第二章 勝利者の地位

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:黙示録二章

教会の命に対する攻撃

私たちは「勝利者」に関心があります。私たちの前の黙想では、勝利者の三つの面の一つを主に取り上げました。すなわち、勝利するための基礎である状態、イエス・キリストを信じる信仰による義の状態です。この状態は、黙示録十二章の大きな赤い龍であるサタンの王国と権力をことごとく打ち倒すために大いに重要であり、大きな意義があります。そうである以上、サタンの狙いは常に堕落させることです。血によって、あるいは血のゆえに、サタンに打ち勝つことについて、私たちは述べてきました。この血は主イエスの不朽の命を意味します。この不朽の命は信仰により私たちのものとなります。ですから敵は、この不朽の命――血はこれについて告げます――との私たちの信仰による関係を損なおうとします。そしてそうするために、堕落した状態を生じさせて、それによって私たちを打ち、神の御前で私たちを訴えるための根拠、正当な法理的根拠を得ようとします。

さて、私たちは一つのことを理解しなければなりません。それを理解するのはとても難しく、説明するのはさらに困難なのですが、何らかの方法でサタンは神の民に関して神に近づけることを、神の御言葉は完全に明らかにしています。これが黙示録十二章の「彼らを私たちの神の御前で昼も夜も訴える者」というこの御言葉の意味です――これが勝利者と密接な関係にあることに注意してください。ご存じのように、旧約聖書はこれについて触れています。例えば、ヨブの場合や大祭司ヨシュアの場合です。この箇所では、サタンがヨシュアの右に、彼の敵、彼を訴える者として立っているのを、私たちは見ます。他にも同じような描写があります。それは、黙示録のまさにこの最後の箇所です。そこで状況は最高潮に達します。サタンは兄弟たちを訴える者――昼も夜も彼らを訴える者――と呼ばれています。何らかの方法で彼は神に近づきます。

私たちの前の黙想で見たように、これは二つのことを要求します。まず第一に、イエス・キリストを信じる信仰による神の義に関する、あの信仰の立場です。第二に、私たちの振る舞いがこの立場と矛盾しないように注意することです。さもないと、私たちの立場の価値や有効性を打つ力をサタンが得ることになります。私が述べているのは、「サタンはこの立場自体を損なえる」すなわち「信仰によって義とされて受け入れられるという私たちの立場をサタンは損なえる」ということではなく、「サタンはその有効性を損なえる」ということです。言い換えると、サタンはそれに対する証しを損なえるのです。この証しは途方もなく重要なものであることを、あなたは常に覚えていなければなりません。これは、もちろん、私たちの三番目の面です。この面については、この黙想では触れません。このように私たちはまず状態を持ち、次に地位を持ち、それから証しを持ちます。サタンはこの証しを狙っています。この証しは地位から発し、地位は状態から発します。さて、サタンはまずこの状態を狙います。ですから、彼の狙いは堕落させることです。こういうわけで、黙示録の最初の数章の各教会について、「勝利を得る者に」という言葉が、堕落させるためのサタンのこの特別な働きに関連して述べられていることがわかります。もしこれを疑うなら、自分で見て確かめてください。

「しかし、こういうことはある。あなたはニコライの者たちのわざを憎んでおり、わたしも憎んでいる」(黙二・六)。ここに、神が憎んでおられるものを潜り込ませようとするサタンの願望が示されています。サタンの狙いは、神が憎んでおられるものを導入することによって堕落させることです。注意してください。もし教会の中に神が憎んでおられるものが何かあるなら、サタンの権力が確立され、神の御手は麻痺します。これをサタンは狙っています。

「しかしわたしには、あなたに対して責めるべきことがいくつかある。それは、あなたのうちにバラムの教えを保持している者が何人かいるからである。バラムはバラクに教えて、イスラエルの子らの前につまずきの石を置き、偶像にいけにえとした物を食べさせ、淫行を犯させた」(黙二・十四)。これは堕落させるためです。この物語をあなたは覚えているでしょう。バラムは、直接呪うことでは罪定めの状態を生じさせられなかったので、裏口に回り込んで、堕落させることを教えました。表口から入って成功を収められないと、サタンは裏側に回り込みます。その狙いは堕落させることであり、それにより、神が傍らに立ってご覧になれないようにします。それはイスラエルが神の皇子としての地位を奪われて、統治する君主国ではなくなるようにするためです。

「またあなたの中には、ニコライの者たちの教えを、同じように保持している者たちがいる」(黙二・十五)。六節で言及したものが、ここにも見つかります。この有害な教理・原則が今やペルガモにある教会の中にあります。サタンは神が憎んでおられるものをそこに潜り込ませて、そうして堕落させました。

「しかしわたしには、あなたに対して責めるべきことがある。あなたはイゼベルという女をなすがままにしている。彼女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え惑わして、淫行を犯させ、また偶像にいけにえとした物を食べさせている」(黙二・二〇)。私たちはこれらの名前を、もちろん、文字どおりの人々としてではなく、象徴的な名前として受け取らなければなりません。そこには、原則として、昔のイゼベルの性質や働きに則ったものがあります。神の民と、性質的に神に逆らっているものとの間に、つながりがあります。それがここにあります。サタンは堕落したものを潜り込ませました。「しかしサルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる……」(黙三・四)。ここに何があるのかわかります。またもや、汚れと堕落です。敵は教会の地位を狙ってこれを潜り込ませようとします。それは教会の証しが損なわれるようにするためです。これを指摘する最善の方法は、勝利者の次の面、すなわち、勝利者の地位に進むことだと思います。

教会の地位

すでに述べましたが、信仰による義の状態と、その状態に適う行いの義しさは、教会の地位という結果になります。信仰によるこの状態の結果である、教会のこの地位とは何でしょう?諸教会を取り扱うにあたってエペソが最初にくるのは、無意味なことではありません。エペソは包括的・基礎的である、という感覚があります。アジアのこれらの諸教会はパウロを通して生まれました。使徒の働き十九章を見てください。最初に十節は「アジアに住んでいる者はみな、主の御言葉を聞いた」と述べています。これはエペソから発しました。使徒の働き十九章では、パウロはエペソにいます。二六節でデメテリオは「このパウロは、エペソばかりか全アジアで、多くの人々を転向させた」と述べています。全アジアで!ここにアジアの七つの教会があります。さて、エペソは全体に対する鍵であり、核心です。

(a)キリストにあって天上にある

それでは、教会の中心的な至高の地位とは何でしょう?それは(いわゆる)エペソ人への手紙に記されています。この手紙はエペソの教会を含む諸教会への回覧状でした。この手紙では、教会の地位はキリストにあって天上にあることがわかります。これがエペソ人への手紙中に響いている基調です。まず第一に、キリストにあって天上のすべての霊的祝福をもって祝福されています。次に、彼と共に天上で座についています。それから天上における務めです――「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに対して……」。それから最後まで進むと、天上における戦いです。私たちの戦いは天上における戦いです。信仰による義の状態のおかげで、教会には天における霊的地位があることが示されています。地上の地理的・文字的観念に固執しすぎる危険性に気をつけましょう。また、美化・昇華された無価値なものに夢中になる危険性に注意しましょう。この問題は全く、第一に、霊的地位の問題であり、霊的優位性の問題です。そしてこれは、日々の生活のほぼ毎瞬に関する問題です。つまり、天上にあるというこの問題は、往々にして皿洗いのような事柄にまで影響を及ぼすのです。皿を洗っている時でも、天上にあることが可能です。あるいは、その正反対も可能です。これは、あなたがその中でそれをなす霊次第です。不平を鳴らしてぼやき始めるなら、これは天の王国の相続者である神の子供にとって、あまりにもつまらない仕事になります。「まさか自分がこんなことをする羽目になるとは!」と思うなら、あなたは天上にはいません。しかし、「これは確かにとてもつまらない仕事です。しかし、すべてのことを神をあがめるためにしようではありませんか!」という態度を取るなら、あなたは天上にあります。これは霊的問題、道徳的問題、霊的感覚の道徳的力の問題です。これが天上の意味です。それは、私たちがどこにいても、私たちの生活の一瞬一瞬に触れます。「この死すべき体から抜け出し、雲に乗って、どこか遠くに飛び去りたい」と考えてはいけません!そのようなことは天上にあることではありません。

(b)キリストにあって悪魔の力よりも優位にある

さて、地位についてです。これは、この龍、この蛇、「悪魔またサタンと呼ばれている者」、兄弟たちを訴える者、全地を欺く者の力に対する優位性の問題です。霊的「超越性」の問題です。これが教会の地位です。もし罪定めの霊の下にあるなら、あなたは決してそこにいられません。もし訴えの霊の下にあるなら、もし自分自身の惨めさで占有されているなら、あなたは到底天上にはいません。信仰から発したこの義は、敵に対する有利な霊的地位を意味します。これが「天上にあることの」何たるかです。

さて、すべてを後にして、これに戻ろうではありませんか。前の黙想で見たように、勝利者とは、神の完全な御旨が失われた時代に、神の完全な御旨のために立つ個人や団体です。創造の前から神がご自身の民に対して持っておられた御旨は、彼らが天的な民となることであり、この御旨はずっと同じままでした。

神の目に見える被造物はみな、何らかの天的思想の表現です。これを覚えておいてください。どの被造物もそれ自身は大したものではありません。

被造物は自分自身でひとかどのものになるようには決してできていません。物質的な目に見える類のものから神が造られたものはみな、象徴であり、霊的・天的思想の表われです。ああ、もしこれについて述べ始めるなら、かなり長い時間話せたでしょう。しかし、私は短くこれに触れるだけにして、私の述べたいことを示すことにします。

聖書の冒頭の創世記と、エペソ人への手紙の中に示されている神の御心の高度な啓示とをつなぐ二つの御言葉が見つかります。エペソ人への手紙は、神の永遠の御旨、神の計画に関して私たちが持っている最も完全な啓示です。この手紙の中に、聖書中の他のどの箇所よりも完全に、世を造る前に神の御心の中にあったものが示されています。次に、創世記第二章の中に、エペソ書五章で引用されている節が見つかります。

「それゆえに、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となるのである。この奥義は偉大である。しかし、私はキリストと教会のことを言っているのである」(エペ五・三一~三二)。神の御旨を見るには、エペソ書五章から創世記二章まで、そしてさらにその前まで遡らなければなりません。人と妻のこの一体性は象徴にすぎず、永遠の過去からの神の御旨――キリストと教会――の表われである、と述べられています。これは代々の時代や世代にわたって隠されていた奥義である、とパウロは述べています。これが神の御心の奥深くにありましたが、今や知らされています。このように、夫と妻の関係のような人間関係は、神の御思いによると、何かの表われ、天的な何かの表われです。私が言わんとしていることの一例として、私はこれを選んだにすぎません。神の目に見える被造物のどこにおいても、この同じ原則が成り立っていることがわかります。それは霊的思想、霊的観念の表われです。

さてそれから、神が人を創造されたのは、地に人を住まわせ、生息させ、地を人で満たすためだけではありません。霊的観念、天的思想を持つ、天的な存在にするため、その存在のまさに中心が天的な人々にするためでもありました。天的性質が神の全被造物を、特に人を支配している大原則であり、これは途方もない変化を私たちに生じさせます。パウロは、「どうか彼が、彼を知る知識を得させ、知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。彼の召しの望みがどんなものであるかを、また、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光がどんなに豊富であるのかを、私たちが知りますように」と祈りましたが、これがパウロが言わんとしたことです。私たちも自分自身のために、また互いのために、祈らなければなりません。聖徒たちの中にある彼の嗣業――これは天的なものなのです!

天的性質の目的――教会における神の栄光の現れ

コリント人への第一の手紙の十五章で使徒は以下のような言葉を用いています。

「土に属する人に、土に属している者たちは同じであり、天に属する人に、天に属している者たちもまた同じです」(一コリ十五・四八)。「天に属する」――これは確立済みのものです。天的なものとして確立されているものです。次に、この節の後半は「天に属している者たちもまた同じです」と述べています。これは天的なものへの同形化について物語っています。再び問いますが、この嗣業、この天的性質とは何でしょう?ご自身の宇宙を創造された神の目的、特に人を創造された神の目的は何でしょう?それは、ご自身の性質中にあるご自身の栄光を輝き渡らせることにほかなりません。神の性質の本質的栄光の輝き、神の性質の栄光は、罪深い人がその前になすすべもなくひれ伏し、打ちひしがれ、無力にならざるをえないものです。それはあるがままの神であり、神の本質的性質の現れです。神はご自身の栄光のために人を造られました。最終的に、神が試練を通して人を肉体的存在としてだけでなく道徳的存在としても完成される時、人は神の道徳的栄光を現わす媒体となります。そして神は全宇宙でご自身の本質である道徳的性質を現わされます。人はそのように造られました。これは栄光、言い尽くせない栄光であり、今や御子による贖いの線に沿って私たちに提供されています。神は「私たちの心を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る知識の光を与えてくださいました」。ああ、肉体的観念を再び取り除いてください!この顔とはたんに表示を意味します。それはこの人、この代表者です。神の栄光は代表者であるイエス・キリストにあって来ました。さらにキリストは私たちの心の中におられ、私たちの内におられるキリストは栄光の望みです。どんな栄光でしょう?今、太陽が天の中心であるように、最終的に、神が獲得して御子のかたちに同形化した人々がこの宇宙の中心となり、神の道徳的栄光の輝きのまさに中心・充満となることです。このような宇宙について考えてみてください!そして、いま私たちが生きているこの世界と比べてみてください。結末はこうなります。「この御方に栄光が、教会により、またキリスト・イエスにより、代々かぎりなくありますように」。これが神の天的御旨であり、神の天的民であり、キリスト・イエスによる神の天的召しです。

力・原則・性質としてのこの天的性質は、なんと素晴らしいものなのでしょう!そして、きわめて偉大な尊い諸々の約束が私たちに与えられています。それらの約束により、私たちは神の性質にあずかる者となれます。もちろん、サタンはこれまで流布してきた誤謬のかぎりを尽くして、ここに割り込んできました。それはまさにこれを覆すためです。サタンの誤謬は常に、人における神の性質の現れ・顕現というまさにこの問題と関係していました。一方において、主イエスご自身のパースンがサタンの誤謬の対象とされてきました。そして、その神聖な子たる身分が実際とは別のもの、実際よりも劣るものとされてきました。他方において、それと対をなす誤謬は、人はもともと神聖であるという誤謬です。進化論の狙いは人を神とすることです。神は人の中にいる、とすることです。ああ、今日の哀れな哲学!しかし、この問題にこれ以上立ち入らないことにしましょう。サタンが導入した誤謬はみな、まさにこの問題に触れるものであることがわかります。人による神の性質の現れについて述べる時、私はこれらの誤謬を避けています。人の内におられるイエス・キリストにあって、神の性質が現わされるでしょう。私たちが神の御子のかたちに同形化される時、神の性質が現わされるでしょう。それは道徳的栄光であり、神格の栄光ではありません。私たちは決して神になることはありませんし、神格化されることもありません。そうです、神は独自の存在であり続けますし、神格は永遠に被造物とは無限にかけ離れているでしょう。しかし、キリストの中にある神の道徳的栄光・道徳的性質は、教会によって代々かぎりなく輝き渡るでしょう。

さて、これが天的性質であり、私たちが道徳的・霊的についている地位です。これは、信仰による神の義を正しく適切に理解することによります。それは地位であり、途方もない地位です。神の御旨が成就された暁に、その結末がどうなるのか、サタンは知っています。その結末は、サタンのすべての腐敗から、したがってそのすべての力から絶対的に清められた宇宙であり、神の栄光で輝き渡る宇宙です。

サタンの狙い――教会の地位の無効化と、腐敗による戦い

それでは、そもそもサタンの狙いは何でしょう?堕落させること、そしてそれにより教会をその霊的地位から引きずり下ろすことです。ですから、「あなたがどこから落ちたのかを考えなさい」といった御言葉があります。これはエペソの教会に対して述べられています。「あなたは初めの愛から離れた」。使徒行伝十九章に戻って、この初めの愛に注目してください。パウロがエペソにやって来ます。そこで彼がキリストを示すことにより、何が起きるでしょう?なんと、彼らの多くが魔術に関する貴重な、そしておそらくは値段が付けられないほど高価な本を持ってきて、燃やしてしまったのです。その総額を見積もると、とんでもない額になりました。それがすべて燃えてしまったのです!エペソにはデメテリオのように商売の収益をとても気にしている人がいましたし、資本主義がとても重要な要素でした。また、金に大きな意味がありました。このエペソのような都で、巨万の富がこのようにささげられたのです。なぜでしょう?彼らは心を尽くして主に立ち返ったからです。イエスの証しは受け入れられて、確立されました。なんということでしょう!エペソの長老たちに対するパウロの話を覚えておられるでしょう。霊の事柄のなんと素晴らしい開示、なんという関係でしょう!彼が聖霊の助けによりこの手紙――それはエペソを基点としてアジアの諸教会を行き巡ることになる手紙でした――、天的啓示の手紙を書いたのも頷けます。なんという啓示、なんという地位でしょう!しかし今、黙示録二章ではエペソに対して「あなたは初めの愛から離れた」と述べられています!あなたはかつてのようにはキリストを大事にしておらず、嗣業を大事にしておらず、天的事柄を大事にしていません。「あなたがどこから落ちたのかを考えなさい」。落ちた!ここに霊的堕落があります。エペソの地位から引きずり下ろすサタンの働きがあります。それゆえ、勝利者は神の完全な現われのために立つ一人の人または一団の人々です。そして、神の完全な現われは天的な民です。彼らによりこの宇宙の中で神の道徳的栄光がますます現わされていき、究極的に完全に現わされることになります。これはあの都、天から出て神から下って来る新しいエルサレムです。この都は神の栄光を帯びており、その光は最も高価な灯火のようです。これが、それに向かって神が働いておられる目的です。

さて、愛する人よ、この世界とこの宇宙の支配権は天上に集中していることを思い出してください。これを忘れないようにしましょう。今の時代、この暗闇の世の支配者たちは天上にいます。天上でまさに今、主権者たちと権力者たち、この暗闇の世の支配者たちが働いています。彼らは自分たちの働きを徹底的に行っています。ああ、そうです、このような時代はかつてありませんでした。諸国民の間におけるサタンの邪悪な働き、諸国民の道徳的堕落が明らかになりつつあります。顕わになりつつあります。キリストの外にあるこの世に関するかぎり、支配権は天上にあります。そのすべての上にある神の主権のための余地を私は残していますが、いま述べているのは人による法理的・合法的統治のことです。サタンがキリストの外で支配権を持っているのは、人が同意したからであり、人は依然として同意しています。世の中で行われている不正行為を残念に思っているこの国の人々、いま行われていることの邪悪さを声のかぎり激烈に非難しているこの国の人々ですら、もしあなたが御座についておられるキリストという線に沿って彼らに語りかけるなら、あなたに耳を傾けようとはしません。「神に地位を与えろだって!――そんなのは偽善的な物言いだ!」。彼らは別の方法でそれに取り組みます。サタンはこれほどまでに支配しているので、不法を非難する人々ですら、神とその義に地位を与えません。しかし、これは余談です。

さて、この支配権、道徳的支配権は天上に与えられています。すなわち、その座は天上にあります。そこに見られる邪悪な階級組織はその支配を譲らなければなりません。そして、教会の定めは主権者たち・権力者たち・この暗闇の世の支配者たちの地位を奪って、天上を占領することです。ですから黙示録十二章では、すでに見たように、「勝利者たち」「男の子」が神の御座に引き上げられます。そして、天上にはもはや赤い龍とその軍勢のための場所はなくなります。

このように今、天上で、教会と主権者たちとの間で霊的戦いがなされています――そうです、この戦いはあなたの台所にまで及びます!あなたが漠然とした曖昧な観念を持つことがないように、私はこう言わなければなりません。不愉快な日々の仕事のただ中で、天上の戦いが進行中です。天上の戦いに参戦するために、ある地点に到達しなければならない、ということはありません。それは霊的・道徳的戦いです。教会は日々の生活の中でこの戦いを戦っているのです。

ですから、これがとても大きな争点であることをサタンは知っています。サタンは人の住む地に対する支配者としての地位についており、諸国民を欺き、束縛し、神に逆らわせ、神の御旨に敵対させていますが、これが危機に瀕しているのです。教会はこの戦いを、今、霊的に戦っています。私たち自身の霊の中で、私たちはこの戦いを徹底的に戦い抜くことになります。これは、私たちが霊の中で勝利するか、それともサタンが勝利するかの問題です。争点は、統治・主権・支配権の地位です。

それではサタンの狙いは何でしょう?第一に、引きずり下ろすために堕落させることです。次に、信者たちを天的地位から退かせ、教会を退かせることです……。私たちの地位は、立ち上がって獲得すべき地位ではありません。エペソ人への手紙はこれをそのようには全く述べていません。「私たちを座につかせてくださいました」とあるように、すでに成就された事実として示しています。愛する人よ、これを理解してください。もしあなたが真に、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義を自分のものとして両手に持っており、理解しているのなら、あなたは天上にいるのであり、道徳的にサタンの上にいるのです。あなたの仕事は自分の地位を保つことです。サタンが躍起になっているのは、私たちを下に保つことではなく、私たちを投げ落とすことです。私たちはこの地位にあります。これは、私たちが信仰によって保つべき地位です。ですから、押しのけること、退かせることが彼の狙いです。しかし、ああ、腐敗させる彼の方法や、訴えや罪定めを科す彼の方法は無数にあり、常に私たちの予測力を上回っていますが、私たちを引きずり下ろす彼の方法、神の民を天的地位から霊的・道徳的に引きずり下ろす彼の方法も同様です。

バラムの預言

彼の陰謀、策略、狡猾さはいかなるものでしょう?私はバラムに言及しました。バラムに戻ることにしましょう。イスラエルを呪うためにバラムがバラクに雇われた時、バラムはやって来て山に登り、平原を見渡す頂に達しました。その平原中にイスラエルが広がっていました。バラムはイスラエルを麻痺させるためにイスラエルを呪うことを欲しました。神の御手がバラムの上に臨み、その御手の下でバラムは口を開いて話し始めました。彼が述べた二つの点に特に注意することにします。「主はヤコブの中に不法をご覧にならなかった」。ですから、ここではいかなる呪いも機能できません。「主はヤコブの中に不法をご覧にならなかった」。なぜでしょう?ヤコブの中に不法がなかったからでしょうか?断じて違います!ヤコブの中には多くの不義がありました。なぜ主はそれをご覧にならなかったのでしょうか?彼らの生活の中心に、幕屋、祭壇、いけにえ、尊い血、大祭司、至聖所とあわれみの座があったからです。彼らはその周りに集まっていました。「主は不法をご覧にならなかった」。ここに絵図が見られます。それを新約聖書の言葉で言い換えると、それはキリスト・イエスを信じる信仰によって私たちが持つ神の義です。それは私たちが生来持っているものではなく、キリストにあって受け取るものです。私たちがこの立場にとどまる時、呪いは無効化されます。

さて、次にバラムはこう述べました。「これは一人離れて住み、諸国民に間に数えられない民である」。諸国民の間に数えられない。ああ、これは栄光です!これはイスラエルを諸国民から分離するだけでなく、諸国民の上に置きます。さて、代々の時代にわたってサタンが神の民に対してしようとしてきたことが一つあるとするなら、それは彼らを諸国民の間に数えられるようにすることです。私は厳粛に、注意深く述べています。今日のキリスト教界のまさに中心に、認知されたいという欲求があります。認知!組織化された教会が行うことはみな、認知されるためです。これらのすべての諸教会はどうでしょう?つまり、この場合、これらすべての手の込んだ人目を引く建物はどうでしょう?それらは認知されるためです。それらは大したものと認められるためです。その行為、宣伝、その他の多くのものはみな、何を目的としているのでしょう?認知されること、この地上で認めてもらうこと、数に入れてもらうことです。そうです、これはサタンの勝利です。そこでは霊的力は失われます。そこでは、教会は天に属すると見なされるものではなくなります。教会は、霊の中で、地に下って来て、諸国民の間に数えられるものとなりました。この世に占有され、この世から称賛を受け、この世から評価される地位に、サタンが神の民をつけられさえするなら、サタンは勝利して、教会をその天的地位から引きずり下ろし、地的なものにしたことになります。これは旧約聖書を貫いている原則です。これが黙示録でも問題であることがわかります。神はそれを許されません。サタンはこの線で成功を収めます。彼は教会を天から引きずり下ろしました。どこかでサタンは教会を地に触れさせ、何らかの形で地とのつながりを築いたのです。

この背後には、神の栄光を貶めようという狙いがあります。それは、神がご自身を委ねられないもの、それから神は離れて立たざるをえないものの中に、教会を巻き込むことによってです。そのため、これらの諸教会に対して、主はこう言わざるをえません。「あなたが悔い改めないなら、わたしはあなたの燭台をその場所から取り除きます。あなたがこれを正さないかぎり、あなたを先に進ませることはできません。あなたは地に下って、原則的にわたし自身とは異なるもの、わたしの道徳的栄光とは異なるものと混ざり合ってしまいました。あなたはそれをすべて捨てて、それから抜け出さなければなりません。さもないと、わたしはあなたの証しの器をその場所から取り除かなければなりません。あなたが先に進むのを許すわけにはいきません。あなたが地上でこの世の中にあるのは、神の栄光の天的証しの器となるためなのです」。これが教会の目的です。

いま述べたことは、とても多くの形で私たちに影響を及ぼします。そうです、原則上、諸国民の間に数えられるようになるという問題、この天的地位から落ちてしまうという問題は、無数のことで私たちに影響を及ぼします。ご自身の教会が地上でこの世に取り込まれたものとなること、この世の事柄の間に数えられるものとなること、この世から認められて評価されることを、主は決して意図されませんでした。主が意図されたこと、そして状況が正常な時に起きることは、この世が教会の存在に耐えられなくなって、教会を欲しなくなることです。これがこの世に反対して証しする教会の力です。

この問題は聖書全体を貫いています。これはノアに見られます。聖書が告げるところによると、彼は「義の宣教者」でした。そして彼についてさらに、「まだ見ぬ事柄に関して神から警告を受け、敬虔な畏れに促されて、その家族の救いのために箱舟を用意しました。それにより彼は世を罪に定め、信仰による義の相続者となりました」と述べられています。この世に義が存在する目的は、彼らが世に「精通」するようになることではなく、世を罪に定めることです。ああ、今日、教会にその力があれば!世はこの人々をどうするのでしょう?黙示録に述べられている人々にしたのとまさに同じようにします。これにより彼らは勝利者になります。「彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」。これが勝利者になる代価です。これをすべての面に適用するつもりは私にはありません。「神の民の天的性質というこの原則を、どこに、どう適用すればいいのか示してください」とあなたは主に求めなければなりません。次の警告と勧めを聞いてください。「あなたがどこから落ちたのか考えなさい」「耳のある者は、御霊の言うことを聞きなさい」「勝利を得る者に……」。これらの断片を一緒につなぎ合わせると、事実上述べられているのはこういうことです。すなわち、この敵、この反対者の妨げ、誘惑、力、怒りに対して、自分の天的地位を保持・維持する者たちは、王座に到達して、この敵がいま支配している所を支配することになるのです。これがその結果であり、途方もないことです。次に、勝利者になるにはすべてを犠牲にする必要があるからには、私たちはこのことを憶えておこうではありませんか。すなわち、キリストと共に苦しむ者は彼と共に治めるようになり、彼と共に栄光を受けるようになるのです。

さて、おそらくあなたは神の天的御旨を少しばかり垣間見て、何が神の働きの目標であり、何が神の御旨であるのかを理解したことでしょう――それは天的な民です。ああ、これに関して教会にはビジョンが必要です。もし教会がこれを見たなら、教会はなんと違ったものになることでしょう!勝利者は、大多数が失ったビジョンを持つ一人の人、あるいは団体です。「神の全教会のために自分にビジョンを与えてください」と主に求めてください。なぜなら勝利者は――これを再び言わせてください――分離した人や事物ではなく全体と関係しており、神の完全な御旨とそれを失った人々との間の架け橋だからです。これが勝利者です。主が私たちの目を開かれる時、主はご自身の民の多くの人の目を開いてくださいます。それは全教会の益となるでしょう。ですから、私たちのためのパウロの祈りに応えてくださるよう、主に求めようではありませんか。「聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富!」「今、彼に栄光が、教会において、キリスト・イエスにより、代々かぎりなくありますように」。