第五章 勝利者の特徴(続き)

T. オースチン-スパークス

前の黙想を終えた所からさらに続けて、そこで完成しなかったことを完成させることにします。

創世記二二章(モリヤ山)から、士師記に至るまで、エルサレムは再び登場しません。ヨシュアの死後すぐに、ユダ族とシメオン族は、当時エブスと呼ばれていたこの都を占領することを試みました。この都の下層部だけが占領された、とヨセフスは私たちに告げます。ベニヤミン族がユダ族に続いてこれを試みましたが、さらなる成功は得られませんでした。そして、士師記の期間の間、サウルの統治の間中、またヘブロンでのダビデの統治の間中、この都はエブス人の手の中にとどまりました。

士師たちの時代のエルサレム

この期間を見ると、それは霊的弱さの期間であり、それゆえ失敗の期間だったことがわかります。士師たちのこの期間の間ずっとはびこっていた状態を、私たちはよく知っています。この書を読みさえすれば、それは数百年に及ぶことがわかります。そして、私たちは悲しいことに、主の民の低調な霊的状況と、この期間のあいだ彼らを特徴づけていたこの大きな弱さに印象付けられます。この期間の終わりに達すると、サムエルが舞台に登場して、実に悲しい状況を見いだします。サウルがサムエルを通してもたらされますが、依然として状態は霊的に弱い状態であり、それゆえ、この都は所有されておらず、神の御旨におけるその地位を占めていません。

要点は、エルサレムが神の御心を表すには、きわめて高度で豊かな霊の命が主の民に要求されるということです。その逆の事実も同じように正しいです。主の民の霊の命がそのあるべき水準よりも低い水準にある時は常に、エルサレムの栄光は覆われ、この都は優位ではなくなり、主イエスの御名はその中であがめられなくなります。

広範な時間に及ぶこの調査から、エルサレムは主の民の霊的状態を表すことがわかります。この真理は絵図という形で旧約聖書全体を貫いており、その霊的意義は教会に受け継がれています。こういうわけで、私たちはエルサレムと勝利者の特徴について述べているのです。最終的に、天のエルサレムである教会が、霊的成熟と霊的豊かさの立場に基づいて、天の栄光のうちに登場します。それは主の民が達しうるまさに最高の命の表れとなります。そして、この表れは勝利者の力となります。

最後から遡って読むと、エルサレムは最終的に最高水準の霊の命を表すことがわかります。そして、黙示録に示されている勝利者の群れは、霊的達成のまさに最高点に達した一団であることがわかります。

旧約聖書のエルサレムすなわち地的エルサレムは文字どおり歴史的なものである一方で、上にあるエルサレムの歴史は純粋に霊的な基礎に基づくことを、理解することが重要です。その興亡――もしこう述べても構わなければ――は霊の命の興亡の問題です。主は今は天におられて、ご自身の御心の中に完全な都を抱いておられる一方で、ご自身の民、ご自身の教会を、霊的に完全な状態にもたらそうとしておられます。これが成就される時、それにより彼の栄光が表され、それと共に使徒が見た光景が実現されます。「そして彼は御霊の中で私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て神から下って来るのを示した。それは神の栄光を持っており、その光は最も尊い宝石のようだった……」(黙二一・十~十一)。これが主がその教会において実現しようとしておられる霊的状態です。それは最終的に、教会すなわちこの都を真に構成している者たちにおいて実現されます。

ですから、これまで述べてきたこの長い期間の間ずっと、エルサレムはしかるべき地位に達することなく、神の御思いを表してもいないことがわかります。それは主の民の霊的弱さと失敗のせいです。

ダビデとエルサレム占領

ついに、ダビデがエルサレムに上って行って、彼の勇者たちに一つの課題を発する時が来ます。彼らはこの課題を受け入れ、エブス人の要塞を占領することを試み、ヨアブがこれに成功します。ヨアブは興味深い人物です。彼は最善の形で常に輝くわけではありませんが、ヨアブの特筆すべき点、ヨアブの特徴的点は、ダビデ王との彼の関係です。もしヨアブが個人的利益を求めていたなら、あるいは、もし彼の関心がダビデから他の思いに逸れていたなら、彼はあまりぱっとしていなかったでしょう。しかし、ヨアブが無私の心でダビデに付き従い、ダビデの権益と栄光を完全に心に留めている時はいつも、彼は常に強みを発揮することがわかります。さて、ここでは、要塞を占拠するにあたってヨアブが抜きん出ます。それはダビデに対する彼の無条件の献身のためです。それゆえ、彼は要塞を占拠する勝利者のさらなる型となります。

ここでこの都に関する一つの新しい特徴と、この都に関連して勝利者たちが導入されます。つまり、勝利者たちはその心を王に、彼らの主に無条件でささげている者たちであり、彼に対する明け渡しのゆえに、至高の地位に至る者たちなのです。もし私たちに個人的関心があるなら、あるいはもし私たちの関心が何らかの形で主から逸れているなら、私たちは勝利者になれないでしょうし、この大事な事柄の中にあまりよく踏みとどまれないでしょう。これに関連して黙示録三・七~十二の節が思い出されます。そこではダビデについて、宮について、また、この都についても述べられています。これらの三つのものによって示されているものにあずかることが勝利者の分け前であることがわかります。

もう一度概観すると、アブラハム、メルキゼデク、ダビデは、完全に神のものであるものの力を、霊的に表していることに気づきます。二つの事が私たちの前に明示されています。(1)天的王職と(2)天的祭司職です。これらはキリストにあって実現されていることがわかります。次に、それらは天的な民によって所有され、最初から最後まで天のエルサレムと関係しています。

さて、第一列王記八章に記されているように、主はダビデと「あなたはあなたの王座に座す人に欠けることはない」という契約を結ばれました。次に、ダビデとイスラエルには、長い諸世紀の間、王もなく、宮もなく、祭司もないことを見いだします。私が見るかぎり、この矛盾らしきものを説明するには二つの方法しかありません。一つは「英ユ同祖論」の方法であり、他方は、すべては主イエスに受け継がれたと見なす方法です。つまり、ダビデとの契約はダビデよりも大いなる子孫によって成就されたのであり、彼は王座について、その肩にはまつりごとを担い、ダビデの鍵を持っておられる、と見なす方法です。(脚注:例えば使二・三〇より。確かにこれだけが正しい解釈です。)

ですから、第一に、すべては天的地位についておられるキリストに受け継がれました。しかし二義的には、それは天のエルサレムに移され、受け継がれたのです。この天のエルサレムは今や存在するものと見なされています。パウロは言います、「しかし上にある(上にあるようになるではない)エルサレムは自由であって、私たちの母です」(ガラ四・二六)。パウロの手紙の中の教会が常に完全・完璧なものと見なされているのとまさに同じように――とはいえ、これは文字どおりそうではないことを私たちは知っています――エルサレムは今や上に存在するものと見なされています。そして、それに関して述べられていることはみな、この特徴を帯びています。このように天のエルサレム――私たちは天上にキリスト共に座らされているのですから、私たちは今やその一部です――は、この天的王職と王国、そしてこの天的祭司職とを受け継いで、それを体現しているのです。私たちはその中に入れられており、それは私たちに移されています。これを証明するのに聖書が必要なら、この問題にまさにうってつけの御言葉があります。マタイ二一・四三に記されているように、ユダヤ人に主イエスは言われました、「神の王国はあなたたちから取り去られて、実を結ぶ国民に与えられます」。この御言葉の横にルカ十二・三二を置くことができます。「恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに王国を賜ることは、あなたたちの父の大いなる喜びだからです」。次に、ペテロ第一の手紙二章九節「しかし、あなたたちは選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民です」。ですから、天のエルサレムである教会が王国を受け継いだのです、王国は教会に移されたのです、教会が祭司職を受け継いだのです。「私たちの国籍は天にあります」。これは現在時制です。これは直ちに、現存する天のエルサレムにつながります。今日の王国は、もちろん、私たちに関するかぎり、霊的なものです。現在の王職と王国は霊的に表されます。後に、文字どおり表されるでしょう。つまり、教会は文字どおり、来るべき時代にこの世を統治する地位につくでしょう。

祭司職もまた、今日、霊的なものです。私たちは、、祭司です。その時、私たちは祭司でしょう。究極的完成を待っているだけでなく既に持っているものに関する完全な思想を、黙示録がどのように示しているのかがわかります。この書の冒頭と少し進んだ二つの箇所、すなわち一章六節と五章十節で、彼は私たちを王国とし、私たちの神への祭司としてくださった、と述べられています。

要点――私たちが述べてきたこと、あるいは述べられることはすべてこれにかかっています――は、すべては復活と密接な関係があり、それから分けられないということです。復活は私たちが思う以上に遥かに偉大であり、深遠であり、意義があります。復活はすべてに対する鍵です。そして、神の天的御旨に関係するものはみな、復活と固く結びついていることがわかります。確かに復活は、もしキリストにあるなら、その事柄は天的であることを意味します。

これまで見てきたように、この都はまずアブラハムと共に登場します。アブラハムの生涯の中心点は復活の偉大な力と事実であることを、私たちを知っています。アブラハムが祭壇にやって来て、地からのもの――神に由来するものさえも――をすべてきっぱりと放棄した時、その時、アブラハムは外に出て、神に関する地的ビジョンや御旨よりも優るものの中に、神の天的・宇宙的御旨であるものの中に入りました。アブラハム契約の天的基礎になったのは、昔も今も復活です。

士師たちの時代の間、またサウルの生涯の間、地的な状況のせいで、この都は輝きを失って視界から消え去り、機能せずにいました。ダビデの統治になって、宮のためにオルナンの打ち場が獲得された時、この都はそのあるべき地位に完全についたことがわかります。その時、神は予型的な形でご自身の住まいを獲得されました。そして、この神の住まいによって、この都はそのあるべき姿になりました。これは常にそうでしたし、これからもずっとそうでしょう。何かを神聖で天的なものにするのは神の臨在です。さて、オルナンの打ち場が獲得されたのは、御使いが剣をおさめた日のことでした。その地で荒れ狂っていた死がやんだ時のことでした。その打ち場でいけにえがほふられて、呪いに終止符が打たれた時のことでした。それ以降、復活の立場に基づいて新たな開始がありました。復活は常に天の御旨に関して中心的地位を占めます。

復活は分離するものである

復活がすべての鍵です。復活は完全な御旨・御思いを実現するための神のすべての新しい動きへの鍵であり、常に分離・分割するものです。

ヨハネ五章のような章を見てください。この章の中で主イエスが復活について述べておられるのがわかります。「死者が神の子の声を聞く時が来ます。それは今です。そして、聞く者は生きます」(二五節)。これは、もちろん、霊的に受け取らなければなりません。誰がその声を聞くのでしょう?全員ではありません。生きるのは聞く者ですが、全員が生きるわけではありません。つまり、主の御言葉の中にある復活の力は、生きる者たちと死んだままの者たちとを霊的に分けるのです。復活は分けるものです。それは言わば群れを二つに分けます。ある人たちは語られた御言葉を聞いて生きます。彼らは霊的死からよみがえらされます。他の人たちは聞きません。後に主イエスが「わたしの羊はわたしの声を聞きます……」と言われたことはご存じでしょう。ここに復活の第一の形式があります。それは霊的です。それは霊的死から、すなわち霊的に死んでいる者たちの間からよみがえることです。そして霊的な形で、人々は二つの群れ――生者と死者――になります。

この同じ章の中で主イエスは問題をさらに未来に向かって進めておられます。「墓の中にいる者たちがみな彼の声(語られた御言葉ではありません)を聞く時が来ます(主は「それは今です」とは述べておられません)」。これは私たちを一テサ四・十六に結び付けます。「墓の中にいる者たちがみな彼のを聞く時が来ます」。これは霊的にではなく文字どおりに受け取らなければなりません。この復活では何が起きるのでしょう?「そして彼らは進み出て、善を行った者は命の復活に至り、悪を行った者は裁きの復活に至ります」(二九節)。再び復活が分けます。

御言葉の中には他の復活もあります。そして、そのどれもが分けるものであることがわかります。一テサロニケで述べられている信者の一般的復活がありますし、ピリピ三章が告げる信者の特別な復活、すなわち死者の間からの格別な復活があります。パウロは一テサロニケにおける自分の地位を堅く確信していました。しかし、ピリピ三章で述べられている復活については確信がありませんでした。全く確信がありませんでした。これに関する彼自身の言葉は次のとおりです。「何とかして格別な復活に達するためです」。「すでに得ているわけではありません」。「すでに獲得しているとは考えていません」。ここでもまた復活が分けます。

私たちはこの結論に達しないわけにはいかない、と私は感じます。復活は分けるものであると同時に、ある地位につけるものでもあるのです。また、ピリピ三章の復活は一テサロニケ四章の復活とは異なるのです。一テサロニケ四章はピリピ三章よりもずっと一般的です。ピリピ三章は一テサロニケ四章よりも、神の御思いを表すうえで、ずっと高い地位にあります。

黙示録に来ると、「残りの死者は千年間生き返らなかった」という記述を見いだします。一つの復活すなわち第一の復活があり、それが一つの分裂を生じさせました。「第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である……」(黙二〇・六)。しかし、かなり多くの者たちはこれから除外されます。またもや復活が分けることがわかります。それはある者たちを取って、他の者たちを残します。

しかし再び千年の終わりに、また別の復活があります。そして、また復活が分けます。一つの復活があり、この復活に関してこう記されています、「そしてだれでも命の書に記されていないことが判明した者は、火の池の中に投げ込まれた」(黙二〇・十五)。もしこの時に、時の流れの中のこの時点で、命の書の中に名が記されている者はみな千年前によみがえらされていたのだとすると、なぜこう述べているのでしょう?この意義がわかるでしょうか?つまり、千年後にも、この書に名が記されている者の中にはよみがえらされる者たちがいるのであり、彼らは千年間何かを失うのです。こうして千年後に一つの復活があり、この復活により、この書の中に名がある者たちと、この書の中に名が見いだされない者たちとが分けられます。もしそうでなければ、きっと神聖な霊感を受けた御言葉は「その千年の終わりに、死者の残りの者たちはよみがえらされて、直ちに火の池の中に投げ込まれた」と述べていたでしょう。なぜ「…だれでも命の書に記されていないことが判明した者は」と述べているのでしょう?復活が臨んで、これほど終わり近くになっても、分けたのです。

これは一体何を意味するのでしょう?これは復活が何回もあることを意味します(一回の復活や、二回の復活ではありません)。そして、どの復活も何らかの段階、何らかの地位、神の御旨の進展の何らかの飛躍を表しています。そして、直ちに次の結論に達することができます。すなわち、第一の格別な復活は、最高の地位に到達する一団に関するものなのです。それに続く復活はどれも、これより劣るものを表しています。クリスチャンであっても、この千年間を失うおそれがあります。これがそうである以上、失うおそれがある別のものもあることになります。

これがエルサレムに関する勝利者の意義です。勝利者は、黙示録三章に見られるように、王座に至ります。しかし、フィラデルフィアとラオデキヤのあの勝利者の群れは、十二章の男の子の勝利者の群れです。それは特別かつ格別な復活の群れです。そして確かに主はこれを目ざして、私たちに次のことの緊急性を考慮するようにさせておられます。すなわち、私たちは少しでも地の方に向かったり、世につながれたりしている民であってはならず、むしろ全く外に出ていなければならないのです。それは、私たちがこの群れの一部となるためです。この群れは神の最も完全な御思いを表現し、死者の間からの格別な復活を知ることになります。

復活が二回以上あるのかどうかに関してもし疑問があるなら、この一つの線に沿って新約聖書を読んでください。不幸なことに欽定訳はこの場合この事実を明らかにしませんが、改訂訳は大いに助けになります。新約聖書では復活に関して二つの単語が使われていることがわかります。それは死者の復活(resurrection of the dead)と死者からの復活(resurrection from the dead)です。改訂訳ではこの区別をしています。死者の復活は一つの事です。すべての人を含むことになる死者の復活がありますが、死者からの復活、すなわち死者の間からの復活があり、こちらはすべての人を含みません。ベタニヤの姉妹はこの真理に見事につまずきましたが、それは私たちの益になりました。「彼が終わりの日の復活でよみがえることは存じています」(ヨハ十一・二四)。彼女は、全員がよみがえらされる時の死者の復活について述べています。イエスは彼女を引き寄せて「わたしは復活です」(二五節)と言われました。さて、注意してください。それに直ちに続くヨハネ十二章(それはこの物語の続きです)はこう述べています。「イエスはそこで過越の六日前にベタニヤにやって来られた。そこはイエスが死者から(from the dead)よみがえらされたラザロがいるところだった」。この言葉は "ek" であり、「~の間から」を意味します。「わたしは復活です」――「イエスが死者からよみがえらされた」。キリストに関連して、死者からの一般的復活よりも優るものがあります。すなわち、格別な復活があるのです。キリストとの関係が十分になればなるほど、神は復活によってますます多くのものを確保してくださいます。

ですから、エルサレムにはその最高の特徴として、復活の立場にある勝利者があります。勝利者は、いま見ているように、主との関係を完全に貫き通す人々です。あるいは、私たちの一般的考えに沿って述べると、勝利者は決して地に向かわず、世と関係しない人々です。

復活は分離です。しかし、分離としての復活は現在の霊的分離の原則の帰結にすぎません。もしあなたと私が今、真に神へと分離されており、コロサイ三・一「もしキリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにキリストはいて、神の右に座しておられます」という御言葉が私たちにも言えるなら、私たちは死者からの格別な復活によって霊的に分離される結果になる途上にあります。私は「救われた人は全員、半ばもしくは部分的に世的な生活を送っていたとしても、格別な復活にあずかるようになる」と信じている人たちには属しません。この御言葉に何らかの意味があるとするなら、彼らは何かを失うことになりますし、命の書に名が記されている人々でも千年間を失うおそれがあります。私はあなたに御言葉を見るようお願いします。御言葉は何と述べているでしょう?「死者の残りの者は千年が終わるまで生き返らなかった」(黙二〇・五)。その後、復活があり、諸々の書が開かれます。そして、命の書に名がない者たちは火の池の中に投げ込まれます。

今、ヘブル人への手紙の中にある途方もない数々の警告を私たちは理解します。例えば、嗣業に至らないこと、神の御旨に達しないこと、神の御旨である生得権を失うことです。エサウに関して「彼は一杯の煮物のために自分の生得権を売った」というとんでもないことが述べられています。その後どうなったでしょう?彼は涙を流して求めましたが、悔い改めの余地はありませんでした。次にヘブル人への手紙は告げます、「……彼らを再び新しくして悔い改めに至らせることは不可能です……」(ヘブ六・六)。これは彼らが永遠に失われることを意味するのでしょうか?いいえ!彼らは自分の生得権を失い、自分の嗣業を失いましたが、必ずしも自分の永遠の命を失ったわけではありません。千年の終わりに、彼らは依然として命の書に名が記されているかもしれませんが、自分の嗣業を失うのです。

今、神に対する徹底的姿勢がこのように強調されている理由を、あなたは理解されたでしょう。おそらく、あなたはいわゆる証しの性質を多少よりよく理解されたことでしょう。また、なぜ私たちは万事の中から――この世の宗教からも――霊的に外に出て、神のために離れて立たなければならないのかを、多少よりよく理解されたことでしょう。一体これはなぜでしょう?なぜもっと一般的に受け入れられているものを支援しないのでしょう?それはこの理由によります。すなわち、神はさらに徹底的な御旨を示されたからです。それはさらに徹底的な要求を課すものであり、さらに徹底的な代価を要求します。それはさらに徹底的な争いと苦悩の領域の中にもたらします。しかし、この天の幻を見たからには、進み続ける以外私たちに何ができるでしょう?「勝利を得る者を、わたしはわたしと共にわたしの王座につかせる……」。そこには王職があります。

復活は神の御旨の中にあるいっさいのものに対する鍵です。それは万事の基礎です。そして、復活は常に分けるものです。あなたは一つの復活に達しても、別の復活を失うおそれがあります。それはあなたが主と共にどれだけ遠くまで進んだかによります。これは救いの問題ではなく、救いに続くものです。パウロは自分の救いについては何の疑問もありませんでしたし、命へと至る救いと関係しているものについても何の疑問もありませんでした。しかし、その中には別の復活があって、それに関しては確信がなかったのです。そのために彼は霊的に全神経を集中しなければなりませんでした。「何とかして達するためです」。この復活は永遠の命に伴う復活ではありません。この復活は上へと召す賞です。それは勝利者のためのものなのです。