さしあたって御言葉は読みませんが、ヨシュア記を開いておいて、後で参照することにします。
この道の目的
この道について最後まで考える前に、この道の目的を見ておくことが、まず必要です。始めるにあたって、私たちは次のことに注目しました。すなわち、神は天をもって開始し、次に地に進まれました。また、聖書の最後では、天から下って来たものが、代々の時代にわたる神の働きの全過程を究極的に完成します。ですから、この道の目的は天のものを十分に表すこと、天のものを豊かに表すことです。これがその目的です。最初に述べたように、天が万物を支配します。地と地のものはみな、天のものを計算に入れて、それに応えなければなりません。
これを霊的な真理として会得してください。天然の被造物の領域に言えることは、神の霊的な御心の表現にほかなりません。この世界やこの地球は、天の諸々の力や諸々の天体によって支配・制御されています。ですから、もし地球がこれらの天体に対する正常な調和や関係から逸れようものなら、地球は崩壊・停止して、凍り付くか燃え尽きるかしてしまいます。地球は有機的統一体としての機能を停止してしまうでしょう。同じ事が霊的にも言えます。全聖書がこの事実で占められています。すなわち、地にあるものは天にあるものと関係しているのです。すべては天から発して、天に応じなければならず、天と調和していなければなりません――私たちの生活のすべてがそうでなければなりません。なぜなら、天から下って来られた聖霊は、地にあるものと天にあるものとをつなぐものだからです。
これらのことはたんなる抽象的観念ではありません。聖書の中の神聖な啓示全体の背後に横たわっている要素です。聖書はその最初の節から最後の節に至るまで、すべて次の一点に要約できます――すなわち、天はこの地に挑んでおり、この地は天に応えなければならないのです。これは無数の子細な点を網羅しており、事実です。ですから、万物が目標に到達するとき、天が被造物において完全に実現されることになります。特に、霊的な方法で、神の民の間で実現されることになります。これがその目的であり、私たちは直ちにこれに目を向けます。
さて、この目的に関連して、別の支配的真理にも注意しなければなりません。しかし、最初に余談として述べたいことがあります。こうした語句の中にはとても馴染み深い語句もあります。それで私はいつも少し気がかりなのです。語句に慣れ親しんでいるせいで、その鋭さがやや失われてしまっているのではないでしょうか。「支配的事柄」というこの語句を使う時、立ち止まってその威力を感得しようではありませんか。これは次のことを意味します。すなわち、もし私たちがある法則の支配下にあるなら、私たちはその法則から逃れることはできないのです。自然界や、私たちの体や、この世には、諸々の法則があります。そこには諸々の法則が存在しており、たとえあなたがそれらの存在を無視したとしても、それらが機能を停止することはありません。やがて、それらの法則はあなたを滅ぼすものであることがわかります。やがて、それらの法則はあなたを排除してしまいます。しかし、それらの法則と一致するなら、それらの法則はあなたの救い、あなたの命となります。あなたの好き嫌いとは関係なく、それらの法則が「支配」しています。ですから、「人が蒔くものは何でも、人はまた刈り取ることになります」(ガラテヤ六・七)。これは法則であり、これからは逃れられません。このような法則が無数にあります。ですから、「支配的」法則や真理について述べる時、それは神がその宇宙の中に確立されたものであり、それを見いだして従うことが最善の道なのです。
器を選ぶ神の主権的選び
次に、神の御旨に関する、このさらなる支配的原則を見ることにしましょう。すなわち、神は器を選ばれるのです。その器は個人や集団・団体です。神は特別な方法でそれらの器を導いて、ご自身の全き御旨と関わりを持つようにされます。そして次に、彼らによってあることをなさいます。それが意味するのは、彼らよりも遥かに大きな群れを神は求めておられる、ということです。神は主権をもって諸々の器――個人的な器や団体的な器――を選ばれます――聖書はそのような事例に満ちています――次に神は、それらの器と共に、ある働きに取りかかられます。並外れた方法、遥かに完全な方法で、働かれるのです。それは、そのような選びの器による神の御業により、神が彼らを超えて他の多くの人々に手を差し伸べられるようになるためです。これが支配的な真理です。神は選びの器によって何かを行われますが、それはその器自身やその構成員を超えた、もっと多くの人々のためなのです。
代表的価値
さて、しばらくの間、この思想を考慮するために、立ち止まることにしましょう。なぜなら、私たちの知性には常に助けが必要だからです。この文章を読んでいる読者の多くが、「自分が特別な形で選びの器であるとは、私には思えません」と言ったとしても、それは大いにもっともなことです。この天の行路の開拓者としてこれまで述べてきた人々――アブラハムやモーセ等――のことを、あなたは考えておられることでしょう。「私はモーセやアブラハムではありません。どうして自分がその範疇に入るのか、さっぱりわかりません」と、あなたは言うかもしれません。
さて、そうかもしれませんが、他方、あなたたちの中には神に選ばれた人々もいます。その人々は、この性質を帯びた何かのために神に選ばれており、いわゆる一般庶民より抜きんでています。これはたしかにそうかもしれませんが、これ以外の面もあります――すなわち、あなたは集合的・団体的器の一部かもしれないのです。あなたはその器の一部にすぎないのかもしれません。あなたはそうなのかもしれません――そうである可能性が高いのです。「あなたはそうなのです」とすら言えると、私は思います。もし主があなたの上に御手を置いて、あなたの中にこの使命感、「自分は『一クリスチャン』となるためだけに召されたのではなく、それより優った何かのために召されたのです」という使命感、召命に関する強烈な感覚を与えておられるなら――もしこの感覚があなたの内にあるなら、「自分はさらに偉大な目的と関係している」と考えてもかまわないでしょう。もしそうなら、あなたは自分のことを一個人と見なしてはなりません。したがってまた、自分の経験や、自分に対する神の取り扱いについて、あたかも自分だけが選びの器であるとか、自分は何かとても特別な存在であるとか、見なしてはなりません。
反対の言い方をしてみましょう。集団的な器に対して神がなさっていることを、あなたは通っているところかもしれないのに、自分自身の個人生活に関するかぎり、あなたは自分が通っている経験の意義を全くわかっていないかもしれません。「どうして自分はこのような経験をしているのでしょう?」。あなたはもっと大きな全体の一部だからです――これがその答えです。自分が個人的に大きな圧迫下にあることに気づくことが、しばしばあります。記録を調べ始めると、私たちと霊的に関係している他の人々も同じ経験をしていることがわかります。これがからだの偉大な法則です。「一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体がそれと共に苦しみます」(一コリント十二・二六)。これは一体何なのでしょう?
これは集合的・団体的問題であることがわかります。それをすべて追跡することはできませんし、それがどう働くのかもわかりません。それでも、神は関連する形で何かを行っておられ、私たちはその一部なのです。私たち自身よりも遥かに大きな何らかの重荷を、私たちは負っているのです。この霊的関連性のゆえに、神のさらに大きなこの御旨の中に、私たちは巻き込まれています。この神の御旨は天と関係しており、この地よりも遥かに大きなものです。これが私たちを一つにするものです。これは何かに加入することではありませんし、会員名簿に登録されることでもありません。また、何かを行って、ある特定の群れの会員として自分を公にすることでもありません。そういうことではありません。あなたは数百マイル、数千マイル離れているかもしれませんが、それにもかかわらず、神がなさっているこの天的な事柄と結ばれているがゆえに、数千マイル彼方からの反響を感じているのかもしれないのです。あなたが天に入る時、こうした地的なものはみな過ぎ去ります。地理、距離、時間は、みな過ぎ去ります。そのようなものは天では通用しないのです。
教会の天的観念がわかってさえいれば!ああ、私たちが抱いている教会の地的観念は何と愚かしいことか!いわゆる教会に関して、私たちはこの地と、地にあるすべてのものを離れなければなりません。天では教会は単一であることがわかります。こうしたものはみな、天では通用しません。前の章でヨルダン川徒渉について述べた時、私たちはそこにいました。ヨルダン川で、何かを後にしました。人々は地的な立場を離れて、天的な立場に移りました。この点にはいずれまた戻ってくることにします。しかし、これは霊的現実とならなければなりませんし、そのような意識を私たちは持つ必要があります。なぜ自分がこのような惨めな時を過ごしているのか、自分には説明することも、理解することもできないかもしれません。しかし、天的な解き明かしによると、私たちは神のさらに豊かな御旨と関係している何かに巻き込まれているのです。そして、それとの関わりで、私たちは苦しんでいるのであり、この経験をしているのです。とても素晴らしいことに、時々次のような経験をします。霊的に交わりを持っている他の人々と会うと、彼らもまた私たちと全く同じ経験をしていたことがわかるのです。主は彼らに何かを語っておられ、彼らに何かを行っておられたのです。その神の語りかけや働きは、ありきたりのものや、普通のものではなく、何か非常に特別なことだったのです。
内在的価値
さて、これはみな、前に述べたことと関係しています。すなわち、神は個人的な器や集合的な器を選んで、彼らによって、もっとずっと大きな群れのために何かをなさるのです。これらの器は、個人的な器であれ、集合的な器であれ、何かを代表しています。その何かとは、さらに大きな規模で、さらに大きな領域で、神が追い求めておられるものです。それが彼らによって始まるのです。これが、「まず私に対して(中略)模範として」(一テモテ一・十六)というパウロの言葉の意味だと思います。この言葉でパウロが言わんとしたのは、彼は神が彼を通して行おうとしておられることの代表者だった、ということだと思います。主はさらに大きな領域で、諸教会、諸州、諸国民の間で、パウロを通して何かを行おうとしておられました。パウロはそれをすべて代表していたのであり、そのしるしだったのです。神はこの人を通して、もっと大きな規模で、働こうとしておられました――それはこの人に何か語る言葉を与えることによってではなく、この人の内で何かを行うことによってでした。
ここで私たちは迷ってしまったのです。神は最初に何かをなさいます。神は、ご自身のさらに豊かな御思いの生ける代表を生み出されます。それは、器に対する特別な、尋常でない、途方もない取り扱いによってです。このような器の生活や経験には、尋常なものはほとんどありません。すべてが途方もない、尋常ならざるものです。このような代表者たる器は、個人的器であれ、集合的器であれ、本質的な内在的価値を確立するために選ばれたのであり、その本質的な内在的価値はさらに大きな領域や領土のためのものです。それは拡大可能なものであり、自分自身を超えて遥かに進めるものであり、大いなる拡大・拡張が可能なものです。
化学では「母液」という言葉が使われています。それは拡散可能なものであり、まさにエキスそのもの、濃縮されたエキスです。しかし、どんな器であっても、その中にこの種のものを生じさせるのは――それは内在的な価値、濃縮されたエキスを生み出すためです――大変な働きです。それにはありきたりのものは何もありません。あなたたちの中には、経験的にこれを知っている人もいるでしょう。あなたに対する神の取り扱いは、決して普通の取り扱いではありません。「自分が経験しているこの濃縮過程は、とても厳しい!」と感じることもあるでしょう。「主からのこのような取り扱いの下で、一体どうしたら切り抜けられるのでしょう?」とあなたは怪訝に思うかもしれません。
私は聖書に密接に従っています。私が聖書とは無関係に話しているとは思わないでください。私の話には根拠があります。その根拠とは、神の御言葉の啓示です。これがアブラハムの経験でした――決してありきたりの経験ではありません。この人の上で神は集中的に働いておられました。それから益を受けた大群衆について考えてみてください。アブラハムは持ちこたえられない限界点に一度ならず何度も達しました。彼を切り抜けさせるために、神は介入しなければなりませんでした。天的性質のこの内在的意義は、人を最も試みるものです。人が関与するものの中でこれほど試みるものは、かつてあったためしがありません。
私たちの性質はきわめて地的であり、あらゆる面で地的です。私たちは自分の目で見ずにはいられません――目に見えるものは地です。私たちは感じずにはいられません――感じられるものは地です。私たちは完全な証拠がなければ気がすみません――ありったけの地的な証拠を求めます。しかし、神は私たちを地から引き離されます。地から全く引き離されます――つまり、霊的な方法によってです――そして、私たちをいわば中空に吊り上げられます。これはきわめて不安定な在り方であり、私たちを甚だしく試みるものです。自分がどこにいるのかわからず、わけがわかりません。自分の足を堅く地面につけて、「何があっても大丈夫」と感じることができません。神はあなたの力――損得勘定の力や理解力――をことごとく覆して、別の種類の知恵や理解力がなければどうにもならないようにされます。その知恵と理解力は、この地や、世や、人に属するものでは全くありません。それは天的なものです。これがこの天の行路の開拓者たちが経験したことでした。彼らが自分の地的状況の中から叫ぶのを聞いてください。時には、主に不平を言うことすらあったのです。エレミヤの言葉に耳を傾けてください――彼は弱り果てています。神が求めておられるのは、徹底的な内在的価値だったのです。
自発的務め
さらに、自発的務めです。この「自発的」という言葉に注意してください――組織化された務めではなく、自発的な務めです。このような時、あなたの存在から務めが生じます。これがおわかりになるでしょうか?あなたの存在から務めが生じるのです。太陽をとどめることができないように、その務めをとどめることはできません。
務めの開始に当たって、これを主は求めておられたことがわかります。主はまず最初に一組の人々や個人をとらえて、ご自身の務めを経過させられました。これはその物語を読むことほど簡単なことでは全くありませんでした。四福音書はこの弟子たちと主との間の三年間の交友の物語を網羅していますが、この四福音書を読むことはできます。また、地上における最後の日々の記録や、それから十字架の記録を読むことはできます。たしかに、この物語はそれ自体、途方もない物語です。しかし、この人々の内側で進行していた事柄の記録は全くありません。記録するのは不可能だったからです。この三年間でさえ、私はあえて言いますが、彼らは何度も何度も我慢の限界に達したのです。自分たちがどこにいるのか、これは何を意味するのか、これはどうなるのか、彼らはわかっていませんでした。彼らは、自分自身の観念や自分自身の知性の範囲内で、物事を理解しようとしてばかりいました。預言の光に照らして解釈しようとしてばかりいました。それを引きずり下ろして、教科書に沿ったものにしようとしていました。主は彼らを終始打ちのめされました。主は常に謎でした。彼らはこの人を理解できませんでした。主は決して教科書どおりに事を行わず、モーセにしたがって事を行うことすらされませんでした。主はすべてを覆されました。主は何をしておられるのでしょう?主の意図は何でしょう?
それから次に十字架です。この時の彼らの魂の苦悩や困惑の深さを読み取るのは不可能です。自分自身の経験から理解するしかありません。主がこのようなことをなさる時に経験することから、理解するしかありません――その時、主はあなたを困り果てさせて、あなたの期待にことごとく反することを行われます。「自分には主にそうしてもらう権利がある」と感じているものとは正反対のようです。あなたが期待していることを、主は行ってくださいません。自分に対する主の取り扱いのゆえに、瀬戸際に追い込まれることもあります。このような過程を通ってどん底の経験をした人々を、主は獲得されます。
次に、この人々を通して、主は諸教会を獲得し、信者の群れを獲得されます。そして、仕事が始まります。あなたがたんなる独立した個人ではなくなる時、一クリスチャンとしてもそうではなくなる時、団体生活特有の鍛錬や訓練が始まります。あなたは関係づけられた生活を送らなければならず、他の信者たちと関わらなければなりません。この団体生活、天の生活を、地上で生きなければなりません。これは決して容易ではないことを、新約聖書は示しています。あなたはこれを客観的に眺めて、「会衆の中にいるのは楽しいことです」と思うかもしれません。しかし、常に楽しいわけではありません。その会衆はこの経験を通っているところかもしれません。そこには何かが起きていて、神がその会衆を取り扱っておられるところかもしれません。それは時として、あまりにも徹底的で恐ろしいため、主が何を意図しておられるのか、あなたにはわかりません。皆がそう痛感します。これは困難な道であり、苦難の道です。私たちは一つの群れとして共に苦しみます。これは団体的な苦難であり、団体的な艱難です。こうして、この諸教会は生み出されて、この経験をくぐり抜けました。また、諸教会は教えも受けました。しかし、指示や教えを与えるために、諸教会に起きたことは何であれ、常にそれに平行するものがあったのであり、それに対応する聖霊の訓練があったのです。聖霊は諸教会の上に御手を置いて、劇的な方法で諸教会を取り扱っておられました。様々な出来事が起きていたのです。
「それでは、その例を挙げてください」と、あなたは言うかもしれません。コリントで起きていたすべての出来事を見てください。パウロが彼らに言ったことは何だったでしょう?「そのせいで、あなたたちの中には弱い者や病人が大勢おり、眠った(死んだ)者も少なくありません」(一コリント十一・三〇)。そこには、ある霊的歴史が隠されていました。聖霊がその状況を支配しておられました。コリント人たちはその状況を天然的な方法で見ていたかもしれません。「病の人がいます――医者を呼んでください」。しかし、少し待ってください。それには何らかの霊的要因が絡んでいるのではないでしょうか?「そのとおり!」とパウロは言います。病気はどれも罪を犯したためである、というわけではありませんが、原則がここにあります。聖霊は、神のさらに豊かな御旨に関して、教会を取り扱っておられるのです。
ですから、要点はきわめて明確です。神はまず個々の人々を獲得し、次に数々の群れを獲得して、彼らをこのような方法で取り扱われるのです。それは、彼らが自発的な務めを持つようになるためです。この務めは、彼らがメッセージや真理を受けたからではなく、神が彼らの内でなさった御業によります。務めは自然に生じるのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。どういうわけか、務めが生じます。こう説明するしか説明のしようがありません――すなわち、聖霊は何かに注意を払って、それを用いておられるのです。そこでの御業が拡大して行き渡るよう、聖霊は配慮しておられます。これは自然に生じます。パウロはテサロニケにある教会について、「主の言葉があなたたちから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響き渡っているばかりではなく、至る所に……」(一テサロニケ一・八)と言いました。「これはテサロニケ人たちが伝道者たちを遣わしたことを言っているにちがいない」と、あなたは思われるでしょうか?彼らはそうしたかもしれませんが、御言葉はそうは述べていません。その文脈を見てください。パウロがこう述べていることがわかるでしょう、「至るところの他の教会で、あなたたちのことが話題になっています。私があなたたちのことを告げるまでもなく、すでに知れ渡っているのです」。これは自発的な務めであって、神がなさったことから発しました。神は御手をもって掌握して、こうした内在的価値を獲得されます。そして、それを浪費するようなことを、神はなさいません。
ですから、神の目指しておられる目標が、神の僕たちに対する神の取り扱いを完全に支配します。天の豊かさが神の御旨です。そして、神はこの目標のために僕たちを選ばれましたが、この僕たちに対する神の取り扱いはみな、これがその動機です。神は天の豊かさをもたらされつつあります。
私たちは理解しなければなりません。神にとっては、何事もそれ自体が目的ではないのです。回心自体が目的ではありません。「回心自体が目的である」と見なして、大満足でそこにとどまるのは、恐るべき悲劇です。自分の回心や他の人の回心で止まるなら、何が起きるのかを見てください。何が起きるでしょう?使命感は消え失せ、回心の活力はすっかり弱まってしまいます。得られるのは、多数の回心者だけです。彼らは回心しています――彼らは主イエスを信じました。しかし、彼らは数は多いのですが、ただ回心しただけです。おそらく、今日の最大の問題は、この地上の至る所にいる多数の回心者たちです。彼らは止まってしまっています。回心自体が目的となってしまったのです。
集会生活自体が目的ではありません。主の民の一団を集めて、見かけ上、一つの団体にしたとします。しかし、彼らが自分の周りに垣根を巡らして、自分で自分のことを大したものと思い、自分たちだけで楽しい時を過ごすなら、この同じ事が起きます。もし主の働きそれ自体が目的となるなら――つまり、それが目標となるなら――ああ、またもや悲劇が起きます。私たちは何らかの形で主の働きに取りかかるかもしれません。それはいわゆる宣教の働きかもしれませんし、何か他の特別な働きかもしれません。やがて、その特別な働きは縮小していき、その領域は閉鎖的になるか、あるいは流れが止まってしまいます。そのため、もう一度すべてをやり直さなければならなくなって、すべてを失ってしまいます。働き自体が目的となってしまったのです。
さて、この点に戻りましょう――主があなたや、私や、ある群れの中で、この天の濃縮されたエキスをもって、このような性格を帯びた何かをなさるとき、何事もそれ自体が目的ではありません。その領域は変わるかもしれませんし、その形は変わるかもしれません。しかし、そのものは残ります。神はご自身が望んでいるものを獲得されますし、そのための道を見いだされるでしょう。ただしこれは、それがそこにあって、真に天的であるならばです。それを地に引き下ろすなら、私たちは自分自身の有用さや務めを断ち切るだけです。これは本当のことです。それをあなたの務めや、私の務めにするなら、それを地的水準にまで狭めてしまったのです。それは前進することなく、神の御旨を実現することもありません。
ああ、神の領域にある事柄を横取りして、それを自分たちのものにすることの恐ろしさ!ここで私は言いたいのですが、もしあなたが神から命令を受けているなら、もしあなたが天からの油塗りを受けているなら、もしあなたが神から賜った務めを受けているなら、それを自分のものであるかのように握りしめてはなりませんし、それを実現するのは自分の役目であると固執してはなりません。そうするなら、それは成就して、地も地獄もそれを阻むことはできません。油塗りは天からであり、油塗りの意義は全く天との関係の中に保たれなければなりません。そうするなら、天がその世話をしてくれます。パウロが牢獄に入れられた時、その務めは成就されました。それは天と関係していたのです。「天が支配します」(ダニエル四・二六)。しかし、もし私たちがそれを地に引きずり降ろすなら、天はそれを守ってくれません。この背後には膨大な歴史があります。
さて、神の御旨は天的で霊的な豊かさであり、これは段階的拡大の道によります。これを見たからには、その道が何なのかについて、大いに配慮する必要があります。天の行路とは何なのか、神の御旨に至る天の行路は何なのか、私たちは実際に配慮する必要があります。「これまでに書かれた事柄は、すべて私たちの学びのために書かれたのです」(ローマ十五・四)。このヨシュア記は、私たちの学びのためにこれまで書かれてきた事柄の一つであり、この天の行路の問題について多くの光を私たちに与えてくれます。しかし、天の行路は地の行路とはあまりにも正反対です。「神の御旨は霊的な豊かさであり、これに向かって神は働いておられるのです」と述べる時、何が起きるのをあなたたちは期待しているのか、私にはわかりません。何が起きるのを、あなたは期待しておられるのでしょう?この書の第一区分には、この問題に対する大量の光が含まれていると思います。
僕の精神
ヨシュア本人を見てみましょう。次のことを思い出してください。この箇所のヨシュアは、神の聖徒や神の僕たち全員に対する神の御思いを代表しています。また、神がヨシュアの内になさったことは、神の奉仕者全員の内に神がなそうとしておられることでもあります。神がヨシュアの内になさったことは、もっと大きな群れと関係していました。それでは、それはどのように始まるのでしょう?この書は次のように始まります、「主の僕モーセが死んだ後、主はモーセの奉仕者、ヌンの子ヨシュアに言われた……」――「奉仕者」という言葉は実際には「従者」です。この書全体を眺めると、「ヨシュアはもっとましな立場から始めてもおかしくなかったのに」と、あなたは思うかもしれません。モーセは主の僕であり、ヨシュアはモーセの従者にすぎませんでした。ヨシュアは「主の僕」というような正式な肩書きで紹介されているのではありません。そのような公式の立場で紹介されているわけでは全くありません。この同じ言葉がヨハネ・マルコにも使われています――「彼らは従者としてヨハネも連れて行った」(使徒十三・五)。従者とは何でしょう?従者の主要な特徴は、言われたことを実行する、この類の従順を会得していることです。力強いヨシュアでも従者にならなければならず、従者から彼は始めたのです。
私たちはみな、エリシャの偉大な意義を承知しています。何と途方もない地位をエリシャは得たのでしょう。彼にはエリヤの霊の二倍の分け前があり、エリヤよりも偉大な働きを行いました。エリシャについて「エリシャはエリヤの手に水を注いだ」(列王記下三・十一)と述べられているのを思い出してください。エリシャはエリヤの従者でした。エリシャはそこから始めたのです。
ヨシュア記十章では、「日よ、とどまれ」とヨシュアは太陽に命じました。聖書はこう述べています、「これより先にも、後にも、主が人の声をこのように聞き入れてくださった日は一日もなかった」。この人は天体に触れます。これは途方もないことです。それはどこから始まるのでしょう?モーセの従者からです!ヨシュアは従順を学びました。言われたとおりに行うこと、些事を行うこと、従順であること、へりくだった立場に立つことを学んだのです。ヨシュアにとってそれは容易なことだった、とは思わないでください。ヨシュアにも他の人と同じように大きな魂がありました。ある時、宿営の中でだれかが預言する出来事がありました。その時、ヨシュアはモーセのところに行って、「わが主、モーセよ、彼らをやめさせてください」と言いました。するとモーセは答えました、「あなたは私のために妬みを起こしているのですか?主の民がみな預言者だったら良かったのに……」(民数記十一・二六~三〇)。ヨシュアにも魂がありました。ヨシュアも自分の見解を主張することが可能でした。当時、ヨシュアは若かったのです。しかしここで、自分の生涯の一大事業の開始に当たって、ついにヨシュアが前面に立ちます。今、ヨシュアは神の主権的召命の真の御旨の中に入ります。そして、「主の僕モーセ(中略)モーセの奉仕者、ヌンの子ヨシュア」のこの物語が始まります。これが原則ではないでしょうか?これには何らかの意義があります。聖霊が聖書を記されたことを、私たちは常に覚えておかなければなりません――聖霊は、何をおいてもまず、霊的な諸々の原則を守られます。霊的原則がどんな見かけをしていても問題ではありません。時、場所、方法は問題ではありません。原則は常に同じままです。
レビ人はこの務めを二十五歳から始めましたが、三十歳になるまで完全な責任を負うことを許されませんでした。完全に独り立ちしたレビ人となるために、五年間、学びの下にいたのです。この従者の原則は、聖書全体にわたって有効です。準備の期間や段階が、完全な承認に常に先立ちました。従者としてこの期間のこの特別な狙いを学ばないかぎり、完全な承認は得られませんでした。その狙いとは、服従する能力、命令を受ける能力、従う能力、仕える能力を叩き込むことでした。自分はひとかどの者である、などと自惚れてはなりません。私たちの人となりは、私たちの内に形成されたものから自然に発しなければなりません。「神が自分を奉仕に召されるとき、神は直ちに必ず、御力と豊かさを大いに現してくださる」と期待しないでください。ヨシュアは長期間モーセの従者であり、その後はじめて、彼は後継者となり、モーセの霊がヨシュアによって現されるようになりました。神は深く掘り進まれ、皮相的なものを喜ばれません。私たちが神の全き御旨に関してどれだけ役に立つかは、私たちが試みによってどれだけ訓練されるかによります。忠実な従者となって柔和さを学ばないかぎり、私たちは決して霊的な指導者になれません。
ですから、憶えておいてください――天の事柄においては、後継者になることは決して公的任命にはよりません。決して人の選びにはよりません。当事者たちが自分で決めるものではありません。「自分は神がなさっていることの後継者である」と思ってはなりません。「自分はその中に入って、そこに地位を得ている」と思ってはなりません。あなたをそこにもたらせる人はだれ一人いないことは確かです。もしそれが天的なものなら、後継者になることは神の主権によるのであり、霊的な事柄です。神の主権がどう働くのかは、決してわかりません。しかし、次のことは大いに確かです。すなわち、神の御旨は、あなたの期待や、あなたの観念とは、反対に働くものなのです。
主権的恵み
次の行動は斥候の派遣でした。ヨシュアは斥候を遣わしました。その結末はどうだったでしょう?「全土があなたたちの前にあります。わたしはそれをあなたたちに与えました」。「今日、わたしは全イスラエル人の前に、あなたを大いなるものとし始めます」。さてそれでは、これは何かとても荘厳な事だったにちがいないのではないでしょうか?いいえ、遊女ラハブがこの状況全体の鍵だったのです。この女には良い評判はなく、悪い評判がありました。有名人の世界では、何の地位も立場もありませんでした。しかし、すべてがこの女にかかっていたのです。これは神の主権であり、恵みです。この二つによる以外に、天的な豊かさの土地に入ることはできません。偉大な者になるはずだったヨシュアでさえ、すべてがこの評判の悪い女にかかっていることを見いだしたのです。
神は奇妙な方法で私たちをへりくだらせます。神の偉大な事柄に関して、何か素晴らしくて、偉大で、輝かしい、高貴な事柄、何か評判の良いものを、私たちは探してばかりいます。しかし、神は私たちを低くして、全く認知されていない何かを、全く受け入れられていない何かを、受け入れざるをえなくさせます。神は私たちをある場所に置かれます。その場所では、賞賛されることを願っても、賞賛されることはありません。自分のことを影響力のある有用な者として紹介してもらいたくても、それは役に立ちません。この世のそのような線に沿って進んでも、どこにも辿り着けません。この女がエリコでどんな影響力を持っていたのか、見てください。彼女の言葉には重みがあった、とあなたは思われるでしょうか?そんなことは全くありませんでした。高位の者たちからの紹介はありませんでした。もしこれが天のものでなければ、すべてがそれに反対します。私たちはなんの助けも受けられません。そうです。むしろ、私たちは地上の法廷から追放されて、地上には道も立場もなくなってしまいます。それが天のものでなければ、そうなります。彼はこの問題の法廷で、影響力のある人々を得たわけではありませんでした。それは全く天のものでした。それは神の主権であり、他の何ものでもありません。
また、これは恵みによりました。ラハブはイエス・キリストの系図の中に含まれているからです。素晴らしいことです!新約聖書の系図を見ると――ラハブがいます!ああ、恵みです!何がラハブをこのような地位に就かせえたのでしょう?聖書の霊感を受けた記録の中に、イエス・キリストの系図の中に、何が彼女を入れえたのでしょう?恵み以外の何ものでもありません。この恵みは天のものです。全くそのとおりです。真に価値あるものが生み出される時は常に、主権的恵みによるのであって、他の何ものにもよりません。賞賛によるのでもありません。私たちは法廷から追放されます。私たちの主張を支持してくれるものは何もありません。天然的に頼れるものは何もありません。助けはまさにラハブの水準まで降りて行ったところにあります。考えてみてください、偉大なヨシュアでさえ、そこに来る必要があったのです。しかし、神の御言葉には常にこの原則があります。そのようなことがどれほど繰り返されるのかを、あなたに示せさえすれば!あなたはこう言うでしょう、「神はご自身の権益を損ない、御旨の成就を邪魔して、それをまさしく困難なものにする道を進んでおられるかのようです。これはどうしてでしょう?神は少なくとも尊敬できる人を選ぶべきではなかったでしょうか。たとえその人が重要人物や著名人ではなかったとしても」。しかし、神は評判の悪い人を用いられます。神がこのような道を進まれるのは、この問題を原則に適ったものにするためです。それは天のものでなければなりませんし、そうでなければ無に等しいです。いいえ、無よりもさらに小さく、さらに悪いのです。その女はエリコに対する鍵であり、エリコはその土地に対する鍵でした。神が用いられるのは、このような類の鍵なのです。
天然の人の排除
ヨルダン川徒渉の記事を見ると、イスラエル人が渡り終わった時、ヨシュアはこう命じました、「イスラエルの各部族から代表者を一人ずつ選びなさい。彼らは十二の石を取って、ヨルダンの川底に置き、それをそこに残さなければならない」。イスラエル全国民、すべての人が、川底に残されました。神の目から見て、人はこのような者です――ヨルダン川の川底に沈められて、そこに置き去りにされたのです。ヨルダン川で何かが後ろに残されました。この川を突っ切って、向こう岸に現れるものが、証しです。この証しは次の事実を証しします。すなわち、何かが後ろに置き去りになったということです。なぜなら、ギルガルがこれに直ちに続くからです。何かが後ろに置き去りになりました。それを川のこちら岸に持って来ることはできません。ヨルダン川に残さなければなりません。それには、なんの立場も、この天のこちら側にありません。この天然の人、人についてのコリント人のこの観念――は、この川底に沈みます。そして、神はこの天然の人をそこに残されます。水が天然の人を覆い、流れ続けます。天然の人は永遠に底にあって、葬られます。「この日まで、彼らはそこにいた」(ヨシュア四・九)。これが拡大の道です。
しかし、神はこれを私たちに適用しなければなりません。川底に置かれた十二の石の暗黙的意義の実際的適用はギルガルだったように思われます。この十二の石は、死んで葬られたキリストとの、神の民の合一を表しています――荒野で大いに姿を見せていたこの天然の人は、視界の外に追放されました。ギルガルはこの真理を取り上げて、永遠にそれを適用します。コロサイ二・十一~十二はこれを確証します。私たちは自分の魂の内に――私たちの肉の内に――十字架の切り離す働き――キリストの死を経験しなければなりません。たとえローマ六章の教理をすべて信じていたとしても、それにもかかわらず、私たち自身の内には大きな矛盾が存在しているかもしれません。肉の命や天然の命に、天は自分自身を委ねたりはしません。もし私たちが自分自身でいっぱいで、自分自身のことや、自分の働き、用いられること等について話してばかりいるなら、私たちは開かれた天の完全な恩恵にあずかれません。全く無意識のうちに、神に栄光を帰すことから脱線して、一片の働きや働きそのものに栄光を帰すのは、きわめて容易です。これが起きる時、雰囲気が変わります。そして、何かが起きたこと、雲が下ってきたことを、霊的に敏感な人々は察知します。天は全く透明であって、地の霧はそこに侵入できません。天的な豊かさには、私たちの霊の透明さが必要なのです。