第1章 主の解放とイエスの証し

T. オースチン-スパークス

最近極東を訪問した時、私はある神の僕から、私たちが最初に出版した小著の影響と価値について知らされました。その小著は長らく絶版になっていたものです。不思議なことに、「この冊子を再刷できないでしょうか?」という問い合わせが、最近別の方面からも寄せられました。その冊子を読み返してみると、今だったらそのまま同じ文章では出版しないだろうと思われる箇所もいくつかあるものの、今なお新鮮な箇所が多くあるように思われますし、初版発行から三十年たった今でも、この時代に対するメッセージをよく伝えているように思われます。

そこで、論説あるいは社説の短い連載で、そのいくつかの章の内容を示すことにしたいと思います。その本の名前は

主の解放

です。以下はその第一部です。

イザ六一・一~三(レビ二五・十):ルカ十二・四九、五〇、四・十八、十九:使二・一

「主なる神の霊がわたしの上におられます。柔和な者に福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからです。主はわたしを遣わして心の砕かれた者をいやし、捕らわれ人には自由を、縛られている者には獄屋からの解放を告げ知らせ、主の受け入れる年とわたしたちの神の報復の日とを告げ知らせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて美しさを、悲しみにかえて喜びの油を、重苦しい霊にかえて賛美の衣をお与えになります。こうして、彼らは義の木々ととなえられ、主がその栄光を現すために植えられた者ととなえられます。」

「その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由を布告しなければならない。この年はあなたたちにはヨベルの年であって、あなたたちは各々その所有の地に帰り、各々その家族に帰らなければならない。」

「わたしが来たのは地に火を投じるためです。その火がすでに燃えていたなら、わたしはどうしましょうか?しかし、わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう!」

「主の霊がわたしの上におられます。貧しい者に福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからです。主はわたしを遣わして、心の砕かれた者をいやし、捕らわれ人には解放を、盲人には視力の回復を告げ知らせ、圧迫されている者に自由を得させ、主の受け入れる年を告げ知らせます。」

「ペンテコステの日が満ちた時、彼らはみな一つ心で一つの場所にいた。」

「使徒の働き」として、また時には「聖霊の働き」として知られているこの書は、まさに「イエス・キリストの解放」という名で呼ぶことができるでしょう。

イエス・キリストの解放

ルカはこの書を、前に記した、イエスが行い始め、また教え始められたことの記録から始めます。これは、ルカの今の主題と目的がその続きであることを意味します。しかし、何という変わりようでしょう!以前の諸々の活動は時間的にも空間的にも制限されており、せいぜいシリヤの地の数マイル四方しか網羅していませんでした。遠くで力が現れたわずか数例を除けば、偏在性はほとんど限られていました。活動や教えは、一つの国と言葉の民に、ほぼ完全に限られていました。次に、外からの促し、説得、励ましにより、彼はご自身の願いが成就されるようにされました。彼は、霊的に生かされていない人の鈍い心にご自身の霊的な富を与え、確信させるのに必要な説明や理由を与えられました。それから、終局がいかなる形を取るのかについてとてもゆっくりと解き明かし、目をさまさせることが必要でした。それは、内輪の者たちにさえあった個人的野心を抑えるためでした。彼が前進しようとするたびに、高ぶり、野心、疑い、悪意、自己主張、自信、自己実現、自己防衛が、まるで有刺鉄線のように彼にからみつき、彼を傷つけました。「万物の相続者」として世界の主権は自分のものであることを彼は最初からずっとご存じでしたが、彼には枕するところもありませんでした。「弱さを通して十字架につけられる」ことが彼の分でした。

何という変わりようでしょう!今や、彼はすべての鎖を払い落とされました。時間と空間は、もはや彼の上に何の力もありません。地理、物質的事柄、サタン、悪鬼ども、人々、国家、数々の王座は、すべて完全に彼によって取り払われました。今、内なる力により、あらゆる威嚇や危険にもかかわらず、男たちや女たちは御名の栄光を求める情熱を帯びて四方に出て行きます。今、「肉にしたがって」知った歴史的人物としてではなく、圧倒的な内なる啓示により、御霊にしたがって彼を知ります。かつては恐ろしくて受け入れられなかったつまずきの十字架が、今ではすっかり彼らの栄光です。今、非難を耐えることにより高ぶりが除かれ、無私無欲の犠牲が野心に取って代わり、力づける強力な信仰――彼ら自身のものではありません――が疑いを消し去ります。彼らは御名のために自分のいのちを喜んでささげ、あらゆる損失を被ります。

戦略的一撃により、彼は「天の下のあらゆる国民」を代表する群衆と共に開始されます。この火が不自然な人為的機関なしに広がる様子をご覧なさい。

紀元三三年、数人のガリラヤの漁師がエルサレムで言論の自由を求めていましたが、貧しい無学な輩として厳しい取り扱いを受けました。

パウロが亡くなった年、この問題はどうなっていたでしょう?エルサレムに、カイザリヤに、アンテオケとシリヤ全土に、ガラテヤに、エペソ、サルデス、ラオデキヤと小アジヤ西岸全域に、ピリピ、テサロニケ、アテネ、コリント、ローマ、アレキサンドリヤに、ギリシャの島々や本土の主だった町々に、西ローマの植民地に、諸教会があったのです。

悲しい対比

この征服の記録には無い意義深い点がいくつかあります。宣教運動を組織するのを、私たちは全く読まないのです。

費用、時間、金銭、力のかぎりを尽くした、代表団、講師や講義、展示、訴え、広告などのようなもの――これはみな、救われていない魂への関心をクリスチャンたちに持たせるためです――は全く影も形もありません。遠く離れた地で神がなさったことに関する報告は、決して宣伝や唱道などの方法にはよりませんでした。私たちの見るかぎり、知性に訴える統計、感情に訴える悲劇的な煽動的物語、意志に訴える促しや駆り立ては、ここには全くありませんでした。それは第一に御霊からであり、魂からではありませんでした。この順序を逆転させようとすることが、今日のおびただしい弱さや挫折の理由であることは間違いありません。

一般的に言って、今日、教会の世界宣教というこの問題は復活以前の立場の上にあります。主はご自身によって制限されているのではなく、ご自身の民によって制限されているのです。

一方において、働き人が必要です。なぜなら、人類の約半分はキリストを知らないからです。他方、働き人たちは出かける用意ができているのですが、彼らを送り出す手だてがないことがしばしばです。さらに悲劇的な三番目の状況は、出かけた人の多くが霊的に挫折する状況であり、至る所に見られます。そのため、「回心者たち」は正真正銘上から生まれておらず、子とする御霊も内側に真に住んではおられません。悪鬼の勢力が依然として支配し、攻撃しています。教育や土着化などにより、ゆっくりと「キリスト教」を定着させる方針が取られています。これは妥協の産物であり、真の再生という基礎に基づいて働くことに失敗したためであり、この失敗とその実際的意味を正直に認めた結果です。最終的に、多くの人が確信を失って帰郷することになります。

こうしたことはみな、新約聖書の精神や経験とは正反対であるにちがいありません。この二つの水準、新約の水準とそれ以降の大方の水準とを、仔細に区別することは難しくありません。しかし、それよりも大切なのは、昔のあの栄光の秘訣を示すことです。

私たちは確信していますが、「昨日も、今日も、いつまでも同じ」御方は、この時代の終わりに至るまで、御業をこれと同じ水準に保つことを願っておられますし、実際に保つことができます。また、この世界の一部の地域では、初めの頃と非常に似通った形でそれが起きています。

ここで次に、「キリストのからだである教会」における、復活した主の御業の性質に対する探求が始まります。

最初の問いは、「当初のこの自然な世界制覇の概念、動機、原動力を示す句が何かあるのだろうか?」という問いです。

そのような句があると思います。その句とは、「イエスの証し」です。

イエスの証し

これが当時と同じように人々をとらえるとき、すべてが生じます。これを調べることにしましょう。

「神の言葉とイエス・キリストの証しを証しした。」(黙一・二)

「私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(黙一・九)

「私は祭壇の下に、神の言葉のゆえに、また自分たちが持っていた証しのゆえに、殺された人たちの魂を見た。」(黙六・九)

「龍は女に対して怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちと戦うために出て行った。」(黙十二・十七)

「私は、あなたや、イエスの証しを持っているあなたの兄弟たちと同じ僕です。」(黙十九・十)

「私は、イエスの証しのゆえに首をはねられた人たちの魂を見た。」(黙二〇・四)

キリストの証しがあなたたちの中で確かなものになったからです。」(一コリ一・六)

わたしについてのあなたの証しを、彼らは受け入れようとしないからです。」(使二二・十八)

「あなたたちに対する私たちの証しを、あなたたちが信じたからです。」(二テサ一・十)

「ですから、私たちの主の証しを恥じてはなりません。」(二テモ一・八)

「あなたたちはわたしの証し人となるであろう。」(使一・八、「証し」のギリシャ語と同じ語根)

「一人が、私たちと共に証し人となるべきです。」(使一・二二)

「このイエスを神は復活させました。私たちはみな、このことの証し人です。」(使二・三二)

「死人の中から復活させました。私たちはそのことの証し人です。」(使三・十五)

「すべての人にではなく、証し人にです。」(使十・四一)

「使徒たちは大いなる力で主イエスの復活を証しした。」(使四・三三)

「彼らは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。」(黙十二・十一)

これらの節の光の中で新約聖書を読むなら、次のことがはっきりとわかります。すなわち、新約聖書が語っている際立った物語は、証しの物語なのです。そこで、「この証しとは何だったのか?」という問いが残ります。積極的な答えへの道を開くため、この「証し」が何ではなかったのかについて述べる必要があります。

1.「イエスの証し」は教えではなかった

使徒たちは「イエスの教え」を持って世界に出て行った、という議論や主張の根拠となるものはこの物語の中には全くありません。彼らは新しい教理や真理の体系を広めたわけではありません。教えはその証しを受け入れた結果であり、その内容の説明がその受容に続きました。そして、教えは信者だけのためでした。教えは結果であり、原因ではありませんでした。彼らが常に行っていたことの大半は、自分たちの証しを聖書から実証することであり、キリストのパースンに関する特定の事実を確証することでした。

2.「イエスの証し」は新たな宗教ではなかった

「キリスト教」は、他の宗教と対抗したり並存するために設けられたわけではありませんし、「比較の対象」とされたわけでもありませんでした。しばらくしてから、使徒たち自身、自分たちの証しの意味に気づく人たちもいました。この証しは、彼らをユダヤ教から解放するという問題をはらんでいたのです。その変化は大きなものでしたが、最初彼らは自分たちの「宗教」の外に連れ出されたことに気づいていませんでした。後に彼らは、自分たちが外にいること、自分たちの偏見にもかかわらず委任されていることを見いだしました。困惑する経験によってこれが事実となった後、彼らは自分たちの考えや議論を対処しなければなりませんでした。コルネリオの家でのペテロや、使徒の働き十、十一、十五章などの出来事を見てください。

3.「イエスの証し」は新たな「運動」ではなかった

何の計画も立てられませんでした。何の方針もありませんでした。組織は全くなく、後で承認される必要があったものは、当惑せずにはいられないその活力のゆえに認めざるをえませんでした。ですから、とても単純でした。

手の込んだ宣伝はありませんでした。新しい協会、教派、「教会」、団体の設立、立ち上げ、形成、生成、創設は、念頭にありませんでした。彼らはそのようなことを始めませんでした。しかし、彼らの証しは信じたすべての人たちに際立った特徴を与えました。そして、外部の人たちは彼らにレッテルを貼り、その動機や目的を誤解しました。その際立った特徴とはいのちでした。

では、「イエスの証し」とは何だったのでしょう?

それはもっぱら、ある事実の宣言、確認でした。その事実とは

死者の中からの復活によって確立され、証明された、神の御子であるイエス・キリストの普遍的な統治権と主権

です。

この証しには二つの面があります。一つは客観的な歴史的事実です。これに関しては多くの確かな証拠がありましたが、その正しさが「キリストのからだである教会」の中で――そのすべての肢体や、そのあらゆる活動において――聖霊によるこの復活の力によって実証されました。このいのちはキリストにおいて罪、死、地獄、サタンを征服し、キリストを「最も低い所」から「あらゆる天を遙かに超えた」所にもたらしましたが、このいのちが天から送られた聖霊によって人々の内に植え付けられたのです。

ですから「イエスの証し」とは、イエスは宇宙的に勝利して生きておられるということであり、また教会はこの真理の「柱」(または記念碑)であるということです。教会は、このいのちの容器であるキリストの復活のからだであり、キリストの復活の力で満たされ、聖霊によって治められています。

イエスの証しとはつまりいのちです――彼のいのちです。生活様式ではなく、活気に満ちた無限の力です。破壊できず、抵抗できない、不朽のものです。それは活気に満ちた力であり、主イエスを信じることを進んで願う人のいる所ではどこでも、霊的に死んでいる人たちに伝達されるものです。

このいのちは古い鋳型、伝統という「皮袋」、疲弊した組織、人が造り出した秩序や形式を破裂させます。

このいのちは、かつて神により起こされて大いに用いられたけれども生けるものではなくなってしまい、今では過去の遺物にすぎないものをも取り除きます。ここではユダヤ教ですら意味がなくなります。イエスの証しは捕らわれ人を解放します。そして、その力によって発せられる言葉は、「わたしの民を去らせよ」という抗いえない要求です。「復活であり、いのち」である御方がその教会を通して命じられる時、ラザロは出てこなければなりません。このいのちは、「このからだ」の中におられる復活した主から、永遠の御霊によって流れ出ます。このいのちこそ、世界宣教とイエスの証しを推進する力です。

新約聖書の中には、働き人や宣教士を求める訴えの例は全くありません。そうしたことはせいぜい、貧弱な代替物や必要にすぎません。聖霊が真に満ちていて、そのいのちが現されている時、聖霊は「わたしのために……を選び分けて、わたしが召した働きに当たらせなさい」と言って、すべての働きや働き人の間で主導権を握られます。

新約聖書では聖霊を受けることに大きな重点が置かれています。聖霊は宇宙的主権者である主――「万物の相続者」――の霊です。聖霊の使命は世界大であり、宇宙的です。世界的な幻、世界的な情熱、世界的な召命は、聖霊の主権が内側に確立されることから必然的に直ちに生じる結果です。これ以外にはありえません。それでは、これがこんなにも多くの人にとって自然なものではないのはどういうことでしょう?なぜ、主の民は心をこめてひたすら語って、この証しを広めないのでしょう?これもまた、使徒の働き十九章二~五節の問題と同じなのでしょうか?

代価が妨げとなって、御霊を消しているのでしょうか?代価が必要です。新約の証し人たちが「証し」を携えて赴いた所では、必ず敵――龍――が戦いを仕掛けました。戦いを仕掛けるのは敵の方でした。なぜなら、敵は一大敗北者となることが定められていたからです。それは主権を巡る戦いでした。それは敵の不承不承のあいさつであり、意図せざる祝辞でした。地獄を怒らせ、恐れさせる何かを、証し人たちは代表し、所有していたのです。

この時代における主の御旨と方法は、すべての地で二人または三人の人を復活の中でご自身と一つにし、「救われつつある人たちを彼らに加える」ことです。

大事なのはいのちの増加であって、勧誘や「呼び物」や宣伝ではありません。真の証しがなされる時、ここでもまた聖霊が主導権を握られます。

現在の最大の必要は、聖霊により、キリストの復活の力をもって、主の民を再び力づけることです。どうかこれが速やかに実現されますように。そして、いのちのために、真の生けるイエスの証しのために、必要ならあらゆるもの――伝統、組織、一般受け、形式や型、偏見、個人的関心、評判、威信、妥協、他人の意見、策略など――が犠牲にされますように。そうすれば、主の解放が再び実現されて、その火が新たに撒き散らされるでしょう。