この締めくくりの章では、イザヤの預言について少しばかりさらに述べることにします。まず第一に、これまで考えてきた事柄全体を要約して復習します。次に、エペソ人への手紙からコロサイ人への手紙までの中から、二、三の追加の思想を示します。
心の中に一枚の絵を思い描いていただきたいと思います。まず第一に、ローマ人への手紙を背景として据えてください。次に、その上に十字架の絵を重ねてください。すでに見たように、ローマ人への手紙は十字架を示します。十字架は神の道具であり、神の建造のために土地を清め、その偉大な建造物の基礎のための場所を用意します。この偉大な建造物は神の御思いと御旨の中に常にあったものです――それは教会のことです。
ローマ人への手紙
ローマ人への手紙によると、この土地は最初とても多くのガラクタで覆われています。このガラクタの上に神は建造しようとはされませんし――建造することもできません。神はご自身の教会、栄光の教会のための基礎を据えるために、人の状況を調査されました。その結果、状況はあまりにも込み入っており、邪悪で、誤りと間違いだらけであることを、神は見いだされました。そこで、神は言われました、「この上にわたしの基礎を据えることはできません。これをすべて道からどけなければなりません。それに火をつけて、焼き尽くし、この基礎のために大掃除をしなければなりません」。そこで、このローマ人への手紙で十字架が導入されて、一方において十字架はこの状況全体を処置するものであることが示されます。それは何という状況だったことでしょう!この手紙の初めのいくつかの章では、何と恐ろしい状況が示されていることでしょう!十字架はそこに据えられて、この状況をすべて対処し、すべて取り除き、すべて焼き尽くします。十字架は、焼き尽くす炎が燃えている大きな青銅の祭壇のようです。すべてを裁き、一つ残らず清め、空っぽにし、空き地にします。
しかし次に、他方において、神がその基礎を据えられたので、この手紙の残りの章では新たな展望が見えてきます。今や、神は何でも行えます。八章には多くの事が述べられているのを私たちは見いだしました。八章は神の永遠のご計画と予知について、神の素晴らしい御思いと構想について述べています。神は人々を選び、予定し、子とし、御子のかたちに同形化されます。被造物は腐敗から贖われ、神の子供たちは束縛から解放されます。今や、すべてが実現に向けて動き出したかのようです。なぜなら、十字架が道を清めたからです。
ですから、これが思い描くようあなたたちにお願いした絵図の最初の項目です。すなわち、十字架です。十字架は神の手段であり、他のあらゆるもののためにこの基礎を確保します。
コリント人への第一の手紙
さて、この十字架から放射される光線を何本か描いてください。最初の線はコリント人への第一の手紙に到達します。ここで十字架が適用されます。しかし今や、適用先はこの世の諸々の状況や教会外の諸々の状況ではなく、十字架と一致していない信者たちの間の諸々の状況です。使徒は十字架の意義を示します。十字架は、天然の人、肉的な人、そのすべての働きに対して効力を及ぼすべきものであり、そのような人が神の民の間に存在することによって生じたすべての問題――第一の手紙の中に描写されている、分裂やコリント教会の恐るべき問題のその他の状況――に効力を及ぼすべきものです。彼は言います、「私はあなたたちのところに行った時、あなたたちの間で十字架につけられたイエス・キリスト以外、何も知るまいと決心しました」(一コリ二・一、二)。ですから、ローマ人への手紙から発する最初の「放射」は、十字架の意義と合致しない教会内のあらゆる状況に対するものです。こうした問題が解決されないかぎり、神は建造にとりかかれません。
この第一の手紙で、使徒は「基礎はすでに据えられています」とコリント人たちに告げていることがわかります。「私は賢い建築家のように基礎を据えました。そして、他の人々がその上に建てています。しかし、その上に何を建てるのか、各自は注意しなさい」(一コリ三・十)。この手紙の中に見られる諸問題は、すでに指摘したように、神がそれに対して「否」と言われるものです。神は言われます、「だめです、そうしたものをわたしの基礎の上に置いてはいけません。わたしの基礎はそれよりも尊い何かのためなのです。この清められた土地にそうしたものを受け入れることはできません――そうしたものは再びすべてをガラクタにしてしまうので、わたしたちはすべてを焼き尽くす働きを最初からやり直さなければならなくなるでしょう。なぜなら、十字架に合致しない働きは、たとえだれの働きであっても、火や煙となって昇っていくことになるからです――後には何も残らないでしょう」。
ですから、これがローマ人への手紙から届く、十字架の最初の到達圏です。十字架は主の民の間にある、神が意図された十字架の意義と一致しない諸々の状況に触れます。神はそのようなものに対してことごとく「否」と言われます。「わたしはそのようなものをわたしの基礎の上で用いるつもりはありません。そのようなもので建造するつもりはありません。それを取り除きなさい。その後で、わたしたちは建造にとりかかりましょう」。前の章で見たように、こうした諸問題はコリント人たち自身によって対処されました。火が彼らの間で燃えました――悔い改めの火、自己を裁く火、清めの火、砕かれた心の火が燃えたのです(二コリ七・十一)。何かが起きて、彼らはこうした諸々の問題を対処したのです。
コリント人への第二の手紙
二番目の放射光線はコリント人への第二の手紙に至ります。この手紙では、コリントにある教会に大いなる証しの回復がありました――その地で、その都市で、世界で、証しの回復があったのです。傷つけられて損なわれた証しは、今や回復可能です。このような心の状態、このような霊の状態――砕かれた、謙遜で、深く悔いている、主の御前に自分をとても低くして、「主の御言葉におののいて」いる状態(イザ六六・二)――を神が見いだされる時、神はこの世における証しに関する事柄を進めることができます。つまり、今や神は建造することができるのです。このような状況を神が獲得される時、外側で事が生じ始めます――大した努力は必要なく、まさに事が起き始めるのです――なぜなら、そのただ中で神の強大な力の大能が表されるからです。
この手紙で使徒は言います、「『暗闇の中から光が照り出でよ』(あるいは、最初の創造の時のように『光あれ』)と仰せになった神は、私たちの心を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださいました」(二コリ四・六)。その数節前で使徒は言いました、「私たちは主の栄光を見つめつつ、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます」(三・十八)。これが証しです。内側の状況が対処される時、ごく自然に輝きが外に現れます。それは深く、とても静かな神の働きの結果です。神が一番目の混沌に向かって、「光あれ!」と命じられた時、あまり大きな物音はなかったと思います。神が御力を示される時、決して大きな物音は必要ありません。ハバククの言葉を用いると(ハバ三・四)、「神は御力を隠される」のです。しかし、それは御力を極小化することではありません。神がただ語られるだけで、途方もないことが起きます。神はただ「光あれ!」と言われただけでした――しかし、この創造された世界における光の力と威力を見てください。光は何と恐るべきものでしょう!――しかし、たった一言で光が生じたのです。これは象徴的です。
しかしこのコリントでは、状況が正された時、この光が輝き出ました。このような方法で光は輝くのです。宣伝、広告、組織化、途方もない熱狂や情熱的活動といった大騒ぎは必要ありません。証しが存在するなら、人々はその証しを知るでしょうし、感じるでしょう。状況が正しければ、何かが起きるでしょう。もし何も起きていないなら、自分たちの状態を見直した方がいいでしょう。
ガラテヤ人への手紙
十字架が放射する三番目の光線は、前の章で見たように、私たちをガラテヤ人への手紙に導きます。この手紙では、十字架の結果生じる御霊による命が示されています。十字架は御霊による命を生み出します。それは真の霊的キリスト教を生み出します。これは何もかもが外面的な、たんなる職業的、形式的、儀式的なキリスト教の類とは異なります。御霊による命――これは力強いキリスト教、真の霊的なキリスト教です。それはなんと実際的で、なんと効果的でしょう!ガラテヤ人への手紙に来る時、私たちはこれに到達します。この手紙が告げるところによると、十字架は御霊によって生活の中に働くものであり、真のキリスト教とは霊的なものなのです。
「エペソ人への手紙」と「コロサイ人への手紙」
これまで述べてきた短い概要を携えて、今、(いわゆる)「エペソ人への手紙」と「コロサイ人への手紙」という双子の手紙に記されている、二、三の追加的思想に向かうことにします。この二つの手紙が双子の手紙であることはきわめて明らかです。この二つの手紙を読むと、この二つの手紙はほとんど同じ主題を網羅しており、それぞれ強調点が異なるだけであることがわかります。そして、この二つの手紙を読むとき、途方もない事柄に遭遇します。
第一に、この二つの手紙では、他のすべての手紙と同じように、十字架が基礎であることに注意してください。エペソ人への手紙は、「私たちは違反と諸々の罪の中で死んでいましたが、彼と共に生き返らされ、よみがえらされました」(二・一、五、六)と述べています。十字架がそこにあります。コロサイ人への手紙では、「キリストの割礼により肉の体を脱ぎ捨てて、バプテスマにより彼と共に葬られた」(二・十一、十二)と記されています――ここにも十字架が出てきます。十字架が基礎であり、十字架が重点です。十字架はローマ人への手紙から続く基礎なのです。
次に、これを理解する時、あなたは二つの偉大な事実に出会います。「この二つの事実は、神がかつて示された事実の中で最も偉大なものである」と言えると思います。この二つの事実は実に素晴らしい事実です。ただし、私たちはこの二つの事実を、聖書で読んだ文字としてではなく、心で感得した現実として理解する必要があります。そのためには、何かが私たちに起きなければなりません。
あなたはこれまで神の御言葉を読んでいて、圧倒されて呆然としたことがあるでしょうか?おそらく、極東で務めをしていた時に起きた面白いささやかな出来事を用いて、これを説明できるでしょう。ある日のこと、私は集会で話をしていました――もちろん通訳を通してです――すると、私の横で中国語に通訳していた親愛なる兄弟が突然、どうしようもなく笑い出したのです!そこに兄弟はいたのですが――笑いを抑えられなかったのです。すると、人々がそれにつられて同じように笑い出しました!さて、この親愛なる兄弟は平静に戻ることができませんでした。戻ろうと努めてもがいたのですが、もがけばもがくほど抑えがきかなくなるようでした。少なくとも――私は何もおかしなことを言ったつもりはありませんでしたし、そのような笑いを誘うことは何も言いませんでした。私は待たなければなりませんでした。そして、「これは一体何でしょう?一体全体この笑いを引き起こすどんなことを言ったのでしょう?」と不思議でした。少しして、通訳の兄弟が少し落ち着きを取り戻したので、私たちは先に進んだのですが、またもや笑いが兄弟を捕らえ、兄弟は笑い出すのでした。このようなことが一度ならず起きたのです。
そこで後で、その兄弟が一人でいる時に彼をつかまえて言いました、「さあ、兄弟、言ってください。私が何を言ったので、あなたや人々は笑い出したのでしょう?何かあなたにとって、とてもへんなことや、とてもおかしなことを言ったのでしょうか?」。兄弟は言いました、「そんなことはありません、兄弟。決してそういうことではありません。ただ以前見たことがないものを見ただけです。ただそれだけです。そのようなものはそれまで見たことがなかったのです!」。
つまり、こういうことです。神の御言葉の中に何かを見る時、あなたは呆然とすることがありえるのです――それはあまりにも新鮮で、新しいのです!御言葉に慣れっこになってしまって、もはや御言葉を聞いても何も起きず、何も感興を覚えなくなってしまうことから、主は私たちを解放してくださいます。この親愛なる中国人の友人たちのように、私たちもそうでなければなりません。しかし、この話はついでの話です。この二つの手紙に来る時、私たちの目が真に開かれているなら、私たちはいくつかの事柄を見ます。それらの事柄は綿密に計算されており、私たちは息を飲んで、我を忘れてしまいます。それらの事柄は本当にとても素晴らしいからです。おそらく、私がそれに言及しても、あまりにも慣れっこになっているので、あなたたちは全く感動しないでしょう。あなたたちはその文字はよく知っています。しかし、どうか主が、これらの文字の実際の衝撃力と意味を私たちに幾らかでも実感させてくださいますように。そこで、エペソ人への手紙と称されているこの手紙の鍵と総計が何か、見ることにしましょう。
エペソ人への手紙:万物をキリストの内に
この手紙には素晴らしい豊かさがあります――この手紙は実に豊かな手紙であり、ほとんどすべての節で私たちは我を忘れます――このあらゆる豊かさのただ中に、小さな句があります。この句はこの手紙全体の要約であり、この手紙の目的と意義を実際に示しています。この句のようにすべてを含む句を握ることは常に大きな助けになります。その句とはこれです、「……御旨の奥義(中略)これは神がご自身で計画されたものであり、時の満ちるに及んで実現されます。それによって、神は天にあるものも地にあるものも、万物をキリストの内にまとめようとされたのです」(一・九、十)。「万物をキリストの内にまとめようとされた」。この「まとめる」という言葉は、おそらく、使徒が真に言わんとしていることや実際に述べていることを伝えきれていません。この言葉は多くのことを網羅しますが、「万物をキリストの内に結集しようとされた(あるいは、包含しようとされた、という言葉の方がいいでしょう)」と言った方がいいでしょう。
人の分裂
罪がアダムを通して入って来た時、分裂の一大過程が始まりました。第一に、人自身の内で分裂が始まりました。人はもはや単一の実体ではなくなり、分裂した人格を持つようになりました。アダムの子孫はみな、人格が分裂しています。その性質や構成のどの部分も、内戦状態にあります。アダムの子孫はみな、分裂した人であり、自分自身の内に争いを抱えています。これは私たち全員に言えるのではないでしょうか?自分の性質、成り立ち、構成の中には完全な調和を物語るものが全くないことを、私たちはいやというほど知っています。私たちの内側には戦いがあります――私たちの成り立ちの中に戦いがあり、私たちの気質の中に戦いがあり、私たちの存在全体の中に戦いがあります。私たちは粉々であり、分裂しており、バラバラです。これが人自身の内に起きたのです。
次に、最初の二人――当時二人しかいませんでした――男とその妻との間に分裂が生じました。二人の間に生じた崩壊と混乱の数々の要素を見ることができます。男は女を責め始めました。これが家庭内不和の始まりです。その前は、素晴らしい合一と調和がありました。御言葉は、二人は「一体」であった、と述べています(創二・二四)。しかし今、何かが侵入して、二人はもはやそうではなくなってしまいました。エデンの園から追放された時、二人は間違いなく、「これはすべてあなたの責任です!」と互いに責め合ったことでしょう。非難合戦等々――私たちはこの類のことに慣れています。二人の間に分裂が入り込み、人生に緊張が生じました。
次に、この二人からどのような家庭が生じたのでしょう?カインとアベルの物語があります。彼らは最初の子供であり、不和、分裂、崩壊の中に巻き込まれ、ついには殺人にまで至りました。この家庭から、分裂は人類に及び、ついにあの大分裂が起きました。この大分裂により、人類はとても多くの言葉を持つ民族に分かれました。今日あるとおりです。全人類は粉々になってしまい、完全なる不調和の状態にあります。この流れを追って行くなら、旧約聖書を読み終える前に、全人類がユダヤ人と異邦人という互いに相容れない二つの部分に分かれたことがわかります。ユダヤ人と異邦人は互いに苦々しい敵意を抱いていました。ユダヤ人は異邦人を「犬」――汚れた者――と呼んで、異邦人と関わろうとしませんでした。異邦の民はユダヤ人に反感を抱きました。異邦人がこれまで何を行ってきたのか、また今日何を行いつつあるのか、私たちは知っています。今日の人類の状況は、粉々で、散り散りの、不和と憎しみ、喧嘩や争いや戦いや戦争の状況にあります。中心から周辺に至るまで、人類はみな散り散りで、互いに争っています。人類には何の調和、合一、まとまりもありません。
神の秘密
しかし、神には一つの秘密がありました。神はこれをすべてご存じであり、何が起きるのかご存じでした。神はどんな出来事があるのかご存じでした。そして、その問題に応じるために、ご自身の方法を考案されたのです。この恐ろしい問題を解決する方法に関して、神は御心の中に一つの秘密をお持ちでした。この秘密のことを、パウロはこの手紙や他の手紙の中で「奥義」と呼んでいます。神はどのようにこれを行われるのでしょう?神は「万物をキリストの内にまとめ、結集」されます。神は御子を新創造を統合するための中心・領域とされます。新創造の中には、こうした分裂や争いはもはや全くありません。「万物をキリストの内に結集する」こと――これがエペソ人への手紙の要約です。私は言いますが、たとえ今まで何度これを聞いてきたとしても、これは私たちに衝撃を与えるにちがいありません。
それから、これに関連して三つのことが見えてきます。
第一に、キリストの十字架です。ここでパウロが「敵意は屠られた」(二・十六)と述べていることに注意してください。十字架に関する多くの観念や教えがありますが、この御言葉は素晴らしいことを述べています。すなわち、十字架により、この敵意は制されて、滅ぼされたのです。私たちのだれかの内に十字架の真の働きがなされる時、この類の国民的、国際的、個人的、社会的分裂はなくなり、クリスチャン間の分裂すらなくなります。十字架はそうしたものをすべて対処するための道具であり――実際に対処するでしょう。十字架が真に私たちの存在の内奥にまで達するなら、私たち自身の状況や、私たちと他の人々との間の状況は一変するでしょう。十字架は何らかの働きを行います。そのため、私たちはもはや決して天然的立場に基づいて互いに交わらなくなります。天的立場、霊的立場、キリストの立場に基づいて互いに交わるようになるのです。
第二に、キリストが交わりの焦点、領域となります。私たちは「キリストの中で」交わります。「万物をキリストの内にまとめるため」――これは偉大な御言葉です。「キリストの中に(in Christ)」というこのささやかな句がどれほど多く登場するのか注意してください。すべては「キリストの中に」あります。キリストは、この素晴らしい新しい統合体の中心であり、領域です。使徒は言います、「一つ御霊の中で、私たちはみな、一つからだの中へとバプテスマされました」(一コリ十二・十三)。
第三に、この手紙から明らかにわかるように、教会はこれをすべて入れるための器です。神の秘密は、御子が焦点となることだけでなく、教会がこの合一を展覧するための器となることです。現状がそうでないのは、何という悲劇でしょう!しかしそれでも、すでに述べたように、教会の真の表現がある所には、こうした分裂させるものは外側にあり、神の愛によるこの力強い統合が内側にあるのを、見いだします。
もちろん、私たちはこのような句や用語に慣れ親しんでいます。しかし、次のことを理解するのはきわめて素晴らしいことです。すなわち、時が満ちる時(まだ「時が満ちる」には至っていませんが、その時はとても近いと思います)、神は万物をキリストの内に結集させようとされるでしょう――地理的に物質的に結集するのではなく、霊の一つの輝かしい実体の中へと結集されるでしょう。神はそうしようと決意しておられます。この御旨が実現する日は素晴らしい日でしょう。
「敵意を十字架によって屠り」(二・十六)。親愛なる兄弟、親愛なる姉妹、これに注意を払ってください。もしあなたとキリストにある別の兄弟姉妹との間に敵意があるなら、それは十字架を否定することです。それはキリストを否定することであり、教会を否定することです。これはとても厳粛なことです。あなたは他の兄弟や他の姉妹に対して敵意をお持ちでしょうか?「十字架により敵意は滅ぼされた!」とこの御言葉は述べています!十字架が取り除いたはずのもの――そうです、十字架は確かに取り除いたのです――が依然としてあるなら、十字架はどこにあるというのでしょう?キリストはどこにおられるというのでしょう?御霊はどこにおられるというのでしょう?教会はどこにあるというのでしょう?ここにはその余地はありません。
三章でパウロは次のような偉大な祈りを祈ります(十四~十九節)、「私は父に向かって膝をかがめます……」。ですから、私たちは家族なのです!これが核心です。真の父親、真の家族の主な特徴は何でしょう?それはここでパウロが述べているもの――すなわち愛です。彼の言葉を聞いてください、「キリストが信仰を通してあなたたちの心の中に住んでくださいますように。それはあなたたちが愛の中に根ざし土台づけられ、強められて、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解し、人知を超えたキリストの愛を理解するためです……」。こんなに大きな寸法の愛があるのです。この愛は、粉々になったものをすべてキリストの内に結集するというこの目的を達成できます。このような広さ、長さ、高さ、深さを持つ、強い、強い愛だけが、これを行えます。この愛は偉大であり、十分にこれを行えます。しかし、あなたや私はすべての聖徒と共に、強められて、この愛を理解しなければなりません。この愛を理解するなら、神は目的を遂げられます。
コロサイ人への手紙:回復された「豊かさ」
この「双子の手紙」の二番目であるコロサイ人への手紙については、簡単に見ることしかできません。この手紙で述べられている重大な御言葉、声明は何でしょう?それはこれです、「御子の中にあらゆる豊かさを宿らせることを、御父は大いなる喜びとされました」(一・十九)。「そして、あなたたちはキリストにあって満たされているのです」(二・十)。何が起きたのでしょう?
第一に、創造を開始するにあたって、偉大な陶器師は言わば美しい器を創造し、成形し、形成し、形造られました。そして、その器を離れて立って見て、「とても良い」と言われました。そして、その器をご自身の豊かさで満たされました――この創造された世界という器の中に彼はなんという豊かさを満たされたことでしょう!この創造された器は、今なお、なんと豊かで、美しく、神の栄光を現しているのでしょう!しかし当初、この器は汚れなき美しさと栄光で満ちていたのです。次に、大いなる敵がやって来て、この器に一撃を加え、粉々にしてしまいました。その神聖な霊的豊かさはすべて漏れ出てしまいました――なくなってしまいました。そしてその代わりに、かつての状態と比較すると、荒廃と空虚としか言えない状態になってしまったことがわかります。
今、この偉大な陶器師が戻って来て、「その器を別の器に造り直」そうとされます。そうすることを彼は喜ばれたからです(エレ十八・四)。この器とは――教会です。「しみや、しわや、その類のものが何もない栄光の教会」(エペ五・二七)、これが主の器であり、美しい器です。主がご自身の御旨と、教会を通して実現しようとしているあらゆる事柄とを思いつつ、ご自身の御思いとご自身の理想にしたがって教会をご覧になる時、主は「栄光の教会!これはとても良い」と仰せになります。そして、このコロサイ人への手紙の中に、私たちは再びあらゆる豊かさで満たされた、この造り直された器を見ます!この器は修復され、破片はすべて一緒にされました。この器にひび割れや継ぎ目は見つかりません。ここで主が持っておられる教会は、かつてのように一つの美しいまとまりです。そして、主は再びそれをご自身のあらゆる豊かさで満たされます。「あなたたちが満たされて、神のあらゆる豊かさに至りますように」(エペ三・十九)が使徒の祈りです。「御子の中にあらゆる豊かさが宿っており(中略)あなたたちはキリストにあって満たされているのです」(コロ二・九、十)。これがあるべき姿です。
強調すべき一つの点は次のことです。これは神が完成しようとしておられる一つの過程であり、神がそれに向かって働いておられる一つの目的ですが、他方、私たちは次のことを覚えておかなければなりません。すなわち、この大いなる輝かしい御旨――万物をキリストの内に「結集」して、この「結集された」器を彼のあらゆる豊かさで満たすこと――が達成されるには、十字架の継続的働きが必要なのです。これがこれまでのページで見てきたすべてのものが突き付ける課題であり、神の偉大な御旨に関して十字架があらゆる点で突き付ける課題です。この再統合は、主がもしご自身の道を行くことを許されさえすれば、十字架という手段によって有効になります。この統合、合一に反するものが何かある場合、その原因を辿って行くと、十字架の働きに反対していたものや反対しているものに常に行き着きます。これは私たち自身の生活、私たちの会衆、私たちの交わり、私たちの群れにもあてはまります。依然として崩壊、分裂、不調和を指し示すものが何かあるとき、物事が破壊されていて、一つの実体ではなく、一つのまとまりではないとき、その原因を辿って行くと、何らかの方面で十字架にその働きを許さなかった失敗に行き着きます。これが総括的な唯一の説明です。十字架が実際にその働きをなす時、自然に統合されるのです。
合一に至る道は、外側から継ぎ当てをすることではありません――合一に至る道は、生活の中に十字架が働くことです。十字架が自分の存在中に働くことを教会が真に許す時、分裂の問題は解決されます。もし霊的に貧しく、欠乏しており、霊的能力を制限されていて、この豊かさを知らないなら、それは同じ理由によります。十字架が働くなら、ごく自然に度量が増し加わることがわかります。キリストに反するものを道からどける時、常にそうなのです。
結論
そこで、最初の問いで終わることにします。「誰に主の御腕は現されるのか?」。神が自分と共にいてくださって、御力と助けと保護と解放と支援をもって自分に味方してくださることに、少しでも関心を寄せているなら、あるいはそれを少しでも願っているなら、これがその道です。イザヤ五三章のこの問いに対する答えは、この同じ章の中に見つかります。主の御腕は、十字架に行って十字架を忍ばれたこの御方に対して、十字架ですべてを手放された御方に対して、十字架で恥と不名誉の中に下って行かれた御方に対して、十字架で自分のものをすべて失われた御方に対して現されます。この御方に対して主の御腕は現されるのです。そして、主の御腕はこの御方と共にこの道を行くすべての者に対して現されます。歴史はその最大の証拠です。歴史を通して、神の御腕は御子のために現されてきましたし、これからもずっとそうでしょう。また、神の御腕は御子と共にいる十字架につけられた男女――十字架につけられた諸教会(複数形)――十字架につけられた教会(単数)のためにも現されてきましたし、これからもずっとそうでしょう。
私たちがとても好んでいる一つの節があります、「主の目は全地をあまねく行き巡り、ご自身に対して心が完全な者のために、力強くご自身を示される」(二歴十六・九)。十字架は道具であって、私たちの心が主に対して完全であるかどうか、私たちに何らかの個人的関心や、この世的関心や、二心がないかどうかを試します。「完全(perfect)」という言葉は「尽くしていること(complete)」「全き(whole)」を意味します。主は、ご自身に対して心を尽くしている者のために、力強くご自身を示されます。十字架上の主イエス以上に、神のために尽くす全き心の人の姿が一体どこに見つかるでしょう?