第一部

T. オースチン-スパークス

どうか、イザヤ書六十一章一~三節(レビ記二十五章十節);ルカによる福音書十二章四十九、五十節、四章十八、十九節;使徒の働き二章一節を読んで下さい。

「使徒の働き」として、また時には「聖霊の働き」として知られているこの書は、まさに「イエス・キリストの解放」という名で呼ぶことができるでしょう。

イエス・キリストの解放

ルカはこの書を、前に記した、イエスが行い始め、また教え始められたことの記録から始めます。これは、彼の今の主題と目的がその続きであることを意味します。しかし、何という変化でしょう!以前の活動は時間的にも空間的にも制約されており、シリヤの数マイル四方の土地しか網羅していませんでした。遠方で力が現れたわずか数例を除けば、偏在性はほとんど限られていました。活動と教えは、一つの国と言葉の民に、ほぼ完全に限られていました。次に彼は、外からの促し、説得、励ましにより、ご自分の願いが成就されるようにされました。彼は、霊的に生かされていない人の鈍い心にご自分の霊的な富を与え、確信を得させるために説明や理由をお与えになりました。それから、終わりがどのような形を取るのかについてとてもゆっくりと解き明かし、目をさまさせることが必要でした。それは、身近の者たちの中にまであった個人的関心を抑えるためでした。彼が前進しようとするたびに、高慢、野心、疑い、悪意、自己主張、自信、自己実現、自己防衛が、まるで有刺鉄線のように彼にからみつき、彼を傷つけました。「万物の相続者」として世界の主権は自分のものであることを彼は最初からずっとご存じでしたが、彼には枕するところもありませんでした。「弱さを通して十字架につけられる」ことが彼の分でした。

何という変化でしょう!今や、彼はすべての鎖を払い落とされました。時間と空間は、もはや彼の上に何の力も持ちません。地理、物質的なもの、サタン、悪鬼、人々、国家、王座は、すべて完全に彼によって取り払われました。今、内なる力により、あらゆる威嚇や危険にもかかわらず、男たちや女たちは御名の栄光への情熱を帯びて四方に出て行きます。今、「肉にしたがって」知った歴史的人物としてではなく、圧倒的な内なる啓示により、御霊にしたがって彼を知ります。かつては恐ろしくて受け入れられなかったつまずきの十字架が、今では完全に彼らの栄光です。今、非難を耐えることにより高慢が除かれ、無私無欲の犠牲が野心に取って代わり、力づける強い信仰――彼ら自身のものではありません――が疑いを消し去ります。彼らは御名のために自分のいのちをささげ、喜んであらゆる損失を被ります。

一つの戦略的働きにより、彼は「天の下のすべての国民」を代表する群衆と共に開始されます。この火が不自然な人為的機関なしに拡大する様子をご覧なさい。

紀元33年、数人のガリラヤの漁師たちがエルサレムで言論の自由を求めていました。彼らは貧しい無学な者として厳しい扱いを受けました。

パウロが亡くなった年、この問題はどうなっていたでしょう?エルサレムに、カイザリヤに、アンテオケとシリヤ全土に、ガラテヤに、エペソ、サルデス、ラオデキヤと小アジヤ西岸全体に、ピリピ、テサロニケ、アテネ、コリント、ローマ、アレキサンドリヤに、ギリシャの島々や本土の主だった町に、西ローマの植民地に、諸教会があったのです。

悲しい対比

この征服の記録から省かれている意義深い点がいくつかあります。宣教運動を組織するのを、私たちはまったく読まないのです。

費用、時間、金銭、手間をかけた代表団、講師や講義、展示、訴え、広告などのようなもの――これはみな、救われていない魂への関心をクリスチャンたちに持たせるためです――はまったく示唆されていません。遠く離れた地で神がなさったことの報告は、決して宣伝や唱道などの方法にはよりませんでした。私たちの見る限り、知性に訴える統計、感情に訴える悲劇的な煽動的物語、意志に訴える促しや駆り立ては、ここにはまったくありませんでした。それは第一に霊からであり、魂からではなかったのです。この順序を逆転させようとすることが、今日のおびただしい弱さや挫折の理由であることは間違いありません。

一般的に言って、今日、教会の世界宣教というこの問題は復活以前の土台の上にあります。主はご自分によって制約されているのではなく、ご自分の民によって制約されているのです。

一方において、働き人の必要があります。なぜなら、人類の約半分はキリストを知らないからです。他方において、働き人たちは行く用意ができているのですが、彼らを送り出す手だてがないことがしばしばです。さらに悲劇的な三番目の状況は、出かけた人の多くが霊的に挫折する状況であり、いたるところに見られます。そのため、「回心者たち」は正真正銘上から生まれたわけではなく、子とする御霊も内側に本当に住むようになったわけではありません。悪鬼の軍勢が依然として支配しており、攻撃をしかけています。教育や土着化などにより、ゆっくりと「キリスト教」を融和させる策が取らています。これは妥協の産物であり、真の再生という土台に基づいて働くことに失敗したためであり、この失敗とその実際的意味を正直に認めなかったためです。最終的に、多くの人が確信を失って帰ることになります。

こうしたことはみな、新約聖書の精神や経験とはまったく対照的であることに間違いはありません。この二つの水準、新約の水準とそれ以降の大方の水準とを、仔細に区別することは難しくありません。しかし、それよりも大切なのは、以前のあの栄光の秘訣を示すことです。

私たちは確信していますが、「昨日も、今日も、いつまでも同じ」御方は、この時代の終わりに至るまで、御業をこれと同じ水準に保つことを願っておられますし、実際に保つことができるのです。また、この世界の一部の地域では、初めの頃と非常に似た方法でそれが起きているのです。

ここで次に、「キリストのからだである教会」における、復活した主の働きの性質に対する問いが生じます。

最初の問いは、「当初のこの自動的な世界制覇の概念、動機、原動力を示す句が何かあるのだろうか?」ということです。

そのような句があると思います。その句は、「イエスの証し」です。

イエスの証し

これが当時と同じように人々をとらえるとき、すべてが生じます。これを調べることにしましょう。

「神の言葉とイエス・キリストの証しを証しした」(黙示録一章二節)

「私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(黙示録一章九節)

「私は祭壇の下に、神の言葉のゆえに、また自分たちが持っていた証しのゆえに、殺された人たちの魂を見た」(黙示録六章九節)

「龍は女に対して怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちと戦うために出て行った」(黙示録十二章十七節)

「私は、あなたや、イエスの証しを持っているあなたの兄弟たちと同じ僕です」(黙示録十九章十節)

「私は、イエスの証しのゆえに首をはねられた人たちの魂を見た」(黙示録二十章四節)

キリストの証しがあなたたちの中で確かになったからです」(コリント人への第一の手紙一章六節)

私についてのあなたの証しを、彼らは受け入れようとしないからです」(使徒の働き二十二章十八節)

「あなたたちに対する私たちの証しを、あなたたちが信じたからです」(テサロニケ人への第二の手紙一章十節)

「ですから、私たちの主の証しを恥じてはなりません」(テモテへの第二の手紙一章八節)

「あなたたちは私の証し人となるであろう」(使徒の働き一章八節、「証し」のギリシャ語と同じ語根)

「一人が、私たちと共に証し人となるべきです」(使徒の働き一章二十二節)

「このイエスを神は復活させました。私たちはみな、このことの証し人です」(使徒の働き二章三十二節)

「死人の中から復活させました。私たちはそのことの証し人です」(使徒の働き三章十五節)

「すべての人にではなく、証し人にです」(使徒の働き十章四十一節)

「使徒たちは大いなる力で主イエスの復活の証しをした」(使徒の働き四章三十三節)

「彼らは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った」(黙示録十二章十一節)

これらの節の光の中で新約聖書を読むなら、次のことがはっきりとわかります。すなわち、新約聖書が詳述している際立った物語は、証しの物語なのです。そこで、「この証しは何だったのか?」という問いが残ります。積極的な答えへの道を開くため、この「証し」が何ではなかったのかについて話す必要があります。

「イエスの証し」は教えではなかった

「使徒たちは『イエスの教え』をもって世界に出て行った」という議論や主張の根拠となるものは、この物語の中にはまったくありません。彼らは新しい教理や真理の体系を広めていたのではありません。教えはその証しを受け入れた結果であり、その内容の説明がその受容に続きました。そして、教えは信者だけのためでした。教えは結果であり、原因ではありませんでした。彼らが常にしていたことの大半は、自分たちの証しを聖書から実証することであり、キリストのパースンに関する特定の事実を確証することだったのです。

「イエスの証し」は新たな宗教ではなかった

「キリスト教」は、他の宗教と対抗したり並存するために設けられたのではありませんし、「宗教の一つ」とされたわけでもありませんでした。しばらくしてから、自分たちの証しがユダヤ教からの解放という問題に関してどのような意味を持つのか、気がついた使徒たちもいました。その変化は大きなものでしたが、最初彼らは自分たちの「宗教」から連れ出されたことに気がついていなかったのです。後に彼らは、自分たちが外にいること、自分たちの偏見にもかかわらず委任されていることを見いだしました。当惑する経験によってこれが事実となった後、彼らは自分たちの考えや議論を対処しなければならなかったのです。コルネリオの家でのペテロや、使徒の働き十、十一、十五章などの出来事を見て下さい。

「イエスの証し」は新たな「運動」ではなかった

何の計画も立てられませんでした。何の策もありませんでした。組織はまったくなく、後で承認される必要があったものは、当惑せずにはいられないその活力のゆえに認めざるをえませんでした。ですから、とても単純だったのです。

手の込んだ宣伝はありませんでした。新しい協会、教派、「教会」、団体の設立、開始、形成、生成、創設は、念頭にありませんでした。彼らはそのようなことをしませんでした。しかし、彼らの証しは信じたすべての人たちに際立った特徴を与えたのです。そして、外の人たちは彼らにレッテルを貼り、彼らの動機や目的を誤解しました。その際立った特徴とはいのちでした。

では、「イエスの証し」とは何だったのでしょう?

それはもっぱら、ある事実の宣言、証言でした。その事実とは

死者の中からの復活によって確立、証明された、神の御子であるイエス・キリストの宇宙的な統治権と主権

です。

この証しには二つの面があります。彼らは客観的な歴史的事実に関して数多くの確かな証拠を持っていましたが、その客観的な歴史的事実が「キリストのからだである教会」の中で――そのすべての肢体の中で、またそのすべての活動の中で――あの復活の力の中で聖霊によって実証されたのです。あのいのち――彼の中で罪、死、地獄、サタンを征服し、「最も低い所」から「あらゆる天を遙かに超えた」所に彼をもたらしたあのいのち――が、天から送られた聖霊によって彼らの中に移植されたのです。

ですから「イエスの証し」とは、イエスは宇宙的に勝利して生きておられるということ、また教会はこの真理の「柱」(または記念碑)であるということなのです。教会は、あのいのちの容器である彼の復活のからだであり、彼の復活の力で満たされ、聖霊によって治められています。

イエスの証しとは要するにいのちなのです――彼のいのちです。生活様式ではなく、活気に満ちた無限の力です。破壊することができず、抵抗することもできない、不朽のものです。それは活気に満ちた力であり、主イエスを信じることを進んで願う人のいる所ではどこでも、霊的に死んでいる人たちに伝達されます。

このいのちは古い鋳型、伝統という「皮袋」、疲弊した組織、人造の秩序や形式を破裂させます。

このいのちは、かつて神により起こされて大いに用いられたけれども生きたものではなくなってしまい、今では過去の遺物にすぎないものをも取り除きます。ここではユダヤ教ですら意味がなくなります。イエスの証しは捕らわれ人を解放します。そして、その力によって発せられる言葉は、「私の民を去らせよ」という抗えない要求です。「復活であり、いのち」である御方がその教会を通して命じられる時、ラザロは出てこなければなりません。このいのちは、「このからだ」の中におられる復活した主から、永遠の御霊によって流れ出ます。このいのちこそ、世界宣教とイエスの証しを促す力なのです。

新約聖書の中には、働き人や宣教士を求める訴えの例はまったくありません。こうしたことはせいぜい、貧弱な代替物や欠点にすぎません。聖霊が真に満ちていて、そのいのちが現されている時、聖霊は「私のために……を選び分けて、私が召した働きに当たらせなさい」と言って、すべての働きや働き人の間で主導権を握られるのです。

新約聖書では聖霊を受けることに大きな重点が置かれています。聖霊は宇宙的主権者である主――「万物の相続者」――の霊です。聖霊の使命は世界大であり、宇宙的です。世界的な幻、世界的な情熱、世界的な召命は、聖霊の主権を内側に確立することから必然的に直ちに生じます。これ以外にはありえません。それでは、これが多くの人にとって自然なものではないのはどういうことでしょう?なぜ、主の民は心をこめてひたすら語って、この証しを広めないのでしょう?これもまた、使徒の働き十九章二~五節の訴えがあてはまるのでしょうか?

代価が妨げとなって、御霊を消しているのでしょうか?代価が必要です。新約の証し人たちが「証し」を携えて赴いた所では、必ず敵――龍――が戦いを仕掛けました。戦いを仕掛けるのは敵の方でした。なぜなら、敵は大いなる敗北者となることが定められていたからです。それは主権を巡る戦いだったのです。それは敵の不承不承のあいさつであり、意図せぬ祝辞でした。地獄を怒らせ、恐れさせる何かを、証し人たちは代表し、所有していたのです。

この時代における主の御旨と方法は、すべての地で二人または三人の人を復活の中でご自身と一つにし、「救われつつある人たちを彼らに加える」ことです。

大事なのはいのちの増加であって、勧誘や「呼び物」や宣伝ではありません。真の証しがなされる時、ここでもまた聖霊が主導権を握られます。

現在の最大の必要は、聖霊により、キリストの復活の力をもって、主の民を再び力づけることです。どうかこれが速やかに実現されますように。そして、いのちのために、真の生けるイエスの証しのために、必要ならすべてのこと――伝統、組織、一般受け、形式や型、偏見、個人的関心、評判、威信、妥協、他人の意見、策略など――が犠牲にされますように。そうすれば、主の解放が再び実現され、その火が新たに撒き散らされるでしょう。