第八章 ヨセフと命の法則

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ローマ八・二、十七、ピリピ三・十

さて、キリスト・イエスにある命の霊の法則の七つの働きの最後のものに来ることにします。私たちは、創世記のアダムからヤコブに至る人々によって私たちのために描写されている、この働きの諸々の段階を辿ってきました。そして今、最後の七番目であるヨセフに来ることにします。ヨセフは先立つ六人全員の集大成であり、彼らを網羅して命の最終的豊かさへと至ります。

ヨセフは父の権益を第一にしていたのか?と問うことにしましょう。まさにこの問題を巡ってヨセフが登場することがわかります。ヨセフに関する物語は初めに、イスラエルは自分の息子たちのだれよりもヨセフを愛した、と告げています。これはなぜでしょう?そのすぐ後に示されているように、ヨセフは父親の権益を特別に気遣っていたからです。彼はあらゆることで父の権益を第一にしたのです。

ヨセフはさらに、何が父を喜ばせるのかに関して、霊的識別力と理解力を用いたのではないでしょうか?それが彼と兄弟たちとの間の揉め事の原因だったのではないでしょうか?彼の兄弟たちは父の心とは正反対のことをしていました。ヨセフは、これが父にとってどれほど不名誉なことであるのかを見て取りました。彼は自分の兄弟たちの間違いを見抜きました。それには問題がありました。そして、自分はそのように歩まないで、父に喜ばれるよう肉によってではなく霊によって歩もうとしました。

次に、ヨセフの場合、復活の原則がどのように働いていたのかが、はっきりとわかります。彼の生涯のほとんどはこの原則に基づいていました。彼は死の中に下ったのでしょうか?そうです、しかし彼は復活を知っていました。この復活の原則はヨセフの生涯の一大要因です。

信仰に関して、ヨセフはだれよりも試みられました。ポティファルの家、牢獄、地下牢で過ごした年月の間ずっと――ああ、この信仰の試みはなんと大きかったことか!「彼の魂は鉄の中に入れられ、主の御言葉が彼を試みた」と詩篇作者は述べています。そうです、信仰が要求されただけでなく試されたのです。彼が神に信頼した様は素晴らしいです。苦々しさ、憤り、反抗の痕跡は何も見あたりません。ヨセフの信仰が勝利します。

確かに、彼は真の子です。彼の兄弟たちによって代表される神の家のための奉仕に打ち込む姿は、子たる身分の霊を表しています。彼は自分の兄弟たちの幸福を気遣いました。彼は兄弟たちの食事の様子を見に行きました。彼らにパンを持って行きました。彼の生涯の一大目標は、後にエジプトで見られるように、自分の兄弟たちに奉仕することでした。

さて、ヨセフが先述したものをすべて体現していたことは明白です。次は何でしょう?次に、彼はそれらを貫き通します。苦難を通して統治に至り、拒絶を通して高揚に至り、低くされることを通して王座に至ります。ああ、愛する人よ、もし主イエスの命が私たちの中で自由な道を得るなら、それはこれらのものをすべて生み出します。この命は、自然にすべてが主へと至る道を取ります。この命は、何が主からであり何がそうでないかを識別する霊的識別力が成長する道を取ります。「あなたはこれを放棄しなければなりません。これをしてはいけません」と言う必要は決してありません。命の霊の法則は何が主の御心ではないのかを教えてくれます。それは私たちをこの世から分離するので、私たちは自分が分離していることに気づきます。これは、私たちはこの世を放棄しなければならないという問題ではなく、この世が私たちを放棄する問題です。私たちはこの世の外におり、この世ではよそ者です。命の霊の法則がそうさせるのです。この法則によって自分自身を試してみなさい。もしあなたがこの世の中で、また自分自身の天然の命の中で、幸いであり、快適であり、満足しているなら、主イエスの命がそもそも自分の中にあるのか、あなたは真剣に自問しなければなりません。この命が自分の内に働いているので、自分がますます地上でよそ者になっていくことに、あなたは気づくでしょう。自分がますます霊の中に、状況の外側にあることに、あなたは気づくでしょう。そして時として、あなたは最も深刻な衝撃に見舞われるでしょう。

確かに、神と共に進むことにより、自分がこの世からどれほど遠ざかったのかがわかるようになります。この世からなんと遠ざかったことか!これは命の働きです。これはこのような結果になります。それは諸々の困難を生じさせますが、そういうものなのです。命の霊の法則は、あなたとこの世やこの地上生活との間の溝を、ますます広げていくでしょう。そうなる運命にあるのです。それは必然的にあなたを外に追いやることになります。そうなると、当然ながら、そのような立場に置かれた時、神以外に何を頼りにし、何を支えとすればいいのでしょう?神はあなたの命、あなたの資源となられました。この世の楽しみは退いて、神があなたの楽しみとなられました。あらゆることであなたは神を仰がなければなりません。これが信仰生活です。もはやあなたの満足は地上にはありません。しかし、命がすべてを生じさせます。そして、アブラハムのように、神が自分の卓越して偉大な褒賞となる境地に、あなたを至らせます。神はエルシャダイ、大いに豊かさを注ぎ出す方です。

王座と真の宿命

ヨセフをよく見なければなりません。これらの様々な段階に沿ったこの命の働きは、これらの様々な事柄を自然に神の子供の現実としますが、すべて一つの宿命、一つの目標に向かって進みます。この命の法則は、私たちの中で自由な道を与えられるなら、私たちを王座に至らせます。その結果は王座であり、神と共に統治することです。しかしどのようにしてでしょう?苦難、謙卑、拒絶によってです。これが王座へと至るこの命の道です。これがヨセフが示していることです。

選びの器の神に対する独特な関係

しかし、ヨセフは父に特別に愛されていたことに注目してください。ヨセフの試練について取り組む前に、これを確認しておくといいでしょう。「主は愛する者を訓練」されますが、サタンは常にこれに反対します。私たちが困難、苦難、屈辱、拒絶の中にある時、「主はお前を愛していないのだ」という声が常に耳元にあります。ですから、ヨセフは父に特別に愛されていたことに注目するといいでしょう。なぜでしょう?すでに見た諸々の理由のためです。まず第一に、彼はあの二倍の労苦の結果でした。父は彼のために二回にわたって労苦しました。ヨセフを生み出すにはとても大きな代価が必要でした。キリストのからだである教会は、御父の御心のきわめて深い苦しみの実です。神は教会を確保するために大いに苦しまれました。それは神の教会です。なんと素晴らしい宣言でしょう!教会やキリストのからだと称されることがとても多いのですが、ここではその名称は「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使二〇・二八)です。こういうわけで、教会は神にとって特別に慕わしいものなのです。しかし、これがそうなのは、教会が神の二倍の奉仕、苦しみ、労苦の結果であるからだけでなく、教会は神の御霊の実であり、神の御霊の苦しみから生じたものであり、神の最も内なる部分にきわめて深く応えるものだからでもあります。これは素晴らしいことです。このように神は教会をご覧になります。神はありのままの私たちをご覧になるのではありません。キリストの中にある私たちをご覧になるのであり、これは永遠にそうです。驚くべきことです!

これを示す最も驚くべき実例・予型は、バラムがイスラエルについて述べるよう強いられた発言の事例です。その事例では、バラムは自分自身の言葉を述べることを許されず、神の御言葉を述べるよう強制されました。あらがえない強制の下で、山からヤコブの諸部族が展開している谷を見渡した時、彼は「神はヤコブの内に不法をご覧にならない」と言いました。ヤコブを見てください、荒野での生活を見てください、反逆、つぶやき、心の中でエジプトに逆戻りしたこと、不忠実さを見てください。これらに直面してもなお、神の御心から発したこの驚くべき宣言が、渋る不忠実な預言者の口から述べられたのです、「神はヤコブの内に不法をご覧にならない」と。なんという恵みでしょう!

ですから、主は教会を恵みの実として、ご自身の苦しみの実としてご覧になります。そして教会は、私たちには表現しがたい形で、なんとか主の御心に応えます。「キリストは教会を愛された」。キリストは昔も今も教会を愛しておられます。なぜなら、何らかの神秘的な方法で、彼の心が願うものを、教会において獲得されるからです。「キリストがそれを私たちの間で獲得されますように」という願いが、どうかますます深まりますように。これが父親に対するヨセフの立場であることがわかります。

真のビジョンの効果

次に何が続くのでしょう?苦難、拒絶、屈辱です!しかし、これは今述べたことと矛盾しませんし、父の愛に反するものでもありません。主イエスが十字架の道を行かれたことは、彼に対する神の愛に決して反するものではありません。全くそんなことはありません!なぜヨセフは苦しんだのでしょう?ヨセフはどのように苦しんだのでしょう?最初に、彼は自分の兄弟たちから憎まれました。彼は兄弟たちの憎しみを被りました。なぜでしょう?これには二つの面があります。一方において、彼が苦しんだのは兄弟たちが肉的だったからです。他方において、父親を悲しませて辱める道であると認識した道に反対したからです。これは誤解されずに述べるのが難しいことです。それにもかかわらず、これが正しい立場です。命の霊の法則にしたがって実際に進み続けていて、自分の中にこの法則が働いている人は、肉性に関する霊的識別力を持つようになります。たとえその肉性が、主の子供たち、御父の家族の中にあったとしてもです。そして、そのような識別力を持つがゆえに、それを受け入れることができず、それを拒否して、神の民の中にある肉性に反対する立場に必然的に達することになります。そしてそうするやいなや、あなたは追放され、「優越感を抱いている」と見なされてしまいます。あなたは絶縁され、排除されます。拒絶されます。嘲りと非難の的にされます。苦しみに遭います。肉性は暴露されるのを嫌がります。これが理由でヨセフは苦しみました。これは苦難の道です。神の最善のために立つことは、神の最善よりも劣るものに立ち向かうことを常に意味します。

次に、ヨセフにはさらなるこの特徴があったことがわかります。つまり、彼の志はあまりにも高かったのです。彼の心は王座に向けられていました。彼は統治する生涯を夢見ました。これらの原則は、とても人間的な物語の中に包まれています。主は不自然な絵を描くような御方ではありません。私たちが霊的な諸々の原則を示すためにこれを記していたなら、全く別の方法で記していたにちがいありません。主は、主なりに、とても人間的な言葉でこの物語を告げておられます。そして、ヨセフが兄弟たちと共に働くために進んだ不幸な道の詳細を、すべて私たちに伝えておられます。しかし、それにもかかわらず、このとても人間的な物語の背後には(この物語を見ると、ヨセフが最高のもののために立っている間ですら、彼の欠点が丸見えになっています)、あるものが隠されています。この人間的な物語の背後には、諸々の原則が隠されているのです。彼は夢を見て、その夢について告げましたが、その背後にはある原則がありました。彼は見ていたのです、神のために最後まで進み抜く人々に対する神のみこころであり御旨である王座を。王座は、神ご自身から発したこの命のために神が定められた宿命です。この命は、機会さえあれば、その源に戻らずにはいられません。源なる御方に戻らずにはいられません。神に戻れる唯一のものは神ご自身の命、神ご自身のものであり、それ以外にありません。この命が与えられているのは、苦難という聖別の過程を通して、私たちを王座に導くためです。これがこの命の宿命です。そして、この原則がヨセフを問題の中に巻き込んだのです。ああ、この統治する命、この王座の命、この勝利する命は、なんという敵意を引き起こすことか――「お前は確かに、自分は何か特別な者になる、他のだれよりも優れた気高い者になる、と思っている!」。このような言葉で人々はあなたを罵ります。

選びの器に対するサタンの憎悪

これにはそれよりもさらに深い何かがあると思います。ヨセフがキリストの型であり、それに何の疑いもない以上、彼の宿命はキリストのように王座に至ることでした。しかし、その王座を渇望する別の者がいました。この者は、この王座への大志を抱く人に対する状況を無茶苦茶なものにし、この王座に召された人々の生涯を何としても苦難と苦しみの生涯にしようと立ちはだかります。この光景全体の背後の影に隠れて、これが示すもの、これが前もって表しているものを絶えず見ていた者がいたのだと思います。私が思うに、たとえ影や絵図だとしても、サタンはどこでも常にキリストを見分けることができます。そしてこの絵図・型により神は、この王座に確実に達する方がいることを示唆しておられました。サタンはこれに反対します。そして、これを不可能にして挫折させるために、サタンはあらゆる肉的な手段を用います。そしてここに肉的な兄弟たちがいて、この王座に目を向けているこの人に襲いかかるのに必要な立場をサタンに与えました。彼の志はサタンにとって気高すぎました。もし教会が、神の意図された御旨にしたがって、このような志を持つなら、教会はサタンの手によって辛い時を過ごすでしょう。サタンの手から直接苦しめられるだけでなく、肉的なクリスチャンたちによっても苦しめられるでしょう。神と共に進み続ける者たちに対する最大の障害、邪魔物、苦難の原因は、肉的なクリスチャンたちです。神と共に進み続けるつもりなら、あなたはこの世によって苦しめられる以上に、信仰を告白する教会によって苦しめられるでしょう。これは苦難の道であり、王座に至る道です。

苦難によって完成される霊的備え

しかし次に、神がヨセフの苦難の中におられたことがわかります。神の主権の御手の下で苦難が必要だったことがわかります。苦難は王座のために彼を備えるものだったのです。もし苦しむなら、治めるようになります。これはたんなる苦難の事実のゆえではなく、苦難が私たちの内で達成することのゆえです。ヨセフの苦難は偉大なことを達成して、王座のために彼を整えたのです。

彼は仕える方法を学ばねばなりませんでした。なぜなら、奉仕が王座のしるしだからです。ついに彼が王座に達した時、それは彼の兄弟たちに仕えるためだったのです。私たちの永遠の運命は無為な余暇の生活である、と思わないようにしましょう。その素晴らしい点は奉仕です。「彼の僕たちは彼に仕える」。彼は奉仕を学ばなければならず、厳しい学校でそれを学びました。ポティファルの家は、僕になることをヨセフが学んだ学校でした。彼の学校はとても厳しい困難な学校でした――エジプト人の家の僕でした。神の皇子の子供、イスラエルが心を寄せる息子は、ポティファルの家での奉仕によって服従を学びました。全く空っぽにされました。それは、治める方法、高ぶらずに富を持つ方法を、彼が学ぶためでした。満たされるために空にされ、高く上げられるために低くされました。高く上げられた状態で奉仕するために、低くされた状態で奉仕しました。この諸々の苦難は何事かを達成しつつありました。ヨセフの苦難をすべて網羅することはできませんが、諸々の苦難が臨んだのは王座に至る道としてだったのです。

ですから、ヨセフは真に霊的な教会とその宿命を表しています。その宿命とは、キリストと共に統治することです。当面のあいだ、この統治する地位への小径は、拒絶、苦難、拒否、屈辱の小径です。そしてそのほとんどは、霊的でない神の民の間にある肉的要素によります。

さて、これ以上何を述べることができるでしょう?王座に達することは目標に達することです。命の道、命の働きがわかります。

真の基礎とその結果

最後に繰り返し強調して述べたいのは次のことです。まず第一に、私たちは、キリストを命として、自分の命として受け入れているのかどうかを、確認しなければなりません。「神の無代価の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」。この賜物を受けたら次に、前進しつつ、「永遠の命を握りなさい」という勧めを思い出す必要があります。なぜなら、すべてがとても暗くて恐ろしい耐え難いものになって、死を受け入れる方が容易なことも時々あるからです。これは文字どおり本当のことです。主の民の人生には、死ぬようサタンが提案する時もあります。そのような時、サタンは、この人生に終止符を打つこと、すべてが終わったことを受け入れること、「なにもかもおしまいだ!」と言うこと、そして、「絶望的状況になってしまったので、この状況の中から自分たちを全く取り去ってください」と主に求めることを彼らに願わせます。時々、あなたもそのような状況になります。私が述べていることをあなたが理解しているのかどうか、私にはわかりません。サタンは断固として立ちはだかります。サタンは彼らを抑圧して、彼らが死を受け入れることを望みます。こういうわけで、何度も何度も私たちは信仰を行使して命を握らなければなりません。そして、命に向かう姿勢、命を握る姿勢、命の法則に応じる姿勢、この命と結びついているものと共に進み続ける姿勢を取らなければなりません。この命は私たちに、その継続的成長のすべての段階を通らせます。私たちの内にあるこの命、私たちの内におられるキリストは、栄光の望みであるだけでなく、王座の栄光の実現でもあることがわかるようになるでしょう。あなたと私の中には、私たちを王座へともたらすように定められているものがあります。ただしこれは、私たちがそうしてもらうならばの話です。

どうか主が、キリスト・イエスにある命の霊の法則に従うすべを私たちに教えてくださいますように。