「ヨシュアがエリコの近くにいた時、目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、『あなたは私たちの味方ですか。それとも、私たちの敵の味方ですか?』。すると彼は言った、『いや、わたしは主の軍勢の君として今きたのです』。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、『わが主は何をしもべに告げようとされるのですか?』。すると主の軍勢の君はヨシュアに言った、『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所だからです』。ヨシュアはそのようにした。」(ヨシュア五・十三~十五)
「……あなたたちの心の目を照らしてくださいますように。それは、その召しの望みがいかなるものか、聖徒たちの内にある嗣業の栄光の富がいかなるものか、あなたたちが知ることができるようになるためです。」(エペソ一・十八)
最初にはっきりさせておきたいのですが、ヨシュア記とエペソ人への手紙の対応関係を扱うつもりはありません。この一連の学びで私たちは一つの特定の思想に携わっています。これはみな、その思想を巡るものであり、それを中心としています。その思想とは、神の御旨は天的な豊かさを地上でご自身の民を通して、ご自身の民によって表現させることである、というものです。神が地の上に天を据えられた時から、諸々の時代にわたる神の取り扱いの行程はすべて、今も昔も、人の観点から見ると、霊的巡礼のようなものであり、天に向かって霊的に前進することでした。これが意味するのは、どこかの場所に向かって前進することでは必ずしもなく、神の御心にしたがっている何らかの秩序に向かって前進することです――主イエスは神の御旨について話された時、この秩序に触れて、「天で行われているように」(マタイ六・十)と言われました。それは、すべてを天と同じにすることです。天の行路、天の行程、天の旅はこれを目指すものであり、何ものにもまして、私たちはこの天の行路の性質を見ようとしています。次に私たちが見たのは次のことでした。すなわち、大半の人は回心の時に経験するこの道の始まりの部分しか知らないため、主は僕たちを起こし、その僕たちの内に天に関するとても深い働きを行って、他の人々のためにこの道を開拓されるのです。
さて、この点をもう少し追うことにします。今しがた読んだ二つの節により、天の豊かさに到達するというこの問題に関して、私たちはある特別な点に到達します。ヨシュア記後半の内容は、もちろん、人々による嗣業の相続、嗣業の分割・割り当て・所有で占められています。奇妙なことに、エペソ人への手紙はこれと対応しており、これを逆の方法で述べています。つまり、エペソ人への手紙では、神の民の内にある神の嗣業について述べているのです。「聖徒たちの内にある嗣業の栄光の富」(一・十八)。これを通り過ぎる前に、私は一言述べたいと思います。なぜなら、これは別のことを言っているわけではありませんし、何か他のことでもないからです。これは反対側から見た同じものなのです。
主が嗣業を獲得されるのは、主の民が真に天的な民となる時だけです。主が嗣業を獲得されるには、主の民はエペソ書に見られる所にいなければなりません。主の民が実際にこの地位やこの所有を獲得して、真に天的な民となる時、主はご自身の嗣業を獲得されます。「聖徒たちの内にある嗣業の栄光の富」を見ることが意味するのは、反対側から眺めると、主が私たちの内に嗣業をご覧になれる所に私たちが到達することです。主の民が主の御旨の場所にいるのを主がご覧にならないかぎり、主の民が天的な民として主の御心に応える民に実際にならないかぎり、主はご自身の嗣業を聖徒たちの内にご覧になることはできません。私がこれを述べるのは、人々が嗣業を獲得することに関する話と、主がご自身の嗣業を獲得することに関するこの話とについて生じかねない知的困難を片付けるためです。
さて、要点は、「キリストの内に嗣業があり、それは私たちや主のためです」という真理ではありません。「死と葬りと復活を通してキリストに結合される時、他方において、私たちは天的な豊かさの領域の中に入ります」という、聖書に示されている真理ではありません。いま強調している要点は、実際に天的な民となって、実際に所有を獲得することです――教理的、理論的、聖書的にそうすることではなく、実際にそうすることです。私は堅く確信していますが、あなたはこの真理を見つめ、熟考し、その描写の素晴らしさを認識しているでしょう。きっとあなたは自分の心の中にその観念を抱いているでしょう。しかし問題は、これをみな熟知していて、何度も教わってきたにもかかわらず、人々がそこに到達していないことなのです。彼らはそうなる域に実際には達していません――教理や教え等がどんなにあったとしても、またどんなに熟考したとしても、もし私たちがそこに到達していないなら、何の役に立つでしょう、何の益があるでしょう?ですから、私たちはこの道を見なければなりません。それは、あえて言いますが、私たちがそこに到達するためであり、それが実際のものとなるためです。
聖霊の主権
数ページ前で、ヨルダン川における準備的働きについて述べましたが、その直後に続くものを見ることにします。私たちはヨルダンの川底に何かを置き去りにしました。私たちの古い人は十字架につけられて、そこに残されました。私たちは古い人をそこに残し、古い人を水の中に葬り、古い人から離れ去りました。その後、またギルガルの後――すなわち、消極面、脱ぐ面の後――今や、積極面、着る面にやって来ます。これは実際本当に嗣業を獲得してそれを嗣ぐことであり、それまで常に目指していたものになることです。それまで常にこれを目指してきたのであり、エジプト脱出以来ずっとそうだったのです。モーセの歌はこれについて述べていました。そうです、紅海を渡って解放されたとき、それはこの偉大な預言的歌の中にあらかじめ示されていました。これは常に観念としては存在していましたが、何か遠いものでした。どこか彼方にあるものであり、日がたつにつれて、強まったり弱まったりしました。時には、強力で、明確で、積極的で、魅力的なものになることもありましたが、そうでない時は、色あせた、弱々しい、縁遠い、抽象的なものにすぎませんでした。
しかし今、この問題はまさに積極的な現在の問題になりました。準備がすでにすんだからです。先ほど読んだヨシュア記五・十三~十五のこの節に来ることにします。ヨシュアはエリコに向かって立ち、「目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持ち、こちらに向かって立っていた」。ヨシュアの内に戦闘心が湧き起こり、彼はその人に向かって行きました。「あなたは私たちの味方ですか。それとも、私たちの敵の味方ですか?」――おそらくこれは、「この質問の後半に対する答えが『はい』なら、容赦しないぞ」という意味だったでしょう――というのは、その時はまだ、ヨシュアは相手のことを人だと思っていたからです。その答えから、相手は人以上の者であることがわかりました。ヨシュアは降参し、敵対的姿勢を解き、ひれ伏して礼拝し、自分はこの御方の僕であることを告白し、指示を求めました。
この御方はどなたでしょう?前の章で述べたように、私はこう確信しています。すなわち、聖書のこの特定の箇所に登場するこの御方は、新約聖書における聖霊を表している、と。その証拠はたくさん挙げられると思います。しかし、聖書からそれについて論じることはせず――その場合――それがどのように効力を表すのかを見ることにしましょう。
この時、多くの変化がありました。この時まで、雲と火の柱が民の行程、行路、統治でした。これは聖霊であることをだれもが認めるでしょう。これは客観的な事柄であり、感覚に訴えるものであり、荒野の特徴です。あなたが渡って行って天に入る時、すべては御霊です。しかし、この時点では聖霊を見ることはできましたが、もはや二度と目にしなくなりました。聖霊は知覚の領域から消え去られましたが、何が起きてもそこにおられ、そこに大いに臨在しておられました。聖霊は主の軍勢の目に見えない君でした。これが一つの変化です。他にも多くの変化がありました。もはやマナはなくなりました――今や、土地の産物である昔ながらの穀物です。これは別の見方をすると、命のパン、天の食物です。これは別の領域に属するものです。これは復活のキリストであって、裂かれたパンである謙卑のキリストではありません。これは復活のキリストであって、天的な民の食物です。一方は荒野に属するものであり、これはその地に属するものです。このように違いをいくつも挙げていくことができます。ここのこの領域では、すべてが本質的に天的であり、新たな意味を帯びていることがわかります。言い換えると、すべてが本質的に霊的です。すべては感覚的なものでも、一時的なものでもなく、本質的に霊的です。
さて、聖霊は「私たちの嗣業の保証」(エペソ一・十四)であると、使徒パウロは述べています。ですから、ここのこの時点で登場する聖霊は、神のこの御旨が成就される保証です。聖霊は、ここから先は目に見えなくなりますが、他のあらゆるものの絶対的保証です。前の学びで述べたように、神の御旨のために油塗る聖霊の臨在は、その御旨の実現を積極的に保証します。その御旨の実現を可能ならしめるだけでなく、その実際の基盤ともなるのです。どうすればこれは実際のものになるのでしょう?教理、真理、観念を超えたもの――現存する実際になるのでしょう?
神は保証として御霊を与えてくださいました。御霊は保証であり、担保です。主として示された聖霊――まず、ここから積極面が始まります。アメリカ改訂訳では、この箇所は「君(prince)として」となっていることに注意してください。おそらく、「将(captain)」という言葉より、こちらの方が原文により忠実です。「主の軍勢の君として」。聖霊の主権が示されています。神の民の間における聖霊の絶対的主権――ここから積極面が始まります。人々に対して聖霊が示され、人々は聖霊を認識します。そしてそれに関して、何かがなされます。これは客観的真理ではなく、それに関して積極的になされる何事かです。ヨシュアはへりくだって、絶対的に服従し、降伏しました。
十字架がこの結果をもたらしました。十字架は常に聖霊の主権に導きます。ですから、ヨルダン川は聖霊の主権に導きます。十字架はこれを要求します。もし聖霊が主としての地位に就いておられないなら、もしそこに服従がないなら、あなたは十字架に戻った方がいいでしょう――戻って、あなたを象徴している十二の石を水越しにもう一度見た方がいいでしょう。もし聖霊が主でないなら、どこかが間違っています。あなたは十字架の事実に従っていません。
しかしこの箇所では、その霊的解き明かしによると、実際のところ、十字架は既成事実であることが当然視されています。人間生活には依然として過ちや弱さがあります――ヨシュアもそうでした――人には依然として過ちや弱さや欠点があります。それにもかかわらず、私たちの心、意志、知性に関するかぎり、十字架は私たちを打ち砕いて、聖霊のために道を拓いたのです。これが十字架の意義です――すなわち、御霊の主権の道が開かれて、御霊の主権により天的豊かさへの道が開かれたのです。
人による「征服」――人によるリバイバルと言ってもよろしいでしょうか?――と聖霊の働きとの間には、何と大きな違いがあるのでしょう!何という違いでしょう!このヨシュア記には大きな相違点が幾つも記されています。ここのこの違いはあまりにも大きいため、人は外に出されるほどです。これを考慮することは人には無理であり、人はその中に何の地位も持ちません。それはまさに人の推測能力を超えています。主はご自身の民をある領域の中に導かれました。その領域では、人のやり方とは全く異なっています。聖霊が主となられる時、あなたは事を進めるために何も組織する必要はありません。事を進めるために、神の働きをするために、リバイバルを起こすために、計画を立てたり、工夫したり、構想を練る必要はありません。自然に進んで行きます。これは天の動きです。それにはあなたがこの地位に就くことが必要です――聖霊のこの絶対的統治が必要です。人による活動には、必ず「地との接触」が伴います――その成功を保証する手段、方法、人々、ありとあらゆる道具立てが伴います――そして、その働きは大きな騒音や軋みをたてながら進んで行きます。それには人による支援が大いに必要です。さらなる援助で支え続けてやらなければ、それはいつ消えてしまってもおかしくありません。支えてやらないと、瓦解してしまうのです。
御霊の働きは決してそうではありません。しかし、この地との接触――これは深刻です。地との接触は常に死を意味し、常に停滞を意味します。聖霊の絶対的主権には、この地との接触に終止符を打つことが必要です――そしてこれこそ、くつを脱ぐようヨシュアが命じられた意味です。「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか?」。「行って、この土地を征服しなさい。行って、占領しなさい。行って、民を中に導きなさい」と主は告げられたでしょうか?いいえ、そんなことは全くありません。「あなたのくつを脱ぎなさい」。ヨシュアよ、あなたのくつを脱ぎなさい、そうすればあとのことはそれに続きます。この地との接触を断ち切りなさい、そして何が起きるか見なさい。あなたのなすべきことは、ただエリコの周りを歩くことだけです。これは人々のやりそうなことではありません。もしこれを人々に任せるなら、彼らはエリコを陥落させるために、途方もない軍事作戦を立てるでしょう!そんなことはせずに、あなたのくつを脱ぎなさい、そして何が起きるか見なさい。
もしこの解釈に疑問を感じるなら、この少し後で、ヨシュアがくつをはいたとき、あるいはイスラエルがくつをはいた時、何が起きたのかを見さえすればいいでしょう。アイで何が起きたでしょう?ギベオン人に関して何が起きたでしょう?彼らは自分のくつをはいて、地に触れたのです。その結果は――停滞、妥協、制限でした。あなたのくつを脱いで、それを脱いだままにしておきなさい。天のこの原則は、聖霊が前進し続けるための原則であり、霊的豊かさの原則でもあります。「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は天的な所だからです」。ここにあなたの立場はありません。ここに地のための余地はありません。ここにこの世のための余地はありません。ここに人々のための余地はありません。ここは聖なる所であり、天に対して聖別されています。ここから先は天が引き継ぎます。そうです、主に仕えるために起こされたこの偉大な僕といえども、天が引き継いだのです。主は主権をもって僕を選ばれますが、この主の主権は決して人の力に地位を与えたりはしません。主の主権は僕の過ちを決して容赦しません。ヨシュアやイスラエルに対してすら、そうでした。なぜなら、ヨシュアは、前に述べたように、すべての聖徒と主のすべての僕の代表だからです。
神の御旨に仕える聖霊
しかし、「あなたは私たちの味方ですか。それとも、私たちの敵の味方ですか?」というヨシュアの問いに対するこの答えに注意してください。どちらですか?私たちの味方ですか?敵の味方ですか?このためですか?あのためですか?「いいえ、わたしはこのためでもあのためでもありませんし、あなたの味方でも敵の味方でもありません。わたしは主の御旨のためです」。これがこの答えの真意です。「わたしはだれであろうと人々のためではなく、主の御旨のためです。わたしは、あなたが主のためにしようとしている、この働きやあの働きのためではありません。わたしは主の御旨のためです。わたしは主の御旨――永遠の御旨――に仕えているのです」。「いいえ、しかし……」。ああ、何事においてもこの力が得られさえすれば!私たちは、聖霊が私たちの運動、働き、務めを助けてくださることを願っています。「あなたは『私たちの味方』でしょうか?」と私たちは聖霊に尋ねてばかりいます。「わたしはあなたの味方です」とは、決して聖霊は仰らないでしょう。「主はご自身の民の味方です」という感覚もあります。「もし神が私たちの味方なら……」。しかし、反面、主はこうも言われます、「わたしはあなたの味方ではなく、あなたによって、あなたを通してなされるわたしの目的のためです。たとえあなたがイスラエルを代表していたとしても、また、主権によって選ばれて油塗られたヨシュアだったとしても、わたしはあなたの味方ではありません。わたしはあなたの味方ではなく、神の御旨に仕えているのです」。
要点はこうです。私たちは聖霊の働きの根拠と目的を識別しなければなりません。私たちは聖霊が何に仕えておられるのかをわきまえなければなりません。人々は主のために多くの計画を立てて案配しますが、失敗だらけです。それは、主が来臨して、それを引き受け、成就してくださらないからです。主のために案配、立案、計画されている事柄が、今日、どれほどたくさん世界にあることでしょう?しかし、それらはうまく行っていないように思われます。主はそうしたものにご自身を委ねておられないように思われます。これがまさに問題です。私たちは聖霊の目的を識別しなければなりません。御霊の目的は、地上で何かを行ったり、地上に何かを打ち立てることではありませんし、地上と関係している「くつ」をはいた何かを設立することでもありません。地上に何かを確立することは、全く御霊の目的ではありません。聖霊は絶対的に天的なものに仕えておられるのであり、聖霊の目的は、霊的な内なる方法で、この世からすべてを分離することに尽きます。おそらく、現在、これをさらによく示す必要があります。しかし、注意してください。最も重要なのは、神が何をしようとしておられるのかを知ることです。何であれ、この地につく事柄に、神はご自身を委ねたりはされません。神がご自身を委ねられるのは、ただ天につくものだけです。
抜き身の剣を持つ聖霊
さて、これが確立される時、次の事柄が続きます――これもまた途方もない事柄です。この御方は、主の軍勢の君として、抜き身の剣を手に持って、立っておられます。ああ、これは戦いではないでしょうか?これは戦争ではないでしょうか?ですから、聖霊が責任を担って、聖霊に完全に服従するやいなや、戦いが始まります。これについて勘違いしないでください。聖霊のバプテスマやその意義に関するあなたの観念がどうであれ――他にどんな意味があるにせよ――それはやむことのない戦いが直ちに始まることを意味します。それには他の意味もあるかもしれませんが、それは次のことを意味します――すなわち、避けられない戦いが始まるのであり、あなたは退役できない軍隊に入るのです。ここでは、年金をもらって辞めることは決してできません。あなたは最後までこの戦いの中にあります。
主イエスの場合、そうではなかったでしょうか?ヨルダン川、開かれた天、聖霊、荒野、悪魔――ここから主の務めが始まりました。直ちに――「イエスは悪魔の試みを受けるために、御霊によって荒野に導かれた」(マタイ四・一、マルコは「追いやられた」「強いられた」と述べています)。いわゆるペンテコステの日に、天が裂けて、御霊が降臨するやいなや、この戦いが始まりました。教会はこの戦いの中に投げ込まれ、それ以来、そこから抜け出たことはありません。もしこの戦いから抜け出ようものなら、それは教会にとって霊的損失です。聖霊のこの主権は、どういうわけか、直ちにこのような結果になります。聖霊は手に剣を持っておられ、その日の仕事が済むまで、それを鞘に収めません。
そうなのですが、これは比喩にすぎません。聖霊は、肉的な物理的戦いにはあまり関心を持っておられません。この戦争、この戦いは、聖霊ご自身の性質にしたがったものです。それは霊的であり、霊にしたがったものです――なぜなら、霊の軍勢がこれに従事しているからです。ですから、獲得するのは霊的戦いによります。実際本当に戦いが生じるのは、これがその一つの理由です。この点について説明する必要はほとんどありません。私たちはこれをよく知っています。一歩踏み出して霊的に獲得する時は必ず、争いに直面します。霊的増し加わりに向けて動いたり、行動したりする時、一挙手一投足といえども、必ず戦いを生じさせます。これは事実です。これは霊的戦いであり、私たちの理解力ではその性質を全く理解できません。「戦いはこの方面から始まる」と思ったとしても――戦いは別の方面から始まります。予想どおりに戦いが始まることは決してありませんし、自分にわかる形で戦いが始まることも決してありません。実を言うと、悪魔の攻撃に気づくことすらあまりないのです。悪魔の攻撃は、偶然や、不運や、何らかの間違いといったものによって覆われています――しかし、それが霊的生活に及ぼす影響を考えさえするなら、それはたんなる日常茶飯事を超えた、計画や知性に基づく何かであることがわかります。それは霊的戦いです。聖霊がこれを引き起こされたのです。
どうかこれを理解してください。これは多くの事柄を解き明かします。敵は「盲点」を利用して常に働きます!今日、敵が収めている成功の大半は、おそらく、主の民の間の「盲点」のせいだと思います。偏見は「注意」と称され、疑念は「目をさましていること」と称されています――悪に美名が付けられています。敵はこれに長けています。あなたの偏見は、悪魔が造り出した盲点かもしれません。敵はこの盲点を造り出す機会を見つけました。そして、それが道に立ちはだかって、あなたが霊的で天的な豊かさを得る邪魔をしています。今日、主の民はこの罠にかかっており、この世が優位にあります。神の民が偏見や疑念を抱いているせいで、天の行路による霊的拡大や増し加わりは邪魔され、駄目にされています。「敵がこれを行ったのです」。
エペソ人への手紙は、天のあらゆる豊かさを提示して見せており、それに関する霊的戦いも見せていますが、どうして使徒は「心の目を照らされて」見えるようになるようにと祈っているのでしょう?どうしてその必要があるのでしょう?目を見えなくさせるこの働きと、これらの盲点のためです。聖霊に信頼して、「すべてのことを教えてくれる」(一ヨハネ二・二七)、また何が正しくて何が間違っているのかを示してくれる、聖霊の内なる油塗りを知る代わりに、偏見、閉ざされた知性、疑念、間違った恐れに所を得させるなら、すべてが失われかねないからです。「『念のため』用心しなければならない」と感じる時、あなたは聖霊に対して用心しているのかもしれません。これを多くの人は行っています。これが戦場です。霊的にこれはそのとおりです。それはとても邪悪で狡猾です。
しかし、この霊的戦いには別の面もあります。どうして聖霊はこの戦いを生じさせられるのでしょう?どうして聖霊はこの戦いを引き起こされるのでしょう?「戦いは敵から始まる」と、あなたはごく自然に思うかもしれませんが、どうして聖霊が戦いを開始されるのでしょう?どうして、毎回、聖霊ご自身が戦いの端緒となられるのでしょう?主イエスの場合そうだったことを、私たちは見ました。それは意図的なものだったのです――なぜなら、はっきりと、確かに、まごうことなく、こう記されているからです――「イエスは悪魔の試みを受けるために、御霊によって荒野に導かれた」――聖霊がこの件を握って、それを開始し、引き起こされたのです。聖霊は教会にもこうされました――ご自身がなさっていることを知りつつ、意図的にそうされたのです。聖霊はまるでこう言っておられるかのようでした、「さて、わたしは彼らを速やかに、一直線に、戦いの中に導きましょう」。どうしてでしょう?
一つには、これは霊的事柄、霊的嗣業の問題だったからであり、霊の勢力が嗣業を占有していたため、それらを追い出す必要があったからです。しかしまた、私たちが霊的に成長するのは、ただ戦いのみによるためでもあります。主は私たちに関心を寄せておられます。語り手が講壇に上って、こう言うなら、おそらく私たちは辛く感じるでしょう、「あなたたちが不遇の時を過ごしているのは、主があなたに関心を寄せておられるからです。悪魔はあなたを鎖につないで攻撃することを、大いに許されています。それは、あなたの幸いを主が最も気にかけておられるからなのです」――このような言葉を受け入れるのは、おそらく困難でしょう。次に敵が来て、酷い働きを始める時、「ああ、主は今日、私を愛してくださっています」とは到底言えないでしょう!そうは言えないものです。しかし、戦いがなければ、霊的進歩も、増し加わりも、成長も、進歩も、全くありえません。これは事実であり、経験や歴史に適うことであり、したがって、原則に適うことではないでしょうか?これは事実です。成長する唯一の方法は、征服すべき何かを持つことによるのであり、霊的生活で何とか支配することによります。これが自然の法則であり、恵みの法則です。戦いなしに進歩はありません。戦いのたびに、神に対してこのような見方をすることができますように!事実、これがそうであることを私たちは信じています――しかし、ああ、この真理に巻き込まれることから、私たちをお救いください!
そんなことではだめです。主が関心を寄せておられるのは、実際に嗣業を得る人々です。理論的、教理的、聖書朗読に基づいてではなく、実際に嗣業を得る人々です。あなたが真に聖霊の統治の下に来る時、あなたは実際の道に入ります。そして、この道は実際のものであって、大いに実行的なものであると、主は確信しておられます。
エリコが代表的な例です。原則的にこれは常にそうであることの、大いなる実例です。すでに述べたように、まず第一に、あなたは天的立場に立たなければなりません。地的立場に立つのではなく、人のやり方に倣うのでもありません。最初にアブラハムについて見たこの原則がエリコで働きました。アブラハムは自分で行動しようとして、恐ろしい失敗を犯しました。地に触れてしまったからです。モーセもまた、自分自身の手で何とかしようとして、エジプト人とヘブル人を攻撃した時、恐ろしい失敗を犯しました。エリコではその教訓が活かされています。ヨシュアはこうした霊的歴史全体から教訓を学びました。エリコでは肉の武器が何もないことがわかります――そこには人の理屈は何もなく、何も人に委ねられていません。もしこれが天的でないなら、それは無です。地上では、このような出来事は起きません。もし天的立場についていないなら、もし天が介入しないなら、七日間だけでなく、たとえ一生その周りを歩いたとしても、何も起きないでしょう。エリコでは人は脇にやられ、全く排除されます。これは天的なことです。
さて、これが基礎です。その後直ちに次のことがわかります――敵は、公の抵抗では成功できないとなると、もっと巧妙な戦術を試みるようになるのです。あなたや私が天的立場にとどまって、それを守るかぎり、敵は公の抵抗で成功を収めることはできません――それを守ってください。それがエリコの意義だからです。イスラエル人は初日にこの立場を取っただけでなく、それを保ち、守り、承認して、最後の日には、それを七回確証し、自分たちの天的立場を保ちました。彼らは諦めませんでした。一日目や、二日目ですら、私たちはやり抜けるとはかぎりません。信仰によってこの立場を保たなければなりません。この立場をこのように実際に保つなら、敵にとっては全く最悪です。このような道筋で最悪の目に遭う時、敵は可能なら、何とかしてそれを覆して、敗北に追い込まなければなりません。ですから、敵は狡猾な方法で働くのです。
ギベオン人の場合が、そうではなかったでしょうか?彼らは狡猾に働いて、「地の接触」を生じさせました。アイでのアカンも同じです。バビロンの衣と金塊――それは地の接触でした。地の接触は必ず、公然たる明確な直接的形で、霊的戦いにつながる、と思ってはなりません。次の面を私たちは見なければなりません。すなわち、敵は地と接触するよう誘導しているのです――呪われているもの、神にとってそれと一緒に進むことができないものとの接触を生じさせるものを、敵は持ち込もうとしているのです。
これはどのようになされるのでしょう?彼らがギルガルから離れてしまったことを、もちろん、あなたはご存じでしょう――ギルガルは肉が転げ落ちた場所であり、肉が除去された場所です。しかし、イスラエル人はエリコの後、ギルガルに戻りませんでした。真っ直ぐアイに向かいました。それに対して、前進するたびに、あるいは戦いのたびに、必ずギルガルに戻ることが慣わしでした――ギルガルに戻り、ギルガルから再出発することが慣わしでした。今回、彼らはギルガルに戻りませんでした。進み続けたのです。
十字架の近くにとどまりましょう。「主は自分たちを祝福し、繁栄させ、成功を与えてくださったので、先に進み続けることができる」と、決して思い込んではなりません。決して一瞬たりとも、十字架から離れてはなりません。十字架を後に残して、それから去ってはなりません。十字架は常に私たちと共になければなりません。十字架は私たちの安全保障です。
これが天の行路であり、この天の行路の性質全般であり、神の御旨への道です。主よ、私たちをその中に保ってください。