第四章 心の問題

T. オースチン-スパークス

「……あなたたちの心の目が照らされて(中略)聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富を(中略)あなたたちが知りますように。」(エペ一・十八)

「……その方の中であなたたちも、御霊の中にある神の住まいのために、共に建造されます。」(エペ二・二二)

「さてダビデは自分の家に住むようになったとき、預言者ナタンに言った、『見よ、私は香柏の家に住んでいるが、エホバの契約の箱は天幕の下にある』。ナタンはダビデに言った、『すべてあなたの心にあるところを行いなさい。神があなたと共におられるから』。」(一歴十七・一~二)

「その時ダビデは要害の中におり、ペリシテ人の先陣はベツレヘムにあったが、ダビデは切に望んで、『だれかべツレヘムの門の傍らにある井戸の水を私に飲ませてくれるとよいのだが!』と言った。そこでその三人はペリシテ人の軍勢を突破して、ベツレヘムの門の傍らにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えて来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それをエホバに注いで言った、『わが神よ、私は断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうして私は飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水を取って来たのです』。それゆえ、彼はそれを飲もうとしなかった。このようなことをこの三勇士は行ったのである。」(一歴十一・十六~十九)

「神はサウルを退けた時、ダビデを立てて彼らの王とされました。神はまた、その人について証しして言われました、『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなう者で、わたしの意志をすべて行うであろう』。」(使徒十三・二二)

「エホバよ、ダビデのために、そのすべての苦しみを覚えてください。彼はエホバに誓い、ヤコブの全能者に誓願をしました。『私は決して私の家の天幕に入らず、私の寝台に上らず、私の目に眠りを、私のまぶたにまどろみを与えません。私がエホバのために場所を見いだし、ヤコブの全能者のために幕屋を見いだすまでは』。」(詩一三二・一~五)

「聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富」「あなたたちも(中略)神の住まいのために(神の住まいへと)、共に建造されます……」。これが私たちの黙想の基礎となる新約聖書の御言葉です。しかし私たちは旧約聖書に向かって、これが歴代誌上の十七章の中に予表されているのを見ることにします。「ダビデは自分の家に住むようになったとき……」。ダビデに告げるよう主がナタンに言われたことを、あなたはご存じでしょう。しかし、それによってこの重要性は変わりません。それが意味するのはただ、ダビデ自身はその家を建てるのを許されなかった、ということです。そしてこれが明らかにされた時、主はとても尊く、とても恵み深いことをダビデに語られます。主はダビデに、主が彼に家を建てること、そして、主が彼の子を彼の王座の上に永遠に確立すること、またそのような多くの恵み深い事柄を語られます。それを前にして、ダビデは主の御前で言わばひれ伏して、「私は何者であり、私の家が何だというのでしょう……?」と言います。その後、十八章が次のように始まります。「さて、この後、ダビデはペリシテ人を打ってこれを征服し、ガテとその町々をペリシテ人の手から取った。また、彼はモアブを打った」等々。

さて、これはみな黙示録十二・十一と関係しています。「彼らは小羊の血のゆえに、彼らの証しの言葉のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」。これがこれにどう当てはまるのか、あなたには分からないかもしれません。しかし、すぐに分かるようになると思います。

勝利者に関して今強調すべき一つの点があります。それは、勝利者の問題は心の問題である、ということです。勝利者は、つまるところ、結局この問題に帰着します。すなわち、それは心の問題である、ということです。

パウロによって書かれたエペソ人への手紙――私たちが読んだ句はその一つの見本です――と、ヨハネがパトモスでエペソ人に宛てて書いたメッセージとのつながりは、きわめて明白です。第一に私たちは次のことを見ました。すなわち、与えられたこの啓示の内容は、一言で言うと、彼らの心の目が知恵と啓示の霊によって照らされて、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富を知ることです。黙示録二章のエペソへのメッセージは、「あなたはあなたの初めの愛を離れました。あなたがどこから落ちたのかを考えなさい」です。それは心の問題であり、この心の問題は主ご自身にとって最も尊いものと関係しています。それは心を十分に、完全に、堅く、主の御心にとって最も大事なものに定める問題です。「聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富」というこのささやかな句ほど、これを十分かつ完全に示している句は聖書中にありません。主の心はこれに定まっています。これは主にとって尊いものです。勝利者は、自分自身の嗣業、自分自身の祝福、最高のものを大事にする立場を遥かに超えて進みました。大事なのはもはや事物や祝福等ではない地点に、勝利者は達しました。彼の前には一つの事しかありません。すなわち、主が要求しておられるもの、必要としておられるもの、望んでおられるもの、心を定めておられるものを、主が獲得されることです。私たちの嗣業ではなく、主の嗣業です。これが勝利者であり、それは心の問題です。それは神の権益を求めてねたむ心、神の全き御旨が表されて実現されることを求めてねたむ心です。勝利者の予型や現実を見る時は常に、これが勝利者を最も深く特徴づけているものであることがわかります。それは心の問題です。

神ご自身の心にかなう人

ダビデの事例について、これに注意を払うことにしましょう。今や彼は熟年に達し、過去長いあいだ神と共に過ごしてきました。彼は、神の恵みを通して自分に臨んだ祝福と憐みの中に座しています。そして座している時、彼は黙想してこう考えました。「私は香柏の家に住んでいますが、エホバの契約の箱は天幕の下にあります。こんなことがあってはなりません!」。この時のダビデの心境が詩篇一三二篇に示されています。「私は決して私の家、私の香柏の家に入らず、私の寝台に上らず、私のまぶたにまどろみを与えません。私が主の契約の箱、主の証しのために場所を見いだすまでは」。ダビデは誓いました。ダビデの心が明らかになります。そして、これがダビデの生涯に対する鍵です。ダビデの登場からその生涯の終わりに至るまで、これがすべてであることがわかります。

彼の登場がゴリアテと関係していたことを、あなたは覚えているでしょう。そのとき、彼は主の御名のために、主の権益のために熱心でした。彼が出て行ったのはイスラエルのためではなく、主のためでした。「お前が汚した万軍の主、イスラエルの軍勢の神の御名の中で、私はお前に立ち向かう」。

また、サムエルがサウルの後継者に油を注ぐよう命じられて、エッサイの息子たちが彼の前に通された時――その時ダビデはまだ不在でした――彼は長兄に油を注ごうとしましたが、主はサムエルを押しとどめられました。主は言われました、「容貌や背丈を見てはいけません(中略)主は心を見ます」。ここでもまた、心について述べられています。

最後に至るまでそうです。ナタンはダビデに言います、「すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。ナタンは善人であり、ダビデの生涯の中で栄誉ある偉大な地位を占めていました。ナタンは王を叱責できる人でした。そして、その叱責をダビデは気分を害さずに受け入れることができました。ナタンは、ダビデの心を知っていたがゆえに、彼のあらゆる間違いや失敗、そして度々の恥ずべき行いを目の当たりにしたにもかかわらず、「すべてあなたの心にあるところを行いなさい」と言うことができました。

その後、「わたしは、わたしの心にかなう人、ダビデを見いだした」という、ダビデに対するこの偉大な証しがなされます。このようなことがどうしてありえるのでしょう?ウリヤに対するダビデとその罪を見てください。イスラエルを数えて、国民全体に禍いを招いたダビデを見てください。そうです、さらに弱さの中にあるダビデを見てください。彼は殺人者であるアブサロムを、この殺人者が全く悔い改めていないにもかかわらず、天然的愛情のみに基づいて、道義的責任を見逃したのです。これが神ご自身の心にかなう人でしょうか?ああ、この人には数々の失敗や弱さがありますが、この人の心の中には神がよしとされるもの――それは彼の全生涯にわたって残ります――があります。この人には、証しのための場所を見いだすという、主の権益のための熱心な焼き尽くす炎のような情熱があります。ダビデの心にとって大切なのは神の嗣業です。だから、彼は神ご自身の心にかなう人なのです。

勝利者にはこの同じ特徴がある

私たちはダビデの三勇士の事例について読みました。これはこの同じ原則を側面から照らす光にほかなりません。ダビデはある日、あるものを大いに切望して言いました、「ああ、だれかべツレヘムの門の傍らにある井戸の水を私に飲ませてくれるとよいのだが!」。そこでこの三勇士はペリシテ人の軍勢を突破し、自分たちの命をかけて、その井戸の水をダビデのために持ってきました。彼らは「勝利者」でした。何が彼らを勝利者にしたのでしょう?彼らは自分たちの主君である王の意向を察しました。彼らは自分の命を惜しいとは思いませんでした。この原則がわかります。

勝利者は、いわゆる「勝利者の真理」というある特別な種類の教えのために立つ人ではありません。あるいは、「勝利者」について話すある特定の人々の団体でもありません。勝利者は、一つのすべてを支配し、すべてを制御する情熱を心に抱く人や団体です。自分たちには祝福や事物はなくてもかまわない、神が御民の間で完全な満足を得られますように、という情熱です。彼らは開かれた目で、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富が何を意味するのかを見て、自分のを定めた人々です。次の御言葉に再び注意してください、「あなたたちの心の目が照らされて(中略)あなたたちが知りますように」。

勝利者が登場するのは、主の民が全般的にこのビジョンと立場を失った時です。ですから、この問題は比較的小さな団体に限られているのを、常に見いだします。他の人々は主の民であり、主の事柄に大いに専念しているかもしれませんが、往々にして、彼らの探求や関心は祝福やその類の事柄です。時として、それは霊的力の事柄であり、彼らの祈りは常に力を求めます。彼らは、もちろん、真摯に、奉仕のための力、主によりよく仕えて、さらに用いてもらうための力を求めているつもりです。そのようなことや、他の特別な祝福を彼らは求めているかもしれません。しかし、彼らは事物を求めていることがわかります。ああ、リバイバルを求めて祈る人が何と大勢いることでしょう!力やリバイバルを求めて祈るのは悪いことである、と言うつもりはありません。しかし、聖徒たちのあまりにも多くがそうしたことに占有されています。それらはとても良いのですが、どこか違います。悪くはないのですが、どこか違います。

現実と虚構

最近御言葉を読んでいたとき、二つの出来事に出くわして私は感銘を受けました。その一つはエリヤの大きな戦いです。それをカルメル山上のリバイバルとも呼べるでしょう。ほぼ普遍的なものになりかけていたバアル礼拝との、あの凄まじい戦いの物語をあなたはご存じでしょう。祭壇が設けられてエホバが呼び求められ、火が下った時、神の力と正しさが大いに力強く示されました。そして、この同じ民は直ちに「エホバこそ神である!エホバこそ神である!」と叫びました。これを一大リバイバルと呼べるでしょう。すべての民が「主は私たちと共におられます。私たちは主を支持します!エホバは主です。私たちは主の側につきます!」と叫びます。その後すぐに、エリヤは絶望します。それは全くイゼベルの言葉のためだった、とは私は信じません。彼女は、いわば絶好の瞬間に、エリヤに向けられたサタンの矢だったのかもしれませんが、それですべて説明がつく、とは私は信じません。そこには別の要因もあったかもしれない、と私は信じています(私にその証明はできませんが、これは大いに原則にかなっています)。つまりこういうことです。エリヤは民の心の変わりやすさをよく知っていたのです。彼は民が叫ぶのを聞き、民がエホバを称えるのを見ましたが、彼はこの民を知っていました。彼らがそのように叫んでいるのは、ただ、何かが外面的・客観的形で起きたからにすぎず、主が御力を現わして実証されたからにすぎませんでした。この民の心の変わりやすさ、不安定さをエリヤは知っていました。彼の心は満足しませんでした。ですから、彼は大きな絶望の状態の中で、主に対して不満を注ぎ出します。「私は万軍の主なる神のために大いに熱心でした。イスラエルの子らがあなたの契約を捨てて、あなたの祭壇を打ち倒したからです」云々。カルメル山のこの出来事の後はじめて、民が「主こそ神である」と叫んだ後はじめて、主はエリヤに向かって「イスラエルにはまだ、バアルに膝をかがめなかった七千人がいる」と仰せられたことに、あなたは気づいているでしょうか(この点に私は衝撃を受けました)。あなたがこの意義を理解しているかどうか私には疑問です。私にとってそれは啓示でした。愛する人よ、主が何かを外面的に行われる日、リバイバルの日に、群れをなして来るかもしれない人々は勝利者ではありません。彼らがそこにいるのは、何かが起きているからです。神が欲しておられるのは、それよりも深いものです。バアルに屈したことのない膝であって、リバイバルの中にやって来た膝ではありません。リバイバルを決して必要とはしていなかったけれども、他の一切が間違った道を進んでいる時に、密かに神と共にあった膝です。エリヤが心の中で次のように言っていたとすると、印象的です。「確かに、これは全く結構なことです。立証される時、力が現わされる時、人々はこのように姿を現すことができます。しかし、ああ、彼らは長続きしません!もし状況が悪化して、外側のしるしがすべて消え去るなら、彼らは再び離れていくでしょう。私が欲しているのは、それよりも深いものです。しかし、それは見当たりません」。主は仰せられます、「わたしには七千人がいます。彼らは叫んでいませんが、彼らの心はずっとわたしと共にありました。彼らにリバイバルは全く必要ありませんでした。彼らの心は真実だったのです」。

さてこれと並んで、この同じ点の別の絵図にすぎませんが、ヨシヤの時代のリバイバルに私は出くわしました。それはイスラエルの最後の大きなリバイバルでした。ヘゼキヤの下でリバイバルらしきものがありましたが、ヨシヤは全イスラエルを招集しました。そこで人々は自分の町や村から上って来て、エルサレムで過越の祭りの一大祝典を祝いました。この出来事についてこう述べられています、「預言者サムエルの日からこのかた、このような過越の祭りはイスラエルにはなかった」(二歴三五・十八)。ああ、リバイバル!しかし、この出来事がすべて描写されて、その徹底ぶりと熱意に関して述べ尽くされた時、とても純粋に見えるものに対して、「しかし主はその激しい激怒を撤回されなかった」というこの恐ろしい御言葉が直ちに述べられます。私が思うに、これは当て外れです!すべて台無しです!リバイバルのこの大いなる日に、民もまさにその中にいて、すべてがとても純粋で素晴らしげに見えるにもかかわらず、それについて直ちに「しかし主はその激しい激怒を撤回されなかった」と述べられているのです。さらに、これよりも強烈な事が続きます。リバイバル以上のもの、リバイバルの熱狂以上のものを、主は欲しておられます。勝利者はこのような人々ではありません。主が欲しておられるのは、ご自身から離れたことのない心状です。一大運動に熱中する人々ではなく、その心がずっと真実だった人々です。これは新約聖書、黙示録にも言えるのではないでしょうか?これを主はそこで示しておられるのではないでしょうか?それは、堕落のただ中で、主の全き御旨に対して忠実な人々です。外面的な見せかけやしるしによって回復された人々ではなく、その心が主の嗣業の上にしっかりと堅く据えられている人々――それは主がご自身の求めておられるものを得るためです――です。

主ご自身に対する究極的献身――その課題と可能性

さて、この点を明確にして強調するのに十分なデータを提示したと思います。では、このすべてから何が生じるのでしょう?私たちは何を求めているのでしょう?私たちは本気で神と交渉するつもりでしょうか?主の心が定まっているすべてのものの上に、私たちの心は全く定まっているでしょうか?さて、兄弟、姉妹、この課題を受け入れて、この問題を考えてください。もしそれが真実なら、とても多くのことが起きるでしょう。私たちの心がこの目標に定まっているなら、主は必要とあらば私たちを剥ぎ取って、ご自身の目標を達成できます。私たちの心が主の目標、主の全き目標に定まっているなら、私たちは死に至るまで自分の命を愛さないでしょう。議論や討論をしないでしょうし、主ご自身以外の何ものも自分の標準や制約とはしないでしょう。主が欲しておられるすべてのものの上に自分の心を定めている人なら、「まあ、何某氏はとても敬虔な人で、このことやあのことをしています。どうして私がそれ以外のことをしなければならないのでしょう?」とは決して言わないでしょう。ああ、このような方針の人々と、私たちは何と多くの戦いをしていることか!私の経験上、人々との際立った戦いのいくつかはこの類のものでした。愛する人よ、厳粛さと愛の限りを尽くして言いましょう。もしそれがあなたの標準なら、あなたは神の標準に遠く及ばないでしょう。かつてこの地上に生きていた最も聖なる敬虔な人といえども、決してあなたや私の標準にしてはなりません。神は御子以外の人がこの地上で無謬になるのを決して許されませんでしたし、これを示すために多大な労苦を払ってこられたことを、あなたは認めなければなりません。ご自身の御心にかなう人であると告げられているダビデは、自分の失敗を神に覆ってもらえませんでした。彼の失敗は神の御言葉の中に記されており、数千年そこにあって万人が見ることができます。たとえ神に最も用いられた人でも、その人の弱さを神が隠された人は一人もいません。私たちが男女を自分の標準にすることを、神は断じて許されません。

神の最も完全な御旨に真に達する人の心は常に、彼らが地上で知っている最善のものを遥かに超えて進みます。そこに議論や討論はありません。その姿勢は常に次のようなものです、「主よ、もしあなたが私によってさらに優ったものを得られるなら、私には用意が整っていますし、喜んでそうします。私の望みはただ、あなたが私によって得られるものをあなたがすべて得ることです」。これが勝利者です。それは心の問題です。私たちは自分の偏見や先入観を放棄する覚悟をしなければなりません。自分の頑なさを放棄しなければなりません!私たちに対する問題は常に次のようなものであり、これが支配的原則です、「主よ、これはあなたの最も完全な道でしょうか?もしそうなら、他のことを私がどれほど強く考えてきたとしても、私は自分の考えを放棄しなければなりません。他のことを私がどれほど望んできたとしても、私は自分の望みを放棄しなければなりません。私の好みがその道を邪魔してはなりません。主よ、あなたは何を求めておられ、何を望んでおられるのでしょう?」。これが主のために土地を清めます。エペソ書は聖書の中で最も高い啓示です。エペソ書によって私たちが導かれる至高の事柄は、すでに見たように、これです。「……あなたたちの心の目が照らされて(中略)聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富を(中略)あなたたちが知りますように」。

さて、これが最終的に勝利者の地位をもたらします。黙示録十二章のこの男の子は神とその御座に引き上げられます。「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの王座に座らせよう」。ヨシュア記にはイスラエルの嗣業について記されていますが、王については記されていません。列王記、歴代誌、サムエル記に来ると、王と王座について記されていますが、焦点はもはやイスラエルの嗣業ではなく、神の嗣業です。それを体現しているのがダビデです。彼は王であり、この事の化身・人格化です。「私は私の家に入らず、私の寝台に上らず、私の目に眠りを、私のまぶたにまどろみを与えません。私がエホバのために場所を見いだすまでは」。これが王職であり、王座であり、王座の原則です。私たちは主の民であり、主のために多くのことを行い、主の権益を推進することを望んでいるかもしれません。そしてそうすることにより、主ご自身よりも事物に専念しているかもしれません。ああ、主の民にビジョンが臨んで、そのような事物から――たとえ霊的な事柄だったとしても――綺麗さっぱり引き上げられますように。そして、主が求めておられるもの――聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富――へともたらされますように。主が完全な栄光と満足を得て、「今や神が教会により栄光を受ける」という結末になりますように。「教会により、またキリスト・イエスにより、神に栄光がありますように」。あるいは言い換えると、「平和の神が御目にかなうことをあなたたちの内に行い、あなたたちをあらゆる善いわざに間に合うものとならせ、御旨を行わせてくださいますように」。主がこのような御方であることがわかります。私たちの心はそこにあるでしょうか?これが勝利者に関する一切の問題の核心です。死に至るまで自分の命を愛さないことは、何ものにもまして、数百・数千以上の事にもまして意味があります。それが意味するのは文字どおり殉教することだけである、と解釈しないようにしましょう。ああ、私たちは多くの種類の殉教を忍ばなければならないかもしれません。彼のそしりを負いつつ宿営の外に出て、彼のもとに行かなければならないかもしれません。虚偽や誤解を忍ばなければならないかもしれません。主が最も完全な御旨を成し遂げられるようになるために、私たちは排斥やあらゆる種類の事柄を耐えなければならないかもしれません。こうしたこともみな、等しく、勝利者の道です。

私が述べているのは、「勝利者でなければ天に辿りつけない」ということではなく、「主が求めておられるのは、主が必要としておられ、主にとって特に尊いものである」ということです。勝利者は主を満足させ、主が永遠の過去からずっと御心を定めてこられたものに応じ、主の嗣業と行動を共にします。エペソ書の一つ目の御言葉「聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富」と並んでもう一つの節「あなたたちも神の住まいのために共に建造されます」を示したのは、これが理由です。ダビデの心は神の住まいに据えられていました。神の栄光を示すことができる住まいです。ですから、ソロモンが宮を建てるよう彼は配慮しました。その輝かしい結末は、「エホバの栄光がエホバの家に満ちたので、その栄光のゆえに祭司たちですら中にとどまっていられなかった」です。主はその場所をご自身の栄光で満たされました。その中に人のための余地はありませんでした。主の僕たちですらそうでした。私たちは神の住まいのために共に建造されます。それは神が、聖徒たちの中に彼の嗣業の栄光の富を持つようになるためです。それは心の問題です。

さて、すべては理解できなくても、すべては覚えられなくても、これらすべてに対する鍵を受け取ってください。勝利者に関する問題はすべて、次のように表すことができます。それはすべてに触れます。その鍵とは、「その内容がすべて自分の人生で真に成就されるよう、私は主に求めよう!」ということです。この問題の核心は、「主が望んでおられるもの、主が私によって、私を通して得られるものを、主はすべて得なければなりません。たとえどんな代価を払っても。主がご自身の嗣業を得なければなりません。事物や、自分の欲するものや、自分の好きなものではなく、主が求めておられるものを私は求めます」ということです。ああ、「このような熱心さ、このような配慮、このような情熱が自分を支配するようにしてください」と主に求めてください。その報いは決して小さくありません。主から「わたしの心にかなう者」と言ってもらえるなら、それは私にとって受けうる最大の報いです。あなたはこれを欲するでしょうか?「わたしの心にかなう者!」。ああ、そうです、私たちは何という人でしょう!ダビデやエリヤは私たちと同じ心情の人でした。失敗、挫折、恥だらけでした――そうです、しかし、この人々について神は、その内側をご覧になって、それらすべてにもかかわらず、「ああ、わたしの栄光を堅く求める心、わたしの最も完全な御旨に対して熱心な心が、そこにあります」「わたしの心にかなう人である」と言うことができます。主にそう言ってもらえるようになること、私が望む報いはただそれだけです。主がご覧になるとき、どうか私たちがそのような者でありますように。