第二部

T. オースチン-スパークス

前号では、「イエスの証し」の性質について特に強調しました。「イエスは死者の中から復活して、至高の主権と栄光の地位に着かれた」というこの偉大な客観的・歴史的事実――多くの確かな証拠によって示された事実――には、それと対応する主観的事実がありました。つまり、この事実は彼の「証し人」である人々の内側にも存在していたのです。この同じ主イエスは、聖霊により、彼らにとって内なる実際となりました。そして、この内なる事実はいのちとして現されました。そのいのちは、「永遠のいのち」、復活のいのち、死に勝利するいのちであり、聖さ、力、自生性、大能、持続性、豊穣さに満ちた神聖ないのちでした。実際、それは主イエスのパースンであるいのちでした(ヨハネ第一の手紙一章二節;五章九~十三節、改訂訳;使徒の働き一章八、二十二節;二章三十二、三十六節;三章十五節;四章三十三節;五章三十、三十二節;十章四十~四十二節;十三章三十、三十七節;ローマ人への手紙一章四節、改訂訳参照)。イエスのパースンに対する証しは彼のいのちの力であり、彼の「肢体たち」の中で、また彼らを通して、聖霊によりなされます。

すべての国でこの証しが始まる出発点

目下の主題は、これが経験や奉仕において何を意味するのか、特に国々の間における今日の証しの目的に関して何を意味するのかをさらに示すことです。かりに比較や対比を行って問題を指摘したとしても、それは批判精神によってではありませんし、ましてやあら探しの精神によってでもありません。また、誠実な献身的働きに対して感謝や敬意に欠けているわけでもありません。たとえ彼にとって僅かしか価値がない働きでも、私たちの言葉がそれに影を落とすようなことがあってはなりません。私たちには一つの負担――時として圧倒的なまでの負担――があります。その負担は、周囲に見られる霊的な効率の悪さ(一部しか役に立たないか、全く役に立たない)や、神の目的と方法に関して流布しているひどい誤解や混乱のためです。この主題を追求するのは、全く霊的な即時的で直接的な効力が必要とされているからです。

真実な勝利の生活や奉仕をすべて網羅する土台・背景をもう一度述べましょう。それは十字架につけられたキリストのパースン――キリストは神であり、絶対的主権の御座についておられます――の啓示と、この客観的事実が聖霊によって生活の力、心の情熱となることです。

多くの使者たちを通して多くの地域でなされた征服の偉大な記録の背後にあるものは、この効力です。これが背後にあるなら、「外国」宣教団や他の宣教団の擁護は不必要です。そのような擁護は不毛である、というのではありません。なぜなら、神はそれを通して訪れて下さったからです。しかし、それに要する労力と費用の多さは霊的衰退のしるしであり、主の誉れを巻き添えにした束縛の体系の特徴なのです。歴史から示すなら、この意味を最もよく説明することができるでしょう。

現代の注目すべきいくつかの例

主イエスを世界に証しする上で真に効果を発揮して実を結んだ運動と人々の記録が、私たちの前にあります。

ここに、モラビア宣教団全盛期の驚くべき物語があります。彼らは最初の二十年間で、全プロテスタント教会が二百年かけて送り出した宣教士よりも、多くの宣教士を実際に送り出しました。彼らは閉ざされた地にも入り込み、その領域を網羅し、喜んで苦しみを耐え忍び、そのような人生を送っていのちをささげました。神の恵みが現されました。これを読むと、驚きと恥ずかしさをおぼえます。ある人は言いました、「もしプロテスタント教会のメンバーがこれと同じ割合で宣教士として出かけていたなら、外国で働く四十万の働き人の軍隊が出来上がっていたであろう。この数は、世界を福音化するのに必要だと考えられている数を圧倒的に上回るものである」。

紙面が足りないので、残念ながら、この凄まじい物語を引用することは控えます。しかし、その原因は何だったのでしょう?

第一に、十字架がこの人々の存在中にとても深く造り込まれていました。彼らの国は虐殺によって流血の地となりました。彼らは自分の家を追われました。迫害によって、彼らの人口は三百万から百万に減少しました。まさに、まったく絶滅させられてしまうかのような時もあったのです。この苦難の火の中から、火によって清められた群れが起こりました。彼らの身中には別の火が燃えていました。それは、主イエスを愛する情熱的な愛の炎でした。集会を持つことが後で可能になった時、この兄弟たちの集会は「上の部屋」の雰囲気で満ちていました。「自己のあらゆる形――自己意志、自己愛、自己利益、自己追求――は完全に除かれなければならない」という契約が結ばれました。霊の中で貧しくあることを彼らは追い求め、聖霊から教わることに皆が没頭しました。昼も夜も燃え続ける祈りの見張りが設けられ、交代制で一日中主を追求することにあてられました。「ほふられた小羊のために、彼の苦難の実を勝ち取ろう」が彼らの採用した標語でした。

このこと自体が論拠です。ここでは、内側深くに造り込まれた十字架の御業が、主イエスに対する力強い個人的な愛という結果になりました。個人的な損得勘定はなくなり、いかなる説得も必要ありませんでした。「教会――救われた人の群れ――がキリストの中で神の情熱と愛の中に深くバプテスマされていないせいで、数百万の魂が暗闇と死の中で苦しんでいる」と言う時、私たちは真実を言っているのではないでしょうか?

もし中国内地宣教団が神の方法に関する何らかの記念碑だったとするなら、それはもっぱら、キリストとの合一の生ける実際に関する記念碑でした。ハドソン・テイラーは中国内地に対する幻と情熱を持っていました。それにもかかわらず、これは有名な話ですが、彼は様々な国で各地を巡ってクリスチャンの集会を開いた時、中国についてほとんど何も言わなかったのです。まったく話さないこともしばしばありました。彼は霊的なメッセージをひたすら注ぎ出しました。それは、キリストとの合一の意義に関するいっそう豊かな知識に主の民をもたらすためでした。主とのこの交わりの中で中心的な最高の地位にあったのは、祈りの普遍的有効性だったのです。

彼の話を聞いて下さい。「神の御言葉の研究で私が学んだことは、成果をあげる働き人を得るのに必要なことは、助けを求める仰々しい訴えなどではなく、神への熱心な祈りと(中略)教会の霊のいのちを深めることである、ということであった。そうするなら、人々は家にとどまっていられなくなるのである」。

この働きの内的歴史――独特な霊的背景――を数語で表現しようとするなら、「それは組織、支援、宣伝、訴え、広告の問題ではなかった」と言うべきでしょう。この働きは、神を知る深い知識を持つ一人の人にかかっていたのです。彼は内側深くに造り込まれた十字架の御業から生まれ、生ける霊的なメッセージを主の民にもたらしました。そのメッセージは主にある完全ないのちについてであり、祈りを通してそのようないのちを実際に活用することについてでした。ハドソン・テイラーは、系統的に真理を示すという意味の「教師」ではありませんでしたし、偉大な「聖書教師」と一般に称される人々の一人でもありませんでした。彼のメッセージはただちに二つの結果を生じさせました。第一に、信者を主との関係の中にもたらしました。次に、祈りや他の奉仕の形でそれを実際に活用させて、そのような特別な努力がなければ福音を受ける機会がなかった人々に福音を届けました。ハドソン・テイラーの生涯(したがって、その宣教団の歴史も考えなければなりません)は、ある時点から、主との合一が実際に何を意味するのかを深く現し始めました。これは、彼の「いのち」誌第二巻に記されている、彼の姉妹への手紙の中に示されています。

アフリカだけでなく世界各地で、南アフリカ総合宣教団を通して、アンドリュー・マーレー博士の務めは驚くほど豊かな実を結びました。この実が生み出されたのも、主義を唱えることによってではなく、主の民だけを対象とした務めによる霊的な教えのみによりました。その教えは実際的聖潔、とりなしの務め、聖霊の力に関するものでした。この務めから前述の「宣教団」が生じ、多くのいのちが主の奉仕にささげられました。「宣教団」ではなく、この務めが力だったのです。

このような生活の影響力を示す証拠、「霊のいのちを深める」運動の力を示す証拠を、かなり長く付け加えることができるでしょう。クリスチャン定期刊行物に記されている宣教問題に関する記事、初期「ケズイック」の偉人たちのメッセージ、ユージン・ストック博士によるあの記念碑的なC.M.S.の歴史の記事は、すべてこれを証しします。

基本的事実

ペンテコステ以降、最も完全で、最も豊かで、最も効果的なイエスの世界的証しは、「天からの聖潔運動」です。その証拠はたくさんあります。この「天からの聖潔運動」は、イエスがどのような方なのか――第一に神の御座に着いておられる彼の主権に関して、第二に生活のあらゆる点に及ぶ彼の主権に関して――を示すことにより、人々の心を変化させ、人生を変革し、人を完全に捕らえます。「聖霊に満たされる」ことは、聖潔、愛、謙遜、喜びで満たされることであり、「愛する方」のためにすべての国で彼の苦しみの実を確保しようという情熱で満たされることです。いかなる「霊的」運動、大会、教えも、他の人々の永遠の幸福を自然に思いやるという特徴を帯びていなければ効果はありません。熱烈な運動が病的内省という結果になってしまうことがあまりにも多いのです。これほど麻痺させるものはありません。そして、それからの反動もまた、同じように危険です。この反動でしばしば強調されることは、熱狂、関心、高揚した精神、「個性」、教育、企てであり、「キリストのための決意」といういささか古びた鎧を身にまとっています。

新約聖書の時代、回心者に対する代価があまりにも大きかったため、皮相的なものや、たんなる夢や熱狂のための余地はまったくありませんでした。原動力は主を知る大いに実際的な深い知識から発しなければなりません。また、その知識は主が国々の間で満足されることを求める熱い情熱を伴っていなければなりません。

ペンテコステとは何だったのか

「ペンテコステ」や「聖霊のバプテスマ」が実際のところ何だったのか、私たちはこれまでまったく理解していませんでした。外面的な付随物や効力が、その深い要素をあいまいにしてきたのです。私たちはそれを、活動、しるし、感情の波、興奮などといった点から解釈してきました。しかし、私たちに最も必要なのは、この「バプテスマ」の真の意味を知ることなのです。

ですから、次のような包括的定義を与えることにしましょう。「聖霊のバプテスマとは、人生全体にわたって、また人生のあらゆる関心と活動にわたって、抵抗を受けることなく無条件に、主イエスが絶対的主権者として王座に着くことである」。

この範疇で指摘できる、一、二の特別な点があります。

第一に、聖霊のバプテスマは主の聖さの中へのバプテスマです。それはを伴うバプテスマです。この火は熱心としてではなく聖別としてまず解釈されなければなりません。ペンテコステは「天からの聖潔運動」でした。これがアナニヤとサッピラの恐ろしい事件の意義でした。聖霊によって確立される主のこの聖さが、人生のあらゆる局面や領域の中にもたらされなければなりません。霊、思い、体の中に、関係、取り引き、方法、手段の中にもたらされなければなりません。疑わしいもの、疑問のあるもの、あいまいなものなどは何であれ、聖霊に反するものであり、聖霊に敵対するものです。不幸なことに、主の働きの領域でも、このようなことを言う必要があります。しかし、この要求が私たちに課されているのです。

第二に、聖霊のバプテスマはキリストの愛の中へのバプテスマです。これは「火」のもう一つの要素です。言うまでもなく、この愛は生来の暖かい心、度量の広さ、寛大さ、情け、親切な言葉以上のものであり、それとは別のものです。この愛は、「辛抱強く、ねたみません。嫉妬せず、ひけらかしません。もったいぶらず、高ぶりません。敵の間違いが証明された時でも、自分の義を喜びません。悪を暴くのにおそく、熱心に最善を信じ、決して自分の目的や利益を求めません」。この愛は、卑しめられ、脇にやられ、低くされるすべを知っており、自分の利益を放棄するすべを知っており、捨てられる時に耐え忍ぶすべを知っており、さらに多くのすべを知っています。聖霊だけがこの愛を与え、維持することができます。

第三に、聖霊のバプテスマは諸々の時代にわたる戦いの中へのバプテスマです。宗教的な遊び場や運動場の中へのバプテスマではありません。「支配たちや権威たち」、「この暗闇の世の支配者たち」、「天上にいる悪の霊の軍勢」に対する、凄まじい恐るべき血まみれの戦いの中へのバプテスマなのです。主のバプテスマの直後、御霊が彼の上に臨みました。そして主は御霊の働きによって、敵勢の首領との恐ろしい接触にただちに導かれました。教会もそうでした。キリストの中にバプテスマされる人もみなそうです。神に感謝します。カルバリで勝利が確立され、この問題は決着がつきました。しかし、戦いは続いています。この時代に最も深い神の働きを成就するには、尊い血の効能による万軍の主の霊の大いなる力づけ――「彼の御霊を通して、内なる人の中で(原文、中へと)、力をもって強められること」(エペソ人への手紙三章十六節)――が必要なのです。働くことのできない時、宣べ伝えることのできない時、「立って抵抗する」以外に何もできない時もあるでしょう。多くの人は活動することができて何かを行える間は満足します。これは実際に罠になりえます。重要なのは霊的活力であって、忙しさではないのです。

実際の例

ウガンダの物語から、ある意義深い出来事を紹介して終えることにします。

ウガンダにある教会の初期の頃、バプテスマを受けた一人の少年がピルキントンのところにやって来て、キリストに対して忠実であることができなかった自分の過ちを、「私はこれまでで最大の罪を犯してしまいました」という悲しみのこもった言葉で告げました。ピルキントンは心を刺され、心の奥深くから新たな霊的力を求めるようになりました。彼はその後すぐ、神を待ち望んで神から新たな力を受けるため、ビクトリア・ニアンザにある島々の一つに行きました。彼の祈りは答えられ、後に、彼はタッカー司教にこう書き送ることができました:

「私たち(宣教団と人々)が大いなる祝福の真っ直中にあることを、あなたにお知らせしたいと思います。過去長きにわたって、私たちが自分の力で働いてきたこと、そしてその結果、私たちの生活には力がなく、祝福もわずかしかなかったことを、神は私たちの中の数名に理解させて下さいました。けれども、私たちは次のことを理解するよう導かれました。すなわち、『御霊に満たされなさい』という命令は、エペソ人に向けられていたのと同じように私たちにも向けられており、私たちが望みさえするなら、効果的な奉仕のためのあの力は私たちの手の届くところにあるのです。これが私たちの働きだけでなく私たちの生活の中にも、どれほど大きな変化を生じさせたかは述べることができません。少し前は圧迫に耐えられそうになかったのに(私はこれを自分について言っています)、今、私たちは喜びに満ちています。私たちの働きについて言うと、神はいま私たちを用いておられ、素晴らしい祝福の波が国土を覆っています」。