第7章 失われた証しの回復

T. オースチン-スパークス

イザヤ書の次の章やそれ以降の章に移ると、すでに述べたように、今や十字架の積極的な面、復活の面、建設的な面にあるので、一つのことがとてもよく見えてくることがわかります。すなわち、都と国々における神の証しの回復です。これが五四章以降のイザヤ書の鍵です。ここではシオンが視野をかなり占めていることがわかります。「シオン」と「エルサレム」という言葉をざっと眺めてそれを丸で囲むなら、それが証しの中心、焦点であることがわかります。しかしまた、国々も視野をかなり占めています。先に進むにつれて、これはさらに明らかになるでしょう。

そこで、まず五五章を見て、この章を特徴付けている二つの点に注目することにします。

豊かな恵みと、神の確かな御言葉

一節から九節では、この復活の立場の上にある神の民に対して解き放たれた恵みの気前良さと豊かさを見ます――無代価の豊かな恵みです。「さあ、渇いている者はみな水に来たれ。金のない者も来たれ。来て、買い求めて、食べよ。あなたたちは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ……」。この中にどれほど新約聖書を詰め込めることか!

次に十節から十三節には、神の確かな御言葉について記されています。「わたしの言葉は空しくわたしに帰らない」。今日、私たちはメッセージを与えようとする時、「わたしの言葉は空しくわたしに帰らない」という主のこの約束をたいてい要求します。もちろん、この原則は一般的にあてはまります。伝えようとしているのが真に主の御言葉であるなら、これにすがるのはいつだって間違いではありません。しかし、私は指摘したいのですが、この御言葉の本来の意味はそういうことではありません。十一節と十二節の流れに気をつけてください。「わたしの口から出る言葉も、空しくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果たす。なぜなら……」(ここで読むのをやめてはいけません)「なぜなら、あなたたちは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行くからである。山々と丘々は……」云々。この確かな力ある御言葉の約束の直接的意味は次のとおりです。この民は神から解放の約束を受け、「主は自分たちを捕囚から帰還させてくださる」という保証を受けたのです。(イザ三五・十、四八・二〇、五二・十二と比較せよ。)「あなたたちは喜びと平安のうちに出て行く」という御言葉を主は与えてくださいました。これが御言葉の内容であり、これが地に落ちることはありません。

祈りの家と、柔和さの必要性

五六章に行くと、すべては万民のための祈りの家を中心としていることがわかります。「わたしは彼らをもわたしの聖なる山に来させ、わたしの祈りの家のうちで楽しませる。彼らの燔祭といけにえは、わたしの祭壇の上に受け入れられる。わたしの家は万民のための祈りの家ととなえられるからである」(七節)。これは依然として主の証しの回復と関係しており、それは「わたしの祈りの家」である主の家の中に見つかります。

五七章には、主の民に対するさらなる警告がいくつか記されています。この警告は、以前証しを破壊したどんなものにも逆戻りしてはならないというものです。主は次のように絶えず繰り返し言わなければならないようです、「過去にあなたの証しを破壊した昔の事柄に戻らないように注意しなさい。そうした昔の事柄が(陶器師の家でエレミヤが語った言葉を用いると)証しの器を『損なった』のです(エレ十八・四参照)」。そこで、主はここで、そのように絶えず現存している数々の危険に関して警告されます。次に十五節では、主の臨在と信任の根拠について述べられています。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、砕かれた謙遜な霊の者と共に住み、謙遜な者の霊をいかし、砕かれた者たちの心をいかす』」。これが主の臨在の条件であり、これにより主の証しが再構築されます。

五八章と五九章は、さらなる警告、さらなる戒め、さらなる教えで満ちています。それは、証しを曖昧なものにする雲から空を清めることによります。五八章八節に注意してください。「そうすれば、あなたの光は朝日のようにあらわれ出る……」。主に関する一切のものを支配するのは、この証しの輝き出です。これらの警告や戒めが与えられたのは、いつまでも空に残っていて、この明るい輝きを妨げようとする雲を取り除くためです。

明るく輝く証しの回復

こうして私たちは六〇章に導かれます。先行するものはみな、次のような目的のために道を備えました、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」。ここで次に、私たちは回復された証しというこの問題に来ます。暗い状況のただ中で、ひどく暗い世の中で、教会は明るい光を放ちます。「なぜなら、暗きは地を覆い、ひどい闇が民を覆っているからだ。しかし、あなたの上には主がのぼられ、主の栄光があなたの上に現れる」。これこそイザヤの預言の最後の区分の頂点です。この証しが回復される時(一節)、国々がその影響を受けます。「あなたの目を上げて見回せ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの息子たちは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。その時、あなたは見て輝き、あなたの心は高なり、かつ膨らむ。海の富が移ってあなたに来、国々の宝があなたに来るからである」。

証しが明るくなる時、この輝きに曇りがなくなる時、神がご自身の家の中に、ご自身の民の中におられて、状況が十字架の意義にかなうものである時、その時、この影響は周囲に及びます。国々は影響を受け、人々は触れられます。何かが起きて、富、豊かさ、豊富が教会に戻って来ます。もし状況が主の御旨にかなっているなら、言い換えると、主がご自身の民のただ中に、ご自身の家の中に、実際に証し――豊かで、曇りのない、雲や影を伴わない証し――を持っておられるのなら、国々はその影響や衝撃力を感じるようになり、教会自体も大いに富むことになります。「島々はわたしを待ち望み、タルシシの船はいや先にあなたの息子らを遠くから載せて来、また彼らの銀や彼らの金を共に載せて来る。それはあなたの神である主の御名のためであり、イスラエルの聖なる方のためである。主があなたに栄光を与えられたからである」(九節)。

新約聖書でこれに対応するもの

さて、これは旧約の預言であることを私たちは知っています。この預言者は自分が知っている以上のことを述べていたことを、私たちは認識しています――彼の言葉は二つの織り混ぜられた要素を含んでおり、それらを結合するものでした。一方において、イスラエルに関するかぎり、歴史が造られつつありました。しかし他方において、その過程全体を通して、(五三章のように)彼の言葉はメシヤ――主ご自身、十字架、復活により十字架に続くあらゆるもの――を指し示していました。一時的な過ぎ去って行く面もありましたが、霊的な永遠の面もありました。この霊的な永遠の面こそ、聖霊が常にご覧になっていたものであり、歴史の中で目的としてこられたものです。

このように、あらゆる文脈において、これまで見てきたように、私たちはこれらの預言によって、言わば新約聖書に「移される」のです。そして、私たちは証しの回復についてこれまでイザヤ書から見てきましたが、新約聖書でこれに対応するものは、特にパウロの手紙の一つの中に見つかります。その手紙とはコリント人への第二の手紙です。

パウロのコリント人への第二の手紙

コリント人への二つの手紙における大問題は、コリント市と世界における教会の証しの問題でした。この二つの手紙を読むと、もちろん、私たちは細々としたあらゆる問題で頭がいっぱいになってしまいます。第一の手紙には、悲惨な細々とした問題が記されており、多くの問題について対処しています。この手紙の大半は、読んでいて嬉しいものでも、楽しいものでもありません。おそらく、あなたはこれまで何度も読むのを途中でやめて、最後まで辿りつかなかったのではないでしょうか。たいして理解せず、あまり好きでもなかったでしょう。しかし、私たちは一歩下がって立ち、こう問う必要があります、「この手紙は結局のところ、何について述べているのでしょう?しばらくの間、細々とした点に驚くのはやめることにしましょう。これらの問題は一つの特別な問題を構成しています。この問題とは何でしょう?」

さて、すでに述べたように、このコリント人への二つの手紙における問題とは、その都市と国々における、教会による主の証しでした。これについてはっきりさせましょう。第一の手紙では、ご存じのように、この世について、またコリントにある教会がこの世を征服することにどれほど失敗していたのかについて、多くのことを述べています。なぜなら、この世がコリントにある教会をすでに内側から征服していたからです。証しは内側から破壊されました。それゆえ、コリントにある教会はこの世に対して実際的衝撃力を及ぼさなかったのです。天然の肉の人が教会の中に入り込み、それゆえ、教会は証しを失いました。常にこのようです。天然の人や肉の人の何かが、ある土地でその教会の中に入り込むとき、その土地におけるその教会のこの世に関する証しは、その群れに関するかぎり、おしまいです。天然の人が入り込む時、証しは失われます。

証しは肉的要素によって破壊される

ですから第一の手紙では、問題はたんにその地域の状況だけでなく、その地域の状況が教会のその都市における証しを損なっていたことでした。ですから、そうした状況はことごとく対処され、暴露され、明らかにされ、キリストの十字架に渡されなければなりませんでした。もちろん、コリント人への第一の手紙には、教会の証しを麻痺させるためのサタンの二番目に大きな策略が記されています。サタンの最大の策略、教会に対する常套手段は、公の迫害であり、エルサレムの都やその国における教会の証しを破壊し、消し去ることでした。ご存じのように、これは失敗しました!しかし今、サタンは二番目の策略の線に沿って戻って来ます。その策略とは、教会の数々の層の間に自分の心にかなう者たち――肉的な要素――天然の人、肉的な人を忍び込ませることです。彼らはサタンの目論見に大いに仕えて、サタンが求めている影響を及ぼします。サタンは公の迫害が功を奏さないのを見ると、言わば裏口に回り込んで、その戸口から肉的・天然的な数々の要素を持ち込みます――これは功を奏しました!証しは失われ、破壊されました。

しかし、このコリント人への二つの手紙の間に、何かが起きました。第二の手紙の七章にはこう記されています、「私は今、喜んでいます。それは、あなたたちが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めに至ったからです。あなたたちは神の御旨にそって悲しみ、私たちから何の損害も受けませんでした。神の御旨にそった悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導きます」(七・九、十)。第一の手紙の後に実際に起きた出来事に関して、使徒には言うべきことがたくさんありました。彼らは悔い改め、自分自身や諸々の状況を裁き、パウロが言うように「自分たちを清めた」(十一節)のです。彼らは自分たちの状況について真に苦悩し、行動しました。これが二つの手紙の間に起きました。「彼らはその状況を十字架に渡したので、それによりすべては変わった」と言えるでしょう。今や、それらの数々の問題は内側から対処されたので、この世に対するその都市における証しというこの問題全体について再考できるようになりました。敵に対する教会の反撃が可能になったのです。

この世に対する、その地域における証しの回復――これが第二の手紙に記されていることです。これはみな、実効的に証しを構成している者たちに、晴れやかな安心感を与えます――あるいは、イザヤの絵図を用いると、これは光を輝かせます。これについてパウロが述べているいくつかの点について見ることにしましょう。

勝利の愛の価値

「なぜなら、私は大きな艱難と心の苦しみの中から、多くの涙をもって、あなたたちに書き送ったからです。それは、あなたたちを悲しませるためではなく、あなたたちに対してあふれるばかりに抱いている私の愛を、知ってもらうためでした。」(二コリ二・四)

第一にわかるのは、勝利の愛の価値です。これが明るく輝く効果的な務めの一つの構成要素です。使徒に関して、これには明らかに二つの面がありました。愛が尽きてしまった人がいるとするなら、この使徒こそまさにそのような人でしょう。このコリント人たちに関するかぎり、そう言えます。なぜなら、彼はこう言ったからです、「あなたたちを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか?」(十二・十五)。愛の中で自分を注ぎだし、費やし、与えても、その結果、愛されなくなるだけで、愛の見返りがますます減っていくなら、どんな人も愛想が尽きて当然でしょう。使徒はなんという状況に出会わなければならなかったのでしょう!それにもかかわらず、彼の愛が勝利しました。しかし、これは彼らにも影響を及ぼしたように思われます。使徒が第一の手紙の十三章に記したことが生じたように思われます。そうです、コリント人への第一の手紙十三章のこの勝利を、かなり現実のものとしてこの第二の手紙の中に追うことができます――この愛は「忍耐強く親切な」愛であり、他にも様々な特徴があります――これが勝利する愛の性質です。

「これこそ効果的証しの第一の主要な要素である」と言えるでしょう。主イエスは言われました、「もしあなたたちが互いに愛し合うなら(中略)それによって、すべての人は知るでしょう……」(ヨハ十三・三五)。私たちが互いに愛し合うこと――これが証しであり、こうして証しが知れ渡るようになります。この世が見て影響を受けるかどうかは、大いにこれにかかっています。私たちは自分の前で扉を閉めて、「まあ、いいでしょう。いずれにせよ、この世は有害で、常に敵対的であり、常に非同情的です。どうして、この世について考慮する必要があるでしょう?私たちは閉じこもって、自分の仕事に取り組むことにしましょう」と言うことはできません。あなたはこうすることはできませんし、この世を無視することもできません。私たちがここにいるのは、この世に影響を及ぼすためです――これが主が私たちをここに残しておられる主な理由です。私たちが地上に生きているのは、修道院に入って閉じこもり、冷ややかにこの世から離れて、この世に対して無関心でいるためではありません。

さらに、この世は遅かれ早かれ、教会の中で起きていることに気付くようになるでしょう――あなたの地元の群れに起きていることに気付くようになるでしょう!これについて勘違いしてはいけません。この世は教会の状態について知るようになるでしょう。あなたはこれに関して扉や窓を閉め切って、中に閉じこもることはできません!周囲全体が知るようになり、教会の状態が知れ渡るでしょう。繰り返し言いましょう――私たちから聞くことによってではなく、私たちの内に見るものによって、この世は影響されるようにならなければなりません。これが最も大事な点です。この世が実際に見ることができる唯一のもの、この世に影響を与えうる唯一のものとは、私たちが互いに愛し合う相互の愛です。「もしあなたたちが互いに愛し合うなら(中略)それによって、すべての人は知るでしょう……」。証しする最も効果的な方法の一つは――宣べ伝えることではなく、愛することです!愛があるなら、愛は私たちの宣べ伝えよりも遥かに多くの影響を及ぼすでしょう。少なくとも、愛は私たちの宣べ伝えを大いに背後から支えるでしょう。私たちの宣べ伝えはすべて、この一つのもの――主の民のただ中にある強固な勝利する愛――によって支えられなければなりません。

キリストと共に苦しむことの価値

証しにおける第二の点は、キリストと共に苦しむことの価値です。コリント人への第二の手紙は、これについて多くのことを述べています。例えば、「あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神。神は、すべての艱難の中で私たちを慰めてくださいます。それは、私たち自身が神から受けた慰めをもって、あらゆる艱難の中にいる人々を慰めることができるためです。なぜなら、キリストの苦難が私たちにあふれているように、私たちの慰めもキリストを通してあふれているからです」(二コリ一・三~五)。

第一に、キリストと共に苦しむことにより、その素晴らしい見返りとして、私たちはキリストの慰めを受けます。

このような世の中にあって、いくばくかの慰めを与えることは、とても大切なことです。教会の中でも教会の外でも、慰めの務めに対する大きな必要があります。イザヤ書に戻ってください、「慰めよ、わたしの民を慰めよ、とあなたの神は言われる」(イザ四〇・一)。しかし、たんなる陳腐な言葉では、慰めの務めを果たせません。困難な困った状況の中に行き、耳障りの良い言葉を語るだけではだめです。人々が現実に困難や苦しみの中にあって、あなたが彼らに語り始めたとしましょう。あなたに対して彼らが問う権利がある第一のことは、「では、あなたはこれについて何を知っているのですか?あなたはこれまで、私の立場や、私の状況を経験したことがあるのでしょうか?これまで深い、深い苦難に遭ったことはあるのですか?これについてあなたは何を知っているのですか?」ということです。

ですから、おそらく、ご自身の民が大いに苦難を経験するのを神が許されるのは、神の主権的摂理の道の一つなのでしょう。これは、彼らがキリストの慰めのこの素晴らしい価値を得るためであり、他の人々――試みられている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人――を慰め、励ますためのものを得るためです。私たちは何を与えなければならないのでしょう?御言葉はこう述べています、「私たち自身が神から受けた慰めをもって、慰めることができるためです」。もしこの箇所を読んでいる人の中に、痛ましい苦難の時を過ごしていて、いわゆる「暗い土地」を通っている人がいるなら、私はこの御言葉をあなたのために次のように言い換えることができるでしょう。「あなたの今の経験を次のように見なしてください。自分にこう言い聞かせてください。『この経験は主を見いだす機会を私に与えてくれるものなのです。これは将来の奉仕のための備えになるでしょう。この苦しみや問題のおかげで、私は主から慰めと助けを受けることができます。これは将来、だれか他の人に対して大きな意義を持つものになるかもしれません』」。

復活の経験を通して生み出される務め

このようにして務めが生み出されます。男の人であれ、女の人であれ、だれかが「務めに入る」大志を抱いており、話をすることや宣べ伝えること、出て行って集会を開くこと、そのような類のあらゆることを願っていたとしましょう。しかし、もしその人がどん底の経験をくぐり抜けて、そこで主を見いだし、そのどん底から何らかの宝、「非常に高価な真珠」を持ち帰ったことがないのなら、そのような人の務めは実際のものではなく、人工的なもので、たんなる職業上のものにすぎません。イエス・キリストの真の務めは、どん底の経験に下らされて、まさにそのどん底で、こうした数々の真珠や尊いものを見いだし、それらをそこから教会のために持ち帰ります。「海の富が移ってあなたに来」(六〇・五)というイザヤ書のこの御言葉に気付いたでしょうか?そうです、しかし、海にはとても深い所、とても暗い所、とても恐ろしい所もあります。それにもかかわらず、そこには宝があります。これが証しの道です。

手紙の冒頭でパウロが書いていることに注意してください、「なぜなら、兄弟たち、アジアで私たちに降りかかった苦難について、あなたたちに知らずにいてもらいたくないからです。私たちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みさえ失い、実に心の中で死を覚悟するほどでした。それは、私たちが自分自身に頼るのではなく、死者を復活させてくださる神に頼るようになるためでした」(二コリ一・八)。このようにして務めが生み出されます――それは、あなたがキリストの復活の力を現実に経験して、その証しを持つようになる時、生み出されます。あなたの個人的状況に全く望みが無いように思われる時、あなたの信者の群れに全く望みがないように思われる時、神の摂理はあなたを導き、キリストの復活の力をあなたに発見させます。「それは、あなたが自分自身に頼るのではなく、死者を復活させてくださる神に頼るようになるためです」。こうして務めが構成されます。もしこの道を歩んだことがあるなら、あなたは真の「奉仕者」です。あなたに肩書きは必要ありませんし、わざわざ任命される必要もありません。あなたは極度に必要とされているものを持っているのです。

砕かれることの価値

効果的務めの第三の点は、砕かれることと弱さの価値です。

「しかし、私たちはこの宝を土の器の中に持っています。それは、その力の卓越した偉大さが神のものであって、私たちからではないことが、明らかになるためです。私たちは四方から圧迫されますが、窮しません。途方にくれても、絶望しません。迫害にあっても、見捨てられません。打ち倒されても、滅びません。いつもイエスの死をこの身に負っていますが、それはイエスの命もまた、私たちの身に現れるためです。なぜなら、私たち生きている者は、いつもイエスのために死に渡されているからです。それは、イエスの命もまた、私たちの死すべき体に現されるためです。こうして、死は私たちの内に働き、命はあなたたちの内に働きます。」(二コリ四・七~十二)

私たちは十八節まで読み続けなければなりません。この区分が伝えている真のメッセージは、砕かれることと弱さが持つ本質の凄まじい価値であることがわかります。それは効果的務めにとって決定的なものです。おそらく、私たちは元々、砕かれることや弱さをあまり重視しません。しかしここでは、それが大いに重視されています。「私たちはこの宝をもろい土の器の中に持っています」。使徒が事実上述べているのは、こういうことです。「私たちは砕かれた人であり、弱い器です。私たちの第一の特徴は、他のなにものにもまして、砕かれることに対する受容性です――私たちはまさに砕かれるために存在しているかのようです」。次に、「これには無限の価値があります」と使徒は述べます。

コリント人への第一の手紙では、教会は砕かれていませんでした。教会は頑固で、自分を無傷なまま保とうと努め、高ぶり、裁き、冷酷で、不親切で、とにかく砕かれていませんでした。しかし今、第二の手紙を読んでわかるように、教会が柔らかさを帯びていることがわかります。教会は柔らかで――溶かされており――砕かれています!今なら「務め」について話せます。今なら「証し」について話せます。以前はできませんでした。そうです、器が砕かれない限り、何も流れ出ることはできません。使徒は、「個人的には自分もそうでした」と言います。(もちろん、彼はそれとなく、これをコリントにある教会にもあてはめています。)私たちの弱さ、私たちが砕かれることには、きわめて大きな重要性と価値があります。なぜなら、その時はじめて、真の宝が姿を現せるからです。

あなたは「証し」という言葉を聞いたから、「この証し」を話題にしているのでしょうか?あなたは「務め」に関する観念を得たので、「務め」を話題にしているのでしょうか?親愛なる友よ、聖霊はあなたや私の二人に言われるでしょう、「証しや務めが本物になるのは、それが砕かれた男女から発する時だけです」。これについて勘違いしないようにしましょう。これが困難な道であることを私は知っています。しかし、これが唯一の道です。あなたも私も、この砕かれることやこの弱さについて幾らか知るようにならないかぎり、奉仕する資格はありませんし、「この証し」や「教会」や「この器」について話す資格もありません。

これがイザヤ書で読んだ御言葉に、なんとよくあてはまるのかがわかります。主は言われます、「わたしの家は万民のための祈りの家ととなえられる」(イザ五六・七)――「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また、砕かれた謙遜な霊の者と共に住む』」(イザ五七・十五)。主はへりくだったコリント人と共に、懲らしめられたコリント人と共におられることがわかります。この第二の手紙には何か新しいことが記されています――第一の手紙にはなかったことが記されています。御霊の油、主の美しさを感じます。そうです、今や主がそこにおられます。なぜなら、彼らは砕かれたからです。主の油がとどまるのは、ただこのような男女だけです。彼らは弱くされ、砕かれ、空にされる経験を実際に通り、「肉に対する信頼」をすっかり失って、自分自身の力がなくなった人々です。これが輝くための道であり、証しを回復する道です。

愛は広い心に至る道である

あなたに引用したい節がもう一つあります。

「コリントの人々よ、あなたたちに向かって私たちの口は開かれており、私たちの心は広くなっています。あなたたちは私たちに心をせばめられているのではなく、あなたたち自身の気持ちによってせばめられているのです。(私は子供たちに対するように語りますが)どうか同じような仕方で私たちに応じて、あなたたちの方でも心を広くしてください。」(二コリ六・十一~十三)

コリントで証しが失われ、打ち倒された原因は何だったのでしょう?コリント人たちはあまりにも心が狭く、あまりにも狭量だったのです。「私はあなたたちを赤子のように扱わなければなりませんでした」とパウロは言いました――コリント人たちは赤子のように気むずかしいクリスチャンだったのではないでしょうか?彼らにとっては、つまらないものが大いに大事だったのです。パウロは言います、「心を広くしてください、心を広くしてください!あなたちの心を広くしてください!もっと心の広い人々になってください――こうしたあらゆる卑しいものにとらわれないくらい、心を広くしてください。寛大な精神、寛大な感情を身につけてください――もちろん、自尊心や自信過剰があってはいけません。もっと広い心――の心――を身につけてください!」

愛の働きとは何でしょう?愛は「不義を喜ばす、真理と共に喜びます」。愛は「すべてを信じ」ます。愛は広い心の持ち主にそうさせるのではないでしょうか?愛は悪い知らせを決して鵜呑みにせず、そこには何かそれとは反対の良いものがあること――別の見方があること――を常に信じようとします。悪を行った人がそのために苦しみを受ける時、愛は喜びません――それは取るに足りないことです。この点でダビデの事例は私たちを大いに責めます。彼について考えてご覧なさい。何年もの間、サウロはダビデに何という人生を送らせたことでしょう!サウロはダビデを付け狙いました。ダビデは「自分はノミのようであり、ヤマウズラのようです」と言いました(一サム二四・十四、二六・二〇)。サウロはダビデを荒野で岩から岩へ、洞穴から洞穴へと追いかけ、追跡しました。まさにダビデを捕まえて殺すためにです。サウロはダビデに昼も夜も平安を与えませんでした。サウロはダビデを殺すことを心に決め、不退転の決意でした。そして、ついにその日が来ました。その日、サウロは三千人の精鋭と共に―― 一人の人を捕まえるのに軍隊を動員したのです――いつものようにダビデを追いかけていましたが、夜、ある場所に来て、横になって眠りました。サウロは知りませんでしたが、ダビデがすぐそばにいて、まさにその場所に居合わせていました(それを知っていたら、サウロは眠らなかっただろうと思います)。ダビデは自分の部下たちと共にやって来て、サウロを見ました。ダビデの部下たちは言いました、「今こそチャンスです――主は彼をあなたの手に渡されたのです!」(一サム二四・四)。

ご存じのように、何かのことで神の助けを得られたらと心に思い描く時、これこそまさに私たちが願っていることです。私たちはただ、「これこそ主の御旨です」とだれかに言って欲しいのです。そして、それが私たちの利益に役立つものである時、それが元々私たちの大好きなものである時、私たちは何とやる気満々になることでしょう!主の助けがあるように思われる時、それは実に強力な誘惑ではないでしょうか?

しかし、ここでダビデは答えました――別の時にも、彼の仲間が「今日、神があなたの敵をあなたに手に渡されたのです。今こそチャンスです!私に敵を討たせてください。一撃で仕留めてみせます!一撃であなたのためにこの苦難を終わらせます」(一サム二六・八)と言った時も、ダビデは同じように答えました。「いいえ、いけません。油注がれた者に触れることを神は許されません!」。ああ、これこそ寛大さであり、真の偉大さです。ダビデは自分が傷つくことになっても耐えました。この先さらに何年苦しむことになるのかわかりませんでしたが、ダビデはそれを受け入れました。ダビデは一撃ですべてを終わらせることもできましたが、「だめです、主が油注がれた者に触れるわけにはいきません。私は正しく、主が油注がれた者が全く間違っているのかもしれません。しかし、彼に触れるのは私のすることではありません。彼のことは主にお任せします。彼に対して自分の手を上げるわけにはいきません。主が油注がれた者に触れることを、主は許されません」。繰り返し言いますが、これこそ寛大さであり、霊的偉大さです!ですから、パウロはコリント人たちに懇願します、「どうか同じような仕方で私たちに応じて、あなたたちの方でも心を広くしてください」。

回復された証しの構成要素

回復された証し――それが地域的なものであれ、世界に対するものであれ――の構成要素についてまとめることにしましょう。

第一に、それは私たちが苦難の中で経験した神の慰めから生じなければなりません。

第二に、それは望みがすっかり絶えてしまったかのように思われる時に経験した復活(個人的なものであれ、団体的な地域的なものであれ)から生じなければなりません。

第三に、それは自分自身の失敗を通して学んだ神の愛から生じなければなりません。これがコリントにあった一つの偉大な要素にちがいありません。コリント人たちは自分たちの失敗を何と深く悟ったことでしょう!彼らは下って行き、まさに塵の中へと下って行きました。彼らは自分たちがその地の群れとしてなんと惨めな失敗を犯してしまったのかを感じていました。そして、彼らは自分たちが犯した過ちの意識にさいなまれましたが、この使徒を通して神の御心から自分たちに注がれる愛を見いだしました。この発見が彼らの新しい証しの構成要素になりました。

第四に、それは砕かれることと弱さの自覚とから生じる、広くされた心から生じなければなりません。自分自身の弱さを自覚していた民がいたとするなら、それはまさにコリントの人々だっただろうと思います。事実、彼らが自分自身について絶望しかけたことを示唆する箇所が、この第二の手紙の中にいくつかあります。自分自身の誤りやすさや無価値さの意識で彼らは打ちひしがれ、いっぱいになっていたのだと思います。しかし、それを通して、彼らの心は広げられたのです。もしあなたや私が自分自身の過ちを自覚してうめいているなら、他の人々の失敗に対して狭量になったり、意地悪になったりしないでしょう。私たちは大いに忍耐強くなり、大いに物わかりがよくなるでしょう――すっかり心が広くなるでしょう。私たちは言うでしょう、「ここでは私自身大いに注意深く歩まなければなりませんでした。しかし神の恵みのおかげで、私もそこを通ったのです!」。これが心の広さであり、真に砕かれた心です。

最後、五番目に、その地と世界における主の誉れに対する責任感から、主に対するなんという徹底的姿勢が生じることでしょう。ここでこの徹底的姿勢が生じると思います。もしこの姿勢がなければ、他のどんな手段も無益です。自分たちがその地で主を貶めていることに、コリント人たちは気づかなければなりませんでした。彼らの状態、彼らの間の状況は、まさに主に不名誉を被らせるものでした。これが責任感を生じさせました。「ああ、主を貶めるわけにはいきません!主のために、主の御名のために、どんな代価を払っても、自分たちの間の状況を正さなければなりません」。イザヤ書の後の章では、回復される時のシオンにおける主の御名について多く述べられています。同じようにコリントの教会でも、その都市やその近隣や世界における、主の御名と主の誉れに対する責任感から、主に対する徹底的姿勢が生じました。

「誰に主の御腕は現されるのか?」という問いに戻ることにします。これまで見て来たように、十字架を示唆するものを受け入れる者たちに対してです。これが十字架の完全な結果であり、働きです。これはみなイザヤ書五三章から発します。この類の回復された証しは、ただ十字架の結果でしかありえません。十字架こそ、あらゆる証しの基礎そのものなのです。