第5章 務めのための備え

T. オースチン-スパークス

「モーセは主に言った、『ああ、主よ、私は言葉の人ではありません。(中略)私は口が重く、舌も重いのです』。」(出四・一〇)

「主は言われた、『行ってイスラエルを救いなさい』。(中略)ギデオンは言った、『ああ、主よ、ご覧ください(中略)私は私の父の家族のうちで最も小さいものです』。」(士六・一四~一五)

「その時わたしは言った、『私はわざわいだ、私は滅びるばかりだ…』。主は言われた、『行きなさい…』。」(イザ六・五、九)

「その時私は言った、『ああ!主なる神よ!見て下さい、私は話すことができません。私は子供だからです…』。主は言われた、『行きなさい…』。」(エレ一・六~七)

「私は預言者でも、預言者の子でもなかった……ところが主は私を取り、『行きなさい……』と私に言われた。」(アモ七・一四~一五)

「そこで彼は十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに彼らを遣わすためであった。」(マコ三・一四)

「聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力を受けます。そして、あなたたちは私の証し人となります。」(使一・八)

上で最後に引用した御言葉は、他のすべての御言葉に対する答えです。ペンテコステは聖霊の新しい時代と方法とを画するものでしたが、それにもかかわらずこれまでずっと、神の働きは御霊の使者を通して行われてきました。「神の働きに欠かせない必要不可欠なものは何か?」と問われるなら、私たちはためらうことなく、「聖霊の油塗りと満たしです!」と答えるでしょう。

前に引用した事例では、大いに異なるタイプの人々が登場しますが、彼らはみな共通の立場の上に導かれました。モーセには途方もない先天的能力や後天的能力がありました。モーセの感情や意志には指導力、意欲、情熱、勇気が備わっていましたし、知性の方面ではそれが「エジプト人のあらゆる知恵」と結びついていました。また、肉体的にもかなり力があったことは明らかです。イザヤやエレミヤは豊かな社会的、宗教的、聖職者的特権を持っていなかったわけではありませんし、良い訓練を受けていなかったわけでもありません。この面に関して、パウロについて何か述べる必要があるでしょうか?他方、ギデオン、アモス、ほとんどの使徒たちは、身分の低い慎ましい家の出身であり、教育も少ししか受けておらず、世間的特権もほとんどありませんでした。この後者の人々に関して、「彼らは無知で無学な者たちだった」と記されています。この人々はみな、前に述べたように、共通の立場に導かれました。痛ましい、時にはかなり長い訓練と試みを通して、前者の人々はこの地点に導かれなければなりませんでした。その地点で彼らは、ただ神だけが御自身の御業を行えることを理解しました。また、神は人が完全に御自身に拠り頼む立場に立たない限り、いかなる人も、いかなる天然的能力も決して用いられないことを、彼らは理解しました。そのような賜物、訓練、能力は神にとっては重要なものではなく、人が十字架の原則や法則の深い内なる働きを通して天然的立場から霊的立場に移されない限り、役に立ちません。霊的能力以外の何ものも、霊の軍勢に対することはできません。これが神のあらゆる働きの背景です。

神は先天的能力や後天的能力を人に授けて、その賜物を用いることがあるかもしれません。しかし、その人々が天然的な面に関して死に導かれ、霊的な面に関していのちに導かれない限り、決して神はその賜物を用いられません。モーセはこの道を行きました。パウロはこの道を行きました。霊的な永遠の目的のために神に真に用いられた人はみなそうです。つまり、働きだけでなく働き人をも受け入れてもらうには、この道を行く必要があったのです。

全方位的訓練や備えに反対している、と思う人は誰もいないでしょう。そうしたものには何の意味もない、などと言うつもりは毛頭ありません。私たちが強調しているのはこういうことです。すなわち、たとえ先天的あるいは後天的に、賜物、教育、天然的能力、情熱、福音的信仰や教理、クリスチャンの働きに関する知識などがあったとしても、それでもまだ必要欠くべからざるものに欠けているかもしれないのです。それがなければ、他のあらゆるものも失敗に終わることになります。その最も重要な要素とは「聖霊に満たされること」です。

他方、御霊に満たされた人は決して無知を擁護しませんし、主の働きの基礎となる知識の修得を軽んじたり無視したりもしません。御霊の促しと覚醒により、最も無学な人ですら有能な者になり、以前なら修得する気も力もなかったようなことを修得しました。これは御霊の御業の冒険譚の一つです。

さて、こうした単純な基礎的事柄は私たちをさらに先に導きます。

模範的僕

模範的僕である主イエスは、「私は自分からは何も行いません。私は聞くままに話すのです」。「私が話す言葉は、私が自分から語っているのではありません」。「私が行う業は、私が自分から行っているのではありません」と宣言されました。ここでは、罪のない「私」ですら、自分自身の言葉を語ったり、自分自身の働きを行うことを拒んでいます。彼は慎重にあらゆることで御父にすがり、拠り頼みました。彼のように罪がなくてもこれが必要であること、そうしないなら自分の務めが外からのありとあらゆる危険にさらされるようになることを、彼が理解しておられたことは明らかです。このように神は徹底的だったのです。この神の徹底的姿勢は私たちを促すものであり、神の理想の僕にできるだけ近づくことを願う者たちはみなこの特徴を帯びていなければなりません――このような徹底的姿勢を身につけるには、ある時点で人が無に帰されることが必要です。このように無に帰される経験は、主の多くの僕の人生や務めのうちに明らかに見ることができます――その時、彼らは完全な絶望に陥る寸前の所まで行き、「神だけが唯一の財産」となったのです。

しかし、クリスチャン生活とその働きの比較的後期、おそらく何年にもわたる活動の後でないと、このような地点には到達できないのでしょうか?「肉による」、人から出た努力や活動のために、ほとんど実りのないまま、失敗や挫折を経験する必要があるのでしょうか?ハンマーを打ち鳴らして熱心に築き上げてきた一大構造物が崩れ始め、あとには真に霊的な永遠のものがほんの僅かしか残らない、という目に最後になって会わなければならないのでしょうか?聖霊のなさることだけが神の目的に達することができ、永遠に残ります。私たちはこの問題にきっぱりと決着をつけることができます。

確かに、神は最初の時点で人を無に帰すことができます!確かに、これは聖書に記されている人々の経験と合致します!少なくとも、彼らが自分に頼ってこの地点を踏み越えようする時、彼らは絶えずこの明確な経験の地点に連れ戻されたのです。

これは主の働きのための訓練の真の性質である、と私たちは熱烈に信じています。この主の訓練により、御言葉と経験を通して主を知る知識が増し加わって行きます。神の御言葉を知る知識は経験的な知識でない限り、奉仕に役立ちません。この知識は神御自身を知る知識であり、これが御言葉を生けるものにします。

モーセは自分の一生の仕事のために、無為という厳しい学校で訓練を受けました。大いに活動的な気質の人が、荒野で四十年間も羊を飼っていたのです!モーセは偉大なビジョンを抱いて開始しました。彼の動機は正しく、目的も正当なものでした。しかし、その計画を行う方法が間違っていたのです。悪に出会う時、どうすればそれを見逃さずに、また善に対する熱意を失わずに、それを耐え忍べるのでしょう?これは人々を解放することを願う人々が学ぶべき重要な学課の一つです。人々のための奉仕に幻想を抱かないこと、「いずれ人々は自分の自己犠牲に感謝するようになるだろう」と思わないこと、しかもその期待が幻滅に終わっても皮肉屋にならないことは、またこれとは別の学課です。決していかなる方法、振る舞い、口調、行動によっても、優越感を示さないことは三番目の学課です。こうした学課はモーセが学ばなければならなかったささやかな学課ではありましたが、この学課自体は大きな学課でした。依存、信仰、従順、謙遜が主要な学課でしたが、こうしたものは本や講義からは修得できません。

イザヤは、自分が不適格であることを思い知らされるビジョンを見なければなりませんでした。

パウロは知的な聖職者階級の伝統ある公的高台からズドンと落ち、塵の中で屈服して、かつては憎み軽蔑していた「イエス」に服従しなければなりませんでした。

弟子たちは、自分の神聖な主人の御心を満足させることがまったく出来ない自分たちの惨めな能力の欠如に関して、多くの学課を学ばなければなりませんでした。そしてついに、弟子たちは十字架を通して、自分たちには信じることすらできないことを示される不名誉を被りました。

これはみな必要な訓練であり、備えでした。このような訓練の過程を自発的に受け入れる人は何と少ないことでしょう!しかしこれが、神の僕たちを備えるために、ある地点でなされる働きの性質です。聖霊に委ねて、聖霊にこのような霊的訓練の経験をことごとく通らせてもらうことが、神を深く知るのに必要です。根底を打破して、働きや奉仕に関する私たちの観念から脱却することが必要です。すべては外面的ではなく、内面的なものにならなければなりません。天然的ではなく、霊的なものにならなければなりません。私たち自身からではなく、神からのものにならなければなりません。必要とあらば、無為の訓練を受けなければなりません。忙しく働いてさえいるなら、それでいとも容易に満足してしまうのです。しかし、それは神の道を邪魔するものであることがしばしばです。そのような時、神は私たちの働きを脇にやって、それは神御自身がなさることであり、そのような奉仕によってではないことを、私たちに教えなければなりません。多くの人について、主は使い古された方針を受け入れることを余儀なくされています。彼らがそれ以外は受け入れようとしないからです。

理想の預言者学校

理想的な「預言者学校」とは、霊の命を最も重視する学校です。この学校では聖霊が各人を取り扱われ、光、力、慰め、導きを得るために神の御言葉が必要とされます。御言葉によって生きたいなら、御言葉は私たちにとって生けるものにならなければなりません。そして経験こそ、命と知識とが出会う場です。

いかなる訓練センターも、知識と働きのための訓練しか与えないなら、十分なものとは言えません。霊の命に最も注意を払い、それをはぐくみ、それを導くものでなければならず、外からは決してなしえない働きのために、特に聖霊の臨在を求めてそれを守るものでなければなりません。

さて、以上のことをすべて述べたので、戻って次のことを理解しましょう。すなわち、原則として、使徒の働き一章八節が成就された時から、これが神の大能の働きの基礎だったのです。あらゆる豊かさを持つ十字架が聖霊によってこの最初の信者たちや証し人たちの生活の中にもたらされました。使徒たちの性格の変化には目を見張るものがあります。彼らは私心のない、謙遜で、恐れることのない、愛に満ちた、辛抱強く忍耐強い者になりました。「地位」や「立場」、評判、名声、「成功」、人気等は、もはや彼らの奉仕の動機ではなくなりました。あらゆることで彼らがどれほど御霊によって導かれ、支配されていたのかに注目して下さい!弟子たちの内にある、あらゆる形を取る自己の命の縄目がこの火によって焼き尽くされる時、主は解放されます。主は十字架を通して個人的に解放されて無窮に至りました。それと同じように、主の十字架が主の僕たちの普段の生活の中に深く植え付けられる時、主はいっそう力強い働きを自由に行えるようになります。ああ、キリストが十字架に行かれた時、彼は私たちの罪(複数形)を担われただけでなく、私たちをも担われたことを、もっと十分早い時期に生活の中で理解できていれば!キリストは罪人としての私たちを担われただけでなく、人としての私たち、説教者、教師、働き人、ありとあらゆる者としての私たちをも担われました。ですから、「今より後、もはや私ではなくキリスト」です。こうした資質の一つかそれ以上を十字架に付けられるのがあまりにも遅すぎた人たちも私たちの中にいます。そして死を通して、宣べ伝えは人間的レベルを脱却して、上から再生されなければなりません。他の事柄についても同じです。ああ、まさに最初からこの地点にある新たな群れが必要です!その時、神は新しいことを行うことができ、私たちは主の新たな解放を見るでしょう。主は御自身によって制約されているのではなく、僕たちの天然的な活動によって制約されているのです。こうした天然的活動が、垂直的方法ではなく水平的方法によって、つまり、十字架、復活、昇天、上からの降臨という道筋によってではなく、人間的道筋によって霊的事柄の領域の中にも導入されているのです。

予型の時代には、最も厳格な律法が聖なる油による油塗りを支配していました。何度も繰り返して、「油を人の肉の上に塗ってはならない」と強調されていました。主は今日も同じように厳格であり、人の「肉」――人の自己の命――の上に御霊を臨ませることはなさいません。人の肉はすべて、まず血の力の下に来て、十字架にもたらされ、妨げるものが何もない道を御霊に与えなければなりません。最初の証し人たちは、イエスの御名を告げることにより、今生では何も得ずにすべてを失いました。感覚を少しでもなだめられるものは何もありませんでした。エルサレムの人々はとても早い時期にすべてを失い、広く散らされました。外側から、主はすべてを純粋に、自由に保たれたのです。しかし、主は御自身の原則、御自身の当初の前提から決して離れません。主はそうすることを許されさえするなら、御自身の僕の霊と命の中にこの状態を造り込まれます。それは万事が御自身から出たものとなるためであり、「神がなさることはみな永遠に残る」ためです。麦粒の法則が確かに働いています。制約を通して拡大され、損失を通して獲得し、死から命が生じるのです。