第7章 リバイバルか改革か

T. オースチン-スパークス

これまでの章で述べてきたことや、言わんとしてきたことの光の中で見る時、「今日、リバイバルと改革のうち、どちらがより必要とされているのか?」という疑問が生じます。リバイバルを求める非常に多くの祈りがなされており、リバイバルを求める訴えが押し迫っています。「神の民の上に力強く聖霊が注ぎ出されるなら、困難はすべて克服され、欠点や欠け目は良くなり、間違いも超越することができる云々」と人々は言い、信じています。人々は過去の出来事を引用して、このような推論や結論を引き出します。リバイバルの実際の持続期間に関して、この真理を否定するつもりは全くありません。しかし、「あまりにも皮相的な推論や結論のせいで、神が真に求めておられることを遅らせ、停滞させている」と私たちは強く感じています。いわゆるリバイバルは実際のところ――神の意図、そのまさに本質によると――改革だったのです。霊の命の高波はこれまで必然的に次のような影響を及ぼしてきました、すなわち、教会が誇ってきたものの多くを馬鹿げたものとし、以前は必要不可欠と思われていたものの多くを幼稚なものとし、はびこっていたものを排除して、受容されていた確立済みの体系を概ね覆したのです。垣根は取り払われ、二次的なものは第一位の座から取り除かれました。実に、評価基準全体が変化して、ひっくり返ったのです。これは偉大な「リバイバル」の時にそうだっただけではありません。大きな大会の時のように、千差万別な関係や外観を持つ主の民が純粋に霊的な立場に基づいて集まった時もそうだったのです、

さて、要点はこうです。神の御霊が、キリスト教組織を特徴付けている多くのものを無視したり、脱却したりされる時、あるいはそれらのものをほとんど無価値なものにされる時、(重要なものや真に神から出ているものに関して、聖霊は決して妥協されません)、それが意味するのは、現在大いに広まっているものを再考すべきことを神は求めておられる、ということではないでしょうか?

これを述べる方法にはいくつかあります。例えば、キリスト教圏が地上の現世的な生活の中に落ち込めば落ち込むほど、儀式のようなものがますます大きな地位を占めるようになります。儀式、典礼、祭服、祝典、形式、そのような外面的なものは、これまで常に低く貧しい霊的状態の印でしたし、そのようなものをどれくらい重視しているかが、霊的状態の指標でした。他方、深くて強い純粋な霊的状態は常に単純さという特徴を帯びていましたし、そのようなものもなかったのです。歴史はまぎれもなくこの事実を証明しており、御霊の高潮もその顕著な証拠です。教会が霊的力と衝撃力を最も持っていた時代は、教会に関する形式、建築、儀式は全くなく、主ご自身がすべてである時代でした。

さらにまた、このようなものがたくさん背景にあるにもかかわらず、いっそう豊かな霊の命を求める数々の大会では、そうしたものを後にして、しばしの間、存在しないものと見なすべきことを、人々は十分に理解して受け入れてきました。「このような時やこのような状態がわずか一週間やそこらしか続かず、そのあとで下りて行って、このありとあらゆる地的区別に戻らなければならないとは、何と惨めなことか!」と言う人もいます。そうです、これこそ私たちが言わんとしてきたことの要点であると言っていいでしょう。一つのことは明らかです。すなわち、そのような時、聖霊はこうした宗教的な諸事を復興したり促したりはされないのです。聖霊は宗教的な諸事の大半を拒否されます。ですから、聖霊の動きのこの効力について理解し、それに気をつけることが必要なのではないでしょうか?聖霊の働きにより、主はこの問題について何らかの調整を行うべきことを要求しておられるのではないでしょうか?

これを言い換えてみましょう。主は何を復興されるのでしょう?主は何に注意されるのでしょう?イスラエルのリバイバルの例として、ヨシヤとヘゼキヤの時代があります。このリバイバルの出来事により、十字架につけられたキリスト(過越)が完全に目の前に示されました。このリバイバルの影響により、空しい誤った宗教的儀式や偶像は粉砕されました。しかし、このリバイバルは皮相的なものだったのです。その効力は十分深くまでは至らず、人々が昔の水準に戻った時、これらのものがまだ人々の心の中に残っていることが判明しました。この事例に完全には対応していないかもしれませんが、それに実際に類似しているものがいくつかあります。これまで儀式やその類のことについて述べてきましたが、それがすべてではありません。儀式について言えることは、互いに顕著な特徴を帯びている分裂した宗派や「教会」についても言えます。この点に関して私たちは大いに公平かつ公正でありたいと願っています。さしあたって、これに関してさらに述べることにします。

さしあたっての論点は、神の御霊は数々の真実な霊的運動により、次のことを示す非常に多くの証拠を示しておられるということです。すなわち、神はこれまで記してきたこの既存の組織全体を評価して、それが重要ではないばかりか、妨げであって制限するものにほかならないことを示しておられるのです。主の民が御霊の高波の中にある時、不幸なことに、ある指導者や講演者が自分の特定の教会に本質的に属している決まり、組織、手順を持ち込んだとしましょう。すると、霊的な人々は何か痛み、身震い、影に近いものを感じ、全員がそれを哀れなこと、過ち、かなり後味の悪いものとして振り返ることになります。そのようなことによって集会の水準が落ち、それを回復するのが容易ではないことがしばしばあります。実を言うと、御霊が悲しんでおられるのです。これについて両面から判断することができます。劣ったものから逃れるには、神の御霊の力強い訪れが必要です。ただこれだけが功を奏します。ほとんどの人はこれに同意します。この主張にしたがってかなり多くのことが述べられてきたのを、私たちは聞いてきました。しかし、困惑せずにはいられないことに、このようなことが何度も繰り返し強調されてきたにもかかわらず、その主張は決して十分な力を持つことがなく、実際には何の調整もなされずに終わるように思われるのです。ですから他方において、神の御霊がご自身の道を進まれる時、御霊は妨げを取り除く働きを何度も繰り返されますが、もし私たちがそうした妨げに真剣に向き合うなら、より高い水準にある恒久的な霊の命、豊かさ、効力に至る道が開かれるのではないでしょうか?

これは私たちを最初の問いに連れ戻します。リバイバルの本質的要素は改革ではないでしょうか?「天の窓」(マラ三・十)を開くために、主は抜本的な調整を要求しておられるのではないでしょうか?過ぎ去り行くリバイバルの波による神の「訪れ」はあまり必要ではなく――少なくとも――その後長期間にわたって新たな命の水準を可能ならしめる改革こそ必要であることに、私たちは同意できるのではないでしょうか?

今、新たな改革は必要なのか?

もし新たな改革が必要だとするなら、その改革の性質はいかなるものでしょう?おそらく、最初の問いに答える最上の方法は、二番目の問いに答えることでしょう。それには、キリスト教の現状について見なければなりません。ここで言う「キリスト教」とは、一般的なキリスト教圏のことではなく、福音的キリスト教のことです。それを特徴付ける三つの主な要素があります。

1. 教理の体系
2. 分裂した宗派、分派、宣教団
3. 働きの形式

1.教理の体系

福音的キリスト教の大半は、結晶化された一定の教理体系に還元されてしまいました。その教理とは、キリストの神性、彼の贖いの死、彼の体を伴った復活、彼の昇天と高揚、それから――その時や方法についてはいくつか相違もありますが――彼の個人的再臨、聖霊のパースン、聖書の霊感と絶対的権威などです。

即座に結論を下して、この先を読まずに、出て行って私たちに関する誤解を広める人がいると困るので、直ちにこう述べることにしましょう。私たちはこのような教会の本質的教理を改革する必要性について述べているわけではありませんし、それを要求しているわけでもありません。これらの教理は正しい真実な基礎であり、支配的なものであって、純粋なまま完全に維持されなければなりません。しかし、こうした教理を擁護して言葉を尽くしたとしても、教会の霊の命と力というこの問題は一向に解決されません。正統性や「健全さ」が霊の命の印だったことは決してありませんでした。事実、「根本主義」は宗教裁判と同じように、冷たく、厳しい、残忍で、苦々しい、死んだものでありえますし、実際にそうだったこともしばしばです。根本主義の武器は完全に肉的なものであることがしばしばありますし、実力行使に訴えることも躊躇しません。これは極端な場合かもしれません。しかし、人々がこうした数々の真理を信奉していて、ここまで極端ではない場合でも、頑なさ、疑い、偏見、排他的精神を生み出す厳格な律法主義そのものに陥っていることがよくあります。多くの分裂がこれに続いてきました――そうした分裂は真理に忠実に従った結果生じたものではなく、ある特定の真理の何らかの面を強調したために生じたものです――重箱の隅をつつくようなことで分裂が生じてきたのです。これを述べる時、教会史の中で人々が真理のために大きな代価を払って戦ってきたこと、そして、これに関して忠実な人々のおかげで状況が救われたことがどれほどたくさんあったのか、私たちは決して忘れているわけではありません。ここでの私たちの論点は別のことです。キリスト教の教理はそれ自体が重要なものになってしまいました。そしてそのせいで、多数の不幸で不潔な無用の要素がキリスト教の中で強固な地位を占めるようになりました。自分の教理を守るかわりに、真に霊的に価値あるものを失うのは、いとも簡単です。悪魔は長きにわたってこの真理を破壊して偽りの教理を蒔く働きを行ってきましたが、私たちはこの悪魔の働きをよく知っています。私たちはこの信仰の本質的要素について証しする忠実な証し人に完全に味方します。教理の改革はさしあたって私たちの論点ではありません。論点は、教理の持つ地位や関係の改革です。どうか忍耐して最後までついてきてください。私たちの目的は偉大で決定的なものなのです。たとえキリスト教の教理や信条をすべて明確に述べて、人々がそれに賛同したとしても、それで必ずしも絶対的にキリスト教が確立されることにはなりません。「文字は生かす」よりも、「文字は殺す」がここでは真実です。真理とは別に、真理よりもさらに重要なものがあるのです。この別のさらに重要なものがなければ、真理そのものですらその正当な意義を失ってしまいます。この別のものについては、間もなく述べることにします。

2.クリスチャンの間の分裂

すでに述べたように、福音的キリスト教は宗派、分派、分派的組織の一体系になってしまいました。こうしたものの多くには輝かしい始まりがあったことを、私たちは公平かつ公正に覚えておかなければなりません。宗派について言うと、その多くは誠実な心から始まり、ある特定の教理や数々の教理や表現形式のために、とても大きな代価を払って生まれたものでした。他の多くの機関、運動、宣教団、組織も同じです。真理からの逸脱のせいで、また、責任、義務、キリスト教に委ねられた目的を果たすことに失敗したせいで、このように特別な様々な働きが生じました。その情熱、英雄的精神、犠牲、奉仕には、並々ならぬ歴史があります。その物語で図書館を埋め尽くせるほどです。それを何一つ軽視するつもりはありません。そうすることが目的なのではありません。私たちが述べているのはこういうことです。すなわち、そうしたことの多くは、今では、それ自体が重要なものになってしまい、それ自身で終わってしまうこともしばしばある、ということです。多くの人はこれに束縛されています。ここでもまた、これがあらゆる不幸な要素、競争心、嫉妬、競争、疑い等が生じるきっかけとなっています。こうした多くの事柄の結果、組織的キリスト教はキリスト教の敵となり、神の御霊の真の働きに対する敵となっています。

3.働きの形式

教会生活の中に生じる危険は、ごく初期の内に見分けることができます。この危険性は―― 一方において――クリスチャンの関心の一つの面や方向を優先するというものです。ですから当然、他方において、優先されなかった方には疑いや消極的姿勢が向けられることになります。例えば、最初教会の中には強力なユダヤ的圧力や傾向性があったため――少なくとも――ユダヤ人への福音の宣べ伝えが最優先されました。しかし、異邦人への宣べ伝えが大いに重視されるようになると、それに対する消極的姿勢や疑いが使徒たちの間ですら酷くなりました。幸いなことに、当時は聖霊が重要な地位を占めておられ、聖霊はご自身の道を行くことができたので、この危険な局面を切り抜けて合一を保つことができました。しかし、このような傾向は常に存在し続け、霊の命が低下・減少するにつれて、この危険性は現実化して確立されてきました。救われていない人に対する福音伝道も、それ自体が目的となってしまい、それだけで終わることもしばしばです。福音伝道以上のビジョンが何もないことがしばしばあります。福音伝道の働きを最優先してそれに専念しないクリスチャンがいると、彼らはしばしば疑いや消極的な目で見られ、さらに悪い目に遭うこともあります。福音伝道者には魂の救い以上の目的や関心がないこともしばしばあります。他方、信者の霊の命や聖徒たちを建て上げることに気を遣うと、それによっていとも容易に、福音伝道は日陰にやられて、「魂に対する情熱」も失われてしまいます。クリスチャン団体の特別な特定の働きにはきりがありません。ですから、「教師たち」や「霊の命を深める」諸々の務めは福音伝道には消極的かもしれません。その結果、両方の道に大きな損失が残ってしまい、教会はもっと強くなることができ、そうなるべきだったのに、バランスの崩れた弱いものにされてしまいます。こうした問題については示唆することしかできませんが、よくよく考えるなら、これがそうであること、そして、それはどこかが間違っているためであることを、正直に認めざるをえないでしょう。

こうして、私たちは二番目の問いに取りかかることができます。そして、間違った物事という泥流から抜け出して、神の真実で完全な御思いという清らかな水の中に移ることができます。

必要とされている改革の性質とはいかなるものか?

一つの文章で述べると、それは神の御旨、目的、方法という新しい支配的概念と完全に関係しています。「それは何か?」と問われるなら、「人である!」と答えます。

人!

イスラエルの歴史を見ると、この考えにほぼ完全に合致する一コマがあります。この歴史の一コマには次のような二つの表題を付けられるでしょう。

「他のすべての国々と同じように、私たちに王を与えてください」

「神は一人の人を見いだされた」
(一サム八・五、十三・十四)
です。

この二番目の表題のより詳しいものは使徒の働き十三章二二節にあります、「わたしはダビデを見いだした。(中略)この人はわたしの心に適う者で、わたしの意志をことごとく行うであろう」。この二つの対照的選択の内に潜む最も深い性質について、こう述べることができるでしょう。サウルは人が選んだ者でした。つまり、霊的衰退の時に、神の民が選んだ者でした。王が欲しいという考え自体は間違っていませんでした。なぜなら、神ご自身が王を備えられたからです(申十七・十四~十五)。間違っていたのは、神との親密な歩みを失った結果生じた「他のすべての国々と同じように」という原則でした。「国々と同じように」という言葉は、その組織や働きの多くの事柄を意味するものかもしれませんが、それはまさに、この世が事を行うのと同じ方法で神の事柄を行うことを意味します。これは神の教会の領域の中でこの世の真似をすることです。王はの要求すべてに応えなければなりません。これが一体何を意味するのかはまさに、広く行き渡って今日キリスト教の中にはびこるようになった体制を見ればわかります。サウルには称賛すべき点も多々あり、神は主権をもって同行して、正しいことについてはできるだけ祝福して協力されました。しかし、主はすべてをご存じであり、常に大きな条件付きで、将来の霊的災厄を予見しておられました。「人はうわべを見るが、神は心を見る」。これがこの歴史的危機に関係している御言葉です。そして、この御言葉はキリスト教のかなりの部分を支配している基準を見事に要約したものでもあります。「人はうわべを見る」。見ばえや魅力、印象や重厚さ、支援を得る魅力や保証、成功して影響を及ぼす見込み。このような方向を目指す、広告、商業主義、競争、虚栄、誇示、その他多くのことがあり、クリスチャンの働きでもこうしたことが当たり前になっています。見るのも悲しいことですが、教会の霊の命が低調になる時、教会はどれほど多くのものを持たずにはいられないことでしょう。他方、とても喜ばしいことに、霊の命が高まる時、どれほど必要なものが少なくなり、多くのものが不用になることでしょう。

しかし、消極面から積極面に移ることにしましょう。「神は一人の人を見いだされた」。この御言葉はエッサイの子であるダビデの遥か彼方まで及びます。神はダビデのうちに何をご覧になったので、ダビデは神の御心に適っていたのか、そのすべてについて考察するには紙面が足りません。私たちに言えるのは、神はこの若者の隠れた生活をご覧になっていたこと、そしてその動機や価値観を完全に考慮しておられたということだけです。

「神の御心に適う者」――この言葉の豊かな意味に移ることにします。聖書の全き啓示は、永遠の時の前の神の御旨に、私たちを直ちに連れ戻します。ここで私たちは神の決意を見ることを許されます。その神の決意とは、この宇宙は究極的にはひとりの人を中心とするものになり、このひとりの人によって治められなければならない、ということです。しかし、これはたんなる役職上のことであってはならず、独断的な選出、選択、指名によるものであってはなりません。この決定は、性格、種類、性質によって支配されなければなりませんでした。その人はある種類の人です。その人は神の特徴をすべて体現し、表現して、ただこの基準によって万物の価値を決定します。この人は自分の性質に基づいて、最終的に「万物」を自分の中に集約します。この人はまた同様にして「万物を満た」します。このようにして、機関、組織、運動、計画によらずに、神は御旨を達成されます。それはある有機体によってです。神の御旨の次の段階は、「われわれの形に、われわれの姿に似せて人を造ろう」でした。これは原則として上述したことに対応しています。こうしてアダムが造られましたが、アダムは「来るべき方の予型」(ロマ五・十四)でした。次に、直ちに歴史が始まりましたが、その歴史はこの「ひとりの御方」へと至る道から逸れてしまいました。それでも依然として、神と共に歩んだ人々の一本の長い路線がありました。この人々はめいめいがこの御方の何らかの特徴を体現し、表現していました。最終的に、それらの特徴はこの御方によって完全にまとまって現されることになります。

ついに、この御方が到来されました。神はこの御方について「この者をわたしは喜ぶ」と言うことができました。この御方は性質的にも度量的にも神の御心に適う者であり、そのような人はただこの御方だけであって他にはいませんでした。この御方は天や地獄が課しうるあらゆる試練や試みにさらされ、他のだれも受けたことがないほど神を信じる信仰の試練を受けました。他方、この御方は「私たちのために罪とされ」、「私たちのために呪いとされ」ました。この御方は「短い間」――それは永遠のように思われたにちがいありません――神から見捨てられなければなりませんでしたが、勝利を収めて、「父よ!」という叫びと共に死なれました。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」。ああ、驚くべき信仰の勝利!「神は自分から遠く離れていて、自分なんかには何の興味も持っておられない」とあなたは少しばかり感じたことはあるでしょうか?神の臨在の感覚が雲によって遮られてしまう経験をしたことがあるでしょうか?これが神の愛と信実さを信じる信仰にとってどれほど重大な試みなのか、ご存じではないでしょうか?このような時、あの悪しき者はすぐさまあなたに対して神を訴え、神を中傷し、あなたの信仰を破壊する目論見をもって、その経験に対するありとあらゆる解釈を吹聴するのではないでしょうか?この試みを一万倍強めて、信仰を破壊する手立てが尽きるほどにしてみなさい。というのは、この場合、これまでに課せられた試練よりも多くの試練がこの御方に課せられたからです。そうするなら、キリストがどんな試練をくぐられたのか、そしてキリストの勝利がいかに偉大なものだったのか、あなたはわかるようになります。

「それゆえに神は彼を高く上げられました」。この「人」は神の右に上げられて、代表「人」とされました。神はご自身の「人」、御業の目的を獲得されました。人の運命は――善きにせよ、悪しきにせよ――この御方と関係しています。この御方は「最初であり最後であり」、「神に造られたものの初め」です。教会にとって最も必要なことの一つは、神の宇宙におけるキリストの意義に関する新鮮な力強い理解を回復すること、あるいはそれを得ることです。すべてはこの御方に対する私たちの理解にかかっています。

どうか注意してください。前に述べたことから、私たちはキリストの神性を脇にやっていると思う人はだれもいないでしょう。これから述べようとしていることについても、教会はキリストの神性にあずかるようになると私たちが言っているとは思わないでください。

しかし、こう述べただけでは、すべてを述べたことにはなりません。聖書のさらに豊かな進んだ啓示が示しているように、この同じ永遠の神の御旨によると、この人の豊かさや完全さは団体的な方法で実現されなければなりません。それは最終的に、神の宇宙が「ひとりの新しい人」を中心としたものになるためです。この新しい人は普遍的なものであり、無数の人々から成りますが、それでもひとりの個人です。それはこの御方が皆の内に住んでおられ、この御方はひとりであって分けられないからです。「キリストのからだ」と呼ばれているこの団体的実体は「御子のかたちに同形化されるよう定められています。それは御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです」(ロマ八・二九)。これは神の目的を示しており、神の方法を示しています。神の目的は機関、宗教、教義、友愛会、組織、教理体系、一組の働きや活動ではありません。神の目的は一人の霊の人であり、ひとりの有機的な霊的からだなのです。

さて、これまで述べてきたことや言わんとしてきたことをすべて一つにまとめると、どうなるでしょう?こうなります。すなわち、もし個人的意義を持つキリストや団体的に表現されたキリストが、教会の目と心の前に圧倒的な力で示されて、教会を支配するようになるなら、一方において、現在教会を制限し、妨げ、遅らせ、弱め、敗北させている無数のものは落ちて行き、もはや支配的地位につくことはなくなります。また他方において、「ペンテコステ」の効力――ペンテコステの出来事は起きなかったとしても――が及ぶようになります。つまり、命、力、勝利、豊かさ、真の実り豊かさを伴う大いなる喜びがあるようになります。私たちが必要としているのは――繰り返し言いますが――束の間の「ペンテコステ」の出来事ではなく、その永続的な力です。リバイバルだけでなく改革が必要なのです。

そうです、敵はまたもや大忙しでしょう。そして、中傷、誤解、悪意、歪曲、「悪評」などの手段を尽くして、敵はこの証しを滅ぼそうとするでしょう。しかし、「ハデスの門」が打ち勝つことはありません。どんな時、どんな場所でも、主はご自身とその御旨や手段を新たに啓示することにより、ご自身のために人々を確保してこられました。その人々はただキリストのみに基づいて豊かさの中で出て行く人々であり、常に大きな痛ましい代価に直面しなければなりませんでした。大抵の場合、彼らに代価を強要したのは、キリストにある彼ら自身の兄弟たちでした。「新たな分派を造ろうとしている」、「自分たち自身の名を上げようとしている」、「神の民を分裂させようとしている」、「極端に走ってしまった」、「自分たちだけが正しいと思っている」等といった偽りの訴えがなされてきました。彼らはこうした非難を受け、「追い出され」ました。実は――多くの場合――霊的豊かさの立場がどのようなものか皆が知っているのですが、彼らはその立場に立っただけなのです。その立場の上では、「教会のつながり」や教会の体制といった問題は決して生じません。この立場の上では、何かを加えることや、特別な教えや実行の採用が話題にのぼることは決してなく、「キリストがすべてであって、すべての中におられるのです」。唯一の関心事は、キリストが継続的増し加わりのための立場と道を得なければならないということです。

真に大きな価値があるものは何であれ、機構、宣伝、組織化された働きという枠組みが無くても、前進し続けることができます。組織化されたキリスト教にとって、これを信じるのは何と困難でしょう!自然や恵みの世界では、神の最も力強く、最も実り豊かな働きは、ひっそりと、静かに、控えめになされます。しかも――多くの場合――だれも知らないうちになされます。これについて立ち止まって考えた方がいいのではないでしょうか?春が来るたびに訪れる自然界の復活についてはどうでしょうか?神の至高の働きを支配している法則は、生物学的な命の法則です。それは有機的な法則なのです。