第三章 勝利者の証し

T. オースチン-スパークス

「彼らは小羊の血のゆえに、彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった。」(黙十二・十一)

「……私ヨハネは、神の御言葉とイエスの証しについて証しした。」(黙一・二)

「小羊が第五の封印を開いた時、神の御言葉のゆえに、また自分たちが持っていた証しのゆえに、殺された人たちの魂を、私は祭壇の下に見た。」(黙六・九)

「龍は女に対して怒り、彼女の子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちと戦うために出て行った。」(黙十二・十七)

「私は彼を礼拝するために、彼の足下にひれ伏した。すると彼は私に言った。『そのようなことをしてはいけません。私はあなたの僕仲間であり、イエスの証しを持っているあなたの兄弟たちの僕仲間です。神を礼拝しなさい。なぜなら、イエスの証しは預言の霊だからです』。」(黙十九・十)

前の黙想では、勝利者に関して注意すべき三つの面について見ました。一つは状態・状況、もう一つは地位、そして三番目は証しです。この状態・状況はイエス・キリストを信じる信仰による義の状態・状況であり、この義は血によって示されます。血は主イエスの不朽の命と性質であり、信仰を通して私たちのものになります。これは、この悪しき者のあらゆる現われや働きに打ち勝つために必要不可欠な状態です。地位は状態、すなわち、天的命の結果であり、それから証しが生じます。この黙想では、この三番目の面について見ることにします。

勝利者たちの証し

すでに指摘したように、これらは三つの別の事柄ではありません。それらのどれも、他のものなしでは成り立ちません。各々が互いに通じ合っています。つまり、信仰による義の状態は、それが正しく適切に理解される時、一つの地位、霊的な天的地位という結果になり、この地位は証しに導くのです。これを逆の順番で見ると、この証しは本質的に地位のおかげであり、この地位は状態のおかげです。この意義を自分の心で十分に理解することがとても重要です。イエスの証しは真理の表明ではありません。事実の宣言や、主イエス、そのパースンと御業に関する或る真理の宣言でもありません。それを言葉で表明することは可能かもしれませんし、それはこれらの事実を含んでいるかもしれません。それを口で宣言することはできるかもしれませんが、イエスの証しはそれだけではありません。それは言葉で記された定型句や信仰告白ではありません。ここに示されているように、イエスの証しは大きな赤い龍を怒らせて、あらゆる形の活動に駆り立てます――この赤い龍は悪魔やサタンと呼ばれており、全地を欺く者、兄弟たちを訴える者です――イエスの証しは彼を怒らせて、黙示録十二章にあるような姿勢・態度を彼に取らせますが、このイエスの証しはたんなる言葉による証しではありません。それは、これらすべての事実が生ける霊的な形で現わされたものにほかなりません。それは、サタンが支配している領域に、このような途方もない影響を及ぼします。あるものがイエスの証しなのか、それとも、たんなる真理の表明にすぎないのかを決めるのは、その霊的有効性です。それが敵に及ぼす影響は常に、それが真の証しなのかどうかを判断する、かなり堅実な方法です。それは、主の民の中の一人の人あるいは一つの団体の中の内的現実である単複の事実です。それは実証済みのものです。彼らが述べ、告白し、主張していることではなく、彼らの存在そのものによって実証されているものです。彼らはそれなのです。これがイエスの証しです。

こういうわけで、黙示録のこれらの最初の数章――そこでは勝利の生ける主が、諸教会に対して、彼らの証しに関して課題を突き付けておられます――で述べられている多くの立派な点も十分ではないことがわかります。ある方面においては、教理の表明としての真理からの逸脱はありませんでした。信仰告白を決して放棄していませんでしたし、主イエスに関する諸々の事実に依然として堅く立っていました。そうです、他の多くのものはきわめて立派であり、主もそう認めておられますが、それでも、彼らが代表しているものに関して、主は満足していないことを示す「しかし」というこの言葉を語られます――「しかし、あなたに対して責むべきことがある」「しかし、あなたにはこのことがある……」。しかし!主ご自身が彼の教会の存在理由を考慮される時、きわめて正統的で健全な教理の表明といえども、主はそれでは決して満足できないことがわかります。主が求めておられるのは、霊の宇宙におけるその効力です。その領域に及ぼすその力です。これがイエスの証しです。

イエスの証しの性質

次に、このイエスの証しの性質、すなわち、その効果がどのようなものかを見なければなりません。その性質はどのようなものでしょう?イエスの証しとは何でしょう?包括的に述べると、それは、イエスがサタンを征服されたこと、イエスがこの世に打ち勝たれたこと、イエスが死の力を滅ぼされたことです。包括的には、これがイエスの証しです。彼の場合、これは事実です。彼の場合、この世の君は追い出され、死の力を持つ者は無効化され、悪魔の働きは滅ぼされました。彼の場合、彼はこの世に打ち勝たれました。

さて、イエスの証しは、彼に関する事実のたんなる宣言ではありません。そうではなく、地上のここかしこにあるこれらの燭台は器であり、生き生きとそれを現わすものなのです。聖所では決して燭台を消してはならなかったのは、そのためです。夜も朝も手入れして、その炎を明るく輝かせ続けなければなりませんでした。これは、彼に関するこれらの事実の現れを予表しています。これらの事実は教会により、この地上で、生き生きと明るく表されます。これが証しです。そして、これをすべて含む一つの言葉があります。サタンを征服すること、この世に打ち勝つこと、死を滅ぼすことがどういうことか、あなたは知りたいでしょうか?その核心に迫る一つの言葉があります。その言葉とは、です。命はキリストの存在とその御業の総計です。キリストは命です。彼がこの世に来られたのは命としてです。彼のパースンは、この普遍的状態、すなわち、死、霊的死を消し去ります。彼は命です。彼の臨在は命です。今や、主イエスに関するものはみな命です。彼の中に死はありません。彼により死は全く飲み尽くされます。彼のパースンは、あの神の命の豊満であり、死が触れられるものはその中に何もありません。彼の御業は命です。主イエスの御業はみな、一つのことと関係しており、ただ一つのこととだけ関係しています。それは命です。彼にあって、命と不朽が明らかにされました――神の御旨の素晴らしい啓示です!不朽!不朽がすべてのもの、すべての場所を支配する法則となる時、何という世界、何という宇宙になることでしょう!不朽!これについて考えてみてください。今日、人々を腐敗させること、物事を腐敗させること、手続きを腐敗させることが何と容易か、考えてみてください。その結果についても考えてみてください。しかし、その中に不朽の義が宿っている世界、被造物、新しい天と新しい地が来ようとしています。不朽の命が、神の新しい宇宙を支配する法則となります。これがキリストの御業の効果です。それは命です。サタンの存在と働きの総計が死であるのとは正反対です。サタンの存在は死です。サタンのパースンは死です。彼は死です。サタンは漠然とした存在である、と言うつもりはありません。しかしサタンはまさに死の化身・人格化であり、彼のすべての働きの効果は死です。彼が死をもたらしました。サタンが触れるものはみな死にます。彼は自分と共に、まさに死の息をもたらしました。

イエスの証しは、次に、黙示録の冒頭にまさに見られるものです。そこでは、彼が生きている御方として示されています。彼はかつて死なれましたが代々にわたって生きておられ、死とハデスの鍵を持っておられます。イエスの証しは、サタンのパースンと働き、存在と影響の総計である死が、勝利のうちに飲み尽くされ、滅ぼされたということです。

さて、これは諸事をまさに究極的完成に、その目的――イエスの証し――に至らせます!そして勝利者はこの証しのために置かれています。教会はこの立場に基づいて誕生しました。常に次のことを覚えておいてください。これがキリストにあって完全に成就されて、彼にあって、彼を通して、彼によって、これがすべてなされたという事実の印として、彼が神の右に着かれた時、彼がそこにおられて、事が完全に達成された時、教会が始まり、誕生したのです。この新創造のまさに命が、聖霊という形で、教会の中に入り、それを生きたものにしました。この命が天から臨んだ時、教会が誕生しました。この命は死を征服したものであり、教会が存在するのは「イエスの証し」のためです。教会が全体的に欠け目のあるものとなる時だけ、勝利者が現れます。勝利者が登場するのは、欠け目を補い、回復し、失われたものを表示・表現し、神の全き御旨のために立つためです。勝利者の特徴たるべき唯一の点は、個人の勝利者であれ団体的な勝利者であれ、命によって表わされるこの証しです。

このような証しのためになぜ或る地位を占めることが重要であり不可欠なのか、今わたしたちは理解します。これを表せるようになるには、あなたは或る地位になければなりません。霊的に優位なこの地位にあなたはなければなりません。この地位をパウロは「天上」という言葉で表しています。この地位を占めるためにあなたは、この血すなわち主イエスの不朽の性質の意義が示すあの状況・状態の中になければなりません。

この血は命の根拠である

さて、一切の根拠はこの血です。「彼らは小羊の血のゆえに彼に打ち勝った」。私は何事も当然視する気はありません。私は、よく知られていることを繰り返してあなたたちをうんざりさせる危険を冒すつもりです。黙示録十二・十一の「彼らは小羊の血のゆえに彼に打ち勝った」というこの節を引用する時、「このように血のゆえに打ち勝つことは、常套句を用いる問題だった」、すなわち、「彼らはこの御言葉を握って、それを何らかの客観的方法で敵の頭上に振りかざし始めたのである」などと思わないようにしようではありませんか。ひざまずいて、敵に対するこの血の効力と価値に訴えなければならない時があることを、私は承知しています。しかしこれを、医者が処方箋を書き記して、それを診断されたある問題に機械的に適用するのと同じように行うことはできません。これをそのように行うことはできません。あなたがこの血に訴える時、この血が効力を発揮するには、あなたはある立場になければなりません。それは霊的立場です。あなたは信仰によってそこになければなりません。あなたはまず、信仰によって、彼の完全な義の立場の上に徹底的に立たなければなりません。つまり、神との交わりから外れているのではないかという疑問、疑い、暗示をすべて去らせなければなりません。神との全き交わりに関してあなたに少しでも疑いを生じさせるものは何であれ、敵の前であなたを行動不能にします。あなたも私も、神の御前でこの立場を信仰を通して取れなければなりません――たえず信仰の中にいなければなりません。私たちは自分自身の心の忌まわしさと咎とをよく知っています。それにもかかわらず、神の御前でこの立場を取れなければなりません――すなわち、キリストがそこにおられるように、私たちもまたそこにいる、という立場です。キリストの義が私たちの義の尺度です。これは途方もない立場であり、神の御言葉にそう記されていなければ、死すべき人はだれもあえて想定しなかったであろう立場です。これが基礎です。そして、私たちの良心の上に働いてこれを妨げるものは何であれ、敵の前で私たちを麻痺させます。私たちはまず第一に、この血は神の御前で私たちにとっていかなるものなのか――この血は不朽の命について告げるものです――という立場に立って、それを処理しなければなりません。また、もちろん同じように、聖霊ご自身が指摘して、「これを見なさい。これはあなたが固執しているものであり、それによってあなたは自分自身の意志で自発的に行動しています。それが神の御旨ではないことを知りつつ、あなたはそれを行っているのです。あなたはそれを捨てなければなりません」と仰せられるものは何であれ捨てなければなりません。さもないと、私たちは敵の前で敗北し、敵が有利になります。信仰による状態と、光の中を歩むこととにより、私たちは敵に対して優位に立ちます。これが唯一確実で正当な証しの根拠です。それは証しという結果になります。この証しの根拠はこれなのです。

十字架を通して効力を発揮する血

ですから、敵に向かって常套句を用いようなどとは思わないようにしましょう。敵を麻痺させるのは、ある地位につくことです。確固たる地位につくことです。敵にできるのは、巡り歩いて、中に入るための何らかの道を見つけようとすることぐらいです。血は証しの根拠です。「彼らは小羊の血のゆえに(「によって」という訳よりもこの訳の方がずっと良いと思います)彼に打ち勝った」。この訳の方が私たちの理解を遥かに助けてくれます。これは何かを客観的な方法で用いることによるのではなく、主観的な方法による何かのゆえです。小羊の血のゆえです。これは十字架が実際のものになっていなければならないことを意味することがわかります。血が解き放たれて効果を発揮するのは、十字架という方法によります。つまり、命の血の証しが確立されるには、十字架が死の根拠をすべて取り除かなければならないのです。死の根拠は十字架において対処されます。この問題における十字架の特別な意義は、天然的な私たちの存在がそこですべて取り除かれたことであることがわかります。これが十字架です。その後、あなたは血の生ける証しを持ちます。それは別の性質です。十字架において取り除かれた性質ではなく、別の性質、彼ご自身の性質です。この性質は栄光のうちに進み続けます――これが証しです。いけにえがささげられた後、その血は至聖所の中に運ばれて、永続的な生ける証しとなります。その場所でこの血は、古い性質のうちにある死の根拠はすべて廃棄され、取り除かれた事実を証しします。この血は神の御前で、「ここに別の性質があります。この性質はこれに打ち勝ち、死に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、肉に打ち勝ちます。したがって、サタンのすべての力に打ち勝ちます」と告げます。これがこの血の現在の証しです。

ですから、十字架を私たちは用いなければなりません。死によるキリストとの合一を、自分たちの性質全体に受け入れる地点に、私たちは達しなければなりません。さもないと、生ける証しはありません。証しのためのいかなる試みも、たちまち敵に反撃されるでしょう。

ダビデのとても有名な物語をあなたは覚えているでしょう。彼は熱心かつ情熱的に、主へのまことの信仰心により、ある日、イスラエルの長老たちと民を共に集めて、「もしあなたたちが良いと思うのなら(中略)私たちの神の契約の箱を再び私たちのところに持ってこようではありませんか」と言いました。確かに、それはとても良いことです。私たちは同意します!それを行うのはとても良いことであり、主を喜ばせるにちがいありません。そこで彼らは手筈をすべて整えました。彼らは契約の箱のために荷車を造り、その上に契約の箱を載せて、大いなる情熱と熱心さで道を進み始めました。確かに彼らは主に仕えていました。その道すがら、雄牛がつまずきました――なぜなら、この類のことが遅かれ早かれ困難に際して必ず起きるからです――そしてウザが契約の箱を支えるために手を伸ばしました。すると、主の怒りが彼に対して燃え上がり、彼は主の御前で死にました。その日、ダビデは主に対して悲しんで、「どうして私は神の契約の箱を自分のもとに持ってこれよう?」と言いました。そして、契約の箱の行き先はオベデエドムの家になり、そこに長らくとどまりました。その後、次の章では全く新しい領域が開かれます。ダビデはレビ人たちに身を聖別するよう命じて、「レビ人たち以外の何者も契約の箱を運んではならない。なぜなら、主は神の契約の箱を運ばせるために彼らを選ばれたからです……」と言います。この章の後の方では、ダビデが「最初(レビ人たちが)契約の箱を担わなかったから、主は私たちを打たれたのです。私たちがしかるべき方法で主を求めなかったからです」と言ったことが記されています。

さて、レビ人たちは何を表しているのでしょう?ウザが表しているのとは正反対のものです。ウザは何をしているのでしょう?ウザは、主のための働きの良いささやかな計画の管理人の一人です。第一に、私たちは会議を開いて、主のためのこの良い計画をどう行うのかについて議論します!私たちは自分たちの荷車、自分たちの素晴らしい機械的計画を持ち出します。私たちは主のために働こうとします!しかし、彼らがその提案に取りかかるやいなや、死が入り込みます。主のための最善の動機、最大の熱心さでなされたことの中に死が入り込みます。その事の結末は死です。それは、真っ先に主の権益に関して血肉に諮ること、主の働きのために人の観念を具体化すること、そして人が責任を負って諸事を掌握すること、といったあらゆる天然のしるしを帯びています。これは、主の奉仕においても、死の領域です。

レビ人たちはこの正反対のものとして登場します。彼らは契約の箱を、荷車ではなく自分たちの肩に担いました。レビ人たちは、天然の立場は死の立場としてことごとく取り除かれたという事実を表す人々です。この働きによって示される証しがイエスの証しです。それは本質的には、死は勝利のうちに飲み尽くされたという証しです。もしあなたが荷車、人間的考え、ウザの手を持ち込むなら、この証しに矛盾します。それは天然であり、人であり、旧創造です。イエスの証しの傍らにそれを置くなら、矛盾が生じます。神は矛盾を支持されません。死がそれを打つでしょう。

もしイエスの証しを確立したければ、すべてがこの証しと一致しなければなりません。レビ人の聖別には三つの供え物があったことを、あなたは思い出すでしょう。罪のための供え物は、この旧創造は神の御前から断ち切られたことを告げます。次に、全焼の供え物は、油が混ざった穀物の供え物と共に、ここに別の性質、主イエスの完成された罪なき人性があること、また、神に受け入れられている彼の奉仕と犠牲があることを告げます。これがレビ人の受容・聖別・奉仕の根拠です。この原則が登場します。主イエスはどのような方なのかが奉仕の根拠であって、主の働きをなす方法に関する私たちの助言や会議ではありませんし、主の権益のための私たちの計画でもありません。それはすべてを行い、すべてを支配するキリストです。これは命です。イエスの証しは命の証しであり、すべてがそれと一致しなければなりません。これは、私たちの天然はすべて、あのいけにえ、あの供え物、あの十字架によって取り除かれ、屠られ、焼き尽くされていなければならないこと、そして、ただキリストだけになっていなければならないことを意味します。

アジアの七つの教会を取り扱うとき、主が常に光で照らされたのは、まさにこの点でした。「愛するエペソよ、あなたがわたしのために何をしているのかが問題なのではありません。わたしはあなたの忍耐、あなたの労苦を知っています。わたしは知っています。あなたは熱心であり、献身的であり、忍耐して労苦していますが、問題はあなたがわたしのために何をしているかではありません。わたし自身が、わたしの復活の命の力により、あなたたちの間で卓越しているかどうかが問題なのです。わたしがサタンを打ち破り、その死の力を滅ぼしたというこの証しの効力を、サタンの領域が感じているかどうかが問題なのです」。これが重要な問題です。これはすべて血の中にあります。それは命の根拠です。

燭台の教訓

さて、締めくくりに一言述べたいと思います。幕屋にある聖所の燭台・燈台からアジアにある諸教会の燈台への変化はありますが、原則は同じであることを覚えておいてください。原則はイエスの証しであり、両方とも同じです。さて、幕屋に戻って、この燈台すなわち七つの枝を持つ燭台があった聖所を見ると、そこには型として何が示されているのでしょう?第一に、その燈台の場合、自らを照らす光があります。燭台の明かりが燭台自身を照らすべきことが、明確に指示されており、述べられています。燭台は自らの明かり、自らの証しの中に立ちます。次に、それに加えて、その光は備えのパンの机を照らし、さらに、香の祭壇を照らします。それは自分自身を照らし、他のすべてのものを照らします。

さて、ここにとても尊いものがあります。というのは、次のことに注意しましょう。すなわち、この原則は黙示録にも導入されているからです。それは証しにおいては同じ事です。中心の幹と七つの枝を持つこの燈台・燭台は、キリストとその教会の絵図です。新約聖書はそれをキリストのからだと名付けています。キリストはこのからだのかしらであり、その中心的・至高的要素です。彼の教会は彼と一つであり、一つのからだであり、彼の一つの御霊、この一つの油をみなが共有しています―― 一つの証し、イエスの証しを共有しています。しかし、絶えず明るく保たれるべき、この燭台の生ける炎は、燭台全体を照らします。そして、イエスの証しは一つの生けるからだの中になければならないこと、そして、このからだ自身もこの証しの光の中になければならず、自分自身の証しで輝いていなければならないことを告げます。他の事柄や他の人々のために光を掲げておきながら、自らは暗闇の中にいるようではいけません。「イエスは生きておられる」と宣べ伝えておきながら、自らは死んでいるようではいけません。教会自身の活気こそが、証しです。教会は世に対して真理を掲げるだけでなく、自らその真理の益に浴していなければなりません。「イエスは死を征服して生きておられる」と告げるだけでなく、「私はその益に浴しています。私はその生ける証しとしてここにいます。なぜなら、その光は私をも照らせるからです」と言えなければなりません。教会はその証し自体の光を担えなければなりません。その光を得て、その光に浴し、「私は自分自身に言えないことを述べているのではありません。私はその教理の生ける表現なのです」と言えなければなりません。

愛する人よ、教会について述べる時、私たちはキリストのからだの肢体であること、そして、全体に言えることは各部にも言えなければならないことを覚えておこうではありませんか。これが勝利者です。この光に照らして、「自分は勝利者だろうか?」と私は自問しなければなりません。あなたも同じ問いを自問しなければなりません。あなたは勝利者でしょうか?この証しの光があなたを照らすとき、あなたはそれに耐えられるでしょうか?「キリストは生きておられます、キリストは死を征服されました!」と、天におられる主イエスに関してだけでなく、ありのままの私たち各自の証しとして言えるでしょうか?「あの復活の命が私の内に働いています。私はキリストの復活の命の力を知っています」と各自が言えるでしょうか?神はどん底の経験を通して私にそれを知らせてくださったでしょうか?キリストの復活の力の中で何度も何度も起き上がることがどういうことか、私は知っているでしょうか?私の内にある復活の主の命により死の襲撃を打ち負かすことがどういうことか、私は知っているでしょうか?自分についてそう言えるでしょうか?これが勝利者です。いかなる教会も、その個々の構成員の度量以上の証しを持つことはできません。あなたと私が、いずれかの地域教会の構成員として、常に心掛けるべき一つの事は次のことです。「ああ、主よ。たんなる教えの入れ物や媒体となることから、私たちを守ってください。私たちが命によって特徴づけられるようにしてください。それは他の人々が中に入って来る時、そこで述べられていることを彼らが理解してもしなくても、『私には全く理解できないけれども、ここには命があります。ここで私は生ける主に出会いました』と叫ぶようになるためです」。私が望むのは、人々が一言も理解できないまますぐに出て行ったとしても、こう言えるようになることです。その方が、たとえ様々な事柄を知的に理解したとしても、その衝撃力を全く感じないよりはましです。

主に祈りましょう。「どうか主が私たちを個人的にも団体的にも、この意味で、勝利者にしてくださいますように。どうか証しが、私たちがこの世に対して、教会に対して掲げるだけのものになりませんように。そうではなく、その証しの光が私たちを照らすとき、私たちが自分自身の証しの光の中に恥じることなく立てますように」。

その光が供えのパンの机を照らして、イエスの証しを告げました。その証しは生ける人、神ご自身の御心にかなう人に関するものでした。この人は私たちの糧、私たちの命、私たちの支え、私たちの食物です。彼が生きておられるので、私たちも生きます。これが供えのパンの意義です。このようにこの光は備えのパンを照らして、私たちの命であるキリストを証しします。次に、香の祭壇は、私たちが復活した生けるキリストにあって、神へと至る開けた道、開かれた天、神との交わりを持っていることを証しします。これがイエスの証しです。これにはたんなる教理にすぎないものは何もありません。彼が生きておられるので私たちも生きます。私たちは彼に拠り頼んで生き、彼を通して何の妨げも受けずに生き生きと御父に近づきます。これがイエスの証しであり、主の民の間にさらに豊かに回復される必要があります。これについて祈ってください。また、あなた自身がそれにあずかれるように、イエスがそれによって死を征服された命があなたにおいて又あなたを通して現実のものとなるように、祈ってください。