「彼らは民に命じて言った、『レビ人である祭司たちが、あなたたちの神、主の契約の箱をかつぐのを見るなら、あなたたちはその所を出発して、そのあとに従わなければならない』。」(ヨシュア三・三)
まず最初は、「レビ人である祭司たちが、それをかつぐ」という句です。彼らは契約の箱をかつぎました。これが今回の考察の鍵です。
このヨシュア記では、レビ人たちが大きな役割を果たします。何度も彼らについて述べられています。実に、ある箇所では、一つの章全体が彼らの周辺を巡っています。天の豊かさにまつわる、このレビ人の意義こそ、聖霊の助けにより、私があなたたちに示したいことです。私たちの多くはレビ人の歴史を熟知していますが、まずは、その概要を急いで見る必要があります。
このヨシュア記では、レビ人が三つの方法で示されています。第一に、たったいま見たように、契約の箱をかつぐ者としてのレビ人です。彼らは契約の箱をかついでヨルダン川の川底に行き、契約の箱と共にそこに立ちました。レビ人と契約の箱、それから民との間には二千キュビトの隔たりがありました――五章で見たように、とても長い距離です。次に、第二に、ヨシュア記十四章では、レビ人には何の嗣業も与えられなかったことが述べられています。つまり、土地を分割するとき、他の部族とは異なり、彼らには特別な土地が割り当てられなかったのです。彼らはその地で何の嗣業も受けませんでした。しかし第三に、レビ人を巡る章である二一章では、すべての部族がレビ人に、区画や土地を与えなければならなかったことを見せています。レビ人はすべての部族の間に散らされました。彼らの土地や分け前は一箇所にはまとまっておらず、この国全体と関係していました。ですから、レビ人はその全土中の至る所に散らされて、他の民と関わりを持った、と言えます。これが、この書における、レビ人にまつわる三つの点であり、素晴らしい意義に満ちています。
レビ人は天的な御心を示す
彼らの意義は何でしょう?過去に戻ることにしましょう。レビ人がどのように一つの部族として誕生したのかは覚えておられるでしょう。イスラエルがエジプトを出て、金の子牛を造った時のことです。彼らは「イスラエルよ、これがあなたたちの神々です」(出エジプト三二・四)と叫び、主を離れてしまいました。モーセは山から下りてきて、これを見聞きし、その子牛を破壊しました。そして、門のところに立って叫びました、「『すべて主につく者は私のもとに来なさい』。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、『イスラエルの神、主はこう言われる、あなたたちは、おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』。レビの子たちはモーセの言葉どおりにした」(出エジプト三二・二六~二八)。レビ人は天の権益のために地的思いをすべて犠牲にし、天の御旨のために地的関係を完全に断ち切りました。天然的な感傷や感情から出たもの、魂からにすぎないものを、神の民のエジプト脱出の支配的原則という観点に照らして、すべて犠牲にしたのです。なぜなら、神の御心によると、彼らは天的な民になるべきであり、この世を支配している霊的体系にこのように巻き込まれることがあってはならないからです。これだけでも、レビ人は神の天的御心を表していることがわかります。レビ人がそうしなければならなかったのは、とても抜本的かつ徹底的なことだったのではないでしょうか。
主は決してそれをお忘れにならないことがわかります。旧約聖書の最後の箇所、最後の書であるマラキ書は、バアル・ペオルの出来事について述べています。その時、イスラエルは金の子牛を造りましたが(民数記十四章)、ピネハスは天の権益という当初の立場を守りました。そこで主は言われました、「わたしの命と平和の契約は彼(レビ)と共にある」(マラキ二・五)。「彼は自分の兄弟を認めなかった」(申命記三三・九)。つまり、彼は自分の身内ですら、神の高い御旨から離れ去るなら、同情をもって見なかったのです。神はレビと契約を結ばれました。ですから、まず最初にレビ人が選ばれ、イスラエルの残りの部族から分離され、イスラエルの中で長子の地位を占めて、長子の部族となったのです。このことから、あなたたちの多くは、直ちにヘブル人への手紙を思い出すでしょう――「あなたたちが来ているのは(中略)天に登録されている長子たちの教会です」(ヘブル十二・二二、二三)。ここで天的な事柄が再び登場します。天に登録されている長子たち――これはレビ人であり、天的御思いです。
さて、五章で述べたように、少なくとも二千キュビトというこの隔たりがありました――ここで使われているキュビトが三つの内のどれかはわかりませんが、この隔たりは少なくとも千フィート以上あり、おそらく三千フィートを超えていたでしょう。契約の箱と民との間には大きな隔たりがありました。これは、救いの働き、贖いの働き、解放の働きにおける、キリストとその他の者たちとの間の膨大な隔たりを示しています――しかし、レビ人たちが契約の箱をかつぎました。こう言う人もいるかもしれません、「これは矛盾ではないでしょうか?キリストは他のすべての人たちから離れて、ひとりで立っておられます」。しかし、レビ人の原則がわかります。レビ人は天的なものを代表しています。すなわち、天のキリストを代表しているのです。レビ人がそこで契約の箱をかついだのは、この原則を示しています。それはたんなる地上のキリスト、史的イエスではありませんし、大いに優れてはいるものの、人々の間のたんなる一人でもありません。天的な御方です。
もしこの原則の証拠が欲しければ、ダビデの時代の出来事を思い出してください。ダビデは契約の箱を携え上ることについてイスラエルの長老たちと相談し、そのために荷車を造りました。ダビデはこの発想をパレスチナの地から得ました。サウルが統治していた間、ダビデはパレスチナにいましたが、そこでパレスチナ人が荷車を造るのを見ました。彼らは契約の箱を荷車の上にのせ、悲劇が起きました。ウザが主の御前で死んだのです。ダビデは主の御前で大いに悲しみました。その日、主が断ち切ったからです。しかし、ダビデの人柄はあのとおり、主に対して常に柔軟だったので――ダビデの素晴らしい点の一つは、その柔軟性です――主と延々と論争しませんでしたし、主もダビデに対してそうされませんでした。ダビデは主に戻って、おそらく、この問題について論じようとしたでしょう――しかし、主が議論に勝利されました。主はダビデを聖書に連れ戻して、レビ人が契約の箱をかつぐべきことを示されました――レビ人は道具や組織ではなく、天的な民であり、レビ人がイエスの証しを運ばなければならないのです。
そこで、レビ人が契約の箱を運びます。この天的性質こそ、レビ人の機能の原則です。そして、これはもちろん、レビ人は地上に嗣業を持たないおかげです。レビ人は地に属さず、天に属します。この地上に根ざしません。レビ人は天的事柄を代表する人々であり、神の民全体の間に散らされます。それは、神の民が天との接触を保つためです。神の民には地的になる傾向が常にあります。これが何世紀にも及ぶ、教会の危機であり、悲劇です。教会は常にこの地に引かれており、人の流儀にしたがって、この世の観念にしたがって、地的なものになりつつあります。
主はご自身の民の間にレビ人を必要としておられる
さて、要点はこうです。主は、苦難を通して、十字架を通して、犠牲を通して、分離する深い働きを通して、次のような人々を得なければなりません。その人々は、感情や地的利益を考慮して妥協しなかった人々です。また、今も昔も、御子と教会に関する主の全き天的御心のために、あらゆる代価を払って立つ人々です。主はそのような人々を得なければならず、その人々を至る所に分配して、ご自身の民との活き活きとした関係の中にもたらさなければなりません。それは、主の民が地に向かうこの傾向に屈しないように守るためです――主の民がこの世に向かわないように守るためです。
本部は天にある
これがまさに新約聖書で起きたことが、わかるのではないでしょうか?これを見るとうっとりします。新約聖書に入ると、型や絵図を後にします――あなたたちの中には型や絵図にあきあきしている人もいる、と私は期待します。旧約は型や絵図でいっぱいです。その実際を見るのは素晴らしいことです。使徒行伝に入ると、これがすべて繰り返されていることがわかります。何が起きたのでしょう?天におられる主イエスから始まります。本部は天にあり、今や統治は全く天でなされます。次に、聖霊が来臨して、すべてを天的なものにし、天と連携してすべてを支配されます。これが前章で述べたことです。主の軍勢の君が来て、天と連携してすべてを管理されます。そして、すべてが天から動き始めたのです。
まず最初に、エルサレムで天からの動きがありました。それは天からの力強い動きであり、いくつもの出来事が起きました。しかし、しばらくたった後の傾向に注意してください(もちろん、この期間の物語は数語で述べられているだけですが、かなりの期間を網羅しています)。しばらくすると、エルサレムは地に向かって引き寄せられ、教会の地的本部になる傾向を帯びました――傾向を帯びたたけでなく、実際にそうなりかけていました。主の命令では、エルサレムは開始点、出発点となるだけでした。「エルサレムから始まって」。エルサレムは決して、包括的・最終的なものになるべきではありませんでした。それなのに、エルサレムはある種の本部となって、教会を支配したのです。使徒行伝を読み進んでいくと、この類のことが発展していくのがわかります。天的な人であるパウロを少し見て、彼がどれほどエルサレムを拒否しているのかを見てください。
しかし、使徒行伝の七章になると、ステパノの石打ちがあります。これがエルサレムの終わりです。この時から、天は再び自らを強く主張して言います、「だめです。地的センターや本部があってはなりません。本部は天にあります」。この時、人々はみなエルサレムから散らされました。人々はかき回されて、古巣から放り出され、あらゆる方向に向かって行きました。彼らの行く先々では、ピリポだろうとだれだろうと、至る所で天の主を証しして、諸事の天的側面を導入しました。そうです、至る所にこのレビ人たちが置かれて、全世界と関わりを持ち、諸事を天の行路に保ったのです。こうして、これはこのように進展していきます。
九章に移ると、天の途方もない動きの一つがあります。サウロがエルサレムから出発して、ダマスコへの途上にありました――エルサレムがサウロの本部でした。彼は大祭司や支配者たちから権限を得ました。サウロに関するかぎり、エルサレムが支配しています。しかし、旅の終点に着く前に、天が支配しているのであって、エルサレムではないことを、彼は見いだしました。天が裂けて、天から光が照らし、天からの声がありました。タルソのサウロにとって、これが地的性向の終わりでした。この瞬間から、彼は天的な人になりました――その後ずっと、この人が天と連携して動く様子を見てください。これを詳しく追いかけることもできます。しかし、ここに一人の力強いレビ人がいたのです。こうして、もはやエルサレムではなくなり、アンテオケになりました。主はエルサレムから動かれました。アンテオケは純粋に霊的なものです。エルサレムはクリスチャン機構のセンターになってしまいました――しかし、アンテオケには機構はありません。アンテオケにあるのは、今やエルサレムに置き換わるものであり、断食して祈る一群れの人々です。そこで、天が介入して、「わたしのためにバルナバとサウロを聖別しなさい」(使徒十三・二)と聖霊は言われました。
このように、証拠を挙げ続けることもできます。しかし、要点は何でしょう?神の観点、神の御心によると、すべては天と連携していなければならず、天から治められなければならないのです。これは明白ではないでしょうか?天的豊かさが、ご自身の民に対する神の御旨です。ご自身の民を天的な民にして、ご自身の天の豊かさで満たすこと、これが神の御旨です。最後の箇所では、新しいエルサレムが登場します――古いエルサレムではなく、新しいエルサレムです――新しいエルサレムが、大いなる天の豊かさを帯びて、天から出て神から下って来ます。このエルサレムは巨大です――どの方向も一万二千丁です(黙示録二一・十六)。ここには大いなる豊かさがあります。諸国民はみな、自分たちの力をそこから得ます。その命の木の実や、その命の川の水は、すべての諸国民のためです。その光は、すべての諸国民のためです。「諸国民はその光の中を歩む」(黙示録二一・二四)。これが天的豊かさであり、主は常にこれに向かって働いておられます。
主は今、あなたや私の内で働いておられます。私は時々思うのですが、私たちには二つの人格があります。一つは地上にあり、一つは天にあります。もともと私たちは地上にいますが、私たちの内には常に「上って行く」何かがあります。主は私たちの内に天からのものをさらにもたらされつつあります。それは天に蓄えられています。主がご自身のことを、地上にいるにもかかわらず、「天にいる人の子」(ヨハネ三・十三)と言われた時、主が言わんとされたのは、おそらくこれではなかったでしょうか?私たちには天で成長している面があります。天を遠い惑星のように思わないでください。私たちはこの天的思想によって成長しつつあります。私たちから何かが「上って行き」つつあります。
教会はそのようなものである、と私は信じています。真の教会は目に見えないものです。実際のところ教会が何なのか、御霊によらずに知ることはできません。ある特定の場所に集っている人が教会である、とは言えません。特定の教理やキリスト教の真理を告白する人々が教会である、とは言えません。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。しかし、御霊の中で集うなら――これは触れないものです――そこに教会があります。教会はこのようなものであり、これがその天的性格です――そして、これは言わば常に「上って行って」おり、やがて満ち満ちた形で天から出て下って来ます。教会は今、そのような方法で建造されています。教会はこうあるべきことが、神の御旨です。
しかし、私の今の要点はこうです。主はこの種の代表を――それが個人であれ、群れであれ――地上でご自身の民のそばに置かなければならないのです。それは、ご自身の民を天との接触の中に保つためであり、天的な事柄を常に視野に保つためです。レビ人の機能の一つは、神の御言葉を教えることでした――つまり、主の民を神の御心との接触の中に保つことでした。これは形式の問題ではなく、機能の問題です。自分のことをレビ人と称する必要はありませんし、「先生」と称する必要はなおさらありません。肩書きを帯びるのではなく、この原則を理解してください。もしこの地上で人々を天との接触の中に保っているなら、もし天的な事柄とつながっているなら、もし私たちがいることで人々が建て上げられているなら――これは必ずしも説教によるのではありませんし、身を入れて取り組んで、「さて、このことやあのことを見てください……」と言うことによるのでもありません。そうです、これはただ私たちがいることによってであり、私たちが天の命、性質、豊かさを現すことによってです――私たちが地上にいるおかげで、人々が神のさらに豊かな御心を見るようになるなら、たとえ肩書きはなくても、私たちはレビ人なのです。これが主が得なければならないものです。
これは個人としてであるかもしれません。主はご自身の民を配置されました。まさにこの書では、天がこの民、諸部族を配置して、「あなたはここにいなさい。ここがあなたの場所です」とお告げになりました。主権をもって主はあなたたちを配置して、あなたたちのある人をドイツに、ある人をポーランドに、ある人をイギリスに、ある人をアメリカに置かれるでしょう。主があなたの人生を案配される時、あなたは天の配剤によってその場所にいるのです。それは、あなたが天との架け橋となるためであり、諸事が霊的に地的水準まで落ち込まないよう守るためです。
これはまた、もちろん、新約聖書における諸教会の意義でもあります。主の民をここかしこに、至る所に植え付けて、団体的にレビの務めを果たさせること――これが神の御思いです。それは天を近くに保つためであり、諸事を天の近くに保つためです。ああ、すべての教会がこのように諸事を天の近くに保つものだったなら!
さて、これが出発点です。もっと多くのことを述べることができます。今、新約聖書のすべての手紙の考察を開始して、その完成を見ることもできます。ローマ十二章から始めることもできます――なぜなら、この章はレビ人の原則を示しているからです。「ですから、兄弟たちよ、私は神のあわれみによってあなたたちにお願いします。あなたたちの体を、聖なる、神に受け入れられる、生きた供え物としてささげなさい。これがあなたたちの霊的な奉仕です。この世に倣ってはなりません」。これがレビ人の原則であり、生ける供え物となって、この世にかたどられないことです。このように最後まで続けることができます。しかし、私たちの共同の黙想の大いなる結果は次のとおりです――すなわち、私たちは天と連携してここにとどまり、天の統治下にとどまって、天的な事柄をもたらさなければならないのです。私たちは天と連携して奉仕しているのです。パウロは天のビジョンを見て、それに対して不従順ではありませんでした。私たちの度量や召しに応じて、私たちもこうでなければなりません。パウロは天的な事柄のために犠牲を払い、苦難を受けました。この親愛なる人のおかげではないものが何かあるでしょうか!しかし、パウロは最後まで、天に対して何と忠実だったのでしょう――投獄され、鎖につながれても、天上以外に何も話さなかったのです。
「自分の状況はあまりにも困難で、天をもたらすことはできない」というのでしょうか?もちろん、困難な状況はあります。ダニエルの状況は困難でした――その三人の仲間たちは困難な状況にありました。しかし、彼らは天をもたらしました。ダニエル書に記されている偉大な句は――「天が支配する」(四・二六)です。彼らはこれを証明しました。本部は天にあります。バビロン、ローマ、エルサレム、他のどの場所でもなく、天にあります。主は私たちを助けて、私たちが天に向かって生きるように、また天から生きるようにしてくださいます。
さて、最後に、この一連のメッセージのこの特別な目的を、再び示すことにします。
神にはただ一つの目的しかありません。それは神を完全に満足させるものであり――「キリストの豊満」です。この豊満は、諸国民の中から召された一つの民の中に見いだされるべきものです。この民により、この豊満をもって、来たるべき代々の時代、被造物を治めることが神の御旨です。これは否応なく実現されるものではなく、今、無限の代価を払って戦うことによってのみ実現されます。
「脱落する」者はみな、この究極的なものの「中に入る」ことはありません。この道を最後まで行き、すべての条件を満たして、「自分の召しと選びを確かなものにする」人々は、多くないでしょう。しかし、多くの人はこの王国に入って、それぞれの度量に応じて、多かれ少なかれ、嗣業を嗣ぐでしょう。
全き御旨に到達するには、開拓者たちが必要です。開拓者たちの道は特別な道であり、他の人々がほとんど知らない、様々な経験、苦難、困惑、試みに満ちています。
しかし、神はご自身の開拓者たち――個人であれ、群れであれ――を得なければなりません。この人々は
「主に全く従う」
人々です。