第二章 天のエルサレムである教会の天的な特徴

T. オースチン-スパークス

黙二一・九~十一。この節で、私たちは使徒が御霊の中で大きな高い山へと連れ去られ、新エルサレムが「天から下って来る……」のを示されるのを目にします。

黙三・十二。「わたしは彼の上にわたしの神の名と、天から出てわたしの神から下って来る、わたしの神の都すなわち新エルサレムの名とを書き記そう……」。

ヘブ十一・十六。「……彼は彼らのために一つの都を備えておられました」。

この最後の御言葉の時制と立場がわかるでしょう。この御言葉は旧約時代の旧経綸の信仰の殉教者たちに言及する一方で、ここの言葉は「彼は彼らのために一つの都を備えておられました(現在完了形)」であり――「彼は彼らのために一つの都を備えられました(過去形)」ではありません。過去形だと、まるで彼らがこの地上のエルサレムでそれを受け継いだかのように思われます。そうではなく、「彼は彼らのために一つの都を備えておられました(現在完了形)」となっています。――これは、彼らがまだその中に入っていなかったことを示しています。それは彼らが入るのを待っています。ここのこの都は、教会に言及しているのと同じように、この同じ章の使徒のあの包括的宣言とも密接に関係していると、私は信じています。「これらの者はみな、信仰の中で死にました。約束のものを受けませんでしたが(中略)神は私たちのために、さらにまさったものを備えてくださっておられるので、私たちを抜きにして、彼らが完成されることはないのです」(ヘブ十一・十三、三九、四〇)。ですから、「彼らのために一つの都を備えておられました(現在完了形)」という言葉の真の意味は、彼らはこの天のエルサレムである教会の中に入るだろうということです。

ヘブル人への手紙の十二章二二節に、「……あなたたちが来ているのは(中略)生ける神の都である天のエルサレムにです……」というこの御言葉があります。十三章十四節には、「……私たちは来るべき都を求めています」というこの御言葉があります。次にガラテヤ人への手紙の四章二五、二六節に戻ると、「上にあるエルサレムは自由であり、それは私たちの母です」という御言葉があります。ガラテヤ人への手紙はユダヤ教の制度に立ち向かいます。そうすることがその目的でした。エルサレムをイスラエル人は彼らの母と常に見なしていました。エルサレムは全イスラエル人の母と見なされました。今、地のエルサレムと、エルサレムに関する地的観念に立ち向かって、使徒はここでこう述べます。「上にあるエルサレムは自由であり、それは私たちの母です」。また、ピリピ三・二〇には「私たちの国籍は天にあります」という御言葉が見つかります。

これらの様々な節から、天的性質という思想は天のエルサレム――神がその建造者・建設者です――である教会ととても強い関係にあることがわかります。神は今、ご自身の天のエルサレムを建造しておられ、天の材料でそれを建造しておられます。つまり、教会の構成・構造は全く天的でなければならず、用いられるもの(あるいは別の言い方をすると、聖徒たち)は天的性質にあずからなければならないのです。それは天の都となるためです。偉大な設計者・建造者は、それゆえ、聖徒たちの全構成を天的なものにすることに取り組んでおられます。

私たちは天的性質の意味についてもう少し見なければなりません。これは再び旧約聖書からの絵図を用いることによって、詩篇八七篇に向かうことによって行うことができます。この詩篇が最初に示すのは、エルサレムに対する神の配慮です。「主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の城門を愛される」。「シオン」がこの都全体を表す言葉です。これは常にそうだったわけではありませんが、時の流れの中で、エルサレムを表すようになりました。そして多くの場合、特に預言書では、エルサレムの同意語です。「主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の城門を愛される」。神はエルサレムを偏愛しておられ、妬むほど愛しておられます。この神の偏愛の背景について、「なぜ主はこのように妬むほど愛しておられるのでしょう?」と問うなら、その答えは私たちが用いている「天的性質」というこの言葉によって与えられます。エルサレムに関する神の御思いはその天的性質と関係しています。そして、その特徴がまさに最初の節と共に現れることに気付きます。「彼の土台は聖なる山々にある」。山々は常に霊的高揚の絵図・型です。その証明は、別の詩篇に向かってその逐語訳を読むことによってできます。「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきです。シオンの山は高くて麗しく、全地の喜びです」(詩四八・一)。高くて麗しく、全地の喜びです!これは高揚の問題であることがわかります。それは高い地位、異彩を放つ地位の問題です。それは天的性質、霊的優位性です。

さしあたって霊的観点からこれについてさらに述べることにしますが、この詩篇八七篇を一歩ずつ読み進んで、主の妬むほどの愛と偏愛について最初に述べたことが、シオンと他の都の対比と関係していることを見ることにします。この対比は、これらの都が表している霊的特徴に基づきます。

シオンとエジプトとの間の対比

まず第一にエジプトがあります。「ラハブ」がここで使われている言葉ですが、「ラハブ」はエジプトを指すことをご存じかもしれません。都の父祖であるアブラハムが約束の地であるカナンの地に入った時、彼の信仰は直ちにとても厳しい試練にあいました。なぜなら、その地方全体が偶像崇拝に陥っていることを彼は見いだしたからです。彼はまた、その地の厳しい飢饉の状況を見いだしました。彼の信仰は揺らぎました。そして、疑念が明らかに彼の心の中に忍び込みました。これにより最終的に彼は、「自分は間違いを犯してしまった」「自分は過ちに導かれた」、あるいは、「自分の時はまだ全然来ていない」という結論を下すよう導かれました。そこでその地から転じてエジプトに下りました。そしてそれゆえ、エジプトは信仰の対極を象徴する場所になりました。信仰の対極とは何でしょう?神、神だけが信仰の対象である以上、信仰が破れるとき、それは神が排除されたこと、あなたが神の代わりとなる他のものを探すことを意味します。ですからエジプトは、人々が神を信じる信仰を失う時に向かう地的供給源、天然的供給源を表すことがはっきりとわかります。アブラハムに何が起きたのか、私たちは知っています。彼の信仰が破れて、彼がエジプトに向かったことにより、彼は禍い、妥協、揉め事、恥の中に陥りました。そして、これが常に、私たちの唯一の供給源である神に背を向けて、人々に属する他の供給源に向かう結果です。教会史のごく初期にこれらの要素があったことがわかります。これらの要素はこれまでずっと教会にとってたびたび危険なものであり、あまりにも頻繁に教会はそれらに屈服してきました。教会史は、堕落して神から人間的供給源、天然的手段、天然的方法に何度も転じる、一つの悲しい物語です。その結果は常に同じでした――妥協、揉め事、恥でした。

この種族の父祖であるアブラハムが行ったことを、イスラエルも霊的に衰退した時代に行いました。というのは、イスラエルの霊的命が衰えて、それゆえ、神が信仰にとって遠く離れた存在になった時、イスラエルは困難な時代に助けを求めてエジプトに向かったからです。エジプトは、ですから、人々の信仰が弱くなったせいで、神が人々から遠く離れているように見える時に、人々が用いるそれらの供給源を常に表しています。これは明らかに地に下ることであることがわかります。そして、これは以下の御言葉と対照的です。「主はシオンの諸々の城門を愛される」、「彼の土台は聖なる山々にある」(詩八七)、「私たちの神の都」、「彼の聖なる山で」、「高くて麗しく」、「全地の喜びです……」(詩四八・一)。これはエジプトとまったく対照的です。エジプトは下にあり、シオンは上にあります。これが主がシオンを愛される理由です。主はご自身の民の天的性質を特に偏愛しておられます。

シオンとバビロンとの間の対比

この対比を終えて、バビロンに移ることにします。バビロンが何を表しているのか、私たちは知っています。バビロンは人の努力と人の栄光の産物でした。この都はバベルの塔から遠くないところに建てられました。バベルの塔は人が名を上げる目的で建てられました。それは人の栄光のための人の努力でした。この塔は永遠に超人について、堕落した人の栄光について伝えます。悪魔の狙いは常に、堕落した人を天に至らせようとすることでした。ですからサタンは常に、人を自分自身の努力によって、自分自身の栄光のために、超人にしようとしてきました。バビロンは常にこれを伝えます。「さあ、私たちのために都と塔を建てよう(中略)そして、私たちは名を上げよう……」(創十一・四)。それから多くの年月の後、バビロンの大王ネブカデネザルは「この偉大なバビロンは私が建てたものではないか……」という言葉を発しました(ダニ四・三〇)。

ですからバビロンは、まさに雲にまで至ろうとする人の力、人の栄光を、何と明確に伝えていることでしょう。バビロンは人の力の栄光を象徴していますが、もちろん、それは宗教的方法によります。なぜなら、バビロンはとても宗教的であり、きわめて宗教的だったからです。この観念はこの世の輝かしいものと関係しており、その上には人の名が記されています。これを理解する時、「わたしは彼の上にわたしの神の名と、わたしの神の都の名とを書き記そう」(黙三・十二)という御言葉は何と印象的でしょう。人の計画は、その上に自分自身の名が記されている都によって、輝かしいものを得ようとすることです。神の御思いは、その上に御名が記されている、天的秩序に属する輝かしいものを得ることです。そして、これを彼は獲得されるでしょう。教会は神の御名を帯びています。なぜなら、教会は神の栄光、神の力、神の努力の表現となるからであり、実に輝かしいものになるからです。しかし、天的性質によって霊的に高いシオンと、人の栄光の中に立つバビロンとの間には、この違いがあります。神がシオンを妬むほど愛しておられるのも不思議ではありません。

シオンとペリシテ地域との間の対比

次に、シオンとペリシテ地域との間の対比に移ることにします。良くご存じのように、ペリシテ地域は神聖な事柄に侵入する天然的思いを示しています。ペリシテ人が常に神聖な事柄を侵害してきたことを、私たちは知っています。地理的にイスラエルと常に密接に関わっていたため、彼らはきわめて執拗な敵でした。そして、彼らが神に属する事柄、例えば契約の箱を覗き込む姿を、私たちは繰り返し目にします。ここでは、未割礼の肉、あるいはそう呼びたければ、十字架につけられていない肉が、神聖な事柄を牛耳って操ります。これは、ある意味で、物事の合理的流れであり、神の霊に属する事柄は霊の人だけが知りえることを理解しません。そして、知性や理性といった人間的手段だけで神の目的に到達しようとします。それは不可能です。ペリシテ地域はこれを表しています。バビロンは天然的努力を、ペリシテ地域は天然的理性を表しており、すべてが依然としてこの下界の地上にあって、シオンとは対照的です。なぜならシオンが表しているのは、人のいかなる種類の精神的・肉体的努力でもなく、神の霊の啓示だからです。

シオンとツロとの間の対比

ツロは商売や商業の世界を象徴しています。海港であるツロの中には膨大な活動がありました。ツロが代表していた一つの点、そしてツロの雰囲気全体が表していた一つの点は、商業、拡張、商売、この世の仕事でした。これがシオンと対照的であることは、ほとんど考えるまでもありません。人々を商取引に忙しくさせて、天の事柄について黙想する時間も力も持てないようにさせようと、敵は熱心に働いています。これを私たちは、多かれ少なかれ、知っています。実業家ならだれでもそう言うでしょう。いかなる種類の事業とも実際上何の関係もない人々を除けば、すべての人が「責任があまりにも重くのしかかっているので、天的事柄のために時間を得るには大変な努力が必要です」とあなたに言うだろうと思います。ツロは常にシオンに挑みます。霊的原則上、私たちは毎日ツロに立ち向かっています。ああ、敵はこの世の仕事によって、主に属する事柄のための私たちの時間をどれほど侵そうとしていることでしょう。主は事物の天的側面を妬むほど慕っておられ、ツロを滅ぼすことに特にこだわっておられます。

シオンとエチオピアとの間の対比

最後にエチオピアです。使徒行伝八章の出来事を思い出しましょう。祭りの時にエルサレムに上って、霊的事柄に明らかに深く意を用いている一人のエチオピア人がいました。彼は尋ね求めていましたが、自分の疑問に対する答え、自分の心が求めているものをまだ見いだしていませんでした。彼は依然として暗がりの中におり、依然として暗闇の中にいました。主はこの必要、この探求を察知されました。この必要や探求は、本部で満たされてしかるべきだったのに、満たされなかったのです。そこで、神はサマリアからピリポを遣わして、荒野の彼の馬車に同乗させ、彼の目を開いて彼をその暗闇の中から導き出されました。こういうわけでエチオピアはここでは、聖書の他の箇所と同じように、暗くされた理解力、照らしを必要とする理解力、天然的暗闇の型となっています。私たち全員にあてはまることの型ともなっています。宦官に対するピリポの言葉は「理解できますか?」であり、彼の返事は「どうして理解できるでしょう……」でした。これは天然の人全員に何と当てはまることでしょう。

この詩篇八七篇のエチオピア人は、天然の人全員の状態を表すものとして挙げられています。理解力を暗くされていて、だれかに教えてもらう必要があるのです。これに対してシオンが示しているのは、心の目を照らされること、彼を知る知識を得させる知恵と啓示の霊です。それが述べているように、シオンの住人は目を開いてもらった人々です。また、目を開く力強いご自身の御業、ご自身の照らし・啓発・理解力をよみがえらせる御業を表すものを、主は愛しておられます。主は光と、光の中を歩む者を喜ばれます。他方、主は暗闇を喜ばれません。

ですから、この五重の対比により、シオンが至高であることがわかります。それは天的性質というこの主な特徴のためです。エルサレムはシリアの地全体の特徴の凝縮です。同じように、教会はキリストの特徴の凝縮です。キリストは私たちの良き地です。教会はキリストの凝縮された表現です。あるいは、そうなるはずのものです。キリストのこの特徴――天的性質――はとても顕著なものであることを見るのは難しくありません。主イエスのどこに触れても、あなたはそれに触れます。ご自身は天から出て来たのであり、天にあること、また、ご自身の生活はすべて天的であることを、彼は何と絶えず述べておられることでしょう。キリストの大いなる支配的特徴は天的性質です。黙示録から、新エルサレム――キリストの凝縮された表現である教会――を見ることができるのは、見晴らしの良い高い場所からだけであることがわかります。「そして、彼は私を御霊の中で大きな高い山に連れて行き、私に聖なる都エルサレムを示した……」(黙二一・十)。その文脈を見ると、バビロンも示されたことがわかります。しかし、バビロンを見るのに山は必要ありませんでした。平野でバビロンを見ることができました。天的な事柄を見たければ、あなたは天上にいる必要があります。「彼は私を御霊の中で大きな高い山に連れて行き、私に聖なる都エルサレムを示した……」。キリストを見て、キリストを表現するには、御霊によるキリストとの天的合一が必要です。

天的性質の構成要素

この特徴をその構成要素に分解することにします。天的性質の構成要素は何でしょう?

一.霊性

第一は霊性です。霊の男や霊の女でなければ、天的事柄を理解・享受することはできません。霊的状態が霊の事柄を理解するのに必要です。パウロは「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださいました。しかし、神はそれを御霊によって私たちに啓示してくださいました……」(一コリ二・九)と述べた時、これを宣言しました。天然の人は神の霊の事柄を受け入れることができませんし、知ることもできません。霊の人はすべての事柄を識別します。霊的状態は、もちろん、第一に新生――御霊から生まれること――によります。次に、霊の命が成長します。天的事柄を把握し、認知し、理解し、悟る唯一の方法、確かな方法は、霊的成長です。ヨハネによる福音書は霊性の福音書です。そして「ヨハネ」による福音書の中にあるものはすべて天的です。この福音書は困難の中にある人々で満ちていることがわかります。ニコデモは困難の中にあります。彼は霊の事柄をさっぱり理解できません。「どのようにして?」という一つの大きな疑問が彼をがんじがらめにしています。霊の事柄を理解できるようになるには、霊の人にならなければならないこと、霊的に生まれなければならないことを、主は彼に対して完全に明らかにされます。スカルの女も全く同じで、ニコデモのように大きな霧の中にあります。彼女が人生の意義を知るには、内側に住まわれる御霊が必要なことを、主は彼女に明らかにされます。この福音書全体を通して、暗闇の中にいるとても多くの人々を見いだします。そして、主は彼ら一人一人に関して、この一つの原理に触れられます。必要なのは霊的照らしです!生まれつき盲目の人は、主に目を開いてもらう必要があります。そして、目を開いてもらった時、彼は自分の周りにいる宗教的権威者――当時彼らは明らかに暗闇の中にありました――のだれよりもよく見えるようになりました。これは霊性の福音書です。これは、天的事柄を理解するには、あなたの本質的存在が霊的でなければならないこと、御霊から生まれて、御霊によって内住・統治してもらわなければならないことを意味します。

二.高揚

これは霊的優位性です。主と共に歩むこと、自分の生活を御霊の中に保ってもらうことを真に求めている人ならだれでも、霊的高揚・優位性の何たるかを――使われている専門用語は別として――よく理解しています。霊的に上にある自分の地位を維持するために絶えず戦わなければならないことがどういうことか、あなたはご存じです。ほとんどすべてのものが自分の上にのしかかってきて、自分を圧迫して引きずりおろそうとすることがどういうことか、あなたはご存じです。一度あなたの霊が、環境、感情、外見、興奮、あるいは他の何かに屈服するなら、あなたは打ち負かされ、打ち破られ、役に立たなくなり、あなたの証しはなくなってしまいます。教会はキリスト・イエスにあって天上にあるべく召されていますが、これは、今の生活が霊的高揚・霊的優位性の中になければならないことを言い換えたものにほかなりません。設計者である主は、どのように優位に立ってそれを維持するのかを、毎日私たちに教えようとしておられます。この学課を学ぶために、日々、多くの機会が与えられています。一日のあいだ何回も、成り行きに任せたら、あなたも私も屈するおそれがあります。下に落ちるのはとても容易です。しかし主は、日々、何度も何度も、屈することを拒むよう私たちに呼びかけてくださいます。ご自身を、御霊をしっかりと握るよう、力をもって内なる人の中へと強められるよう、主は私たちを促しておられます。それは私たちが屈服しないで、私たちの霊的優位性を維持するためです。これが上にあるシオンであり、上にある教会――そのすべての肢体たち――です。

三.信仰

これは、この都の父祖であるアブラハムによってまったく明らかです。この都に最終的に達しなければならない以上、アブラハムは、(言わば)その父祖として、基本的に信仰の人でなければなりません。そして、歴史を通じてアブラハムが象徴してきたのはこの特別な要素だったことを、私たちは知っています。「信仰によってアブラハムは……」。そして、信仰について語れることを語り尽くす時、最終的に達するのは、神の信実さを信じることです。信仰は神の信実さに基づいて神と共に堅く立ちます。時として、それ以上のことができないこともあります。信仰の他のどの面も不可能だったり、信仰を表すことも不可能だったりするかもしれません。そして、「神は信実です!」というこの一つの決定的点に、あなたはひたすら立たなければなりません。最終的に、その正しさが証明されます!現在の混乱や問題をいったん通り抜けた後、神は信実であることを私たちは見いだすでしょう。神は私たちを見捨てたかのように、神は私たちの期待を裏切ったかのように、神は答えてくださらなかったかのように、私たちの期待は失望に終わったかのように、今は見えるかもしれません。しかし私たちがくぐり抜ける時、神は見捨てておられなかったこと、神は私たちを捨てておられなかったこと、神は矛盾しておらず信実だったことを、私たちは見いだすでしょう。あなたも私も確実にこれを学ぶでしょう。私たちはこの学課を一度で学ぶのではありません。私たちは主に関する問いを発せないわけではありません。私たちは時々、主の信実さを疑う示唆に対して戦わなければなりません。しかし、神は信実です。これは信仰の最後の避け所です。しかし、そこに立つのは大したことです。アブラハムはこの立場に達したのです。

天的性質は主の民の生活における驚異的要素です。天的性質――それは霊性であり、優位性・高揚であり、信仰です――は驚異的要素です。それがみなエルサレムに集約されています。それは、この世の立場や天然の人の立場とは別の立場の上にあることを意味します。ああ、教会がこれまでずっとこの立場を維持していれば!それより低い立場に落ち込んだせいで、何と恐ろしい悲劇が生じたことか!

教会が天的地位から落ちた悲劇に関する一つの絵図を与えよう、と前に述べました。私はその絵図を見つけました。ジョージ・アダム・スミス卿によって書かれたものです。彼はイスラム教徒のシリア侵入――それによってシリアはイスラム教によって一掃され、支配されました――について記しています。

「シリアのキリスト教がイスラム教に後れを取ったのは、それが堕落していたからであり、そうなって当然だったのである」。

また、こう記しています。

「全く人間的な手段で誕生の地を取り戻そうとして、教会はイスラム教の反撃を受けた。それは教会が利己的でこの世的だったからである」。

「このどちらの事例も、打ち倒されたのは真のキリスト教ではなかった。とは言うものの、真のキリスト教は今日に至るまでその非難と、その諸々の結果という重荷を負っている。神の裁きの皮肉が次のことの中に明らかに見られる。すなわち、霊的な一神教が初めて登場したこの地で、教会は偶像崇拝と物質主義のために初めて罰せられたのである。また、キリストが教えと癒しをなし、純粋な献身的弟子の一団と共に善を行いつつ巡られた舞台場面の中で、嫉妬にかられた不忠実で好戦的な十字軍が剣と炎とに渡されたのである。キリストの御名により、世的な手段によって、この世の王国を求めた人々には、この地――その地はキリストがそのような誘惑を拒絶された地だった――で成功を収める見込みなどありえなかった。イスラム教がキリスト教に勝利したのは、バビロンがイスラエルに勝利したのと同じことである」。

これは途方もない記述です。このような記述には何という歴史が込められていることでしょう!おそらく、キリスト教、宣教分野の今日最大の問題はイスラム教です。教会にとってイスラム教よりも大きな問題はない、と私は思います。なぜでしょう?ジョージ・アダム・スミス卿はその原因を指摘して、「イスラム教の力は、歴史のある時点で教会が堕落したため――分裂して、利己的・世的になったため――である」と述べています。そのためイスラム教が支配権を得たのです。

それでは、どうすればイスラム教を打倒できるのでしょう?どうすればこの過ちを取り消せるのでしょう?これは確かに天的な教会によります。あらゆる手段・方法の限りを尽くしてこの世から全く分離され、一つ霊の中で結合されて一つの大きな霊的勢力となり、聖霊の統治下にあるものによってです。これが、ただこれだけが、教会が霊的・天的でなくなったせいで地位を得た諸勢力を打ち倒せます。

これが全体に言える以上、私たちにも個人的に言えます。すなわち、敵のいかなる立場にも優る霊的力を得るには、霊的にこの世から離れ、神と共に歩み、天的な生活、キリストと共に上にある生活を送る必要があるのです。毎日主とのこの天的交わりを持つことの途方もない重要性を、主は私たちの心に銘記してくださいます。それは霊的力と主の栄光のためです。