第四章 勝利者の特徴

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:黙三・七~十三、二一・一~四

黙示録三章のこの節から、勝利者は自分の上に神の都の名を記されることがわかります。「勝利を得る者(中略)わたしは彼の上にわたしの神の名と、わたしの神の都である新しいエルサレムの名とを書き記そう」。これはいささか注目すべき文言であり、とても興味深いです。確かに、これについて考えれば考えるほど、「勝利者の上に新しいエルサレムの名が記されるとはどういう意味だろう」とますます不思議に思うようになります。ですから、この名は何を意味するのか、それは勝利を得ることとどういう関係にあるのか、もう少し理解したいと思います。

これまでどおり、ここでまた、聖書におけるエルサレムへの最初の言及に戻ることにします。そこで私たちは鍵を得ます。

聖書におけるエルサレムに対する最初の言及は、創世記十四・十八~十九のメルキゼデクに関してなされています。ここで、サレムという省略形で初めて言及されているのを、私たちは見いだします。「エルサレム」は「平和の都」を意味します。それについて非常に多くのことが述べられてきましたし、エルサレムの名について書物が何巻も書かれてきました。多くのとても素晴らしい観念がこの名と関連付けられてきました。しかし、それが「平和の都」としてとても単純に表現されています。この言葉の一つの由来は、その位置、その強度、その高さによる安全性なのかもしれませんし、この意味で、それは平和の都――転覆・破壊するのがきわめて困難な都――と名付けられたのかもしれません。しかし、私たちの目的のためには、このきわめて単純な数々の定義で十分です。どうやら、メルキゼデクは「いと高き神」の祭司であるだけでなく、この都の王でもあったようです。

この章から、メルキゼデクが最初に現れるのは、アブラムが王たちを打ち負かして戻るときだったことがわかります。この章全体を読むと、多くの王たちが同盟を組んで、ソドムと他の地方の都の支配者たちを支配下に置いたことがわかります。この支配者たちは彼らに仕え、何年間も彼らに税を支払いました。その後、彼らはこの同盟を組んだ王たちに反逆し、その結果、同盟を組んだ王たちが反撃して再び彼らを屈服させました。王たちは彼らを征服し、略奪し、戦利品や多くの囚人を連れ去りました。その中にロトとその妻も含まれていました。アブラムは起きたことを知らされ、彼の家で訓練を受けた約三百十八人と共に、王たちの後を追いました。そして、一夜の作戦行動で優位に立ち、彼らを征服して、ロトを含むすべての奪われたものを助け出し、取り戻しました。この成功を収めた勝利の遠征から戻る際、ソドムの王だけでなくサレムの王も彼と会いました。そして、メルキゼデクは彼を祝福し、アブラムは彼に十分の一を贈りました。

ですから、ここではアブラムは勝利者の地位にあります。そして次のことがわかります。すなわち、前の黙想で指摘したように、アブラムが霊的な意味でこの都――彼はこの都に属しており、ある意味においてその父祖であり、それを探していました――に伝えた彼の力の大部分は、彼がこの世から霊的に離れていたためだったのです。彼はソドムの王からの贈物をすべて拒み、この世の誉れや好意を拒み、他の様々な形で自分を自由に保ちました。他方、いくつかの事例では、主が、主ご自身の側で、非常に強烈に地的要素や関係から彼を解き放って自由にし、そうして彼を霊的に力ある地位に保たれました。いま私たちは、この霊的力――この力は彼が地的事柄から離れて天的事柄に付いたことによりました――が、この戦勝により表れるのを見いだします。そして、勝利者の立場で彼はメルキゼデクと接触し、メルキゼデクも彼と接触します。そして、ある卓越した霊的要素・特徴が導入されます。興味深いことに、メルキゼデクとの関係は全く霊的なものであって、世俗的なものではありません。過ぎ去って行くものではありませんし、たんにこの世からのものでもありません。ここで触れられているのは神からのものなので、この地上とは関係ありません。むしろ、それよりも高いものです。このようにメルキゼデクとアブラムを一緒にすると、この一連の霊的要素が明らかになります。これらの霊的要素が新エルサレムをまさに貫いて、その支配的特徴となります。

これらの要素のいくつかを見ると、それらが印象的であることがわかります。しかし、まず、メルキゼデクという人物の特異性に印象付けられます。なんと不思議な形で彼はこの場面に登場するのでしょう。彼について過去に聞いたことはいっさいなく、このいくつかの文章で述べられていること以外、彼について何もわかりません。それでも彼はここでは王であり、いと高き神の祭司であって、不法に満ちた土地にいます。彼は突然このように現れて、サレムの王、いと高き神の祭司として、主の御名の中でアブラムを祝福します。実に並外れた人物です。そして、これらの特徴により、彼の人格の特異性により、エルサレムの霊的歴史におけるとても重要な地位を占めるのにうってつけです。彼は言わば、未知のものから出て来たかのように、最初から成熟した状態で、突然天から下ってきたかのように思われます。そこに未熟なものは何もありません。幼児期から始まるのではありません。この人はまさに成熟していることがわかります。このような成熟に至るには、主の働きの歴史で何世紀も要します。メルキゼデクが表しているものをこの地上で実現するには、とても長い歴史が必要でしょう。彼はこのように円熟した形で、成熟した形で登場します。まるで彼は神の御思い全体を直ちに打ち立てるかのように思われます。神の完全な御心が、どこからともなくやって来た一人の人によって表されます。まるで神が完全な御思いを、事の初めに一人の人の中に置き、その後、その模範にしたがって歴史を展開しておられるかのようです。これが神が事をなさる方法です。ですからメルキゼデクはきわめて印象的な人になります。私たちは新約聖書から、特にヘブル人への手紙から、神は彼をあるとても完全なものの型となるようにされたことを知っています。彼はある秩序をもたらします。その秩序は超地的であり、超アロン的です――系図もなく、父もなく、母もなく、生涯の始まりも終わりもありません。そこでは永遠、普遍性がこの一人の人の中に集約されています。

キリストに対するメルキゼデクの予型的関係

キリストに対する彼の予型的関係に注目してください。彼はこれらの卓越した霊的要素を導入するからです。それらは主に五つであると言えると思います。

一.王職

第一は、主ご自身の民の間における王職であり、この選ばれた人と関係しています。王職はこの勝利者と接触し、この勝利者は王座との接触にもたらされます。これがメルキゼデクが示す第一の神の全き御思いです。いましがた述べたように、これが完全に実現されるには、途方もない長さの歴史的進展が必要です。しかし、神はこの地点から、私たちがこれから注目するものに向かって働かれます。

二.祭司職

地的ではなく天的な祭司職であり、アロンの位ではなくメルキゼデクの位によるものです――天的な祭司職、永続的な祭司職が示されます。一言で言うと、神の完全な御思いによる祭司職です。

三.義

義の原則がメルキゼデクと共に特別な形で現れます。それは新しい原則ではありません。義は神と同じく古いものです。それはメルキゼデクと共に特別な形で現れます。彼は義の王にふさわしいからです。今これに言及しますが、後でもっと詳しく述べることにします。

四.平和

義は平和へと至ります。王職や祭司職と関係している平和と義が、私たちの前に示されています。この二つを一緒にすると、主イエスの御業とパースンの広大な領域を網羅することになります。逆に言うと――平和は義のゆえであり、天的祭司職のゆえであり、絶対的主権のゆえです。

五.かぎりない命

「……神の御子のようであって(中略)かぎりない命の力にしたがって」(ヘブ七・三、十六)。これが新約聖書がメルキゼデクに与えている称号です。

これらを再び正順と逆順の両方でまとめることにしましょう。王職、天の位による祭司職、義、平和とかぎりない命。かぎりない命は与えられた命のゆえであり、義の根拠に基づいていて、天の祭司職を通してであり、それをすべて守る宇宙的主権の王座によります。これは卓越した展望であり、主イエスのパースンと御業に関するこれらの予型的要素を持つ一人の人において示されています。

メルキゼデクによって導入された王職について、キリストとの関連で少し考えてみてください。注目すべきことに、キリストは統治の部族、君主の部族であるユダ族出身でした。しかし、ユダ族からは一人も祭司は出ていません。そこに祭司職はありませんでした。もしキリストが地上におられたなら――印象的な句です――彼は決して祭司になっていなかったでしょう、なぜなら、ユダからは一人も祭司が出ていないからです、と使徒は論じています。これは彼の祭司職を直ちに地から遠ざけて、天的な祭司職の位をもたらします。ですから、キリストの祭司職はアロンの祭司職とは別の根拠に基づいて生じます。彼は復活に関連して確立された祭司です。詩篇一一〇篇は、彼の祭司職は墓のこちら側――それはこの地と関係しています――に属するものではないことを明確にしています。この墓は私たちのこの地との接触を完全かつ決定的に断ち切ります。これがバプテスマの意義です。バプテスマの目的は、次の事実を宣言することです。すなわち、私たちの死によるキリストとの合一により、この地との霊的な類の関係は全く終わらされた、という事実です。よく聞いてください、私たちがキリストの天的祭司職の恩恵にあずかれるのは、これが事実であるときだけです。なぜなら、彼の祭司職はアロンの位によるもの――それは地に向かう生活を送る地上の人々に適用されます――ではないからです。キリストの祭司職は、彼が天におられる事実――これは直ちに復活について告げます――に基づいています。ですから、彼の祭司職は復活の効力・効用によります。

アブラムに戻ると、この都に関して、アブラムは予型的な形でこの立場に、復活の立場に達しなければならなかったことがわかります。イサクですら、依然として地と何らかの関係があるものとしてこの地から断ち切られます。そして、天と関係している復活の立場に基づいて、この都に関する神の御旨が成就されます。ですから、キリストの祭司職が確立されるのは復活と関係しています。「あなたはわたしの子である。今日、わたしはあなたを生んだ」(ヘブ一・五)という句は彼の復活について触れています。そして、メルキゼデクのこの祭司職は予型的にかぎりない命の力にしたがっています。

なぜキリストの祭司職は彼の復活に全面的に依拠するようになったのでしょう?その理由は単純で、神は王職を待っておられたのであり、神の御思いによると、王職から離れて真の祭司職はありえないからです。これをとらえて、よく考えてください。神の御心によると、王職から離れて完全な祭司職はありません。祭司職が最大限に発揮されるには、王職が祭司職には必要不可欠なのです。

アロンの祭司職はエリで破綻しました。その時、サムエルが導入されて、何が起きたでしょう?サムエルが導入されたのは、祭司職の新しい体制をもたらすためではありませんでした。サムエルが導入されたのは、王を導入するためでした。その時から、王が常に祭司よりも優位に立ちました。ダビデは彼自身王でしたが、亜麻布のエポデを着て、この二つを彼自身において結合しました。しかし、ダビデの祭司職は彼の王職に従属していました。アロンの位の意義と価値は、もちろん、すべてキリストの内に集結・包括されています。しかし、アロンの位よりもメルキゼデクの位の方が優っています。

王職は至高のものであり、支配的基調です。それが第一の最高位です。次に何が来るでしょう?義です!しかし、義は祭司職をもたらします。義の問題は祭司職によって取り扱われます。しかし、至高の権威の王座を確立できるのは、義だけです。祭司職に力を与えるのは王座、王職です。旧約聖書はこれを明確にしています。祭司職はその後、王座からその力とその職位を得ました。ダビデがどのように祭司たちを扱ったのかに注目してください。彼は大祭司を解任して、他の人々を導入しました。大祭司たちが神を裏切った時、ダビデは彼らをその職から追放しました。これを行うのは重大なことです。イスラエルに王たちがいなかった時代に戻ると、祭司に触れる人はだれもいなかったのです!しかし、祭司に優る地位にある一人の人がここにいます。ダビデにとって、それは義の問題に関して王座が支配する問題でした。大祭司たちが神を裏切り、義の問題に関して破綻したとき、王座が介入しました。そして、祭司職はもはや立ち得なくなりました。

この二つは共にキリストの内に見いだされます。彼は王であり祭司であることがわかります。そしてまさに彼の王座により、彼は義と彼の祭司の働きを守られます。私たちには偉大な大祭司がいます。彼は王であり、主権者です。

王座が確立されて、義が至高の権威によって維持されるとき、あなたは平和を知ることができます。これらはみな復活の力の中で働きます。彼は王であり、祭司です。そして、彼は復活のゆえに平和を確立されます。

こうして主権がやって来ます。そして、主権はたんなる領域の問題ではなく、むしろ道徳的・霊的栄光の問題であることがわかります。彼の王職がそうです。それは平和の主権です。

もし理解できれば、これには大きな価値があります。平和と義といったこれらの道徳的・霊的要素は、背後に至高の主権という途方もない力が控えている事柄です。私たちの義は私たちを支えられないことを、あなたも私も知っています。それはだれも支えられません。私たちの義は破綻します。それは貧弱なものであり、取るに足りないものです。私たちの平和はあまり長持ちしないことを、私たちはとてもよく知っています。私たち自身の平和はどれくらいの強さでしょう?それに臨むとても弱い攻撃程度の強さです。私たちの平和を覆すのは大したことではありません。次に、考えうる他の何らかの道徳的・霊的美徳を取り上げて、人自身の美徳、人自身の道徳的・霊的特徴がどれくらい人の助けになるのか見てみなさい。あまり助けになりません!しかし次に、主について考えてみなさい。主は義と平和と他のいっさいの美徳を持っておられ、ご自身の御霊によってそれらを分け与えてくださいます。それらの背後にあるご自身の御座の力、この御座が意味する勝利の力を、すべて与えてくださいます。それは勝利する義です。これはこの宇宙の絶対的主権者である御方のゆえです。主イエスの主権は義の主権です。もしあなたに彼の義を覆せるなら、あなたは彼の御座も覆せます。もしあなたに彼の平和を覆せるなら、あなたは彼の主権も覆せます。これらは同行します。私たちに必要なのは、主が私たちの存在の中心で、その力強い主権の力のかぎりを尽くして、その輝かしい平和のかぎりを尽くして、その深く揺るぎない喜びのかぎりを尽くして、王座につかれることです。それは抽象的な要素ではありません。御座と、それが意味するいっさいのものが、すべてと共にあり、すべての背後にあるのです。

エルサレムは確かに、これらの霊的・道徳的な真理・現実の化身となるべきものでした。エルサレムが義によって支えられていた時、エルサレムは不動でした。エルサレムが義を捨てた時、エルサレムを支えるものは取り下げられ、エルサレムは崩壊しました。

「エルサレムの平和のために祈れ」(詩一二二・六)。エルサレムは、その義を失った時、その平和を失いました。なぜなら、それを支える主権を失ったからです。これらは同行します。もしあなたが義を犯すなら、主はあなたを彼の主権、彼の王職によって支えてくださいません。

アブラハムは、平野の都に関連して、この問題について神を知るようになりました。「わたしはわたしのしようとすることをアブラハムに隠してよいであろうか?」(創十八・十七)。主はアブラハムに「わたしはこれらの都を滅ぼすつもりである」と語られました。アブラハムは義を求めました。「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?」。神は実質的に言われました、「見なさい!それはわたしの道ではありません!わたしは決して義を滅ぼしたりしません。もしあなたが義を見いだすなら、わたしは滅ぼすことができません。わたしは義を守らなければなりません!」。そこで、アブラハムは徹底的に調べましたが、何も見つかりませんでした。彼は、「あなたがこれを行うのは完全に正しいです」と言わなければなりませんでした。もしアブラハムが義を見つけていたなら、神はそれを行えなかったでしょう。義と王座の保護は同行します。義に欠けるなら、王座は保護するために機能することはできません。アブラハムと共に現れる新エルサレムは、彼の性格を帯びるべきものであり、こうしたいっさいのことの化身となるべきものでした。この問題を史的エルサレムを超えてさらに考えると、次の焦点はキリストご自身と、それから彼のからだである教会であることがわかります――新エルサレムは、神がご自身の民に関して心に抱かれた霊的な御思いを、すべて表現すべきものなのです。