第6章 コロサイ人への手紙

T. オースチン-スパークス

このコロサイ人への手紙に来るにあたり、基礎を据えるために、この比類ない一章からいくつかの節を読むことにします。

「そういうわけで私たちもまた、それについて耳にして以来、あなたたちのために絶えず祈り求めています。どうかあなたたちがあらゆる霊的知恵と理解力をもって彼の御旨を知る知識に満たされ、主にふさわしく歩んであらゆることで主を喜ばせ、あらゆる良いわざで実を結び、神を知る知識が増し加わりますように。また、あなたたちが神の栄光の大能にしたがってあらゆる力をもって強められ、何事も喜んで耐えかつ忍んで、御父に感謝するようになりますように。御父は私たちを光の中にある聖徒たちの嗣業にあずかるに足る者とならせ、私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子の王国の中に移してくださいました。この御方にあって、私たちは贖い、罪の赦しを受けています。御子は見えない神のかたちであり、全被造物の長子です。なぜなら、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、万物は御子にあって創造されたからです。万物は御子を通して創造され、御子へと至ります。御子は万物よりも先にあり、御子にあって万物は成り立っています。そして、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。それは、すべてのことにおいて御子が第一の者となるためです。なぜなら御父は、御子の内に全豊満を宿らせ、その十字架の血を通して平和を造り、万物をご自身と和解させることを喜びとされたからです。御子を通して、言わば地にあるものも天にあるものもご自身と和解させられたのです。」(コロサイ一・九~二〇)

さて、この御言葉は福音について語る上で良い基礎です――これが福音であることにどうか気をつけてください。これはみなパウロが「良い知らせ」と称しているものです。これがパウロが宣べ伝えたものです――「私が宣べ伝えている福音」。この手紙では、この「福音」という言葉は他の手紙ほどたくさん出てきませんが、一つ特別な点があります。その点は一章五節にあります、「……これはあなたたちのために天に蓄えられている望みのためであり、その望みについては、あなたたちは前に福音の真理の言葉の中で聞いています」、それから二三節「ただし、あなたたちは、ゆらぐことなく、しっかりと信仰の中にとどまり続けて、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにしなければなりません。この福音は」――ここで動詞形の同じ言葉が使われています――「天の下にあるあらゆる被造物に対して宣べ伝えられています」――言い換えると、「天の下にあるあらゆる被造物に対して『福音されて(gospelled)』『良い知らせされて(good newsed)』います」。

緊急事態における良いおとずれ

さて、良い知らせや良いおとずれはみな、それが際立ったものとなるには、それが安心、保証、慰め、感謝をもたらすような状況が存在していなければなりません。もしどうでもいいことなら、それは良い知らせではありません。たとえば、あなたの生活や心情と密接に結びついているだれかが非常に深刻かつ致命的な病に伏せっているとしましょう。あなたは医者の助けを求めます。あなたの上には不安という大変な重荷がのしかかっています。その病がどうなるのか、あなたにとって大問題です。永遠のように思われる時間の間、あなたは医者が来て説明してくれるのを待ちます。医者がやって来て、「大丈夫です、心配する必要はありません。すぐに良くなって、元どおりになります」と言ってくれるなら、それこそまさに良い知らせです。これは瀬戸際の問題です。なぜなら、あなたの心はこの問題に集中しているからです。かりに懸案中の重大な決定事項があって、それが何らかの形であなたの将来、経歴、人生に影響を及ぼすものだとしましょう。委員会が審議中の間、あなたは一体どうなるのか心中大いにはらはらしながら外で待っています。だれかが出て来て、「大丈夫です、あなたは仕事を得ました。内定です」と言うなら、それは良い知らせです。それによってあなたは大いに安堵します。激戦中の、当事者全員にとって重大な問題があったとしましょう。その激戦場からだれかが出て来て、「大丈夫です、問題ありません、私たちは突破しました!」と言うなら――なんと安堵することでしょう。これが良いおとずれです。それは私たちに触れます。それは私たちにとって意味のあることです。良い知らせが真に意味を持つためには、緊急事態的性質を帯びた状況が存在しなければならないのです。

コロサイの緊急事態

さて、パウロの手紙のほぼどの手紙にも、緊急事態が発生していました。パウロが大いに心にかけていた人々のクリスチャン生活に、脅威的性質を帯びた事態が生じていたのです。何らかの事態が起きて、それらの多くのクリスチャンたちは現実に懸念、心配、不安を抱いていました。彼らは現実の困難の中にありました。未来は怪しげに思われました。このような緊急事態に対応するために、パウロは数々の手紙を書きました。そして、そのどの手紙でも、パウロはこの「福音」という言葉や「良い知らせ」という言葉を用いています――緊急事態のための良い知らせ、危機的状況のための良いおとずれだったのです。

このコロサイ人への手紙では特にそうです。コロサイの信者たちの間で、実際に緊急事態が進行中だったのです。しかし、その緊急事態は時に応じて異なる形を取る同じ緊急事態でした――この緊急事態はその独自の形で今日も存在しています。その結果はこうでした――ある人々がいて、その人々は自分たちのことをとても知識があって、賢く、知的で、教養があると思っていました。彼らは神秘的な多くのものにのめり込み、自分たちの高尚な観念や理論をこのクリスチャンたちに押しつけようとしていたのです。それはみな生活にかなり関係するものでした。

まず第一に、それが何よりも目的としていたのは、まさにこの創造された宇宙の意義そのものでした。さて、それはもちろん哲学的推論の部類だったかもしれません。しかしご存じのとおり、それはある意味において、クリスチャンの心に大いに訴えかけるものでした。万物には目的があるのでしょうか?万物は機械的行程を辿っているだけなのでしょうか、それとも、人の幸福に敵対している何らかの神秘的な諸権力によって運営されているのでしょうか?この創造された世界の背後には、何か実際に目的があるのでしょうか?これをさらにもう一段推し進めると、万物には目的があるのでしょうか?遅かれ早かれ、クリスチャンたちはこうした数々の問題に直面します。強制、試み、圧迫、艱難の下で、わけがわからなくなることが時々あります。宇宙は支離滅裂で、謎や背理や矛盾に満ちているように思われます。そして、そのことで私たちは惨めな時を過ごすのです。宇宙に計画はあるのでしょうか――この宇宙、人類史、あらゆる出来事の中で、神は本当に万物を支配しておられるのでしょうか?結局のところ――十分には理解されていない言葉を用いると――万物に対する、また万物における摂理なるものはあるのでしょうか?――つまり、万物は共に計画や目的にしたがって働いていて、偉大なる神聖で有益な結末を迎えるのでしょうか?

さて、この人々はそうした問題について論じていました。そして、コロサイのクリスチャンたちはこれによって大いに妨げられたのです。

次に、これはクリスチャンとしての彼ら自身の存立基盤に迫りました。それは神の子供としての彼らの生活そのものに触れたのです。さて、こうした数々の問題――神聖な目的、神聖な模範、神聖な摂理の存在という問題――について、この世界でだれよりも堅く確信していなければならないのはクリスチャンです。まさにクリスチャン生活そのものが、これがそうであるかどうかによって影響を受けます。こうした問題に対する答えを持っているなら、私たちは確信、自信、安息、力、証しを持ちます。この全宇宙の意義、宇宙の秩序と目的、宇宙の計画と統治、人類史のあらゆる出来事を支配している摂理――こうしたことはクリスチャンにとって大いに身近な問題です。こうした問題について少しでも疑問を持つなら、私たちのキリスト教は無に帰し、私たちの足下の土台もすべて崩れて、私たちは自分がどこにいるのかわからなくなってしまいます。

これがコロサイにおける非常事態でした。クリスチャン生活そのもの、教会生活そのものが脅かされていたのです。そして、その生活が脅かされていたということは、その成長が脅かされていたということでもあります。教会とクリスチャンの霊的成長というこの問題全体がこれにかかっていました――成長、発展、成熟がこれにかかっていました。これが脅かされるとき、何か他のものも脅かされることになります。すべては分解してバラバラになってしまうでしょう。その合一や結合は崩壊してしまうでしょう。すべては粉々に散らされてしまうでしょう。それゆえ、教会とクリスチャンの希望そのものが打撃を受けるでしょう。クリスチャンたちの希望や運命が打撃を受けるでしょう。これらは小さな問題ではありませんし、非現実的問題でもありません。こうした問題は時として身近に迫って答えを要求することがあります。

この状況に対する答え

さて、パウロがこの手紙を書いたのは、この状況全体に応じるためであり、こうした深刻な疑問や問題にすべて答えるためでした。クリスチャンたちを強め、確立し、支え、励ますためでした。そして、パウロはこれを「良いおとずれ」と言っていますが、まさにそのとおりです。こうした問題に対してことごとく答えを与えることができるなら、それはまさに良いおとずれではないでしょうか?それこそ「福音」です!主イエス・キリストの福音はこの宇宙の果てにまで及び、この宇宙の境界内にあるすべてのものを網羅することがわかります――人類の歴史、人類の出来事、世界の出来事、物事の行く末や計画や目的を含んでいます。福音はそれらすべてにことごとく触れるものなのです。

そこでパウロはこの問題に答えます。しかも、この問題全体に対して一言で答えます。パウロの答えはキリストです。キリストが答えです。この答えはもっぱら三章十一節の最後の句にあります。「キリストはすべてであり、すべての中におられます」。キリストがこの土台をすべて網羅しておられるからには、キリストが「すべて」であるこの「すべて」はなんと途方もないものなのでしょう!キリストはこうした大変な問題すべてに救いの手を差し伸べて、喜んで応じてくださいます。そうであるからには、キリストはなんという御方なのでしょう!すべてを含む事実を使徒はこの手紙の中で強調して分類しつつ述べています。使徒はこれを多くの節で述べていますが、この一つの文章にすべてをまとめています。これに対する答えはキリストです。キリストこそ人類史のあらゆる出来事に対する解き明かしです。キリストはこの宇宙の解き明かしであり、キリストはこの宇宙に性格を与えます。キリストはこの宇宙の出来事の全行程の背後におられます。キリストは万物を統合する御方であり、この御方にあって万物は共にまとまっています。

「キリストは終わりです、キリストは初めであられたがゆえに。
 キリストは初めです、終わりはキリストであるがゆえに。」

この答えが満足のいくものである証拠

しかし、おそらくあなたは言うでしょう、「パウロはこのように断定的に述べて全く問題がなかったのでしょうが、その証拠は何でしょう?」。その証拠はきわめて現実的なものです。こう言わなければなりません。もし何かの証拠を求めているなら、私たちはどこか間違っているのです!私たちが答えであるべきであり、証拠であるべきなのです。なぜなら、これを証しするものはまず第一に、神の子供の個人的な霊的経験だからです。あなたはお望みなら、しばしの間この巨大な宇宙を離れて、自分自身の生活という小さな宇宙に戻ることもできます――なぜなら、結局のところ、小宇宙で真実であるものは偉大な宇宙的領域で真実であるものの反映にほかならないからです。神は周囲から証拠を取ってきて、それを個人的クリスチャン生活の中心にもたらされます。答えはそこにあります。真に再生された神の子供の経験はどのようなものでしょう?

さて、これによりあなたは自分が再生されているかどうかを試すことができます。神に感謝すべきことに、あなたたちの多くは「そうです、私は実際にそれを経験しています」と言えると思います。しかし、あなたにお尋ねします、真に再生された神の子供としてあなたは何を経験しているのでしょう?あなたが実際に主のもとに行くとき――どんな言い方をするにせよ――イエスを自分の心の中に、自分の生活の中に迎える時、あるいは自分の人生を彼に明け渡す時、彼と取り引きを交わす時、新生によりあなたは神の子供になります――「秘跡」を受けることによってではなく、彼の御霊の内なる働きによってです。あなたが生ける意識的な形で神の子供になった時、最初に意識にのぼったもの、そしてそれ以来ずっと残っているものは何でしょう?

それはこういうことではなかったでしょうか?「今や人生には目的があります。この目的を以前は知りませんでした。物事には目的があります。今、私にはこの感覚があります――まさに私は知っているのです――私はこの世界にただ生まれて成長してきただけではありません。その背後にはある目的があったのです」。物事には計画があります。あなたはある感覚を持ちます――あなたはこの感覚やその意味するところを全く説明できないかもしれません――しかし、「自分の存在目的に到達した」という感覚、あるいは少なくとも「自分の存在目的が実現しだした」という感覚を、今やあなたは持ちます。そうではないでしょうか?主イエスが最終的にあなたの心の中でご自身の地位につかれる時、人生の大問題に答えが与えられます――自分の存在「理由」という大問題に答えが与えられます。それまで、あなたは思い惑い、あらゆる種類のことを行い、時間を費やして、心と知性と手腕を動員しますが、その目的が一体何なのかあなたにはわかりません。あなたは満ち足りた生活、実に満ち足りた生活を送っているかもしれません。キリスト抜きでです。しかし、結局のところ、「これは一体何のためなのか?」というこの問いにあなたは答えられないのです。

このような満ち足りた生活を享受した一人の人がいました。その人は学会でとても有名になり、知的世界の偉人でしたが、死に際に叫びました、「恐ろしいことに私は暗闇の中に落ちつつある」と。この問題に対する答えを彼は持っていませんでした。しかし単純な神の子供は、主のもとに来るやいなや、意識の中にその答えを得ます。それは解き明かしではないかもしれませんが、その人の心の中にあるものであって、いわゆる「安息」なるものです。「わたしのもとに来なさい」とイエスは言われました。「わたしはあなたに安息を与えます」(マタイ十一・二八)。安息とは次のようなものです、「私はさまよっていましたが、いま家に着きました。私は探し求めていましたが――見いだしました。私は何かを求めていました――それが何か私にはわかりませんでした――しかし、いま私はそれを持っています」。この宇宙には目的があります。イエス・キリストがご自身の地位につかれる時、この手紙が述べているように、あなたは自分の宇宙には目的があることを知り、他の人についても、もしその人がこの道に至りさえするなら、その人の宇宙にも目的があることを知ります。

目的だけでなく、それ以上のものがあります――統治です。自分が統治下にあること、自分が支配下に置かれたことを、神の子供はすぐに自覚し始めます。意識の中に統治の法則が設けられたこと、その法則は指示を与えるものであることを自覚し始めます。この法則は一方において「然り」と言います。大いなる自由の輝かしい「然り」です。他方において、「否――注意して、たゆまず、見張れ!」と言います。私たちはみなこれを知っています。こうした言葉を耳にするわけではありませんが、これが自分の心の中で語られていることがわかります。内なるキリストの御霊が、「自分の歩みに注意しなさい――注意して、見張っていなさい」と言っておられるのです。私たちは統治下に入りました。これは多くの形で人生全体に及びます。しかし、これは大いなる現実です。この宇宙は統治下にあり、支配下にあります。キリストがご自身の地位につかれる時、その証拠は私たち自身の生活の中に見いだされるようになります。これは将来の代々の時代に拡張することができます。その時、全宇宙はキリストの統治下でこうなるでしょう。

次に再び、「御子にあって万物はまとまっています」。クリスチャン生活の素晴らしい点は、それがまとまっていることです。あるいは別の言い方がよければ、統一がとれていることです。キリストがご自身の地位につかれる前、私たちはなんと散り散りに別れていたことでしょう!私たちは「あらゆる場所に散って」いました――次々に違うものを求め、色々な道を見つめていました。心はバラバラで、生活も分かれていました。自分自身も分裂していて、自分自身の人格の間に争いがありました。主イエスが内側で真に主としての地位につかれた時、生活は統制がとれたものになりました。私たちは共に集まり、落ち着いて、一つの事に集中しました。眼中にあるのはただ一つの事だけです。パウロが自分について述べたことが実現します、「この一つの事を私は励んでいます……」(ピリピ三・十三)。私たちは「一つの事」の民です。キリストは生活を統合してくださるのです。

神の子供の生活についてはどうでしょう?主イエスが正当な地位についておられる時、神の子供の生活は守られ、確立され、堅くされ、成長します。霊的に成長して成熟に達します。これは素晴らしいことです。もしクリスチャンの生活の中でこれが事実となっていないなら、何かもっともな理由があるはずです――悪い理由があるのです!――しかし、主イエスが真に生活の中で「すべてのすべて」となっておられるなら、もし彼が「あらゆることで第一位を得て」おられるなら、素晴らしいことに霊的成長を見ることができます。若いクリスチャンたちと大いに関わっている人々や、彼らに対応する経験に長けている人々は、きわめて印象的な事実の一つを見いだしました――なんと、主イエスがご自身の道を獲得されるだけで、彼らは霊的に前進し、成長するのです。学者たちの多くが見過ごしていたように思われる理解や知識に彼らは達しました。彼らは真の霊的理解力に到達したのです。他の人々が別の方法――知的方法など――で進もうとしている間、この若者たち――彼らの大半は知的・学問的訓練を受けたことがなく、彼らはただの単純な人々です――は霊的に飛び越していきます。

このように霊的知性と理解力において成長することは、いかなる天然のものにもよりません。イエスがこのように大きな地位を獲得されるとき、霊的理性と理解力が生じます。イエスはあらゆる霊的知識の源、中心、総計です。それに対して、たとえ学問の領域で多くのものを獲得して幾つもの資格を得、その領域で大きな事業を行ったとしても、主イエス・キリストの基本事項すらわからないという事態に陥るおそれがあります。それが一体何なのかわからず――全くついていけないおそれがあります。これは悲しむべきことですが、事実です。そうです、主のことについて話せないクリスチャンたち、真のクリスチャンたちがいます。成長する唯一の道は、主イエスに地位を与えることです。完全に、問答無用で与えなければなりません。

次に、将来についてです。御言葉が述べているように、この宇宙の運命は主イエスと共にあり、その運命は宇宙的栄光です。しかし、これはたんなる麗しい観念、魅惑的展望ではないでしょうか?どうすればこれを証明できるのでしょう?自分自身の心によってです!これまで考えてきた他の事柄同様、主イエスが真にご自身の地位につかれる時、あなたはこの栄光の前味わいをするのではないでしょうか?クリスチャン経験を持たないクリスチャンなどというものは、だれも理解できません。しかし、現にそのようなクリスチャンがいます。これはたんに素晴らしい時を過ごすということだけではありません。内側から湧き起こってくるものです。それは将来実現する栄光の前味わいです。私たちは自分自身の霊的経験から、この途方もない数々の問題すべてに対する答えを持っているのです。

教会の証し

しかし次に、使徒は教会に移って、教会について語ります、「御子は教会のかしらであり(中略)死者の中から最初に生まれた方です」(コロサイ一・十八)。イエスはこの途方もない数々の問題に対する答えですが、この事実、偉大な事実を、教会はどのように証しするのでしょう?良かれ悪しかれ教会はこの答えを与えている、と私は思います。

良い意味で教会は答えを与えています――とはいえ、本来そうあるべきほどではありません――教会は次のような形で答えを与えています。すなわち、結局のところ(二千年もたったのに!)、教会は依然として存在しているのです。考えてみてください。敵意と憎しみと殺人の勢力が、幼い教会に押し寄せました。史上最大の帝国が教会を一掃しようと決意していました。結局のところ、消滅したのは帝国の方です。教会は存続します。また、次の事実についても考えてみてください。それ以降何世紀にもわたって、あらゆるものが教会を終わらせて破壊しようとしてきましたし、今もそうしています。ああ、歴史を読み違えるほど人が盲目でなければ!もし今日の世界の列強、巨大な王国、大帝国が正しく歴史を読み解いていれば、自分たちが全く空しい任務、まさに愚者の任務についていることがわかったでしょう。この地上からイエスの証しを滅ぼそうとするとはとんでもないことです。滅びるのは彼らの方です。

そうです、教会がいつまでも存続し続けることこそ、これが真実である証拠です――イエス・キリストはこの宇宙の鍵であり、こうしたあらゆる問題に対する答えです。言っておきますが、教会はしかるべき明確な答えを与えているわけではありません。もし教会が当初のまま進み続けていたなら、それはなんという答えになっていたことでしょう!

しかし、教会は良い意味で答えを与えているだけでなく、悪い意味でも答えを与えています。まさに次の事実によって、教会は悪い意味で答えを与えています。すなわち、教会はかつてはこの世に対して勝利のうちに立ち、数々の嵐に打ち勝って耐えてきたのに、今ではその中心である主イエス・キリストから外れてしまい、主の絶対的頭首権や主権に代わる諸々の代替物を取り込んでしまいました。教会の主要な関心事はそれ以外のものになってしまいました。その結果は崩壊、分裂、その他のあらゆることです。そうです、教会は否定的な意味で答えを与えているのであり、このような状態の時は常にそうなります。

はっきりさせましょう、真理が崩壊したわけではありません。もし真理があなたにとって問題になるなら、それは真理に問題があるからではありません。真理と教会の間に問題が生じたのと同じように、真理とあなたの間にも問題が生じたからです。問題は真理にあるのではなく、真理を代表しているはずのものにあります。イエス・キリストの頭首権に代わる諸々の代替物――人であれ、施設であれ、宗教的関心であれ、クリスチャン活動であれ、何であれ――が主イエスご自身の地位に割り込んで来るなら、他ならぬ不一致や分裂を招きます。もっと積極的な言い方をすると、人々や指導者たちや他のすべての人が、「これを見てください、私たちの施設、私たちの務め、私たちの組織、キリスト教における私たちの関心はみな、イエス・キリストの絶対的主権に服さなければなりません」と言いさえするなら、一致が生じて一つになることがわかるでしょう。私たちはみな、この基礎の上で、共に流れて行かなければなりません。それをすべて癒すのは彼の主権の強力な潮流です。

海辺に降りて行ってごらんなさい。引き潮の時、堤防はみなむき出しになって、海岸線を幾つもの区画に分けます。しかし、潮が満ち始めると、海岸線を分けていた防波堤は姿を消し始めます。満潮の時に戻って来ると、海岸線を分けるこうした防波堤は何一つ見えません。満ち潮が堤防をすべて沈めてしまったのです。キリストがすべてのすべてとなって、「あらゆることで第一位を得る」時、霊の命の干潮や引き潮に属するこうしたものはみな、まさに姿を消します。その証拠は教会にあります。

グラハム博士の祖国を最近訪問した時、私たちはこれを少しばかり味わいました。そこには、一つの燃えるような情熱がありました。人生の始まりにあたってキリストにその地位についていただきたい、という情熱です。すべての異なる派がこのような願いを抱いていることがわかりました。隔て、「防波堤」、部門的なものはどこにいったのでしょう?そうしたものはなくなって、「キリストに生活の中でご自身の地位についていただかなくてはならない」という願いの高潮の下に沈んでしまいました。これがたった三ヶ月しか続いてはならない理由が何かあるでしょうか?一年のうちたった数日の大会期間中しかこれを経験してはならない理由が何かあるでしょうか?いいえ、ありません。キリストがこのような地位につくことを、神は常に願っておられます。その鍵はまさにこれです――キリストはすべてのすべてであるということです。

なぜこの手紙では福音に対する言及が「福音の望み」という強調点だけに限られているのか、おそらく今その理由がわかったのではないでしょうか?そうです、「福音」や「良い知らせ」という言葉が登場するのは、「良い知らせの望み」というこの文脈においてだけです。福音の望みは、イエス・キリストはすべてのすべてであることにあります。望みはひとりの御方であって、私たちの内にある抽象的性質ではありません――「希望に満ちること」ではありません。それはせいぜい定期的に訪れる移ろいやすい楽観主義にすぎません。ここの望みとはひとりの御方です。この良い知らせの望みは、彼があらゆることで第一位を得られることです。ここにこそ、あなたの望み、私の望み、教会の望み、この世の望み、宇宙の望みがあります。これが福音の望みです。