第2章 御腕の意義

T. オースチン-スパークス

「主の御腕」という語句の意味についていくらか考えて、それは主の御旨と全く一致している人々に与えられる助け、支え、主の御力を示すことを見たので、今、この質問をすることにしましょう。主のこの助けと支えの真の意義は何であると、神の御言葉は示しているのでしょうか?主の助けを受けることについて考える時、私たちは何を考えているのでしょう?

主の御腕とは何を意味するのか?

私たちはみな、主の助け、主の支え、主の御力を得たいと願っています。主が私たちと共に、私たちの傍らにいてくださり、私たちのために恵み深い無限の御力を行使してくださることが、結局のところ、人生で最も大事なことです。これは私たちクリスチャン一人一人にとってそうであるだけでなく、教会や主の働き全体にとってもそうです。しかし、その意味が何か、私たちは実際に考えたことがあるでしょうか?私たちは何を期待しているのでしょう?私たちを切り抜けさせてくれる主の助け、私たちを運び通してくれる主の助け、道すがら倒れないように見守ってもらうことでしょうか?だれかが道ばたに怯えた様子で立っており、踏み出して道を渡るのを恐れているのを見かけたとします。そのような時、私たちはしばしば腕を差し出して、「腕を組んで一緒に渡りましょう」と言います――腕!さて、この腕は助けであり、向こう側に渡るのを助けます。私たちが主に望んでいるのはこれだけでしょうか?私たちは主の御腕という言葉を常に使っているわけではありません。しばしば、それを別の言葉で表現します。私たちは恵み、豊かさ、他の多くのものを求めます。しかし、これはみな主の御腕に含まれます。私たちが実際に求めているのは何でしょう?

さて、この助け、この主の御腕の意義は何であると、神の御言葉は示しているのでしょう?この質問に答える前に、私に少し次のことを言わせてください。これはきわめて遠くまで及ぶ、適用範囲の広い問題です。今回、私はたんなる聖書研究をしようとしているのでは全くありません。ここに示されていることにはみな、とても広大な実際的背景があります。私の生活には毎日、ほとんど絶え間なく、クリスチャン生活の問題、諸教会の問題、クリスチャン関係の問題に対して、助けを求める訴えが寄せられます。時として、昼夜くまなく、ひっきりなしに、そうなのです。手紙――時には長大な手紙――が別の場所にいる神の民の群れから届いて、それらの群れの嘆かわしい状況について知らせます。彼らは挫折し、制限され、失望して、行き詰まりと敗北さえも経験しています。それで、どうすればいいのか、助言と忠告を求めてくるのです。この一連のメッセージを与える背景には、このような実際の差し迫った必要があります。この問題はとても実際的な問題です。この点を私は強調したいと思います。

なぜなら、結局のところ、これは「主はどこにおられるのか?」という一つの問題に帰着するからです。「主はどこにおられるのか?」。ただこれだけです。どこに主を見いだせるのでしょう?主はどうすればはばかることなく私たちと共にいてくださるのでしょう?この問題には、次のさらに深刻な問題が含まれます、「主はこのことやあのことをどれくらい助けられるのでしょう?――主はどれくらいこの問題に介入してそれを引き受け、御力を示し、力強くご自身を示してくださるのでしょう?」。これこそ真にこの問題全体の核心です。主は制限を受けておられ、何か妨げがあるせいで、これらのことを行えないのでしょうか?これが最大の問題です。ですから、今日、主がご自身の民、教会、働きのために力強い御腕を示される根拠を私たちは知り、理解しなければなりません。

ですから、「主の御腕が現されることは、実際のところ何を意味するのか?」という問いを発する時、神の御言葉の中から二、三のことがわかります。それは御言葉のかなりの部分を占めるものであり、様々な形や表現でこの問いに答えるものです。しかしまず、ここでまた中断して、挿話としてこう述べたいと思います。すなわち、イザヤ書五三章のメッセージこそ、すべてに対する答えなのです!おそらく、私たちはイザヤ書五三章を知っていると思い込んでおり、おそらく、それを暗唱することすらできるかもしれません。私はあえて言いますが、この章について私たちはほとんど知らないのです。この章は全聖書中もっとも包括的な章です。真の霊的理解力をもってこの章を読めれば、次のことがわかるはずです。すなわち、この一つの章は、私たちのあらゆる問いに答えるものであり、私たちの必要を満たすものであり、私たちのすべての問題を解決するものなのです!イザヤ書五三章の中に全聖書が含まれます。以下では、この章の範囲内にとどまることにします。

(1)取った道の正しさの証明

さて、主の民のために現される主の御腕が第一に意味するのは、それは彼らの取った道の正しさを証明するものであるということです。これを念頭に置いて聖書を読むなら、なんと多くのことがこの周辺を巡っているのかがわかります。自分の取った道の正しさが最後に証明されること、これはとても重要な問題であることに、あなたは同意されるでしょう。私たちがある道を取り、自分自身と自分の持ち物をすべてそれにつぎこみ、自分の人生をそのためにその中に注ぎ込んだのに、最後になって、自分が間違っていたこと、自分の取った道の正しさを主が証明してくださらないことがわかったとしたら、これほど恐ろしい悲劇的なことはありません。自分の取った道に対して最後に神から承認を受けること、これはまさにきわめて重要なことです――人々や悪鬼が何をしようとも、それに対抗して、それにもかかわらず、「この人は正しいのです!」と神が言ってくださることが重要なのです。結局のところ、このようにしてヨブの正しさが証明されたのではないでしょうか?この人は誤解やデマになんと多くあったことでしょう!しかし最後に、「わたしの僕ヨブは正しい」と神は言われました。神がこのように言ってくださることは、決して小さなことではありません。イザヤ書五三章でもそうです。何があろうと、神は取った道の正しさを証明されます。この「何があろうと」という句が、この章のかなりの部分を占めているのではないでしょうか?――矛盾や誤解の重さで潰されそうになります。しかし最後に、この僕の正しさが証明されます。神は「わたしの僕は正しい」と言われます。「主の御腕は誰に現されるのか?」。この人に――この人に現されるのです!

この思想が聖書中至る所に見られます。神と共に歩んだ信仰の偉人たち全員について、この思想を見ることができます。何と困難な道を彼らは進んだことでしょう!しかし最後に、神は言葉で擁護するだけでなく、きわめて実際的な形でも擁護して、「この人は正しい、この人は正しい」と言われたのです。これが主の御腕の意味です。これこそ主の御腕を求める時に私が欲しているものです。「おお、主よ、最後にあなたがその道の傍らに立って、『この人は正しかった』と言える道、そのような道を取ることができますように」。あなたはこれを願うでしょうか?このような結末にならないものは何であれ、何の価値もありません。

(2)いつまでも残る命の実

主の御腕の意義及び証拠と思われる二番目のものは、いつまでも残る霊的な命の実です。イザヤ書五三章十節、「彼は自分の子孫を見る」。すなわち、いつまでも残る霊的子孫です。彼の内にあったこの命は、新たな形と表現をまとい、今や永続する、確立された、壊せないものになりました。地上に生きて、自分の働きを行い、地上を去るだけなら――思い出はますますぼやけていき、過去へと消え去っていくだけなら――それにいったい何の意味があるでしょう?ある人々が好んで歌う、このとても重苦しい節にもこれが言えます。

「時は、常に逆巻く潮流のように
 すべての子らを流し去る。
 子らは飛び去り、忘れ去られる、
 夜明けと共に消え失せる夢のように。」

しかし、これは極端な悲観主義です!これが私たちの相続財産であってはなりません。主のどの僕も、「忘れ去られ」、「流し去られ」、消え去って、何も残らず、蒸発するようなことがあってはなりません。いいえ、「彼は自分の子孫を見る」。主のすべての真の僕のために現される主の御腕は、次のことを意味しなければなりません。すなわち、一時的なものにすぎない、奉仕の形式や、その器と構造の表現が過ぎ去った後も、そこには壊せない何かが残るべきであり、常に前進し続けて、天で永遠に残るものにならなければならないのです。これが主の御腕です!これこそ、あなたや私が願ってやまない人生の証しではないでしょうか?確かに、これこそ私たちの人生を正当化する唯一のものです!大事なのは、あらゆる手を尽くしたか、この地上にいる間に多くの成果を示したか、ではありません。私たちが去った後も、働きが進み続け、子孫――滅びることのない霊的子孫――が生き続けることなのです。

これが「主の御腕」という言葉で聖書が言わんとしていることです。主の御腕とは証印を押される主であり、状況に介入される主です。主の御腕は主から出たものを、壊しえないものとして確立します。あなたはこのような形で主の御腕が欲しくないでしょうか?私たちはみな、霊的に豊かに実を結ぶこと、霊的増し加わり、停滞しないこと、おしまいにならないこと、進み続けることを願っています。主のすべての真の僕について、これを見ることができるのではないでしょうか?――彼らが去った後、主がそこにやって来られ、彼らの務めの傍らに立たれます。エレミヤが去った後、主はエレミヤの傍らに立たれました、「エレミヤの口を通して語られた主の御言葉が成就されるために、主はペルシャのクロス王の霊を感動させて、彼が一つの布告を出すようにされた……」(二歴三六・二二、エズ一・一、ダニ九・二)。パウロはアジアの七つの教会で奉仕して、今や彼は去ります。しかし、主はこの七つの教会に戻って来て、ご自身の僕のこの務めを擁護されます(使十九・十、二六、黙一~三)。これが主の御腕です――主は、ご自身の僕の生涯によりご自身から出たものが滅びることを許されません。それは確立されます。(サムエルについて述べられていることと比較せよ。一サム三・十九、二〇及び二八・十七。)

主の御腕が現される原則

さて、最初の質問に戻ることにします、「主の御腕が現される原則は何でしょう?」。すでに述べたように、私たちは「自分はイザヤ書五三章をよく知っている」と思い込んでいます。しかし、この章を読むとき、たいてい私たちはこの章が示している方の悲しみ、苦難、贖罪に関する鮮やかな描写の言葉に熱中します。このエホバの苦難の僕のパースンと経験に夢中になります。そのため、「誰に主の御腕は現されるのか?」という冒頭の問いかけの途方もない意義を、すっかり見失ってしまいます。しかし、この問いかけがなければ、この章全体にはほとんど何の価値も意義もなかったでしょう。これについてもう一度考えてみてください。ここに記されていること――彼の苦難、彼の悲しみ、彼の贖罪――がすべて実現したとしても、もし彼のために主の御腕が現されなければ、いったいそれに何の価値があるでしょう?それは実現しました――しかし、その正しさの証拠はどこにあるのでしょう?それに対する神の判決は何でしょう?

ですから、この章の内容は途方もないものであり、その悲劇は圧倒的に心を打つのですが、それはみな、「誰に主の御腕は現されるのか?」というこの一つの問いと関係しているのです。その答えは、「主の御腕は、この章がこのように鮮やかに描写している方に対して現される」というものです。この悲劇、苦しみ、誤解、デマをすべて被られた御方が、このような無量の感慨と哀愁と共に、ここに示されていますが、この御方に対して主の御腕は現されるのです。

預言者はこの知らせ、この宣べ伝えに対する全世界の反応を見ます。イスラエルや異邦人も同じ反応を示します。「誰が私たちの知らせを信じたのか?」と彼は尋ねます。「私たちが宣べ伝えた知らせを誰が信じたのか?」。この知らせはすべて、人の子の日を仰ぎ見るものです。使者は出て行って、これを宣べ伝えました――それは何という宣べ伝えだったことでしょう!この知らせはペンテコステの日に宣べ伝えられ、エルサレムからその周辺の領域全体に広まりました。しかし――誰がその知らせを信じたでしょう?その知らせに対するイスラエルや異邦人の反応はどうだったでしょう?預言者は、この福音の知らせに対するこの世の様々な反応について、霊感により予め鮮やかに知っていましたし、それに対する洞察力も持っていました。彼はこの問いを発して、この章全体を使ってそれに答えます。しかし、彼は「誰に主の御腕は現されるのか?」とも問うています。この世はこのように反応しました。大多数の人はこの知らせを拒み、拒絶して、この受難の僕の苦しみについて全く間違った解釈を造り上げました。それにもかかわらず、この御方に対して主の御腕が現されます。この御方の傍らにエホバは立たれるのです。

主の僕

これは私たちをこの問いの包括的内容全体に導きます。広い文脈を見るために、四二章に戻ることにします。「わたしの支持するわが僕、わたしの魂の喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼の上に置いた。彼は異邦人に公義をもたらす」云々。しかし、「わが僕を見よ」というこの句は、五三章の文脈にも直ちに通じます。なぜなら、この句は五二章十三節と、言わば共鳴しているからです。実際、五二章十五節と五三章一節との間には決して区切りがあるべきではありません。なぜなら、この区分全体は実際のところ十三節から始まるからです、「見よ、わが僕は賢く事を行い、彼は高められ、上げられ、ひじょうに高くなる」。このようにして、私たちは主の僕について、主に対する奉仕の何たるかを、広い文脈の中でとらえることができます。すなわち、主がその正しさを証明してくださる奉仕とは何なのか、どのような僕の傍らに主は立ってくださるのか、広い文脈の中でとらえることができるのです。きっと、あなたも私もこれに大いに関心があるでしょう。私たちは、主から「わたしが支持するわが僕を見よ」と言ってもらえる者になりたいと願っています。「わたしが支持する者」という句は、「わたしが大能の御腕を現す者」という言葉を言い換えた表現にほかなりません。

さて、「主の僕」というこの句を、イザヤは三重の方法で用いています。

第一に(四一・八、四四・一、二、二一参照)、彼はこの句をイスラエルについて用いています。イスラエルは「主の僕」と呼ばれています。イスラエルが興されたのは、諸国民の間で主の偉大な御旨に仕えるためでした。しかし、イスラエルは僕として主の期待を裏切ってしまいました。悲劇的なことに失敗してしまったのです。

次に、イスラエルの中から、神はひとりの御方、メシヤ、油塗られた者を起こして、この御方に「主の僕」という称号を移されました。「わたしが支持するわが僕(中略)わたしはわが霊を彼の上に置く」……「見よ、わが僕(中略)彼は高められ、上げられ、ひじょうに高くなる」。これがこの称号が使われている二番目の方法です。これを辿るなら、とても有益な学びになります。なぜなら、イザヤ書五二章から五三章は、新約聖書で十二回以上引用されているからです。まさにこれらの御言葉が主イエスに適用されているのです。例えばマタイによる福音書(八・十七)にはこう記されています、「イザヤによって語られたことが成就するために」。次にマタイは主イエスに関してイザヤ書五三章から引用します。「新約聖書全体はイザヤ書五三章の中に含めることができ、主のパースンと働きは『主の僕』というこの称号の中に含めることができる」と言うこともできるでしょう。

イザヤがこの「主の僕」という称号を用いている三番目の方法は、忠信な信者たちを示す集合的・複数的方法においてです。五四章十七節(六五章十三節、十四節とも比較せよ)で、「主の僕」というまさにこの称号が主の忠信な民に対して与えられています。ですから、これには「あなたや私もこの偉大な神の証明にあずかれる」という意味があるのです。

しかし、ここで立ち止まって、根本的な区別をしなければなりません。この区別は主イエス特有の僕たる身分及び特有の働きと、他の人々に関するものとの間のものです。これを常に心に留めておかなければなりません。なぜなら、イザヤ書五三章はキリスト特有の僕たる身分と、キリスト特有の働きについて示しており、他の何者も決してそれにあずかれないからです。そして、神に感謝すべきことに、他の者がそれにあずかることなど不要なのです!彼はそれをすべてご自身で単独で成就されました。今はこれをさらに詳しく追うことはしません。しかし、確かに私たちは主イエスの贖いの働きに決してあずかれませんし、この勝利の奉仕にもあずかれませんが、それにもかかわらず、私たちは奉仕の中に入りますし、その奉仕は主の奉仕と同じ霊的原則に基づくものなのです。これはとても重要です。なぜなら、これらの原則に基づいて主の御腕は現されるからです。

キリスト特有の働きと僕たる身分

次に、キリスト特有の働きと奉仕について二、三分見ることにしましょう。この区分は神が目指しておられる輝かしい目的から始まりますが、これに注目すると印象的だと思います。「見よ、わが僕(中略)彼は高められ、上げられ、ひじょうに高くなる」(五二・十三)。最初から目的を見据えること、その目的がどのように成就されるのかを見ることは、常によいことです。五三章のこの悲劇、この恐ろしい物語はみな――最後にどうなるのでしょう?さて、ここで神は目的を持って開始されます。彼は言われます、「これはこのような結末になります。事の成り行きにあなたはひどく悩み、落ち込むかもしれませんが、事の成り行きを告げる前に、わたしはあなたにその結末を告げましょう。この僕のパースンと働きをわたしは描写しようとしていますが、この僕は最後には高められ、高くなり、上げられるのです」。

もちろん、この言葉は私たちを直ちに新約聖書の偉大な御言葉、例えば使徒の働きの一章と二章、ピリピ人への手紙の二章に向かわせます。「彼は死に至るまで従順になられました」。「神は彼を高く上げて、あらゆる名に優る名を彼に与えられました。それはイエスの御名によって、あらゆる膝がかがむためであり……」。ヘブル人への手紙一章、「彼は高き所で大能者の右手に座られました」。これは将来の結末ではなく、すでに起きた結末です!このようにして、この恐ろしい物語が導入されます。「彼は……であろう」というこの句が何度も繰り返されます。「彼は高められるであろう……彼は上げられるであろう……彼はひじょうに高くなるであろう。……彼は自分の魂の苦しみを見るであろう……彼は満足するであろう」。これは最初から確定済みなのです。これが正しさの証明であり、主の御腕です!この悲劇がすべて起きたとしても――それにもかかわらず、それが輝かしい結末に至るよう、主の御腕は案配するのです。「彼は……であろう」。何も起きていない時から――十字架や拒絶の前から――これは神のご計画の中で確立されているのです。

あなたや私がキリストの奉仕のこの真の霊的諸原則にあずかるなら、私たちもまさにこのような結末を迎えるでしょう。結末がこうなるよう、神は案配してくださいます。「もし彼と共に苦しむなら、彼と共に栄光を受けることになります」(ロマ八・十七)。「もし耐え忍ぶなら、彼と共に治めるようになります」(二テモ二・十二)。

この問題がどのように導入されるのかに注目したので、今、キリスト固有の僕たる身分の物語について見ることにしましょう。

キリストの輝かしい苦難

五三章には、主の僕の苦難の身代わり的性格を描写する十一の表現があります。

一.「彼は私たちの苦悩を担った」(四節)
二.「彼は私たちの悲しみを負った」(四節)
三.「彼は私たちの咎のために傷つけられた」(五節)
四.「彼は私たちの不法のために砕かれた」(五節)
五.「彼は懲らしめられて私たちに平安を与え」(五節)
六.「彼の打ち傷によって私たちは癒された」(五節)
七.「主は私たち全員の不義を彼の上に置いた」(八節)
八.「わが民の咎のゆえに彼は打たれた」(十節)
九.「あなたは彼の魂を罪のための供え物とされた」(十一節)
十.「彼は彼らの不義を負う」(十一節)
十一.「彼は多くの者の罪を担う」(十二節)

ここで使われている三つの言葉に注意すると、とてもためになります。この三つの言葉は彼が負われたものを描写する言葉であり、「不義」、「咎」、「罪」という言葉です。レビ記十六章を見ると、イザヤが何を言っていたのか、また聖霊がイザヤを通して何を示しておられるのかがわかります。

「イスラエルの子らの汚れと、その咎、そのすべての罪のゆえに、聖所のために贖いをしなければならない。また彼らの汚れのうちにある会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない。」(レビ十六・十六)

「そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエルの子らのすべての不義と、すべての咎、すべての罪をその上に告白しなければならない」(二二節)。ここにイザヤ書五三章の三つの言葉が出てきます。

「こうしてやぎは彼らのすべての不義をになって、人里離れた地に行くであろう。彼はそのやぎを荒野に送らなければならない。」(二二節)

「この日、あなたたちのため、あなたたちを清めるために、贖いがなされ、あなたたちは主の御前ですべての罪から清められるからである。」(三〇節)

「これはあなたたちが永久に守るべき定めであって、イスラエルの子らのすべての罪のために、年に一度あがないをするものである。」(三四節)

ですから、このイザヤ書には、贖いのやぎの働きに相当する働きが記されているのです。この言葉はこの章に完全にあてはまります。この苦難の僕は「贖いのやぎ」であり、不義、咎、罪を担って、荒野に、人里離れた地に追放されます。

このことから、主の御腕について、キリストの奉仕との関連で、どのような結論を下すべきでしょうか?

主の御腕
(1)十字架に関して

主の御腕とその意味はすべて、主イエスの十字架と不可分な関係にあります。この問題の核心・総計がそこにあります。あなたは主の御腕が欲しいでしょうか?正しさの証明が欲しいでしょうか?主に自分の側に立って支えてもらうこと、守ってもらうこと、運び通してもらうこと、ご自身を委ねてもらうこと、傍らにいてもらうこと、一生共にいてもらうこと、自分の信者たちの群れと共にいてもらうこと、主の働きのためにそうしてもらうことを、欲しているでしょうか?主の御腕は十字架と不可分な関係にあり、十字架の立場以外では主は私たちと共にいることは決してできないことがわかります。

このメッセージの冒頭で、多くの場所で主の民の間に悲劇的な霊的状況が蔓延していることについて話しました。こうした状況の根本的原因は、個人的な会話や寄せられる手紙から、繰り返し明らかになります。その原因が次のような言葉で語られるのです、「私たちの間では、まだ十字架がその働きをしていないように思われます!」。そうです、これが原因です!いっそう深い十字架の働きこそ、このすべての霊的悲劇に対する唯一の答えであり、確かな答えなのです。このような働きがないせいで、主からの助けが全くないのです。イザヤ書五三章はすべてを網羅します。主の助け、主の臨在、主の御力、主がご自身を私たちと働きに委ねられるのは、主イエスの十字架の立場のみに基づきますし、その立場でのみ可能です。私たちは個人的にも団体的にも、この立場に立って生活しなければなりません。主の御腕は十字架によってのみ働きます。実に、「十字架こそ主の御腕である」と言えるでしょう。神が正しさを証明されるのは、十字架においてです。「十字架につけられたキリストは(中略)神の力です」――これが主の御腕です。

(2) 苦しみの実である子孫に関して

主の御腕はまた、主のこの僕の苦しみの実である子孫とも不可分な関係にあります。「誰に主の御腕は現されるのか?」。この御方に対してです。「彼は自分の子孫を見る」「彼は自分の魂の苦しみを見る」。教会は本質的に彼の苦しみの実であり、人々が造ったものや建てたものではありません。教会はまさに彼ご自身の苦悩と苦しみから生じたものであり、彼の十字架から生まれたものです。主の御腕はこれと不可分な関係にあります。

ですから、あなたや私がその一部となることの重要性が、きっとおわかりになると思います。私は慎重を期して「その一部」という言葉を用いることにします。私たちには物事をあまりにも個人的なものにするきらいがあります――つまり、あまりにも多くの場合、私たちは大きな事柄の一部になることを好まず、自分自身の上に焦点を置きたがって、自分に焦点が置かれるなら幸いに感じるのです!「私はもっと偉大なものの一部にすぎませんし、何か別のことのごく一部にすぎません」と言わなくてはならなくなると――それをあまり面白く感じないのです!ああ、しかし、主の御腕はもっと偉大なものと結びついており、私たちはおそらくそのほんの一部にすぎませんし、私たちが主の御腕の恩恵にあずかるのも、全体の一部としてなのです。たとえば、主の御腕がある地元の群れと共にあったとしましょう。その場合、私たちが主の御腕を見いだせるのは、その地元の群れと実際に一緒になる時です。もし独立した個人的な道を取るなら、主の御腕を見いだせないでしょう。その立場に基づいて主は決して私たちのそばに立ってくださらないでしょう。自分自身の独立性や個人主義を放棄して(もちろん、個人的にそうしてはいけません)、主が全き興味と関心を抱いておられるものの中に入り込むことが、とても重要です。私たちはそのために生きなければなりません。なぜなら、そこに私たちは主の御腕を見いだすからです。

(3)神の御子の正しさの証明に関して

さしあたって最後になりますが、主の御腕とその意味はすべて、御子の正しさの証明と不可分な関係にあります。これこそ私たちの人生の試金石です!パウロは「私にとって生きることはキリストです」と言いました。そして、神はパウロの正しさを証明されました。存命中、彼にはなんという敵がいたことでしょう。そして、それ以来今に至るまで、なんと多くの敵がいたことでしょう!使徒パウロを貶めるために試されたことのない方法は何も残っていないほどだと思います。しかし、彼はかつてなかったほど偉大な地位に今日ついています。主の御腕はこの人と共にあります!なぜでしょう?彼にとって生きることはキリストだったからです。彼には唯一無二の関心がありました――それは神の御子の正しさを証明することです。主イエスに敵対していた前半生に関するパウロの悲しくて苦しい言葉を、もう一度読んでください。何度も何度も、彼は自分のしでかしたことを私たちに告げます――いかに教会を迫害し、男も女も牢獄に投げ込んだのかを告げます。しかし今、彼は全存在をあげて、最後の力の一滴に至るまで、かつて自分が迫害した方の正しさを証明することに打ち込みます。だから、神は彼と共におられるのです。

これを覚えておいてください!神の御子の正しさを証明するために自分の人生を実際に注ぎ出すなら、神が共にいてくださるのです。もし自分自身や幾ばくかの働きに仕えて、何かをうまく運ばせようとしているなら、神はその全責任とそれに伴うあらゆる問題を私たちが負うよう放置されるでしょう。しかし、御子の誉れ、栄光、御名のための情熱を持とうではありませんか。そうするなら、あとのことは神が面倒を見てくださいます。

「誰に主の御腕は現されるのか?」。以上述べたことが、この問いに対する二、三の答えです。私たちが主の御腕を見いだすのは、十字架の立場、御名の立場、主イエスの栄光の立場に立つときなのです。