第三部

T. オースチン-スパークス

初期の教会のこの世における証しの力強さについて考える時は、当時優勢だった要素を常に注意深く調べる必要があります。新約福音伝道の中に、ある偉大な支配的概念があったことは否めません。ですから、その概念のいくつかをはっきりと示すことにしましょう。最も重要なのは御名の力です。

御名の力

キリスト教の最初の数十年を記録している書では、ほぼ次のように言うことができるでしょう。すなわち、聖霊ご自身を除けば――イエスの御名に至上の地位が与えられているのです。天に戻る前に弟子たちに語った言葉の最後の方で主は言われました、「こう書かれています。『キリストは苦しみを受けて(中略)そして、悔い改めと罪の赦しが、彼の御名の中で、すべての国に宣べ伝えられる』」(ルカによる福音書二十四章四十七節)。ペンテコステの日にペテロは叫びました、「悔い改めなさい。そして、あなたたちはみな、イエス・キリストの御名の中にバプテスマされなさい」(使徒の働き二章三十八節)。足の不自由な人を癒す時、彼は言いました、「ナザレ人イエス・キリストの御名の中で歩きなさい」(三章六節)。奇跡を見るために駆け寄って来た群衆に向かって、彼はそれが「彼の御名の中にある信仰によって」(三章十六節)であったことを告げました。大祭司に向かって彼は、「あなたたちが十字架につけ、神が死人の中から復活させたナザレ人イエス・キリストの御名の中で、この人は癒されたのです」(四章十節)と宣言しました。議会は彼らに、「今後この名の中で誰にも語ってはならない」(四章十七節)と命令しました。脅迫と命令に直面して、教会は「イエスの御名を通してしるしと不思議が行われますように」(四章三十節)と祈りました。「この名の中で教えてはならないと、おまえたちに厳しく命じておいたではないか」と大祭司は言いましたが、彼らは「御名のために辱められるのにふさわしい者とされた」ことを喜びました(五章二十八、四十一節)。このようにずっと続きます。最初から最後まで、御名は力であり、情熱です。

しかし、大事なのは称号や名称ではありません。大事なのは御名の内容なのです。御名の中には何が含まれていたのでしょう?何が含まれているのでしょう?

第一に、御名は御性質の勝利を現しています。

御性質の勝利

ピリピ人への手紙二章九節によると、イエスはその謙遜、へりくだり、死に至るまでの従順に対する報いとして、「あらゆる名にまさる名」を与えられました。これは特に、汚れや傷のない御性質の勝利を表しました。彼は罪のないまま「だれもが受ける試み」(コリント人への第一の手紙十章十三節)をすべて通り、「傷のないご自身を神にささげ」(ヘブル人への手紙九章十四節)られました。この世、悪人、暗闇の力は、結託して彼を堕落させ、罠にかけ、彼の性格を汚そうとしました。しかし、「罪を知らない方が私たちのために罪とされ」(コリント人への第二の手紙五章二十一節)、「木の上で私たちの罪をご自分の身に負われた」(ペテロ第一の手紙二章二十四節)時でさえ、彼ご自身の霊はまっすぐで汚れのないままでした。この勝利は悪の力の根拠を断ち切りました。「この世の君が来」ましたが、彼の内に「何も持っていません」でした(ヨハネによる福音書十四章三十節)。御名は試みを受けて確証された聖さの化身です。ですから御名は、罪人が罪に打ち勝つための、そして信者がサタンと悪の力に打ち勝つための、勝利の根拠であり手段なのです。

柔和さの勝利

これは聖書の中で強調されている特徴です。よく使われている小羊という象徴の意味はこれです。柔和さの本質は私心のなさです。無抵抗で謙遜な公平さや素直さがそのしるしです。柔和さは、その霊的力と道徳的価値のゆえに、あらゆる徳の中で最も遠くまで及ぶものです。被造物と人の滅び;人と神との間の隔てと不調和;宇宙の破れ目、罪と死のつらくて恐ろしい遺産、乱れた秩序に由来するあらゆる悲哀と苦しみ;これはみな、サタンのあの高ぶりのせいなのです。サタンは高ぶりのゆえに、自分の王座を「神の星々の上に」据えること、「いと高き方のように」なることを熱望しました(イザヤ書十四章十三、十四節)。また、サタンは高い地位から投げ落とされたため、神の御業を破壊して、その御名を辱める陰謀を企てることを熱望するようになりました。この損傷を修復して、あの御名を擁護するという大仕事に取りかかろうとする人は、この邪悪なもの――高慢――の痕跡が自分の内に少しでもあってはなりません。その人はまさに、その正反対のものの化身でなければなりません。サタンの勝利に好都合な根拠が自分の内にあってはなりません。なぜなら、サタンはサタンを追い出すことはできないからです(マルコによる福音書三章二十三節)。「彼はご自分を低くし」(ピリピ人への手紙二章八節)というこのささやかな句は、神の道徳的・霊的宇宙の中で最も強く、最も有効な力の一つについて述べています。

ですから御名は、サタンを滅ぼす徳を表しており、それゆえ、聖霊の力の中で用いられる時のその効力を表しているのです。

愛の勝利

この宇宙はすみずみまでも憎しみで満ちています。先に述べた、神に対するあの最初の憎しみの時から、人を神に敵対させること、そして不信、疑い、恐れ、嫉妬、競争、罪、他の数千の方法により、人――神の首位の被造物――に自分自身を滅ぼさせることが、悪の軍勢がいつも行っている働きです。このような世界の中に、神の愛を宣言してそれを示す御方、新創造の中で神の愛を教える御方が来られました。それは愛の御霊を息吹き込むことであり、愛の実を結ぶ葡萄の木を植えることでした。新約全体にわたってこの愛の問題を追うなら、新約はまさに愛の契約であることがわかるでしょう。キリストの十字架は、宇宙のすべての憎しみ――人の憎しみやサタンの憎しみ――が一つになって溢れ出た場所であり、神のすべての愛がそれと出会い、それを打ち負かした場所です。この勝利が御名の中に具体化されているのです。キリストの御名を帯びている人で、他の人を憎むことのできる人はだれもいません。

さらにどれだけ多くのものが、御名の中に込められていることでしょう!真理の力、信仰の勝利、さらに多くのものが込められています。それは実に、天においても、地においても、地獄においても、力ある御名なのです。聖霊は御名の意味、性質、内容をすべてご存じです。聖霊がこの御名を擁護して讃えるために到来された時、そして教会が聖霊の油注ぎの下で生活して働いた時、「力強いこと」が御名の中で起こりました。

御名の意義を新たに認識してその根本に立ち返り、御名を信じる信仰を回復するなら、当時と同じように今も、御名に効力のあることがわかるでしょう。しかし、御名の栄誉を求めて万事にあたる情熱がなければなりません――「これはイエスの御名に栄光を帰すものだろうか?」ということだけを考えて万事にあたる、ねたむほどのひたむきさがなければならないのです。

ですから御名は、私たちの祈りや告白に付け足すべき、たんなる決まり文句ではありません。御名は力です。しかし、その効力が現されるには、すべてが御名とその神聖な保持者の性格にふさわしくあることが必要であり、そしてそれによって支配されることが必要です。私たちは御名を口にするかもしれませんが、スケワの七人の子たちに起きたように(使徒の働き十九章十四節)、悪の軍勢は私たちの方に向かって私たちを引き裂くかもしれません。なぜなら、彼らはその人を知らないからです。「イエスについては知っている。パウロについても知っている。だが、おまえたちは何者だ?」。御名は御霊の力の中で取り、用いなければなりません。そして、この力が見いだされるのは、妨げを受けることのない喜びをもってイエスが真に現存される所以外にはありません。

Ω