第六章 都――天の統治の座

T. オースチン-スパークス

「主なる神はこう言われる、『これがエルサレムである。わたしはこれを諸国民の間に置き、国々をその周りに置いた』。」(エゼ五・五)

私たちはサレムの王メルキゼデクから偉大な王ダビデに至るまでエルサレムを辿りました。そして次に黙示録まで、新しいエルサレムまで辿りました。その行政は常に天にあります。この事実は数々の型や象徴、多くの他の形で示されており、またそうであることが直接告げられています。

神の御言葉もまた、ある聖徒たちのためにこの行政におけるある地位が用意されていることを教えています。神の御座は共有可能であること、そして最初の共有者は主イエスであることは明らかです。しかし彼はこの同じ特権をある条件で特定の聖徒たちに提示しておられます――彼がその御父の御座にあずかったのと同じ条件です――彼らは彼の御座にあずかります。このように、ある聖徒たちのために、この世界の究極的統治の地位が用意されています。

統治に関して使われている絵図は都の絵図です。その都から統治がなされます。その都はたんなる場所ではなく一つの民であることを私たちは知っています。この都または民を構成するものはすべて天的です。その地位と権力はこの性質によります。この性質はすべてが天的であることです。

黙示録には、奥義なるバビロンと述べられているある都が出てきます。この意味は、もちろん、この世の文字どおりの歴史的バビロン、人々によって文字どおり建てられた都ではありません。奥義なるバビロンは霊的なバビロンであり、その特徴がバビロンの道徳的・霊的要素である民です。文字どおりのバビロンから道徳的・霊的に現れたものを私たちは知っているので、奥義なるバビロンを特定するのはあまり難しくありません。要点は、これは神の都である奥義なるエルサレムを真似たサタンの偽物だということです。この文脈で使われている「奥義」という言葉は、表に現われないものを意味します。ある表われは見えますが、実体は背後にあり、霊的知性だけが識別できます。これは奥義なるバビロンにあてはまります。奥義なるエルサレムにあてはまります。奥義なるバビロンは大きな惑わし、欺き、宗教史上の罠であり、奥義なるバビロンの網にかかる人はみな、きわめて恐るべき形で欺かれ、盲目にされます。彼らは歴史上きわめて恐るべき手段に訴えているにもかかわらず、それでも自分たちは神に仕えていると思うおそれがあります。奥義なるバビロンを私たちに知らせるものの名を述べる必要はないでしょう。

奥義なるバビロンがサタンにとって意味することは、奥義なるエルサレムが神にとって意味することでもあります。それは天的な素晴らしい意味においてであり、知者や賢者から隠されている事柄、世人から隠されていて知恵と啓示の霊によって彼を知っている人々に対してのみ開かれている事柄が、その中にすべて集約されています。

エペソ人への手紙は、ご存じのように、教会をその主な目的としており、神の御言葉の中で教会について使われている隠喩がすべて、少なくとも暗示的に示されています。この手紙で用いられている隠喩は、ご存じのとおり、

1.からだです。

次に、さらに以下の隠喩があります。
2.家
3.宮
4.都
5.エクレシアすなわち召し出された群れ
6.家族
7.一人の新しい人
8.花嫁

これらの隠喩がすべてエペソ書の中にあります。それらは一つの教会の様々な面です。

からだ
一章二三節、三・六、四章全体。


二章十九節。
(これに関して、この手紙の中の「御父」と「子」という言葉を辿るようお勧めします。)


二章二二節。


二章十九節、三・十八。(これはあなたの思いを黙示録に、立方体の都に向かわせます。その幅と高さと長さは等しいです。)

エクレシア
「教会」に対するすべての言及を挙げてください。

家族
三章十五節。

一人の新しい人
二章十五節。四・十三、二四。

花嫁
五章二五~二八節、三一~三二節。

ですから、この手紙の中には教会の八つの隠喩があることがわかります。また、この手紙の中には、十分辿ることのできる他の暗示もあることがわかります。

私たちが到達することになる要点は、教会に関するこの包括的提示の中には際立った点が三つあるということです。

一.奥義

第一の点は奥義です。この言葉は、ご存じのように、エペソ人への手紙の特に特徴的な言葉です。パウロは御旨の奥義について記しています。「……私たちに御旨の奥義を知らせてくださいました……」。「……その奥義を私に知らせてくださいました……」。「……その奥義の交わり……」。「これは偉大な奥義です……」。そして最後に、「福音の奥義……」。

奥義なるエルサレムという句は聖書の中に出てきませんが、教会はエルサレムであることは明らかです。また、このエペソ人への手紙が十分に見せている教会は直接的・密接にこの奥義と関係していることは明らかです。ですから、この都である教会と、教会であるこの都はこの奥義です。そして、たったいま指摘したように、「奥義」という言葉の意義は、それは啓示によってしか知りえないということです。それは天然のいかなる能力によっても理解できません――奥義、啓示されるべきものです。それは常に存在していました。これについてはっきりさせましょう。教会、奥義なるエルサレムは、聖霊の啓示によってのみ知りえます。それは今存在しています。しかし、教会は依然としてこの世に対して隠されていると言えます。宣伝、誇示、その存在をこの世に印象づけるための努力がさんざんなされているにもかかわらずです。それにもかかわらず、真の教会は依然として世人の目から隠されています。この都はこの世には見えません。この啓示、この奥義の啓示は、この世にではなく聖徒たちだけに臨みました。また、聖霊の啓示によって臨んだのです。その注目すべき点は次のとおりです。たとえ自分の手に新約聖書を持ち、このエペソ人への手紙を自分の手に持っていたとしても、そして、その最初の節から最後の節まで暗唱でき、そのすべての語句、そのすべての内容を知っていたとしても、それでも依然として、教会が何なのかに関して、あなたの心の目には覆いがかかっているおそれがあるのです。人がそれを見るには聖霊による啓示が必要です。

二.すべてが天的である

ここでこの奥義と明らかに平行している第二の点は、すべてが天的であるということです。「奥義」という言葉がエペソ人への手紙の中に六、七回見いだされるのと同じように、「天的」という言葉もこの手紙の際立った特徴です。これは明らかにこの都すなわち教会の天的性質を示しています。これについて熟考することはせず、再度これを述べるだけにしておきます。なぜなら、これは私たちの黙想の特別な目的であり、私たちはこれに何度も何度も戻ることになるからです。

三.その行政上の特徴

教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明示する数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主ご自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせてくださいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

三章十節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、ご自身の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、きわめて明白です。

六章十二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会に服しているという事実です。

ここでエペソ六章と黙示録十二章を比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録十二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の勢力の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの勢力を天から投げ落とし、それらの勢力が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録十二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録十二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの勢力は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。

選びの要素

このエペソ人への手紙の中に明らかに見られるもう一つの別の要素があります。それは選びの要素であり、地的・天的両方のエルサレムの特徴です。「これがエルサレムである。わたしはこれを諸国民の間に置き……」(エゼ五・五)。これは神の定めについて述べています。そして、エルサレムは神に選ばれた、選びの都、選びの器であること、神の主権の下でエルサレムは一時的ではあるものの選び出され、定められ、神の御旨のために保たれていることを、私たちは旧約聖書からとてもよく知っています。その偉大な本体の領域、地上のエルサレムは微かな絵図にすぎない領域の中に引き上げられるとき、これはなんと遥かにそうであることか。教会を完全に提示しているエペソ人への手紙には、「彼にあって選ばれた」「選民」「彼の御旨の目的にしたがって選ばれた」という、選びに関する途方もなく強烈な言葉が出てきます。神は永遠の過去から、この天のエルサレムが統治と主権の地位を占めるよう決定しておられたのです。

今、天で支配すること

最も重要な価値ある点、これから生じる点は次のとおりです。すなわち、今、この経綸における神の御旨に関して、教会とこの世を支配する天の支配との間には関連があるのです。これはすべてを総括します。エペソ人への手紙を正しく読むだけで、これがはっきりとわかります。しかし、これを証明するものはこの手紙以外にもとてもたくさんあります。

第一に、この世を統治する座は天に据えられており、この統治はいま機能しています。反対のように思われるあらゆるものにもかかわらず、それはいま機能しています。教会は天と霊的に関係していると見なされており、霊的に今そこに座していると述べられています。ですから、教会は今、霊的な形で、この世を支配することと固く結びついており、関係しています。それはこの経綸に対する神の御旨のためです。教会がこの世を支配することと関連しているのは一般的目的のためではなく、ただ神の御旨との関係においてのみです。この統治上の合一の機能は霊的であり隠されていることを、私たちは覚えておかなければなりません。それは明示的ではありません。教会はこの世を明示的に統治しているわけではありませんが、この世を統治することに教会は今、秘密裏に関わっています。

エリシャとダニエルに見られる天の統治

旧約聖書はこの絵図で満ちています。教会の型である旧約聖書中の人物たちの中で際立っているのは――最も際立っているわけではないにせよ――エリシャです。エリシャは油注がれた唯一の預言者でした。彼はエリヤの後継者であり、御霊の二倍の分を受け、より偉大な働きをしました。彼は言わば、この地上におけるキリストの後継者である教会の卓越した型です。エリシャの生涯を見て、統治のこの特徴の素晴らしい表われを見てください――秘密の、隠された、霊的な統治でした。王たちが同盟を組んで、戦争のために集まり、敵に向かって出て行きましたが、水がなかったため窮地に陥りました。この物語は、しばしば私たち自身の心に励ましと鼓舞のメッセージを与えてくれます。「主はこう言われます、『この谷を溝で満たしなさい』」(二列三・十六)。朝になると、水がすべての溝に満ちており、海のようでした。その結果はご存じでしょう。この物語は状況を支配する天の支配の素晴らしい一例です。ここに、数々の失敗にもかかわらず、神を代表している人々がいます。少なくとも彼らの中の一人はそうです。その状況は危機的でした。超自然的な天の支配、介入がなければ、不名誉な結末になっていたでしょう。一つの器を通して――この場合はエリシャでした――天の静かな秘密の統治がもたらされ、情勢は悲劇と禍いから栄光へと一変しました。音はなく、何も見えず、何も聞こえませんが、天が支配しているのです。

再び、シリア人たちが戦争をしようとします。エリシャは自分の家の中に、秘密の場所に座しており、イスラエルの王に使信を送ります。「あなたは用心して、この所を通ってはなりません。シリア人がそこに下ってきますから」(二列六・九)。そして、こうしてイスラエルの王は助かりました。一度や二度のことではありません。シリアの王は将軍たちに言いました、「我々のうち、誰がイスラエルの王と通じているのか、私に告げる者はないか?」(十一節)。一人の諜報員によるそれに対する返答は――私には説明できませんが――「いいえ、わが主、王よ、ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」でした。この秘訣がわかります。静かな統治により、敵は無力化され、剣を抜かずに敵を打ち破ります。これは天の統治です。旧約聖書はこの類のことで満ちています。

この預言者の住む都が包囲されます。預言者とその僕はその都の中におり、僕は包囲軍を見て、「ああ、わが主よ!どうしましょう?」と叫びます。エリシャが「『主よ(中略)どうぞ彼の目を開いて見させてください』と祈ると、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった」。これは天の統治です。あなたはその結果をご存じです。

ダニエル書に移ると、そこには私たちの注意を引くものが十分にあります。なぜなら、この物語はすべて次の事実に大いに忠実だからです。すなわち、天が支配している事実、神が人々の王国を支配しておられる事実です。ネブカデネザルについて考えてみてください。また、証しに対する、証しの器に対する彼の試みについて考えてみてください。そして、王たちの中で最強の者、この黄金の頭、彼ら全員の中で最高の者のこれらの試みに対する天の支配に注意を払ってください。ネブカデネザルの王国は史上最大の王国だったことを考慮することが大事です。それに続く帝国はみな、それより劣るものでした。それでも、天がこの最大の帝国を支配したのです。この支配は、神に対するこの強力な反対のただ中で、一握りの人々によって表されました。神に対するあの激しい敵対の真っただ中に、この数人の人々が置かれました。天は自らの支配を、それ自身はあまり大したものではない一人の僕を通して表しました。この支配はなんと強力だったことか。ダニエルはどこで支配したのでしょう?祈りの場所でです!エリシャはどこで支配したのでしょう?彼自身の家の中でです!そこに一つの秘訣があります。天の力、天の統治が霊的に進みます。それは説明不可能です。帝国を支配するこの大いなる支配に外面的特徴は何もありません。それは全く霊的です。それは全く隠されています。天然の目にはその何の痕跡も見えません。その効力が現れる領域に入る時はじめて、人々はそれを知ります。支配者たちや諸々の政府が神の御旨に反対します。これは一つのことです。支配者たち、数々の政府や帝国や国民が、暗闇の力に支えられて、神の御旨に全力で逆らいますが、それでも神の御旨が成就されます。しかも、それ自身は実際上無である一つの手段を通してです。これがこの物語です。

この手段とは何でしょう?その性質、その地位についてはどうでしょうか?すべてがそれにかかっています。それは本質的に霊的です。その生活、諸々の関係、そのすべての力は天的です。それは支配・統治する都であり、永遠にわたって支配するよう定められています。それは霊的な民、天的な民であり、「天的」という言葉が意味するところのものをすべて有しています。

それは一方において、霊性の欠如、天的生活の欠如は確実に敗北の道であることを意味します。私たちはこの世の中に出て行って、この世の政府、この世の支配者たち、人々が造った諸々の法律に出くわすかもしれません。そして、これらのものは、この経綸における神の御旨の実現に対して、必死で抵抗するかもしれません。政府は扉を閉ざして鍵をかけ、支配者たちは抵抗し、法令が作成され、諸国民や国々は閉ざされるかもしれませんが、それでも天が支配し続けます。そして、依然として神の御旨はすべて実現可能です。主との天的合一の中にある民は、あの天的機能を行使することにより、依然として神の御旨を成就する手段たりえます。

たとえば、ロシアの現在の体制はこの時代に対する神の御旨を挫折させているとは、私は一瞬たりとも信じません。実際には――いつの日か明らかになるでしょうが――おそらくそれは神の御旨を促進しているのです。その道がどれほど恐ろしくて、大きな代価が必要だったとしても、神の御旨は挫折しません。天が依然として支配しています。

注意してください。天は支配するための手段をこの世の中に必要としています。そしてあなたと私は、サタンの力の領域から霊的な方法で絶対的に分離されることにより、また、天におられる主との全き交わりと調和により、あらゆる反対にもかかわらず、依然として神の御旨を成就する手段たりえます。すでに述べたように、人は扉を閉ざすかもしれませんが、神は「わたしはあなたの前に、だれも閉じることのできない扉を開いておいた」と言うことができます。人々はあれこれ禁じるかもしれません。宣べ伝えを禁じるかもしれません。出版を禁じるかもしれません。あらゆる種類のことを禁じるかもしれません。しかし、依然として諸々の事がなされます。神には事をなす諸々の隠れた方法があります。それは祈りと彼との真に霊的な交わり――これは密かな場所でのこのエリシャの働きの性格にならったものです――を通してであり、その場に自ら出かけていくまでもありません。しかし、ああ、すべてが天然の線に沿って閉じて行く時、この場所――そこでは働きは中止されておらず、閉ざされてもいません――にとどまることはなんと大事なことか!国々は閉ざし、政府は禁止し、おそらく宣教士はやめざるをえないこともありうると思います。神の御旨を消そうとするサタンの最後の努力の結果、あらゆる種類のことが起きるおそれがあると思います。サタンは人や政府や人々を用いて、福音に反対し、主に反対します。しかし、それによって神の御旨が妨げられるとは私は信じませんし、また、神の御旨は天からの直接的な主権的方法により自動的に達成されるとも私は信じません。神の御旨は彼との霊的合一の中にある人々を通して完成されると私は信じます。私たちは様々な場所に行くことはないかもしれませんが、神の御旨がなされます。神にはご自身の数々の方法があります。しかし仮に私たちが介入したとしても、もし私たちが天との徹底的合一・同盟の中になければ、また、もし私たちが「クリスチャン」という名を帯びていたとしても地的なものすべてと完全に手を切っていなければ、どんな真の永続的効果を望めるでしょう?ああ、天的性質と霊性の途方もない力!

これをすべてこの都は意味します。この都は天の都であり、この都は来るべき時代に文字どおり統治することになるのと同じように、今、霊的な形で統治するよう召されています。あなたと私は市民仲間です。私たちは弱い者、愚かな者、蔑まれている者、無きに等しい者かもしれませんが、神はそのような者たちに途方もない可能性を与えてくださいました。ただし、それは彼らが聖霊の油塗りの下にある場合の話です。これは、「それは彼らが支配しておられる主に結ばれて、天と同盟していればの話です」を言い換えたものにすぎません。密かな場所で途方もないことをなせます。天の行政が弱い聖徒たちを通して、祈りによって臨みます。主に触れつつ生きることしかできない時もあるかもしれません。言葉は尽き、外面的な表現形式をすべてやめなければならないかもしれません。神との接触の内に生きるのは途方もないことです。私としては、何ものにもまして遥かに、公の務めよりもずっと遥かに、これを欲します。神との隠れた交わりの生活と比べたら、公的表現形式はすべて二の次です。私たちが知っている以上に、神と共なる私たちの隠された生活から、途方もないことが生じます。何も見えず、何も聞こえないかもしれませんが、何かが起きます。主は私たちを土台のあるこの都の真の市民にしてくださいます。