聖書朗読:イザ五二・一、七~八、十四~十五、使二・五、七~十一、十・十一~十六、三四~三五。
エルサレムは、神の御言葉では、特に教会を表すことを思い出しましょう。それは教会の包括的・総合的絵図です。そして私たちが理解しようとしているのは、教会の霊的構成であり、神の御言葉によると教会は実際に何なのか、教会の使命は何かということです。
普遍性は霊性や天的性質ととても密接な関係にあることを理解するのに、あまり深い思考や熟慮は必要ありません。天は常に普遍性の象徴です。これは明白です。天の中に入る時、あなたは生活の限られた制約や、あらゆる地理的制限から逃れて、絶対的に普遍的なものの中に入ります。霊性の問題についても同じことが言えます。あなたが霊の事柄の領域の中に入る時、そこでもあなたは些細な制限や制約されたものをすべて後にしたのです。すべての束縛を断ち切ったのです。
ですから、天的性質と霊性は私たちをとても明確かつ明瞭に普遍的なものの中へと導きます。そして、主の民が確信すべき最も重要なことは、教会の普遍性です。それを明確にすることが必要です。それをとても明確に理解することが必要です。偉大な神の御旨、世が造られる前から神の御心の中にあったもの、この経綸における神の卓越した目的であるものと真に関わっている者たちは、その性質を明確にはっきりと理解する必要があります。そしてその普遍性について述べる時、それによって何を言わんとしているのかについて、私たちは注意深く、また大いに確かでありたいと思います。
エルサレムによって予表されている教会の排他性と包括性
神の御言葉に来てエルサレムについて学ぶ時、表面上互いに相いれないように思われる二つの点を見いだします。この二つは両立するのが難しく、矛盾しているように思われます。
一方において、エルサレムは明確に定められた、はっきりした境を持つ都です。エルサレムには城壁があり、その城壁が周りを囲んでいます。またエルサレムには門があります。城壁と門の目的は、排除することと受け入れることです。ですから、この都に入れる人とそうでない人に関して管理することです。ですからエルサレムはとても明確に規定されており、ある意味において、包括的であると同時に排他的でもあるように見えます。つまり、ある一団に向かって「あなたたちはこの都に属しています!」、また別の群れに対して「あなたたちはこの都に属しておらず、その中に何の場所も持っていません!」とそれは告げるのです。
他方、エルサレムは普遍的なものとして示されているという事実があります。エルサレムの歴史を読む時、多くの普遍的な要素に触れます。すべての諸国民がエルサレムによって影響を受け、またエルサレムに影響を及ぼすこと、その関係は包括的であり広範囲に及ぶことがわかります。それを適切に表現する唯一の言葉は「普遍性」です。それは一つの国の真ん中に据えられています。その国のことを固定的・排他的特徴を持つものとして述べることは一瞬たりとも決してできません。パレスチナは両極端な特徴を持っており、両者の間のあらゆる色調を帯びています。一年のある時期にパレスチナのある特定の場所に座していると、華氏百度の温度で死にそうになります。しかし、ひどい暑さでこのように汗ばみながら座っている所から、ヘルモン山の雪が見えるのです。ある場所に立つと、両極端を物語るヤシの木と松の木を同時に見ることができます。ヨルダン渓谷の南側は亜熱帯気候であり、ヨルダン渓谷の北側は亜高山気候です。そして、その地のこの両極端な気候の間には、あらゆる相、あらゆる段階があります。場所によっては、羊の皮のマントを着た羊飼いたち――これは寒さを物語ります――が見つかります。他の地域では、彼らが熱を締め出すためにあらゆることをしているのが見つかります。これらの地理的・気候的特徴は、この地の普遍性を示す絵図であり型です。エルサレムはこの地の真ん中に据えられています。この地上の諸国民で、何らかの時に、エルサレムと、そしてパレスチナと、何らかの種類の関係を持ちそこなったものは、ほとんどありません。また、将来、すべての諸国民がその地の中に集められ、戦いの中で主ご自身によって対処されることを、私たちは知っています。
地上のエルサレムに歴史的に言えることは、天のエルサレムにも霊的に言えることが明らかにされています。すべての諸国民がそれと関係を持つことになります。地の王たちは彼らの栄光をその中に持って来ます。そして、その木の葉は諸国民の健康のためのものとなります。そして、それは宇宙の他の部分に関して統治的地位を占めます。天のエルサレムの普遍性は、神の御言葉の中で、おびただしい証拠により、完全に明らかにされています。
これはみな、教会を指し示しています。そして、ごく単純かつ明確に、教会はこれらの特徴に霊的にあずかっていることを告げています。一方において、排他性に至る特色と区別があり、他方において、全世界、すべての諸国民と関係を持たせる普遍性があります。すでに述べたように、私たちはこのような事柄を自分の心と知性で明確に理解しなければなりません。この対立するように思われる二つの要素は、どうすれば両立させられるのでしょう?進みつつ、模索することにします。
教会のこの二重の性格は次のものの中に見られ、またそれから導かれる――(a)そのかしら
教会を一方において排他的に、他方において普遍的にするものは何でしょう?その答えは、それを普遍的にするものがそれを排他的にし、それを排他的にするものがそれを普遍的にする、というものです。まず、それに普遍的性質・性格を与えるのは、その中で、そして天のエルサレムすなわち教会の中で最高であるパースンです。主イエスは中心的な最高のパースンであり、彼のパースンは普遍的パースンです。つまり、人の子となったことで、彼は一種族としての人と生き生きと接触を持つようになられたのです。彼は英国人の子や中国人の子であるとは述べられていません。彼は人の子です。そして、それはすべてを包含します。それはあらゆる国、地方、親族、言語の人に触れます。ですから、この世の至る所にいる人に触れます。その人の生い立ち、経歴、言語、外観は全く関係ありません。主イエスが人と接触されるとき、その人の家系が何であれ、それには生き生きとした魅力、生き生きとした意味があります。彼は、これまでいた他のどの人とも全く異なります。主イエスの驚くべき点の一つは、彼には人を引き付ける生き生きとした魅力があることです。その人が見いだされる方法や場所は関係ありません。彼はすべての人の救い主です。彼の救いはすべての種族、すべての言語の民、あらゆる生い立ちの人々に及びます。他の人には、このようなことはありえません。福音を携えて他の国々に行く時、私たちは往々にして次のような状況に出くわします。「おや、あなたはイギリス人ですね(その人がイギリス人の場合)。あなたの考え方や、あなたの見解は、私たちの考え方や見解とは全くかけ離れています。私たちをイギリス的思考・気質・見解という鋳型にはめ込もうとしても無理です」。もし福音がこの水準で示されるなら、扉は閉ざされます。そのようなやり方には何の見込みもありません。教会がその天的領域から地的水準に引きずり降ろされる時、そして、他の国々の人々が、よその国から彼らのもとにもたらされた教会の鋳型にはめ込まれようとされる時、それは悲劇的結果になることが何度も何度も証明されてきました。そんなことは不可能です。
主イエスはこの地上のどの場所でも、ご自身に由来する性格を帯びた人々の一団を構成することができます。そして、そうすることにより、普遍的なものを形成することができます。つまり、彼はあらゆる国家的区別、気質や構成のあらゆる違いを破棄されるのです。それは、ひとりの中心的パースンとの生命結合により、一つの普遍的な霊的教会――それは諸国民の上にあり、大いに天的、霊的、普遍的です――を生み出すためです。この関係を生じさせるこのパースンが、教会の普遍性の原因です。しかしもしキリストが中心的な最高の地位に保たれなければ、そして、追い求める唯一の目的がキリストへの同形化でなければ、神の御言葉が述べている教会を実現するのは不可能です。しかしキリストにその地位が与えられるとき、そして、命と生活の中に彼が真に入られるとき、他の問題はすべておのずから解け、教会が生じます。何かをキリストの場所に置くなら、たとえそれが教会自身だったとしても、またいわゆる教会だったとしても、あなたはその普遍性を破壊して、それを地方的なもの、国家的なもの、地的なものにしてしまいます。したがって、霊的価値の限られたものにしてしまいます。
このパースンによって生じる教会の普遍性、そして彼に対する生き生きとした関係は、排他性を生じさせます。これは矛盾する言葉ではなく、相補的な言葉です。なぜなら、その中心的パースンすなわち主イエス・キリストとの生き生きとした関係の中に入らないかぎり、だれも教会の中に入れないからです。教会の中に入ると、直ちに、キリストは普遍的中心であるだけでなく境界線でもあることがわかります。この事実はさらに、教会の中に入る問題だけでなく、教会における霊的発達の問題にも影響を及ぼすことがわかります。この霊的教会すなわちキリストのからだの肢体である時だけ、私たちは成長することができます。そして、教会それ自体は全体として、キリストがその命となる時だけ、霊的な方法で成長・発達することができます。私たちの問題は、ある明確な領域を心に思い描いてしまうことです。本来、これは霊的な問題であること、教会はたんなる区切られた領域ではないこと、あなたはその中にいるかもしれないし、あるいはその外にいるかもしれないことを、私たちは理解しなければなりません。教会は場所というよりはむしろ霊的状態であること、そしてその「状態」が私たちがどれだけ生き生きと教会の中にいるのか、そしてどれだけキリストに同形化されているのかを決定することを、私たちは理解しなければなりません。
私としては、神の御言葉の中でシオンとエルサレムが区別されている理由はこれであると信じています。これらの言葉は交換可能であり、往々にして同じ場所に関して用いられている一方で、それにもかかわらず、それらの間には区別があります。シオンは、神がエルサレムについて考えておられるとおりの、理想のエルサレムです。シオンは、神の完全な教会を視野に入れた時に用いられる言葉です。エルサレムはシオンに届かないかもしれませんし、シオンより劣るかもしれません。エルサレムはありのままの状況を表すかもしれませんが、シオンは神が望んでおられる状況を表します。御言葉では、この違いはとても顕著です。ですからシオンが神の完全な御旨を表す以上、神の願いはエルサレムがその性格をシオンから得ることです。これを私たち自身の人生にあてはめると、それは次のことを意味します。すなわち、御子である主イエスによって示されている神の理想に同調するときだけ、私たちはエルサレムに対する神の御思いにあずかる者となるのです。教会人たる身分は、ある限られた境界内に入る問題ではありません。教会人たる身分は主イエスとの関係の問題であり、霊的状態の問題です。この関係及び霊的状態に達しそこなうことは、教会からの排除を意味します。教会に関する一般的考えがいかに徹底的に真理に欠けているのかがわかります。教会に関する一般的考えでは、ある教理的公理に同意して、ある儀式やしきたりを通過すれば、教会に所属することができます。これは教会に関する完全に誤った観念です。教会は団体的に表現されたキリストです。そして、教会の肢体たる身分はキリストの肢体たる身分です。教会の肢体としての私たちの価値は、私たちが到達したキリストの度量によって決まります。キリストのパースンは普遍的であり、それゆえ、彼と関係している教会も普遍的になります。それは、人生のあらゆる点、あらゆる状態に、教会は生き生きとした方法で触れるという意味です。形式的な方法ではなく、生き生きとした方法で触れるのです。キリストが教会の中で、また教会を通して表現されるがゆえに、適用、要請として、生き生きとした接触があるのです。
(b)十字架
その普遍性、そしてそれと同時にその排他性を構成しているもう一つのものはキリストの十字架です。主イエスの十字架は普遍的なものでした。この十字架によって触れられなかった領域は全くありません。罪は普遍的なものであることは立証されているでしょうか?それなら、十字架は普遍的です。それはあまねく罪に触れます。人の堕落した状態は普遍的でしょうか?それなら、十字架は絶対的にそれと関係しています。十字架が象徴しているものはみな、普遍的に適用できること、そして普遍的意義があることがわかっていますし、証明されています。この都の中に入る唯一の道は十字架の道によります。これは、教会の価値、証し、魅力、召し、招きは普遍的であることを意味します。だれも排除される必要はありません。とは言え、それと同時に、十字架の道によらないかぎりその中に入るのは不可能です。それは普遍的であり、それと同時に排他的でもあります。
(c)命
同じ特徴を帯びている三番目のものは、キリストがご自身の者にお与えになる命です。それは普遍的な命です。それは他の種類の命のようではありません。領域が限られている他の種類の命があります。人の命は限られています。それは人に属します。人しか人の命を持つものはいません。より低い感覚を持つ動物の命があります。動物が持つ命は低次の命です。それは動物に属します。さらに低次の命である植物の命があります。それは植物の王国に属します。これらは区別された王国であり、植物は動物になれず、動物は人になれません。命に関するかぎり、それらは排他的であり、自己完結しています。神の命は別の種類の命です。それが与えられて、人の命の基礎となる時、その人は神のすべての子供たちと何かを共有するようになります。これは、どんな違いがあったとしてもそうです。その人は共通の基礎を得ます。それは共通の基礎であり、それによって交わりが可能になります。そして、主に関してすべてが実際となります。この力強い、活動的な、神の命は、力づけ、内側で湧き上がり、その源である神に引き寄せられます。そして、それがその源に引き寄せられる時、それはその者を自分と共に連れて行きます。それは神の命の働きであり、人々をすべての諸国民、すべての言語、すべての親族、すべての気質の中から連れ出して、一つの中に、一つの普遍的教会の中にもたらします。それは各肢体の中にある神の命であり、一つからだを造ります。
(d)聖霊
かしら、十字架、この命に言えることは、第四に、聖霊にも言えます。十字架によりキリストにあるすべての者の内に住んでおられる聖霊は、一つの普遍的な教会を構成されます。この教会の普遍性の表現は、聖霊が統治・支配することを許される時だけ維持されます。人が教会の中で支配し始めるやいなや、その普遍性は乱され、それは法的なもの、分裂したものになります。しかし聖霊が自由な道を進んで、絶対的主権を持っておられる間、聖霊はキリストの普遍性というこの原則を維持されます。そして、教会を垣根のないもの、完全な交わりを邪魔する諸々の妨げ――それらは人が聖霊の地位を占める時に生じます――のないものに保ってくださいます。
これらのものは、ご覧のように、この二つの要素―― 一方において普遍性、他方において排他性――の間に均衡、調和を生じさせます。なぜなら、聖霊の統治下に来ないかぎり、だれもこの教会の中に、この天の都の中に入れないからです。
この真理の偽物
教会の普遍性というこの偉大な事実はとてつもなく重要なので、敵の側にそれを損なうためのあらゆる種類の試みを生じさせます。敵は主に二つの路線に沿って動いてきました。第一に、敵は偽りの普遍性の路線に沿って働いてきました。そして次に、地的路線に沿って働いてきました。この地的路線は分裂や、偽物の排他性という結果になります。
偽りの普遍性に関しては、これはあらゆる領域で働いています。それは、人類はみな兄弟という名目の下、社会の領域の中に見られます。その背後には、偽りの普遍性を生じさせる、この狡猾で邪悪な敵の働きがあります。それをバビロンの内に見ることができます。人々がバビロンを建てるために働きに出て行った時、それは次のような態度によってでした。「さあ、都と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そして、われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」(創十一・四)。その目的は何だったのでしょう?それは団結によって支配する力を維持するための、普遍的な兄弟精神だったのです。
同じものが産業界にも働いています。それは政治の世界でも、国家連合を生じさせていますし、あるいは生じさせようとしています。それは宗教界でも、諸教会の一大同盟を生じさせようとしています。しかし、それは偽物であり、偽りの普遍性です。それはキリストと聖霊からの一体性ではありません。
次に、偽物の面だけでなく、地的な面もあります。この地的な面では、霊の事柄、神の事柄は地的水準に引きずり下ろされてしまいます。人によって動かされ、掌握され、操られてしまいます。その結果は分裂です。主の民の間の数々の分裂はみな、何らかの形で人が神の事柄に干渉した結果です。それで、これらの分裂は互いに排除しあっています。これは偽りの排他性であり、十字架の排他性ではありません。
これらは、キリストの霊的・天的教会の偉大な普遍性に対する、サタンの反対であり活動です。この普遍性を知り、維持できるのは、私たちが霊的な方法で地から離れている時だけです。治めることを聖霊に許している時だけです。私たちの教えが人の教えではなく、御霊の教えである時だけです。十字架が絶えず働いて、神からではないものをすべて排除している時だけです。この天の都は普遍的ですが、排他的です。ですから、これが教会です。しかし、それが実際に価値あるものとなるには、教会は実際的な形で天的・霊的であり続けなければならないのです。