。このようにヤコブを分析するなら、間もなく、命と死というこの問題における彼の意義がわかるでしょう。覚えておられると思いますが、彼は自分の機知や狡賢さによって祝福の権利を獲得しました――確かにそうなのですが、彼の霊的知覚という事実を見落としてはなりません――それにもかかわらず、この権利を獲得するのに用いたものが徹底的に対処されて終わらされるまで、彼は決してこの祝福にあずからなかったのです。祝福の道に入るには、心を神の目的と最高の御旨に向けなければなりません。しかし、その価値を認識してその道に足を踏み入れてからそれに到達するまでの間には、取り除かれねばならないものがたくさんあるかもしれません。これまで見てきたものと密接に結びついている命が生じるには、まず死の働きが大いに必要であることが判明するかもしれません。命を見て、それに向かって手を差し伸べ、それを得ようと奮闘し、それに到達するために自分の人間的な力をすべて傾けて最善を尽くしても、決して到達できません。自分に対する神の御旨に到達するには、その前に何かが自分の内になされなければなりません。自分の中の「ヤコブ」が対処されなければならないのです。それは、私たちが「イスラエル」の地位につくためです。神の事柄に関するあの自己の力、あの機知、あの自己の能力は屠られなければなりません。そして、神の力によらないかぎり神の御旨には到達できないこと、神の御旨を成就するための能力は自分の中にはなく、ただ神の内にのみあることが、全く明らかになる地点に、これをなによりも理解する地点に、私たちは達しなければなりません。

さて次に、命の法則の作用として直ちに生じるもの、すなわち奉仕の第一の法則がわかります。なぜなら、これをヤコブの活動や力は表しているからです。働き、奉仕、行動、すべてが神聖な事柄を目指しています。奉仕の第一の法則は従順です。ヤコブの場合に明らかな点があるとするなら、それはこれです。他方、彼は他のだれよりも行動の人、活動の人、奉仕の人として際立っています。彼はラバンのために七年間の二つの期間のあいだ奉仕しました。この奉仕には彼の人生のかなりを要しました。彼は常に行動している人であり、彼の物語の最初から活動的です。そうです、これと同じように、従順はヤコブの学ぶべき学課だったことも明らかです。これは聖書の中で最も容易に理解できることです。彼の生涯の一大転機――この転機ではすべてが神の御旨にしたがって展開しました――は、神の指の接触の下で彼がついに従順の立場を取った時でした。これが起きないかぎり、彼はベテルに戻ってそこに住めなかったのです。

神の家と不可分な奉仕

この二つは同行することがわかります。主は、「起きてベテルへ行き、そこに住みなさい」と言われました。ヤコブは決してベテルに住むことができませんでした。彼は逃れてベテルへ行き、ベテルは既成事実になりました。ベテルはそこにあり、神の家はそこにありましたが、ヤコブはそこに住めませんでした。なぜなら、服従の立場に達しないかぎり、だれも神の家に住めないからです。ですから、彼は進み続けて、神の家の基本的学課を学びました。その時、神は「起きてベテルへ行き、そこに住みなさい」と言われました。彼はあの転機に直面しなければなりませんでした。その転機で自己の力は尽きて砕かれ、彼は弱くなりました。しかしこの転機により神が彼の力となりました――神の皇子となったのです。こうして彼は神の家に相応しい者とされました。これはみな一つながりであることがわかります。神の家は神聖な奉仕の目的であり領域です。

さて、私がこれまでずっと正しいことを述べてきたとするなら、私はこのようなことを述べてきたのです。これについて私はあなたたちに課題を出したいと思います。もし可能なら、神の家と関係していない神への奉仕が何かあるのかを私に示して、聖書から証明してください。神への奉仕はみな、神の家と結びついており、それと不可分です。旧約聖書はこれに満ちています。新約聖書はこれを強調しています。キリストのからだである教会は、神の民のすべての奉仕の目的及び領域であり、それから離れた奉仕はありません。ああ、主の民が奉仕の目的に目を留めていれば。彼らは、神の家との関連性を自覚せずに多くの奉仕を抱えています。あなたは特に魂を勝ち取るという線に沿って主に奉仕するよう召されるかもしれませんが、覚えておかなければなりません。このような奉仕は神の家と関係しているのです。もしあなたがこれを自己目的化するなら、あなたはそれを矮小化し、制限して、その意図された目的をすっかり見失ってしまいます。ああ、神の全き御旨という結果に至らない伝道のための大きな取り組みの悲劇!魂が救われても、ほったらかしです。彼らは福音宣教団の中に入れられますが、それらは新約聖書に見られるような地方教会では決してありません。そして、これらの福音宣教団の中で二十年、三十年過ごし、五十年過ごすことすらありますが、この聖徒たちには救われた時に持っていた知識以上の豊かな知識がないことがわかります。彼らは何年も前に救われたのに、その時から一インチも進んでいません。このような聖徒たちが世界中のこれらの宣教団で群れを成しています。彼らは喜んでいます。救いを喜んでいる救われた魂にあなたは出会います。しかし、そこにはある悲劇があります。「ああ、私は何年も前にムーディーの下で救われました。私は今も主にあって依然として喜んでいます」。これが多くの人々の典型的立場です。この証しがなされる時、それはこれらの人々を代弁しています。もちろん、主をあなたの救い主として知ること、そして救いを喜ぶことは、大いに結構なことです。私はそれに何も反対しません。しかし、それ自体が目的となっており、それ以上決して進まないのです。これはどうしてでしょう?教会に一度も目を留めていなかったからです。私がいま述べているのは「教会通い」や、いわゆる「教会」と称されている特定の場所にいる会衆のことではありません。あなたは私の述べていることがおわかりでしょう。私が述べているのは神の家についての神の全き御旨、キリストのからだである教会についてであり、これには特に使徒パウロを通して与えられた啓示――キリストの霊的からだに関して開示された一大奥義と、神の御旨におけるその永遠の運命――の全き意義が伴います。神の御思いにおいては、すべての奉仕は教会すなわち神の家との関係を自覚しつつなされなければなりません。

あなたは、聖徒たちを慰め、励まし、主の子供たちのためにあらゆる種類の親切を施して回ることで、用いられ、祝福されるかもしれません。あなたはそれが実際に霊的な増し加わり、キリストの増し加わりにつながるものであり、神の目的に導くものであると確信しているでしょうか?それは助けになり、祝福になるかもしれませんが、神の家の実際的建造についてはどうでしょうか?慰めと励ましと助けを与える私たちの務めにおいて、私たちは霊的増し加わりを分与できなければなりません。踏み段の上にいる足萎えの犬を助けるだけではだめです。すべての行動には目標がなければなりません。その目標とは、すなわち神の家です。

務めや奉仕の形式がどうであれ、すべての奉仕は、神の観点から見ると、神の家と関係しています。これがヤコブの事例で明らかにされています。結局のところ、奉仕とは何でしょう?幼子は、全く良い動機で、全く純真な気持ちから、母親を助けるために多くのことをするかもしれません。母親はもちろんとても忍耐強く、子供を罰したりしません。子供の動機は良いこと、本当に助ける気でいることを、母親はよくわかっています。しかし、なんと気の毒な母親!時々、母親が「もちろん、娘は私を助けようとしています。しかし、娘は少しもわかっていないのです。自分のせいで私の仕事がどれだけ増えるのか、自分の後で私がどれほど片付けなければならないのか、結局のところ実際には、少しも助けになっていないことを」と言うのを耳にします。子供たちの場合はそれでもかまいません。奉仕の問題について実際に考える時、私たちはこれをどう解決するのでしょう?きっと私たちは、真理と実際による奉仕は自分たちの目指す目的を実現するものである、と言うでしょう。ですから、そのように貢献するすべての人に、私たちは「今、あなたたちは本当に助けになっています。今に、私たちは目的地に到達するでしょう」と言います。

神の目的は何でしょう?神の御心は何に注がれているのでしょう?神の教会です。主イエスは教会を愛して、教会のためにご自身をお与えになりました。私たちがラケルについての節を読んだのはそのためです。すぐにこの点に戻って来ることにします。教会を確保することが真の奉仕です。そうです、教会はキリストのからだであり、神に対する真の奉仕は教会を確保し、教会による神の全き御旨を確保することです。これが神に対する真の奉仕です。素敵で素晴らしい有益なものではあるものの、実際には決して神の御旨に至らず、実際には御心の御旨に仕えていない、他の筋違いな多くのものではありません。神に関するかぎり、命が働くのはこの道によります。

命の霊の法則が働くのは、私たちが神の御旨、神の目的、神の御思いと積極的に同調する時です。そして、それらはみな神の教会に関するものです。私たちはアブラハムの信仰がイサクの子たる身分という結果になるのを見ました。そして今、ヤコブが子たる身分を得て、それを受け継ぎます。ヤコブに私たちは奉仕における子たる身分の真の精神を見ます。この精神は、御霊にかなう教会以外の何物にも決して真に満足することはできません。

レアとラケルの教訓

さて、これは私たちをレアとラケルに導きます。ヤコブはラケルのために七年間仕えましたが、ラバンは彼を欺いて彼にレアを与えました。レアはヤコブが慕っている者ではなかったので、彼はレアに満足できませんでした。満足しようと思えば満足することもできました。レアには麗しいところもありました。レアは優しい目をしていました。明らかに、これは男性の気を引くために仕組まれたことでした!彼女には魅力がありました。しかも、他の長所もありました。レアは何の苦もなくヤコブに家庭を与えました。ラケルはそうすることができませんでした。ヤコブはこう言ったかもしれません、「まあ、レアも悪くない。レアは自分が欲した者ではないけれど、レアにも良いところがある。落ち着いて満足することにしよう」。しかし、だめです。レアは彼の霊、心、内なる人が求める者ではなく、それ以外の何ものにも満足できませんでした。そこで彼は言いました、「私はラケルのためにもう七年間仕えます」。彼は自分の霊にかなう妻を得るために、二倍の労苦、二倍の行程を忍びました。

さて、子たる身分の霊、真の子たる身分は、御霊に属するものではない何物にも決して満足できません――心からのものではない何物にも決して満足できません。もちろん、ヤコブは型です。しかし、新約聖書の言葉で述べると、御霊にかなうものではない何物にも決して満足できない、ということです。レアはヤコブにとって魂、天然にかなう妻だったかもしれません。しかし、ラケルはそれ以上の者であり、これは後に証明されたとおりです。ああ、ラケルとレアには素晴らしい教訓があると思います。子たる身分の真の奉仕は、全く御霊に属するもの以外のもので止まったりしないのです。

主イエスはエホバの真の子であり、僕です。彼の内に子たる身分の真の霊があり、彼の内に奉仕の真の霊があります。この主イエスは、たとえその中に良い点がたくさんあったとしても、外面的・形式的・天然的なものにすぎない教会に決して満足できません。彼がアジアの七つの教会をご覧になった時、ヤコブがレアについて言えたのと同じように、「たしかに、とても良い点もありますし、とても素晴らしい点もあります」と言うことができました。しかし、ヤコブのように、彼はさらに言われました、「わたしはこれに満足できません。これはわたしの心に応えるものではなく、わたしの霊にかなうものでもありません。わたしが労苦してきたのはこのためではありません。わたしを心の底から真に満足させるには、それ以上のものが必要です。何が適切であり、何が正しく、何が神の御思いにかなっているのかに関する内側の最も深い感覚を真に満足させるには、それ以上のものが必要です」。こういうわけで、善は最善のために下位に置かれなければなりません。奉仕の霊は、教会、妻、花嫁に関する神の全き御旨に、常に傾注します。そして、それ以外のものでは決して満足できません。子たる身分はこのような方法で働きます。これ以外の方法でそれがどのように生じるのか、私にはわかりません。私は確信していますが、もし私たちのだれかがこの問題に関して小さな特別集会を開いて、「さあ、教会に関する神の全き御旨に専念することにしてはどうでしょう?」と言うなら、これについて既に述べたように、私たちはこう言わなければならないでしょう、「これは教会の性質に関する一連のメッセージを聞いたからではありませんし、それについて聖書の中に何かを見いだしたからでもありません。そうではなく、どういうわけか、自分の心の中のどこかに、この問題を気遣う神聖な感覚が生じたのです」。これは御霊に属する事柄であり、私たちは多くの逆境のただ中で懸命に労苦しなければなりません。うんざりするほどの逆境、反対、疑いが、神から生まれていないものをすべて消し去ったとしてもです。もしこれが自分の内におられる神からのものでなければ、そして、自分がこの問題を握っているのではなく、これが自分を握っているのであることを、もし私たちが理解していなければ、この道の困難さのゆえに、私たちはとうの昔にこの問題を諦めていたでしょう。私たちが何かを取り上げたのではなく、神がこの問題の中に私たちを置かれたのです。私たちに何ができるでしょう?代価や苦難のゆえに、私たちは主の民の現状に甘んじていられるでしょうか?断じてできません!私たちは労苦し続けなければなりません。

愛する人よ、これが子たる身分の霊、奉仕の霊であると私は信じます。神の働きが私たちの内で深まるほど、私たちが教会のために苦しむほど、ますます私たちは主の民の現状に満足していられなくなることがわかります。ですから、ラケルは苦難、御霊の苦難の結果でした。

しかし次に、ラケルはレアにできたことができませんでした。前に述べたように、レアの場合、家族がごく自然に生じて、これはたやすいことでした。しかし、ラケルの場合は大違いでした。結局、なんと失望したことか!天然的な言い方をすると、実を得るのは不可能でした。しかし、ああ、神の主権はなんと素晴らしいことか!神の主権が天然の事柄によって聖書の中になんと頻繁に示されていることか。この特定の事柄ではなおさらです。サラ、ハンナ、他の人々の事例から、これがわかります。ここではラケルからこれがわかります。最終的にラケルは子供たちを持ちますが、この子供たちは神の介入の結果です。彼らは特別な意味で神からのものであり、神の働きによります。神がご自身の原則をなんと厳密に保たれるのかがわかります。真の奉仕、真の子たる身分は、決して天然からは豊かに実を結べないのです。天然の命は霊的な実、神に至る実を何も結べません。真に霊的な実であり、霊的な奉仕であるのは、神から発するものだけです。パウロがガラテヤ人への彼の手紙で述べたことを、あなたは覚えておられるでしょう。「私の小さな子供たちよ、あなたたちの内にキリストが形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています」(ガラ四・十九)。このガラテヤ人たちは主の子供であり、パウロはこう言えたかもしれません、「よろしい、あなたたちは主の子供です。あなたたちは救われています。それで結構です。残念なことに、あなたたちの歩みを傷つけるこうした悲しいものがあります。そんなものがなければよかったのに。しかしそれでも、あなたたちは主のものであり、それで結構です」。ああ、これではだめです!それではあまりにもレア的であり、あまりにも安直です。それ以上のものが必要であり、御霊から発したそれ以上のものが必要です(おわかりのように、これがガラテヤ人への手紙の基調です)。パウロは言います、「……あなたたちの内にキリストが完全に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています」。これがご自身の民に対する神の御旨です。ですから、この偉大なイスラエル人であるパウロ――最も完全かつ高尚な意味でそう言えます――がこう述べているのを、私たちはまたもや見いだします、「私は、あなたたちのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、私の肉体で補っています」(コロ一・二四)。キリストの教会のためにキリストの苦しみにあずかること――これが奉仕であり、これが子たる身分です。

実際的結果のまとめ

これが命の道であり、命の法則の働きです。これが徹底的にではなく単純に述べられています。神の豊かさは教会において表されるようになります。ですから、神の満足は教会に焦点づけられています。神への真の奉仕はみな、神にとって最も貴重なもの、すなわち教会を確保することと関係しています。そして、神への奉仕はみな、従順をもって始まります。従順は神の家の中に見られるものです。神が服従の法則を確立されるのは、神の家においてです。神の家のすべての構成員と同じく、私も服従しなければなりません。これは他の人々以上に服従し合うということではなく、神の家では自分の立場を従順によって見いださねばならないということです。神の家の他の構成員と同じく、私は神の家の奉仕者として独立して振る舞うことはできません。服従を学ぶ時、私たちは命を見いだします。神の家の中で実際に服従しないかぎり、私たちは命の道ではなく、死の道の中にあります。これが奉仕の第一の法則です。

ここに、各地で表現された教会の重要性があります。各地の会衆が神に奉仕する目的の一つは、その構成員がその中で主に服従することを学べる領域となることです。教会の中で主に服従することが、とても実際的な問題、大きな試練の問題になるのを、あなたは何度も経験します。

私はいくつかのことを指摘したにすぎません。これが命の道です。祝福はそこにあります。確かに、これは神の家であり、天の門です。「ヤコブは、神が自分に語られたその場所の名をベテルと呼んだ」。そこで神がご自身を彼に啓示されたからです。これが命であり、神がそこでご自身を啓示される天の門です。主よ、私たちの理解力を開いてください。