第6章 十字架と金銭の務め

T. オースチン-スパークス

個人の財政と教会の財政

一定の割合の金額を系統的にささげる務めを神は大いに重んじて祝福してこられました。この事実こそ、私たちが霊的に解放されるうえでこの主題が重要である証拠です。この問題を考察するとき、低い水準に降りるわけではありません。事実、キリストの広範に及ぶ数々の御旨はこの問題と重大な関係にあります。

この金銭の務めに関するキリストの御言葉のいくつかにざっと触れることにしましょう。

1.最初に、キリストが明確に述べられた執事職の原則について思い出してください。

ここに登場する人物は(1)豊かな主人、(2)欠乏している家族とその背後に控えているこの世、(3)両者の間に立つ執事です。この執事は特権的地位につけられて、管理職と責任を委ねられました。執事は本来主人のものである財産を委ねられました。主人が執事に期待したことは、執事が家族とこの世のために、自分が持っているものを主人の目的に照らし合わせて管理することでした。一つ一つの必要について考える際、執事が最も重視して優先すべきは、「これは主人の御心にとって最も親密で慕わしいものとどのような関係にあるのだろうか」という観点です。執事の喜びはこれらが成就されるのを見ることであって、自分自身の個人的で肉的なこの世の願望や野心ではありません。執事は主人から任されたものを使う時、自分の肉を喜ばせるために自分を目立たせるような形で使ったりはしませんし、主人の誉れを盗むような形で使ったりもしません。大事なのは常に主人の名前であって、執事自身の署名ではありません。

これが「善良な賢い執事」です。私たちの持ち物をすべてこのように見なして用いることが、神の是認と祝福と報償を受ける確実な早道であることを、主人は大いに明らかにしています。

2.次に、投資の法則について考えることにしましょう(マタ十五・二七)。

引用した節に「私の金」と書いてあることに特に注意しましょう。このたとえが示している思想は次のことに尽きます。すなわち、私たちは神から委ねられた資産を、神から最大限の是認を受ける結果となるように用いなければならないのです。こうした資産を要求する、ほとんど無数とも言える求めがあります。そして、何が王国の働きであり、何がそうでないのかについて、クリスチャンたちの考えに少なからぬ混乱があります。社会事業、博愛事業、人道的事業、慈善事業、利他的事業、宗教的事業、霊的事業。こうしたものがみなごちゃまぜになって、折り重なっています。多くの人は寛大な慈悲深い心の持ち主で、欠乏やそれらしきもの、もっともらしい話を聞いただけで、自分のポケットや財布に手を伸ばします。他方、その他の人々は、乏しくてすぐには助けの手を差し伸べられないため、こんなにもたくさんの緊急の要請を前にして、「自分はどうやって義務を果たせばいいのか?」と困惑しています。

全く献身している人のために、主は次のような健全な原則を与えてくださいました。何が最も深遠で最も真実な御旨なのか判断しなさい。クリスチャン倫理にしたがって判断するのではなく、キリストの十字架にしたがって、何が真にカルバリの霊的な永遠の目的なのか判断しなさい。そして、こうした目的に最も役立つとはじきだしたものに、最大限投資しなさい。これが意味するのは、祈って慎重に検討した上でささげなければならないということです。

3.金銭を従えること(マタ十九・十六~二六)

いま述べたことと密接に関係しているのは、私たちの関心の対象は何かということです。要するに、私たちは何ものにもまして霊的な事柄関心を持っているのでしょうか?お金や手段が目的になっていないでしょうか?道具が目的になっていないでしょうか?私はしばしばとまどいを感じるのですが、すべての人を知っておられる御方は、私たちの前にあるこの節によって、この問題を判断されるのではないでしょうか。私たちの価値観は遅かれ早かれ実際に試されるでしょう。そして、私たちが霊の命と力を探す冒険の旅に出かける時、真に危機的な転機が訪れて、私たちはこの裁きの水に直面するでしょう。この裁きの水は、キリストを獲得して彼の内に見いだされるようになるために、私たちがすべてのものを損失、くずと見なすかどうかを試します。私たちはすべてを失うことはないかもしれませんが、この試練に遭うことにはなります。

4.さらに優った祝福(使二〇・三五)

主がいつこの御言葉を語られたのか、私たちにはわかりません。私たちは推測することしかできません。しかし、この御言葉を語ったのは明らかに主です。このさらに優った祝福について、二つの点を示唆する必要があります。

(1)この祝福は私たちの霊の中に与えられる祝福であり、私たちの霊の中で成長します。なぜなら、私たちは十字架の偉大な数々の目的を理解できるようになり、キリストが達成された輝かしい事柄にキリストと共にあずかる者になることができるからです。

(2)この祝福は与える能力が拡大される祝福です。神のためにささげればささげるほど、ますます与えられるようになり、ますます神は与えられるようにしてくださいます。

5.比較して勘定する原則(マコ十二・四一~四四、ルカ二一・一~四)

この箇所では、ささげた金額は大したものではありませんでしたが、問題はささげた後に何が残ったかです。支出がいくらだったかではなく、残高がいくらだったかが問題です。有り金をすべてささげるなどということは、私たちには到底困難ではないでしょうか?それは信仰によってすべてをささげることではないでしょうか?それは代価を顧みない愛ではないでしょうか?どうしてキリストはこのやもめを大いに称賛して、神が大いに喜んでおられることを確証されたのでしょう?ナザレでは、やもめの母親と大家族が、聖書にしたがってささげ物をささげていたからです。市場で最も安いものをキリストがご存じだったのも当然です――二羽のすずめが一シリングで売られていましたが、二シリング払うと、一羽のすずめがおまけでもらえて、二シリングで五羽買えたのです。しかし、この犠牲により、律法にしたがって――キリストは律法を成就するために来られました――ついにこの日が到来しました。その日、生計を賄っていた長男であるキリストと、その兄弟の中の少なくとも一人が、家を離れて、気兼ねなく王国の働きに打ち込むことができたのです。これはたとえです。

最後に、系統的にささげることの重要性と意義を忘れないようにしましょう。時々、場当たり的にささげるのでは、「あの人は気前がいい」と勘違いされるおそれがあります。自分の資産を注意深く系統的に切り分けて分配し、帳簿を明確かつ厳格につけておくなら、実際、私たちはもっとささげられるようになりますし、もっと先に進めることがわかるでしょう。次に、神が私たちのささげ物を受け入れてくださるのは、私たちの生活が聖別されている時だけです。ささげることも聖別されていなければならないのです。だれかが私たちに対して何か「恨み」を抱いているなら、それを解決しないかぎり、ささげ物は祭壇の上に残ったままでなければなりませんし、残ったままでしょう。神が欲しておられるのは物ではなく、私たち自身です。さらに、私たちが行うことはみな、キリストの十字架に対する私たちの評価がその原動力でなければなりません。真の奉仕の動機と力は、私たちに対する主の愛を正当に評価することによって生じる愛です。かりに「全自然界」が私たちのものだったとしても、「それはあまりにもちっぽけなささげ物にすぎず」、「私たちの命、私たちの魂、私たちのすべて」だけが唯一十分なささげ物である、と本当に言えるでしょうか?

これまでやや一般的な方法でこの問題について取り扱ってきましたが、これは大部分個人にあてはまります。今、教会財政への適用について考えることにします。

教会の財政

大切なのは、教会が自由に使える金額ではありません。これが判断基準ではありません。大切なのは、キリストの十字架の本質的目的をどれだけ理解しているかです。

財政的に余裕があっても、霊的に破産している教会がたくさんあります。そうした教会では、外の働き人たちに頼らずに、自分たちの務めを効果的に進めることができません。他方、厳しい財政事情により、神から与えられた十字架の働きを遂行できない教会が、さらにたくさんあります。このような状況は両方とも、カルバリの否定や制限であることは明らかです。何かが間違っているからです。

さて、問題を解決するには、絶対的に堅く据えられている十字架の数々の原則について理解しなければなりません。その諸原則とは、十字架は直接的かつ積極的に、この世やその手段に反対する、ということです。

ここで、この世に関するキリストや使徒たちの教えを要約する必要はないでしょう。「この世は十字架と神の王国に敵対するものであり、禁止・排斥されている」と言えば十分でしょう。

カルバリの絶対的勝利を命と奉仕の中に持つには、私たちは十字架と完全に調和しなければなりません。それには、この世に対して「十字架」につけられることが必要であり、私たちにとってこの世は「十字架」につけられたものとなる必要があります。バザーやコンサートで、カルバリの働きのために資金を集めようとすることや、カルバリに人々を引き寄せようとすることは、この世の精神、方法、原則から出ており、それゆえ、カルバリの勝利の道を邪魔します。

こうしたことを勧める人たちはたいてい、きわめて非霊的でこの世的な精神の持ち主であり、教会の真の霊の働きには少しも役に立たない人々です。

そうです!カルバリの成果にあずかるには、カルバリの数々の原則に従う必要があるのです。「肉」や「世」はカルバリの原則に反します。

信者も、教会も、あらゆる方法、手段も、十字架の目的と絶対的に一つとならなければなりません。これを十字架は要求します。前に述べたように、王国のための主の方法と調和しなければならないのです。

十字架は信者や教会にとって、キリストの死(自己やこの世に対する死、その関心、野心、性質に対する死)を通して、キリストの権威(エクスーシア マタ二八・十八等)によって、キリストに結合されることを意味します。そうである以上、カルバリの働きが一時的な環境や状況によって妨げを受けるようなことがあってはなりません。しかし、注意しましょう。私たちが計画を立てるのではなく、神のご計画が何であるのかを常にわきまえる必要があるのです。思い込みによって、神が良しとされないことを神に要求してしまうことがしばしばあります。人間的水準から離れて霊的水準に移る時、ごくわずかな経費でどれほどのことをなしうるのかは、まさに驚くばかりです。

以下の文章は、再編集されて雑誌に掲載された章の中には含まれていませんでした。この箇所は元の本では、この章の結語でした。

さらに優った方法

これまで一定の割合をささげることについて述べてきましたが、次のことを強調しておきたいと思います。すなわち、一定の割合を取っておくことやささげないでいることを、私たちはほのめかしたり、言わんとしたわけではありません。私たちが求めているのは与えることであり、まず最初に主が期待しておられる最低限を与えること、次に系統的にささげる問題の手助けをすることです。神の御言葉によると、「一部は主のものであり、残りは人のもの」ということは決してありません。むしろ、部分は全体を代表するのです。そして、初穂が意味するのは、すべては主のものであり、そのように見なすべきである、ということなのです。聖霊が全き道を行かれる時、聖霊はこの原則を明らかにされます。その結果、なにものも個人の私物として持つことがなくなり、すべてはこの証しの光の中に置かれ、主のものとして勘定されるようになります(使二・四四、四五、四・三四~三七)。これはアナニヤとサッピラの罪の大半に触れるものです。彼らは聖霊に対して偽っただけでなく、代金の一部を取っておいたのです。ペテロは御霊によって事実上こう述べました、「この問題に触れるつもりなら、あなたは完全に従うか、完全に従わないかのどちらかを選ばなければなりません。すべてを自分のものにしておくのは、あなたの自由です。しかし、一部を神にささげ、一部を自分に取っておくことはできません。すべては神のものであると見なすか、さもなければ、神のものは何もないと見なすかのいずれかです。神は妬むほどにすべてを欲しておられるのです」。地上で生活していると数々の義務が私たちに課せられますが、私たちはそれらの義務をクリスチャン生活や神への礼拝に関するものとして受け入れなければなりません。霊的義務とこの世の義務とは、必ずしもきっちりと分かれているわけではありません。正当な方法で私たちに訪れるものはみな、証しのために有用なものと見なさなければなりません。律法的立場を離れて恵みの立場に移る人は、御霊は自由さや気前よさを生み出される御方であることがすぐにわかるでしょう。長期的に見ると、神はいかなる人にも借りをつくったりはなさいません。

こうして、このようにきわめて実際的な注意を述べて、主の解放に関するこのメッセージを終えることにします。次のことに疑いの余地はありません。すなわち、他の方法同様この方法によって、生活や教会を統治する御霊の統治の証拠を見ることができるようになるのです。そして、主は解放されて、この世に対する御旨を妨げなく進めることができるのです。これらは証しであり、試金石でもあります。

「どうか、私たちの内に働く力によって、私たちが求めまた思うところのいっさいを、遥かに超えて豊かに行うことができる御方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々かぎりなくありますように。」(エペ三・二〇)