第二章 小羊

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:黙十四・一~五、使二・二三、エペ一・四~十一

「これらの者は、小羊の行く所へはどこへでも従って行く。」(黙十四・四)

私たちの前の黙想では、十四万四千人の小羊の従者たちが誰なのかを特定することに時間を費やしました。そのとき網羅した基礎をおさらいするまでもなく、それを思い出しさえするなら、次のことは完全に明らかであるように思われます。すなわち、この特別な集団は、黙示録の中で言及されている主の民の他の諸々の集団とは区別される異なったものを表しているのです。彼らは「小羊の行く所へはどこへでも従って行く」というこの特徴によって区別されています。その結果、彼らは栄光の主にとって特別な価値と務めを有する或る場所に至ります。

永遠の小羊であるキリスト

いま私たちはこの問題を追うことにします。それは、「小羊の行く所へはどこへでも従って行く」こと、すなわち無条件の徹底的姿勢が何を意味するのか、あるいは少なくともそれが意味するところを、幾らかでも見るよう努めるためです。そこで、「小羊」というこの名称そのものに導いてもらうことにします。聖書を調べて、この小羊を最初に垣間見せている箇所を探すなら――私が述べているのは小羊たち(lambs)のことではなくこの小羊(the Lamb)のことです――私たちはそれをこの黙示録十三・八の中に見いだします――「地上に住むすべての者たち、すなわち、屠られた小羊の命の書に世の基から名が書き記されていなかった者はみな、彼を礼拝するであろう」。この箇所には「世の基から屠られていた小羊の命の書に書き記されて」という別訳があることがわかります。私はこちらの方がより正確な語順だと思います。「世の基から屠られていた小羊」。確かに、小羊であるキリストを私たちが垣間見るのはこれが最初です。「世の基から屠られていた」――これは注目に値する声明です。この「基」という言葉は、より逐語的に「世を据えること」――すなわち、創造に関する計画全般を立てること――と訳せることを、おそらくあなたはご存じでしょう。私たちは計画、構想、事業計画を立てることについて話しますが、神が創造に関するこの計画、構想、事業計画を立てられた時、当時、神の意図によると、この小羊は屠られていたのです。もちろん、これがまず第一に意味するのは、十字架は後で考案されたものではないということです。十字架は、非常事態のために後で考案されて導入されたものではありません。十字架を神は予知しておられました。使徒行伝二・二三にあるとおりです――「神の決議と予知によって引き渡された」。「神の予知によって引き渡された」。「世の基から屠られていた小羊」。

これは永遠からの神の諸々の熟慮に私たちを連れ戻します。ある御旨が形成され、企画・開始されました。ここで私たちは、自分たちが何度も神格のこれらの熟慮の中にあるのを見いだします。これらの熟慮についてパウロはとてもたくさん言及しています――素晴らしい、偉大な、輝かしい熟慮です。永遠の時の前になされたこれらの熟慮は、何と完全で、遠くまで及ぶ、輝かしいものだったことでしょう。これは、それに関して私たちが一生黙想・瞑想・熟考したとしても、決して尽きることのない問題です。神の永遠の熟慮、神の予知、神の予定的御旨について大いに述べている御言葉のこれらの箇所に、私たちは何回戻ったことでしょう。それでも、表面にさえ触れていないと感じるのです。常にさらに優ったものがあります。そうです、それはみな、前からそこにありました。そして神が、言わば、彼の偉大で普遍的な永遠の計画・御旨の草案を描かれた時、神はそれと同時にその崩壊をも予期されました。ご自身の諸々の意図に反対する或る強力な霊的反応として起きるであろうことを、神は予見されました。神はこの状況をすべて受け入れました。御旨の性質上、自発的従順・委託・受容のための扉を開けておく必要があることをご存じだったからです。御旨全般の性質――それは愛です――のゆえに、選択の自由のための余地を残す必要があります。また、神は人がどちらの側を選択するのかを予見し、ご自身の御旨に反対する霊的勢力の途方もない活動を予知されました。御子イエス・キリストに関する神の諸々の意図に対するあの霊の大敵に人が道を譲った後に起きることを、神はすべて予見されました。神は贖いの計画を立て、予見し、備えておられたので、贖いが直ちに確立されました。

小羊の御業

それは永遠の贖いです(ヘブ九・十二)。これがその名称です。それは時間を超越した十字架です。なぜなら、その目的は永遠だからです。ですから、私たちは時間を超越した十字架とその永遠の目的の前に直ちにもたらされます。まだ何も起きていない時に、すでにキリストが小羊と呼ばれているのを見る時、小羊というこの導入的名称は甚だ印象的です。キリストは小羊です。あの恐ろしい悲劇・大惨事が起きる前にキリストは小羊と呼ばれていますが、これ自体が、なされるべき御業の性質をよく示しています。小羊――この称号はあることを暗示しています。それはまさに、なされるべきことを暗示しています。それが私たちの前に現れてくれるなら、私たちは或る途方もないものを前にすることになります。そこには神のあの巨大な御旨があります。この御旨は、それが実現されたあかつきには、来るべき代々の時代全体にわたって確立され、神の宇宙を特徴づけることになります。次に、そこにはこの恐ろしい、恐ろしい罪があります。この罪は全く正反対のものであり、現在の諸々の時代の間ずっと、すべてを崩壊させます。すると次にあなたは、「それをすべて正すのは小羊です」と言います――あなたは何を言わんとしているのでしょう?なぜ、小羊以上のものを望まないのでしょう!あなたが「小羊はそれをすべて正せます」と言う時、あなたには状況に関するごく限られた理解しかないにちがいありません!しかし、それこそまさに聖書が述べていることであり、それには私たちの理解を超えた或る意義があるのです。なぜなら、たったいま述べたように、それはなされるべき御業の性質を示しているからです。その御業とは――事物の現在の性質と構成を完全かつ徹底的に逆転させることです。

今日の世や、それを営んでいる人の諸々の観念に目を向けて、「それはまさに小羊のようです」と言う人がだれかいるでしょうか?それがどれほど馬鹿らしく滑稽に聞こえるかがわかります。事物の現在の構成の中には、小羊以外のものなら何でもすべて揃っています。小羊とは正反対のものが丸ごとすべて、この体制の構成の中に充満しています。要点がわかるでしょう。この構成全般を変えなければならないのです。別の構成をこの宇宙に与える必要があります。それは小羊の構成でなければなりません。そうです、この宇宙は小羊の性質という基礎に基づいて再構成されなければなりません。すばらしいことに、これらの途方もない全勢力――この宇宙における、不法、悪、邪悪、罪、憎しみ、悪意といった実に恐るべき勢力――これらの勢力がすべて結集したとしても、聖書が述べているように、小羊はこれをことごとく対処できます。ここには奥義的な何かがあります。

小羊の勝利

ですから、逆説や矛盾のように思われるこの一切合切を見いだします。黙示録には封印された書物が登場します。使徒は言います、「その書物を開き、その中を見るのにふさわしい者が一人もいなかったので、私は激しく泣いた。すると、長老の一人が私に言った、『泣くな、見よ、ユダ族の獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その書物と七つの封印を開くことができる』。私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た」(黙五・四~六)。次のことを常に覚えておいてください。黙示録には「小羊」という言葉が二十九回現れますが、それは常に小さなもの、「小さな小羊」です。「見よ、小さな小羊が勝利を得た」。奇妙な矛盾です!この獅子とこの小羊は等しいのです!この小羊は力強い勝利の獅子です。にもかかわらず、小羊は弱さの象徴です。小さな小羊ほど弱さを物語るものは何もありません。あなたは小さな小羊に重きを置きたいとは思わないでしょう。

しかし、この書の御言葉がこの小さな小羊について何と述べているのかを見てください。これらの恐ろしい勢力が小羊と戦いますが、小羊がそれらを征服します(黙十七・十四)。おそらく、獅子なら、あなたはこれを信じられたでしょう。しかし、小羊がそれらを征服します――同一のものの中に弱さと力があります。小羊として屠る者に身を委ねて、抵抗しませんが、権威を持っています。それらの勢力は小羊の御顔の前から逃げ去ります。奇妙な矛盾です。服従、従順、それに主権。主権がこの小羊に与えられます――この小羊に与えられるのです。

柔和さ。柔和さとはどういう意味でしょう?個人的権利のために反抗しないこと、自己を擁護しようとしないことです。しかし、この小羊の怒りについてはどうでしょう?それは恐ろしいです。小羊には神秘的な無限の力があります。その力を、天然的な立場に基づいて説明することはできません。その天然的な面を取り上げるなら、弱さと無力さ、服従と従順を物語るものがいくらでもあります。しかし、この小羊は天然的ではない神秘的な何かを帯びています。それは神聖です。神の天的宇宙の強大な力はすべて、この明け渡し、この弱さ、この柔和さ、この服従と密接に関係しており、それを中心としていて、それを通して表されるのです。

これはたんなる文言ではありません。それは事実です。クリスチャンならだれでも、これを試してみることができます。それが有効な原理であることを、あなたたちの多くは良くご存じです。悪を行うよりはむしろ悪を耐え忍ぶ主イエスの恵み、自分の持ち物を奪われるのを喜んで受け入れる主イエスの恵み、天然的な興奮や怒りや反応を抑えて諸々の事柄を主に手渡す主イエスの恵みを求めた時、あなたは自分の怒りや自分の力ではなしえなかったことを主がなしてくださるのを見ました。あなたが手放して道からどいた時、主が介入されるのをあなたは経験しました。これが道です。これは天然的ではありません。そうです、私たちの構成は全く小羊の構成ではありません。私たちはこれをとてもよく知っています。しかし、神が小羊にしたがって再構成される時、無限の力を行使するための立場が整えられ、そのための道が開かれます。天然的ではないもの、主であるとしか言えないもののための立場が整えられ、そのための道が開かれます。この小羊が口を開かずに屠り場に連れて行かれるのを見てください。神の御旨に従順な彼を見つめて、この性質を神が擁護されるかどうか見てください。神は擁護されたでしょうか?神は確かにそれを擁護されたのです。

小羊の道である十字架

さて、少し戻ることにしましょう。小羊の意味は十字架です。十字架は小羊の道であり、十字架と小羊は永遠とつながっています。十字架の一つの腕は、言わば、すべての時代を遡り、エデンの園の彼方を超えて、永遠の諸々の熟慮にまで至ります。そしてそこで、神の無限のこれらの熟慮、永遠の御旨をすべて引き受けます。十字架の他の腕は来るべき諸々の時代に触れます。そしてこの十字架により、この最初からあったもの――それはその間、抵抗を受け、動揺させられます――が実現されます。ですから、小羊の道は神の永遠の御旨を実現する道にほかなりません。こういうわけで、私はわざわざこの御旨の巨大さを強調してきたのです。十字架に関する私たちの観念はあまりにもちっぽけです。十字架に関する私たちの数々の詩歌は、この十字架のごく一部しか見ていません。ああ、確かに、十字架で「私の心の重荷は転がり去り」ました――これは全くそのとおりであり、良い、幸いなことです。しかし、十字架は私たちの回心を無限かつ圧倒的に上回っています。十字架が登場したのは、人々を彼らの罪から救い、安全に天へともたらして、赦しと神との交わりという祝福を得させるためだけではありません。そうです、十字架が登場したのは、神の意図・御旨というあの巨大な構想を捉えて実現するためにほかなりません。十字架は私たちがこれまで想像してきたよりも遥かに巨大なものであることを、私たちは理解しなければなりません。

主がある人の人生の中にご自身の十字架によって主観的に働き始める時、主は回心を超えた或る徹底的なことを行われます。多くの人の人生において、これは次のような結果になります。すなわち、死と葬りと復活におけるキリストとの一体化は回心よりも遥かに重大なものだということを、よりよく理解するようになるのです。これは意義深いです。十字架をどれほど強調しても強調しきれないのは、まさに以下の理由によります――すなわち、この宇宙創造における神の永遠の御旨ほど重大かつ巨大なものは何も存在せず、十字架はそのあらゆる点に関与して、そのすべての点に触れなければならないのです。諸々の天にあるものは、この十字架の血によって清められます(ヘブ九・二三)。十字架が途方もないのは、それと関係しているものが途方もないからです。ですから、十字架は過去に遡ります――堕落まで遡るだけではありませんし、罪の侵入まで遡るだけでもありません。十字架はこの世界が創造されてその基が据えられる前まで遡ります。それは世界を創造する神の御旨にまで遡ります。なぜ神はこの宇宙を創造されたのか、神の御思いは何だったのか、神の意図は何だったのかを、あなたが理解・把握できるようになるとき、また、これをご自身にふさしい満足のいく相続財産とする神の御旨の巨大さを、あなたが真に理解できるようになるとき、そのとき初めて、あなたは十字架の重大さ、十字架の偉大さがわかるようになります。そうです、十字架はまさにそこにまで至るのです。

永遠の御旨の益に浴する一団

この人々、この十四万四千人について何を述べるべきでしょう?私が述べたことが正しくて真実なら、確かに彼らは次のことを意味します。すなわち、彼らは神の永遠の御旨の益に浴して立つ一団にほかならないのです。彼らは「小羊の行く所へはどこへでも従って行きます」。その道を少しだけ従って行くのではなく、それ以上でもそれ以下でもありません。また、条件付きでもありません。諸々の罪の赦しまででそれ以上は従って行かないわけでもありません。大昔の何年何日に「私は自分の心をイエスにささげました」ということだけではありません。この人々は御子に関する神の御旨の偉大さを理解するようになって、それと共に進んできたのであり、その中に立っているのです。確かに、それが意味するのはこれです。

この人々は選民中の選民である、と述べているわけではありません。これは全員のためではなく、少数の者だけのためである、と述べているわけではありません――決してそうではありません。しかし、見る目のある人ならだれでも、ごく少数のクリスチャンだけが実際にこの道を進むこと、比較的少数の人だけが実際に神の御旨と共にこの道を進み通すことを、とてもよく知っています。今日のキリスト教をご覧なさい。そして、あなたの目に映るものが神のすべての御思いを表しているかどうか、私に告げてください。そして次に、それを調べ、調査して、喜んで先に進もうとしている人がどれくらいいるか見てください。そうするなら、あなたは驚くでしょう。さらに優ったものを気にかけている人はどれくらいいるでしょう?永遠の御旨に関する神のより豊かな御思いに応じる人は、比較的少数です。実際に、あなたが神の永遠の御旨について話しても、あなたの言わんとしていることがわからない大勢のクリスチャンがいるのではないかと、私は恐れます。ですから神はこれに関して、代表的な一団の中に満足を見いださなければなりません。

ここにその立場があります。神の御旨のより豊かな表れに関して神を満足させるために、誰がより豊かな十字架の意義を受け入れるのでしょう?これが問題です。そして、この群れは主に対して「はい」と言いました。救われて幸せなクリスチャン生活を送り、多くのキリスト教的働きをするだけではありません。そうです。私を、中心から周辺まで、神ご自身の御子にしたがって、御子のかたちと同じかたちに再構成することを、神に許すことでもあります。そして、これには十字架の深遠な働きが必要であり、それをなす十字架の途方もない働きが必要です。これが小羊に従うことです。用いられている諸々の絵図は奇妙かもしれませんが、それが意味するのは小羊の道――彼は数々の苦難を通して完成されました――です。つまり、彼は数々の苦難を通して欠けたところのない者にされたのです。他のどんな方法によってもそこに達することはできません。私たちは彼の御前で傷のない者、彼の御前で愛の中にある者にならなければなりません。これが私たちを再構成することの意味です。

私たちは疑いなくこの問題全般に直面していると思います。ここに一つの群れがあります。(黙示録の中には、救われた人々の数々の群れ、様々な異なる群れ、大小の群れがあるのは明らかです。そしてここでは、その数々の群れの間に、この際立った明確に示されている一つの群れがあります。)それは十四万四千人と称されており、それには文字どおりの意味ではなく象徴的な意味があります。彼らは御座に対して或る特別な関係にあります。また、私たちの前の黙想で述べたように、彼らは或る特別な秘訣の益に浴しています。他のだれもこの秘訣を知りませんし、学ぶこともできません。小羊と共なる歩み、小羊と共に受けた数々の苦難により、彼らはあるものの中に入りました。彼らは何を意味するのでしょう?

再び、小羊は私たちを世界が造られる前の神の完全な御旨に連れ戻します。「侵入した罪をわたしの血によって対処しよう」と彼は仰せられるだけではありません――それは全体の中の一部にすぎません――あるいは、「人の不従順の結果生じた数々の状態をわたしの血によって対処しよう」と仰せられるだけではありません。それらはみな含まれています。小羊が行うことは、永遠の究極的計画全般を神が定められた時点から決まっていました。すなわち、万物をキリストの中に結集すること、万物をキリストで満たして、彼の民を万物を満たす彼の豊満とすることです。それは破壊的な諸々の勢力の侵略に対抗してこれを確保するためです――他ならぬこれを確保するためです。ですから、小羊は神の永遠の全き御旨と関係しており、このように従う者たちを天だけでなくあの特別な地位につかせます。その地位は神の永遠の全き御旨に応じるものです。

さて、教会に至るには十字架を持つ必要があることが分かったでしょう。十字架がなければ決して教会を持つことはできません。教会は、その中で神の永遠の御旨が成就されるべき所です。そして、教会は十字架に基づきます。それが意味するところはみな、一つの点に帰着します。私たちは「小羊が行く所へはどこへでも従って行く」でしょうか?言い換えると、神の御旨に反するものをすべて逆転させるために、神の御心に反するその構成自体を逆転させるために、私たちは十字架の意義をすべて受け入れるでしょうか?この逆転はとても実際的な事柄です。それはとても実際的であり、恐ろしく実際的であるため、私たちの存在のどの部分もそれを全く受け付けません。主はあなたや私に仰せられます、「他の人々があなたたちの上に反対、苦しみ、苦難を積み上げても、あなたたちは全く柔和でなければなりません。対抗したり、あなたたち自身の血気に駆られて反応してはなりません。気分や自尊心を害してはなりません。柔和にそれを受け入れ、許容し、その問題をすべて主に委ねて苦しみなさい」。

これは私たちの構成ではありません。そうするためには私たちは再構成されなければなりません。しかし、神の小羊であるイエス・キリストの霊が、私たちの心の中で実際に優勢になり、そこで勝利を得られる時、小羊が私たちの中で勝利される時、まさにその状況の中で神がご自身の無限の力を、ご自身の時にご自身の方法で、行使するための立場が神のために整えられます。この人々が戻って来て、こう述べたとしても大いに頷けます、「見てください、もしあなたが憤ったり気分を害していたなら、私はクリスチャンであるあなたをあまり重んじなかったでしょう。しかし、あなたが取った振る舞いのゆえに、どういうわけかそれ以来ずっと、私は惨めな時を過ごしています!」。神がご自身の機会を獲得されたのです。どれほど多くの人がこのような方法で勝ち取られたことでしょう!そうです、小羊が勝利されます

この群れの一体性

しかし、小羊に従うことに関して他人事のように思わないようにしましょう。それは私たちに新たな形で臨みますし、私たちの人生のどの日に臨んでもおかしくありません。それはそのうち私たちを見つけ出すでしょう。にもかかわらず、最終的に、御座に触れるこの群れが生じるでしょう。彼らは一つになって彼らの歌を歌います。そのため、一つの声しか聞こえなかったと使徒は述べました。「私は一つの声を聞いた(中略)私が聞いたその声は……」――単数でした。十四万四千人が声をそろえて歌ったため、それは一つの音や声のようでした。神は何かを行われました。神はどのようにそうなさったのでしょう?損なわれた被造物の中に、神はどうやって徹底的な一致、一体性、同一性を生じさせられるのでしょう?敵がこの世の中に、また主の民の中にすら生じさせたすべての分裂を、神はどのように対処されるのでしょう?ただ小羊の道によります――神はこの方法でそれを行われます。これが神の方法です。

それは強力な方法です。二つの民の間に絶対的一体性を生じさせるために、人の心に思い浮かぶ他の方法をすべて試したとしても、何らかの種類の分裂が常に生じることがわかります。それをなすのは不可能です。何らかの問題を上手に手当てしたと思っても、どういうわけかその問題が再発します。その問題に関して自信を持つことは決してできません。しかし、ここでは何事かがなされており、一つの大きな群れが一つの声で歌っているのが聞こえます。この群れは一人の人としか思えません。それは悪魔の業を無効にし、その働きを滅ぼしました。

これはどのようになされるのでしょう?小羊と小羊の道によります。主は私たちを小羊に従う者たちにしてくださいます。