第4章 血の証し

T. オースチン-スパークス

「主は蛇に言われた、『(中略)私は敵意を置く。おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に。彼はおまえの頭を砕く……』。」(創三・一五)

「……この年を経た蛇(中略)兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証しの言葉によって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもその命を愛さなかった。」(黙一二・九、一一)

イエスの証しについて聖書で最初に述べたのは主御自身であり、それは上の節においてでした(創三・一五)。イエスの証しは「彼はおまえの頭を砕く」というこの句に集約されます。この句では二つのものが一緒にされています。「彼」すなわちこの御方と、「おまえの頭を砕く」すなわちその御業です。これにはある特別な意味があります。「おまえの頭」は「おまえの支配、統治、主権、冠」を意味します。次に、十字架が直ちに導入されます。この御方はこの証しを完全かつ決定的に確立されますが、十字架はその舞台であり中心です。さらに、十字架の中心的要素は主イエスの血です。血こそイエスの証しの中心的要素です――主イエスの血がその中心的要素です。主イエスの血の包括性を思い出して欲しいと思います。主イエスの血はまず第一に罪と関係があります。創世記のこの節では、人が犯してしまったためにこの世に入り込んだものに対して直ちに血が適用されます。罪には様々な面があります。罪は違反であり、境界線を踏み越えることです。罪は不法であり、神に反抗することです。罪は欠け目を生じさせ、人が神の栄光を受けられないようにします。罪にはあらゆる形や道があります。主イエスの血は罪を対処しなければなりません。罪に直面し、それを滅ぼし、この宇宙から徹底的に一掃しなければなりません。イエス・キリストの血は罪に立ち向かいます。

それから二番目に、イエスの証しは「肉」というこの象徴的言葉が意味するところのものと関係しています。ここで言う肉とは単なる罪の原則のことではなく、罪に落ちた人のことです。つまり、堕落した人類、種族を意味します。罪が侵入したとき、人は堕落しました――神の当初の意図とは全く異なる存在に成り果てました。「人は肉になってしまった」(創六・三)。イエスキリストの血は、この堕落した種族を支配している原則や法則としての罪を対処しなければならないだけでなく、この種族そのものを対処しなければなりません。罪をこの宇宙から一掃しなければならないだけでなく、この種族をこの宇宙から一掃しなければなりません。このような種類、このようなタイプの人を除き去って、新創造のための場所を確保しなければなりません。肉にしたがったタイプの人ではなく、御霊にしたがったタイプの人、復活したキリストのような人のための場所を確保しなければなりません。

人は罪を犯しました。そして、罪が侵入した時、人類は惨憺たる有様になりました。これに続いて直ちに一連の結果が生じましたが、この血はそれとも関係しています。つまり、死と関係しているのです。これが三番目の点です。「罪を犯した魂は死にます」。「その木から取って食べる日、あなたは必ず死にます」。さらに御霊はパウロを通して言われます、「一人の人の不従順により(中略)死がすべての人の上に臨みました。すべての人が罪を犯したからです」。罪を犯すなら、宇宙のどこでも直ちにその結果として死が臨みます。死が人類に対する判決です。死の範囲や深さは千差万別です。死は霊、魂、体のあらゆる領域に及びます。この血は死について証しし、この領域で働かなければなりません。

次に四番目に、イエス・キリストの血は罪の結果とその実を取り扱うだけでなく、その原因とその根幹をも取り扱います。サタン自身にもイエス・キリストの血は強力な効力を及ぼします。サタンはイエスの証しによって捕らえられます。二つの立場で捕らえられます。

第一に、サタンは「この世の君」として捕らえられます――「この世の君が来ます」。「今はこの世の君が追い出される時です」。

第二に、「死の権を持つ者、すなわち悪魔」であるサタンとしてです。この句は死について述べているだけでなく、死の権を持つ者についても述べています。この「権」という言葉はよく知られている「デュナミス」――力――や「エクスーシア」――権威――ではなく、「クラトス」という別の言葉です。この言葉は「握ること」を意味します。死を握ることです。両手に死を握っている者、死をつかんでいる者です。そしてこの文脈でこの血は彼について示します、それも死を通して示します――そして主イエスは少しのあいだ死の支配・影響の中に乗り込んで――死を握っている者すなわち悪魔を滅ぼさなければなりません。

このように、血はこの両方の立場におけるサタンを対処します。これが主イエスの血によるイエスの証しです。

この問題は生か死かの問題である

今、次のことがわかります。すなわち、イエスの証しは彼の血により、彼の血を通して、彼の血によりなされるものであり、生か死か、死か生かの問題なのです。これが主要な問題です。ああ、どうか私の話にしっかりとついてきて下さい。なぜなら間もなく、この事柄の偉大な内容をあなたは見ることになるからです。イエスの証しはイエスの血によってなされますが、その主要な問題は生か死かの問題です。主の民がこれをよく理解していれば、彼らは自分たちの立場を堅固なものにしていたでしょうし、この世における自分たちの使命の何たるかをよくわかっていたでしょう。そして、イエスの証しに関わるとき自分たちが霊の領域で遭遇することを、ことごとく十分に解き明かせていたでしょう。イエスの証しは生か死かの問題です。イエスの証しは罪や聖化に関するものであるだけではありませんし、古い人や新しい人の問題であるだけではありません。イエスの証しの内容及び範囲はもっと遥かに大きな問題と関係しており、その周辺を巡っています。その問題とは生か死かの問題です。この主要な問題を理解しない限り、他の問題はまったく理解できません。罪の問題も、新しい人、新しい種族、新創造に属するものをもたらすという問題も、人々をサタンの力から解放して神にもたらすという問題も、決して理解できません。この主要な問題を理解しない限り、あなたは立ち往生したままでしょう。聖化というこの問題はそもそもどこから始まるのでしょう?新創造というこの問題はそもそもどこから始まるのでしょう?サタンの支配からの人々の解放というこの問題はそもそもどこから始まるのでしょう?死の権が対処された所から、すべては始まるのです。あなたや私が戦っているのは、諸々の罪だけではありませんし、旧創造だけでもありません。私たちの古い人に没頭してそれに執着するあまり、私たちはがんじがらめに縛られて、どうにもならなくなるおそれがあります。聖化に関するありとあらゆる真理や教え、特に複数形の罪や単数形の罪の問題にがんじがらめになって手足を縛られてしまい、どうにもならなくなるおそれがあります。そうなるのは、この主要な問題を理解していないからです。主要な問題は死と、死の権です。私たちは主イエスの血のこの中心的問題――生か死かの問題――に進み出なければなりません。核心は十字架です。主が十字架の血により一度限り永遠にこの問題を解決して下さっていなければ、他の問題もまったく解決されていなかったでしょうし、完全な福音もなかったでしょう。

このように、イエスの証しは十字架と十字架の内容ですから、イエスの証しの本質が何かわかります。イエスの証しは、新創造を可能にするいのちに対する証しです。この証しの核心を理解するなら、それがいのちに関するものであることがわかります。このいのちがもたらされたのは、死が滅ぼされたからであり、死の力が砕かれたからであり、死の権を持つ者が無効化されたからです。人がこの証しに出会ってそれを理解し、この証しにあずかってそれを自分の証しとするとき、何が起きるのでしょう?ただちにこの人殺しがやって来るのです。

いのちの敵が姿を現した

この者は、主御自身が言われたように、「最初から人殺し」であり、人殺しとしてずっと活動してきました。この者は、旧約でも新約でも、イエスの証しに召された者たちを一人残らず攻撃してきました。

アベルは歴史上初めてこの証しを担った人でした。アベルの証しとは何だったのでしょう?血です!血というこの象徴の意義をアベルがすべて理解していたかどうかは、さしあたって気にしないことにします。しかし、神は血の意味を理解しておられました。神は血の意義を確立されましたし、歴史を通じてずっと血が神の方法でした。すべての献げ物に関する神の御思いをヘブル人への手紙の一節は示しています、「血を流すことなしに、罪の赦しはないからです」。罪がこの世界に入り込んだ最初の時から、神の御心によると血が鍵でした。アベルはこの血の証しの中に足を踏み入れました。この証しが意味するところの内容は、罪、死、人類、死の権を持つ者にまでことごとく及びました――そこで直ちにこの人殺しがやって来て、アベルを殺しました。アベルはカインによって殺されたのではなく、カインを通して殺されたのです。これまでずっとそうでした!後にアブラムが祭壇を築いて、供え物を裂いたとき、この戦いが始まりました。この出来事については創世記一五章を読んで下さい。荒い鳥が降りて来て、日が沈むまでアブラムはこれを追い払いました。すると、大いなる暗闇の恐怖が臨んで――それから主がやって来られました。この出来事は何と関係していたのでしょう?小羊と小羊の血の啓示と関係していました。小羊とその血により、アブラムの子孫はエジプトで四百年奴隷になった後、解放されるでしょう。主はアブラムに地上における御自身の方法について啓示されました。これは何のためだったのでしょう?エホバの証しのための人々を得るためでした。その人々は諸国民の間にいますが、諸国民から離れています。イスラエルはこの地上で、諸国民の間で、神の団体的な証しとなるべきものであり、血、流された血の原則に基づいて構成され維持されるべきものでした。地上で主の民によって団体的になされるこの証しの性質を、主が啓示するためにやって来られたその時、アブラムは大いなる闇の恐怖に襲われ、周囲の様子も一変して戦いの様相を帯びました。これはモーセ自身の場合にもあてはまります。エジプトで戦いがあり、彼の生涯を通じて常に戦いがありました。

エリヤは祭壇を築いて、イスラエルの中に主の証しを維持するために立った時、攻撃を受けました。これもまたこの理由によります。エリヤがこの証しのためにカメル山上の自分の祭壇の側に立った時、この証しは確立され、その正しさが偽預言者たちに対して証明されました。いいえ、偽預言者たちと彼らの組織を生み出したあらゆるものに対して証明されたのです――彼らの背後には権力者がいました――それでイゼベルはエリヤの命を狙ったのです。サタンが無垢な赤ん坊を皆殺しにしたのは、モーセただ一人を殺すためでした。それと同じように、サタンが無垢な赤ん坊たちを虐殺したのは、主イエスただ一人を亡き者にするためであり、主イエスのカルバリを予見していたからなのです。このエリヤの場合、エリヤはイスラエルの証しのために立っていましたが、サタンは最も適任であるイゼベルを用いて、エリヤの命を狙いました。旧約でサタンは個人や主の民の群れを殺そうと何度も試みてきましたが、これがその理由です。エステル記ではハマンがユダヤ人を皆殺しにしようとしましたが、これがその理由です。その理由とは何でしょう?彼らが地上における神の道具だったことです。悪魔はこの人々の間にある証しを攻撃します。彼らは悪魔の標的です。彼らは証しだからです。主イエスのこの真の証しの中に、理論によってではなく聖霊の力によって立ちなさい。その中に真に立つなら、間違いなくいのちの敵がやって来ます。あなたが神の働きや自分自身の個人生活で経験すること、体、思い、霊の中で経験することはみな、これが原因です。私が述べているのは極めて途方もない厳粛なことです。それにもかかわらず、私がこれを述べているのは、正真正銘本当のことだからです。

このいのちの証しは死に打ち勝つ

さて、私たちは一部分にあずかる時、全体にあずかることになります。なぜなら、その中間はないからです。あなたはその中にいるか、その外にいるかのどちらかであり、それ以外はありえません。信仰により聖霊の中で、真にイエスの証しと親密な関係を持つようになる時、あなたはただちに血というこの大問題、究極的問題に巻き込まれることになります。これは生か死か、死か生かの問題です。あなたはこの問題の中にいるのであり、この領域にはただ一つのものしかありません。そのただ一つのものとは、神の御子の戦う信仰です。

神の御子の戦う信仰

この領域では受け身的ではいられませんし、中立でもいられません。この領域では気晴らしに興じることはできません。祈りは戦う祈りでなければなりません。ああ、戦う祈りの復興が必要です!祈りを唱えるのをやめて、祈りを祈り、祈りの中であらゆる場所を巡ることが必要です。そして、主の御名によってこの大問題や戦いに直面し、それを乗り越えることが必要です。主の民は実際の戦いの祈りをさらに祈る必要があります。「神の御子の戦う信仰を与えて下さい」と主に求めて下さい!これは、この戦う信仰によって足場をしっかりと固める必要があること、諸々の環境や外見によってそらされるのを拒絶する必要があることを意味します。この証しはあなたにとっていかなるものでしょう?自分から取り去られて後に何もなくなってしまったら、自分も死ぬというものでしょうか?それとも、これは自分がたまたま身につけたものであって、服のように取り替えがきくものでしょうか?主イエスのこの証しを取り去られることは、あなたにとってすべてを剥ぎ取られることに等しいでしょうか?もしそうなら、あなたはこう言うことができます、「私にとって生きるか死ぬかの問題があります。それは私がその中に立っている証しの問題であり、主イエスの証しの問題です」。

「兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証しの言葉によって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもその命を愛さなかった」。この御言葉は矛盾しているように聞こえないでしょうか?「死に至るまでも」。アベルは殺されました。「兄弟たち」は死んでいるわけではなく、アベルも死んではいません。パウロはイエスのように殺されました。しかし、彼らは「限りないいのちの力」によって生きています。なぜなら、イエスは死と「死を握っている者」を征服されたからです。その十字架とその血により、彼は征服したのです!