「……私たちの福音があなたたちに伝えられたとき、それは言葉だけによるのではなく、力と聖霊と強い確信とによりました。」(一テサロニケ一・五) 「あなたたちが知っているように、私たちは、先にピリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神によって大胆になり、激しい戦いのうちに神の福音をあなたたちに語りました。」(二・二) 「……私たちは神によしとされて、この福音を託されました……」(二・四) 「……あなたたちを愛情をもって慕っていたので、私たちは神の福音だけでなく自分自身の命をもあなたたちに喜んで与えようとしました(中略)なぜなら、兄弟たちよ、あなたたちは私たちの労苦と努力を覚えておられるでしょう。私たちはあなたたちのだれにも負担をかけまいと、夜も昼も働きながら、あなたたちに神の福音を宣べ伝えました。」(二・八、九) 「私たちは(中略)私たちの兄弟で、キリストの福音における神の奉仕者であるテモテを遣わしました……」(三・一、二) 「……主は神を知らない者たちや、私たちの主イエス・キリストの福音に従わない者たちに報復されます……」(二テサロニケ一・八) 「……神が私たちの福音を通してあなたたちを召されたのはそのためであり、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させるためです……」(二テサロニケ一・八)
この二つの手紙では福音が大きな地位を占めていることがわかります。私たちは今、この福音の真の意味を見いだそうと努めることにします。すなわち、この二つの手紙とテサロニケの信者たちの観点から、この良いおとずれの本質的意義を見いだそうと努めることにします。テサロニケのこの信者たちの霊的歴史、生活、状態を見るなら、理解の助けになるでしょう。
テサロニケのクリスチャンたちは模範である
一目見るだけで、パウロがどれほど彼らを特別に評価していたのかがわかります。パウロは次のような言葉を繰り返し用いています。「私たちはあなたたち全員のためにいつも神に感謝しています」。第一と第二の両方の手紙で、彼はこのように語っています(第一の手紙一・二、 第二の手紙一・三、二・十三)。「私たちはあなたたちのために神に感謝しています」。次に、パウロは彼らに対してとても素晴らしいことを述べます。これは今回の考察で私たちに明確な導きを与えるものです。第一の手紙一章七節で彼は言います、「あなたたちはマケドニヤとアカヤの信者全員の模範となりました」。主の民の一団についてこう述べるのは大そうなことです。直ちにこう尋ねずにはいられません、「どのようにして彼らは模範になったのでしょう?」。彼らは直接ここで述べられているようにマケドニヤとアカヤ全域で模範になっただけではありません。というのは、この二つの手紙が今日まで残っているからです。ですから、彼らは主の民全員の模範だったのです。彼らが真に模範だったからには、彼らに関するかぎり福音には何か重大な意義があったにちがいありません。福音は彼らの間でとても特別な形で表されたにちがいありません。ですから、彼らはどのようにして「すべての信者の模範」になったのか?というこの問いに答えようと努めることにします。
純粋な霊と清い心
第一に、まさにこの一章の中にその答えが見つかります。彼らは福音を真摯に受け入れたのです。「私たちの福音があなたたちに伝えられたとき、それは言葉だけによるのではなく、力と聖霊と強い確信とによりました」。また、「あなたたちが私たちの説いた神の言葉を聞いた時、あなたたちはそれを人の言葉としてではなく、神の言葉として――事実そのとおりなのですが――受け入れてくれました」(二・十三)。さて、これが見せているのは、とても鮮やかなスタートです。このテサロニケの信者たちの立場に達するには、彼らにおける福音のあの表れを持つには、すべての信者の模範になるには、鮮やかなスタートを切ることがとても大事です。
私たちの場合、もちろん、クリスチャン生活をかなり送ってきたにもかかわらず、このような模範的信者になっていないなら、自分の歩みを過去に遡って調べなければなりません。道を誤った地点から再出発するためです。ガラクタを片付けて、ある地点からすべてやり直さなければなりません。しかし、最近スタートを切った若いクリスチャンたちのことも私は想定しています。あなたたちはまさに出発点にいます。私たちはあなたたちのことを大いに案じています。なぜなら、信者全員の模範とは到底言えない多くの年配クリスチャンたちに、あなたたちは出会うかもしれないからです。こんなことを言わねばならないのは残念ですが、これは大いに真実です。あなたたちにはそうなってもらいたくありません。模範的クリスチャンになってもらいたいのです。使徒パウロがもしここにいたなら、「私はあなたたちのために神に感謝しています」と彼に言ってもらえるクリスチャンになってほしいのです。もしそう言ってもらえるなら素晴らしくないでしょうか?「彼のために神に感謝します!彼女のために神に感謝します!この人やあの人と接触を持つようになったことを神に感謝します!私は彼らのためにいつも神に感謝しています――彼らはクリスチャンのあるべき姿の見本です!」。
さて、これが主の願いであり、あなたたちに対する私たちの願いです。そして、これは自分自身に対する私たちの心からの願いであるにちがいありません。たとえうまくいっていなくても、望みを捨てないようにしようではありませんか。私たちのために依然としてだれかが感謝をささげているかもしれませんし、私たちは模範になっているかもしれません。何らかの事柄で、多かれ少なかれ、このテサロニケの信者たちに言えたことが私たちにも言えるかもしれません。パウロはここで、「あなたたちは私たちに倣う者となりました」と述べています(一テサロニケ一・六)。主は私たちを助けてこのような模範にしてくださいます。少なくとも何らかの点で、霊的高慢に陥ることなく、「私たちに倣ってください」と他の人々を招ける者にしてくださいます。
さて、そうなるには、鮮やかなスタートを切る必要があります。パウロが良いおとずれを宣べ伝えるのをこのテサロニケ人たちが聞いた時、彼らの思いと心に偏見がなかったことは明白です。もし彼らに少しでも偏見があったなら、もし彼らが自分の頭の中でこの問題にすでに決定を下していたなら、あるいは一定の立場にすでに達していたなら、彼らは別の結論に達していたでしょうが、彼らにはそんなことはありませんでした。彼らの心は最初から開かれており、神からのものは何でも受け入れる用意ができていました。そのおかげで神からのものを見分ける能力を得たのです。あなたがもし偏見をもてあそんでいるなら、すでにそれについて判断を下しているなら、すでに決まった立場に達しているなら、あなたはあることが神から出ているのかどうか決してわからないでしょう。もしあなたが自分の頭の中で決着をつけていて自分の心を閉ざし、疑いや恐れを抱いて、すでに聖霊の働きを妨げているなら、あなたはあることが神から出ているのかどうか決してわかりません。あなたは心を開き、思いを開き、疑いや偏見から逃れて、次のような姿勢で用意していなければなりません。「さて、もし主からのもの、神からのものが何かあるなら、私にはそれを受け入れる用意があります。だれから来るか、どのように来るか、どこに来るかは問題ではありません。もしそれが神からなら、私にはそれを受け入れる用意があります」。このような姿勢から、聖霊が証しできる気質が生じます。そして、主は御業をなせるようになるのです。
さて、これから見るように、これこそまさにテサロニケ人たちの姿勢でした。彼らは御言葉を確かに多くの艱難の中で受け入れましたが、それを人の言葉としてではなく神の言葉として受け入れました。彼らは純粋な霊を持っていました。そのおかげで、「これは正しいことです。これは神から出ています!」という感覚を持ったのです。これは良いスタートでした。前に述べたように、私たちの中には後戻りして再びやり直さなければならない人がいるかもしれません。この文章を読んでいる読者の方に申し上げます。あなたたちの中にはクリスチャン生活を長年送ってきた方もいるかもしれませんが、「親愛なる友よ、あなたがこれまで歩んできた道のどこかで、もしあなたが偏見や疑いの影響を受けてそれに感染していたなら、あなたは神からのものをこれ以上何も受けないように扉を閉ざしてしまったのです」。これをはっきりと理解しようではありませんか。確かに次の言葉は真実です。
「主は御言葉から解き放つべき さらに多くの光と真理を持っておられます。」
主が御言葉から示せることを、私たちは依然としてすべて見たわけではありません。しかし、主がそれを示せるのは、純粋な心に対してだけです。「心の清い者は(中略)神を見るでしょう」(マタイ五・八)。
ですから、このテサロニケ人たちは最初から純粋な霊を持っていました。
相互性と成熟
彼らに関して次に注目すべき点は、彼らは真摯に福音を受け入れた後、相互に愛し合って成熟に至ったということです――相互性と成熟は常に同行します。この二つの手紙の両方で、使徒がおそらく他のなにものにもまして述べているのは、この信者たちの間のこの素晴らしい愛です。「あなたたち一人一人の愛が、お互いの間で増し加わっています」(二テサロニケ一・三)。使徒は手紙の中でずっと彼らの相互の愛について語ります。そして、それには霊的成長が伴っていました。愛は常に建て上げることがわかります(一コリント八・一)。この種の愛、相互の愛は、常に霊的増し加わりを意味します。これを逆の観点から見るなら、これがいかに真実なのかがわかります。偏狭で、個人的で、狭量で、利己的で、分離している、個々のクリスチャンや、群れや、クリスチャンの団体――排他的で、閉ざされており、すべての聖徒に対する広く開かれた愛を持っていない――は、なんとちっぽけで、なんと束縛されていることでしょう。これは真実です。この互いに対する相互の愛の中で、そして成長して増し加わる互いに対する愛の中で、霊的成長が生じるのです。これを忘れてはなりません。自分自身の心の霊的成長、自分自身の生活の霊的成長、他の人々の霊的成長をもしあなたが気遣っているなら、霊的成長は愛、相互の愛という線に沿ったものであり、まさにあなたこそそれを始めるべき人なのです。相互性と成熟は常に同行します。
苦難と奉仕
それから第三に、彼らは苦難と奉仕という特徴を帯びていたことがわかります。これはまさに素晴らしい神聖な組み合わせです。それは何か天然的ではないものです。使徒はこれについて多くのことを述べました。この二つの手紙の中に出てくる「苦難」という言葉に下線を引いて、彼らの苦難や苦しみに関する使徒の言及に注目すれば、それがわかります。彼らは「大きな苦しみの中で御言葉を受け入れました」(一テサロニケ一・六)。使徒は彼らの諸々の苦難について語り、それらの苦難について描写します。使徒が言うには、テサロニケの人々はユダヤにいる兄弟たちと同じ線に沿って、そして同じ理由のために苦難を受けていました。
さて、ユダヤで、つまりユダヤ人の国で、クリスチャンたちがどのように苦しんでいたのかはご存じでしょう。キリストご自身、ユダヤ人の手によって苦しみを受けました。ステパノはユダヤ人の手によって殉教しました。教会はユダヤ、エルサレムで最初の迫害を受け、ステパノの件で起きた迫害によって広く散らされました。パウロは言います、「今、あなたたちはそのように苦難を受けているのです」と。明らかに、テサロニケには多くの迫害、多くの反対がありました。脅迫やあらゆる種類の困難がありました――おそらく、クリスチャンたちが商売したり職を得るのは非常に困難な状況だったでしょう。なぜなら、このキリスト教やこのクリスチャンたちを受け入れる余地のない人々が商売を握っていたからです。
しかし、こうしたあらゆる厳しい苦難や「多くの苦しみ」にもかかわらず、彼らは内省的になりませんでした。内省は苦難の時に陥りやすい危険です。もしあなたが不満、反対、迫害を忍んでいるなら、あるいは最高の仕事が他の人に与えられたりするなら、自然に自分に向かい、自分をとても気の毒に思い、自分の問題を顧み始め、自分のことで精一杯になってしまいます。しかしここでは、苦難は奉仕につながったのです。
使徒が言うには、御言葉が彼らから出てマケドニヤとアカヤの全域だけでなく国中に広がりました(一・八)。彼らの苦難――それはどんな結果をもたらしたのでしょう?苦難によって彼らは外に向かい、「私たちと同じように必要を抱えている人、苦難の中にある人が至る所にいます。その人々のために自分たちに何ができるのかを考えましょう」と言いました。これこそ福音に応答する方法ではないでしょうか?これは栄光の福音を物語るものです!福音はテサロニケの人々にとって大いに良い知らせでした。それゆえ、福音は彼らの上に影響を及ぼして彼らを解放したのです。どん底の苦しみの中にある彼らを自己憐憫から完全に解放したのです。これを心に留めましょう。
忍耐と希望
さらに、使徒は彼らの「忍耐と希望」について語ります(一・三)。これがまさに意味するのは、彼らは簡単には諦めなかったということです。ご存じのように、これは何か値打ちのあることです。困難にある時、すべてのものや人があなたに反対します。諦めるのはとても簡単です――諦めて、競争から脱落し、戦いに降参して、「どうにもなりません――何もかも諦めてしまった方がましです」と言うのはとても簡単です。しかし、テサロニケのクリスチャンたちは違いました。彼らには忍耐と希望がありました。彼らは簡単に諦めたりせず、「やり抜き」ました。彼らには希望があったのでやり抜けたことがわかります。
「すべての信者の模範」だったのはこのような人々でした。模範的クリスチャンの構成要件をすべて彼らの中に見ることができます。そして、それらの要件は福音の真の特徴です。福音は困難の中にあるクリスチャンのためのものなのです!福音は救われていない人のためのものであるだけでなく、困難や苦難の中にあるクリスチャンのためのものでもあります。福音は依然として良い知らせです。福音の中にあるこの「良い知らせ」の要素を失うなら、もし福音が私たちに対する「良い知らせ」としての切れ味を失うなら、私たちは古びてしまうでしょう。「それなら何でも知っています」という心境になってしまうでしょう。もしあの感覚を失うなら、問題がやって来る時、私たちは降参してしまうでしょう。しかし、主イエスは私たちにとって依然として全世界・全宇宙で最大の御方です。私たちを救うこのような知識に到達するなら、その時、私たちは切り抜けることができます。
気質による困難
さて、困難は常に私たち自身の気質に呼応します。つまり、私たちがどのような者なのかが、私たちの受ける試練の性質を決めるのです。テサロニケ人たちの場合もそうでした。あなたの性質がある特定のものでなければ、何があってもあなたにとっては試練ではなかったでしょう。何かがあなたにとって試練だったとしても、私にとっては全くそうではないかもしれません。あるいは、逆のこともあるかもしれません。私にとっては恐るべきもの、私を殴打して転倒させてしまうものでも、他の人々は平然と通り過ぎて、「あの人は何でこんなに大騒ぎしているのだろう?」と不思議に思うかもしれません。私たちの問題や試練の大部分は私たちの性質から生じるのです。
さて、これを理解していただきたいと思います。このテサロニケの信者たちは、徹底的だったからこそ、特別な試練を受けました。これは常にそうです。もしあなたが徹底的でなければ、徹底的な困難には遭いません。多かれ少なかれ、容易に切り抜けられるでしょう。もしあなたが徹底的なら、徹底的な困難に遭うでしょう。あなた自身の性質や気質から、ごく自然にそれらが生じるでしょう。
さて、ご存じのように、人の性質や成り立ちは様々な形で形成されます。一般的に、私たちはみな似ていません。これはかえって好都合です!しかし、人の性質の大部分はいくつかの異なる種類――いわゆる気質――に分類できます。主として、七つの異なる気質、人の性質に関する七つの分類があります。それを詳しく扱うつもりはありませんが、この問題にはとても有用な一つの点があります。このテサロニケ人たちは明らかに「実際的」気質の持ち主でした。彼らが特別に受けた苦難の厳しさは、大部分、彼らがそのような人々だったからです。もちろん、「他の人々は苦しまない」という意味ではありません。他の人々は別の形で苦しみます。
実際的気質の人の生活基準は、手っ取り早い直接的な利益であることがわかります。お金になるものをすぐに見つけずにはいられないのです!これは商売気質であり、商売人の気質です。この気質の人を支配している原則は、手っ取り早く成功を収めることです。「成功」が実際的気質の人のモットーです。成功が後に続きます。成功を収めること――この特別な気質の人にとってはこれが偶像なのです。
この気質の人々にとって、感情はあまり大事ではありません。この人々は感情のために立ち止まれません。彼らにとって実際的でないものは、たんなる「感傷」と見なされます。彼らはもちろん感傷的ではありません。しかし、このような形でマルタはマリヤに反応しました。マリヤは感傷に耽っていたわけではないのに、「マリヤは感傷に耽っている」とマルタは思いました。マルタはあまりにも実際的だったからです。また、この性質の人の内には想像力がほとんどありません。どんな繊細な気持ちにもズカズカと踏み込みます。立ち止まって、「自分が言ったことを人々はどう感じるだろう」とは考えません。ひたすら先に進み続けます。
そして次に、この気質の人は時として恐ろしい過ちを犯します――状況を混乱させます。例えば、この気質の人は知的好奇心を深遠さと勘違いします。なぜなら、知的好奇心のある人は際限なく質問せずにはいられないからです。「実際的な」人々は常に質問攻めにします。質問、質問、質問です。あなたを質問攻めにして、それを霊的深遠さの証拠だと思います。「自分は事の表面的価値しか見ていないのではなく、大いに実際的であって、しかも深いのです」と思います。しかし、知的好奇心と深遠さとは全く別です。両者を混同するおそれが大きいのです。
さて、このテサロニケ人たちとこの福音の効果について理解したいと思います。いま私が述べたことと照らし合わせるなら、彼らの描像を描けるのではないでしょうか?彼らは迅速に応答しました。とても実際的な形、とても徹底的な形で応答しました。数ある重要な主題のうち、彼らが反応した主題の一つは主の再来でした。まさに冒頭でパウロは言います、「あなたたちは偶像から神に立ち返り、生ける真の神に仕えるようになり、天からの御子を待つようになりました」(一・九、十)。この主の再来は彼らにとって一大事でした。そして彼らは、「主の再来はすぐに、自分たちが生きている間に起きる」と結論を下しました。彼らは福音に対してこのように実際的に応答し、それはそれなりに良いことでした。しかしご存じのように、パウロのこの二つの手紙のほとんどは、この応答の誤りを正すために費やされています。
さて、彼らはこの件で問題に陥ったことがわかります――彼ら自身の気質から生じた問題です。彼らはこう自問しました。「主は来られます――『主は来られる』という話を私たちは聞きました。私たちは『主の再来は近い』という知らせを受け入れて、いつ主の再来があってもおかしくないと信じました。また、『主が再来される時、主のものである人々はみな携え上げられて主と会う』という話を聞きました。信者はみな引き上げられ、携え上げられて、そのように共に栄光の中に入る、と私たちは結論しました。ああ、なんと素晴らしいことでしょう――みなが主の御前に集まるのです!しかし、私たちの友人の中には死んだ人もいます。昨日死んだ人もいますし、先週死んだ人もいます。また、依然として生きている人々もいます。これは全員が一緒に携え上げられるというこの話をすべて覆すものではないでしょうか?」。彼らは混乱し、狼狽しました。主が戻って来て自分たち全員を御許に集めてくださるどころか、自分たちの中には墓に入ってしまった人もいたのです。これは彼らのような実際的性質の持ち主にとって妨げだったことがわかります。
そこで、使徒は彼らに書き送ります。使徒は彼らに福音、良い知らせを書き送ります。このように失望して困惑と悲しみの中にある人々に宛てて書き送ります。使徒は言います、「あなたたちに知っていただきたいと思います、親愛なる兄弟たちよ、あなたたちに理解していただきたいと思います。この問題は最終的には同じことなのです。主が来られる時、死んだ人たちが私たちに先立つことはありませんし、私たちが彼らに先立つこともありません。この問題には何の違いもありません。イエスにあって眠った者たちと、生き残っている私たちとは、みな共に引き上げられるでしょう。この問題でこれ以上悩む必要はありません。希望のない人々や、あるいは大きな希望を失った人々のように、悲しんではなりません――主の再来というこの偉大な希望を、これらの信者の死によって打ち砕かれた人のように、悲しんではなりません。実際のところ、この問題には落胆すべき何の要素もありません。これは愛する者を失った人への良い知らせです――これは生死の問題に関する良い知らせです――私たちはみな共に上って『空中で主と会います。そして、永遠に主と共にいるようになります』。これは実に素晴らしいことです」。
ですから、ここでパウロはこの福音――良い知らせ、良いおとずれ――を持ち込めたことがわかります。それは彼らの性質や気質から生じたある困難を克服するためでした。
自分自身の気質を知るための助け
ここで少し立ち止まることにしましょう。ご存じのとおり、自分の気質を知っていれば、私たちは自分の困難のほとんどを克服していたでしょう。少しのあいだ座って――これは全く内省ではありません――こう自問してさえいれば!「さて、自分にはどんな特別な気質や性質があるのでしょう?自分の性質のせいで一体自分はどんな方向になびきやすいのでしょう?自分の気質はどんな要素や要因から成り立っているのでしょう?」。もしそれを指し示せれば、多くの問題に対する鍵を得たことになります。詩篇作者のアサフはある時、とても辛い時を過ごしました。彼は悪人を見て、彼らが栄えているのを見ました。彼は義人――自分自身も含めて――が困難な時を過ごしているのを見ました。そして、それですっかり落胆しました。しかし次に、彼は立ち直り、思い出して言いました、「これが私の弱さです。しかし、私はいと高き方がその右手をもって働かれた年月を思い出しましょう」(詩篇一二七・十)。「『これが私の弱さです』!これは主ではありません、これは真理ではありません――これは私にすぎません。困難な時に、私は落ち込みやすいのです。これが私の性質であり、私は問題に対してついついこのように反応してしまうのです」。
さて、おそらく、これは物事を取り扱うとても天然的な方法に聞こえるかもしれません。しかし、まだ私は言い終えていません。私たちの問題の多くは自分固有の性質に由来します。これをあなたや私が理解するなら、それにより主のもとに行くべき理由ができたことになります。問題は実際のところ自分自身の性質の内にあります――私たちは主のもとに行くべき理由を得ます。私たちは主のもとに行って言うことができます、「主よ、あなたは私がどんな性質の持ち主かご存じです。私が生まれつき物事にどう反応するのかご存じです。私の性質がそうであるがゆえに、私がいつもどのようにある方法で引っかかってしまうのか、あなたはご存じです。特定の圧迫の下で私がどのように振る舞ってしまうのか、あなたはご存じです。主よ、あなたは私をご存じです。さて主よ、あなたは私とは違います。私が弱い所でも、あなたは強い御方です。私が過ちを犯してしまう所でも、あなたは完全な御方です」。
完全な人である主イエスの場合、あらゆる気質の良い性質がすべて完全に調和しています。彼の中には、どの気質の悪い性質もありません。聖霊はキリストをもって私たちの欠けている所を満たすことができます。これがおわかりにならないでしょうか?これは偉大な奇跡、偉大な奥義、偉大な栄光であり、キリストが私たちに聖霊によって伝達されることを意味します。これは彼の人性の奇跡です。彼は完全な人であって、私たちを悩ませるこのような問題は全く何もありません。脅かしの下にある彼をご覧なさい。彼は落胆しません。試みと試練のあらゆる観点から彼をご覧なさい。彼は切り抜けます。しかし、彼は人です。彼はご自身の神性に基づいて切り抜けようとはされません。完全な人間性に基づいて切り抜けようとされます。これは私たちに伝達されるべきものです。
霊的成長は次のことを意味します。すなわち、私たちは天然の自分とは異なる者になりつつあるのです。そうではないでしょうか?もともと、私たちは不幸に傾きやすい者かもしれません――いつも悲観的な見方をして、いつも泥沼にはまってしまいます。さて、聖霊が私たちを顧みてくださるようになる時、この不幸になびきやすい人々は喜びに満ちます。その人々にとって喜びに満ちることは自然なことではないのですが、そうなります。これがクリスチャン生活の奇跡です。私たちは元々の自分とは違う者になります。もともと私たちは、何らかの批判や迫害にさらされると、たちまち落胆して自分の問題を顧みてしまいます。しかし、主イエスが私たちの内におられるなら、私たちは我慢して進み続けることができます。落胆せずに進み続けます。彼は私たちを別人にしてくださいます。これが信者の生活における恵みの働きです。
このテサロニケ人たちは自分たちの実際的気性のゆえに大きな苦難を受けました。最初に自分たちに告げられたことはすぐに起きる、と彼らは期待しました。彼らは自分に向かって言いました、「主は来られます――明日かもしれませんし、別の日かもしれません――その時、私たちの問題はすべて終わります。しかし、時は過ぎ行き、人々は死んでいきます。状況はますます困難になりつつあります。主が来られるようには到底見えません……」。彼らは挫けてバラバラになる寸前でした。その時、主イエスの福音が新たに示されて、元々の彼らにはない何らかの希望がもたらされたのです。
実際的気質のケースに言えることは、他のどの気質にも言えます。これは一つの原則と見なせます。これを理解しさえすれば、主は私たち一人一人をこのように取り扱ってくださるでしょう。私たち自身の気質に応じて私たちを取り扱ってくださるでしょう。人々に対する神の取り扱いを画一化したり標準化しようとしても無駄です。私に対する神の取り扱いは、おそらくあなたにとってはあまり悩ましいものではないでしょう。しかし、あなたに対する神の取り扱いは、私をたちまち転倒させてしまうものかもしれません。神は私たちに応じて私たちを取り扱われます。それは、私たち自身からのものではなくキリストからのものが、私たちの内に増し加わるためです。もう一度言いますが、これは恵みの働きです。これはキリストの分与です――これこそまさにキリストのかたちに同形化されることの意義です。これは彼の性質にあずかることです――彼の性質は全く異なっています。しかし、これは恐ろしい過程です。今、この人々が切り抜けたように、私たちも切り抜けなければなりません。
これは良い知らせでしょうか?私は良い知らせだと思います。これは福音、「良いおとずれ」だと思います。すぐに脱落して、諦めてしまい、惨めになってばかりいる人に対する良いおとずれです。自分自身の生来の願望や反応のせいで、実際の出来事の中で落胆している人に対する良いおとずれです。キリストは私たちとは異なる御方であり、私たちはキリストによって自分自身から救ってもらえます。これは良いおとずれです。これは大いに実際的であることがわかります。どのように自分自身から救われるのでしょうか?キリストによってです!キリストが来て、手を差し伸べ、私たちを引き上げてくださることによってではありません。「キリストにそうして欲しい」と私たちは願ってばかりいます。「主よ、来て、そうしてください。私たちを今いる所から現実に引き上げてください」と私たちは主に求めています。キリストがなさっておられるのは私たちを置き換えることであり、内なる方法で私たちをご自身で置き換えることです。これは一つの過程であり、深遠な過程です。おそらく、何年もたってからでないと、キリストからのものが増えていることはわからないでしょう。その人は昔はかくかくしかじかの人でしたが、今は変わっており、今ではキリストを見ることができます。彼らはもはや昔の彼らではなく、過去の自分たちを克服しています。彼らは「その同じかたちに変えられ」つつあります。これが良い知らせです。テサロニケ人たちに対する良い知らせであり、私たちに対する良い知らせです。
最後の試練
しかし、このテサロニケ人たちにはもう一つのことがあります。この世の状況はますます難化しつつありました。この世の状況は悪い状況から、さらに悪い状況になりつつありました。この親愛なる人々は、数々の出来事や活動中の諸勢力を見て、思いました、「主が戻って来られるようには見えませんし、主の王国が到来するようにも見えません。まるでサタンが好き勝手にやっているかのように見えます。状況は悪い状況から、さらに悪い状況になりつつあります。状況は変わるはずだし、『新しい天と新しい地』、新しい状態の世界が到来するはずだ、と私たちは思ってきました。キリストとその王国の到来と共にこうしたものが実現する、と私たちは思ってきました。それなのに、その兆候は何一つありません。むしろ、状況はその反対の方向に進んでいます。世界はますます悪化しつつあり、悪人たちがますます跋扈するようになりつつあります。悪魔からのものが昔よりもますます増えているように思われます」。
さて、使徒はこの問題について手紙を書いて言いました、「見てください、それは状況の悪化を意味するものではありませんし、あなたたちの期待が失望に終わったことを意味するものでもありません。このようなことが起きて満ち満ちないかぎり、主が戻って来られることはないのです。『不法の奥義はすでに働いています』。主が来られる前に、二つの出来事が起きなければなりません。
まず第一に、一大背教が起きなければなりません」。一大背教ですって?クリスチャンたちが背教するのでしょうか?信仰を告白するクリスチャンたちが背教し、主から遠ざかり、逆戻りするというのでしょうか?このテサロニケ人たちにとって、これはあまり実際的な話ではありません!そうです、終末に向けてこのようなことがまさに起きるのです!主の再来が近づけば近づくほど、この試練によってますます人々はふるいにかけられます。人々はふるいにかけられるでしょう。背教があるでしょう。多くの人々――信仰告白者たち――は言うでしょう、「こんなことはやってられません。これ以上、こんなことはできません」と。彼らは主に従うことに背を向けるでしょう。常にそうでした。私たちの主が肉身を取っておられた時代もそうでした。終末にはそうなるでしょう。「ああ、なんと期待はずれなことか!」。ああ、そうです、しかし理解しておいてください、このようなことが起きるのです。しかし、これはすべてが狂ってしまったことを意味しません。まさにそのような状況になるのです。主が一群れの人々を取り去られる時、その人々は最後まで主と共に歩み通した人々でしょう。それで、主は試練につぐ試練をお与えになるのです。「さて、あなたたちテサロニケ人たちよ、どうか理解してください。主はあなたたちをテストしておられるのです。あなたたちが最後まで進み通すかどうかをテストしておられるのです」。信者の内に信仰が根付いているのか、それとも口先だけのものなのか、明らかにされなければなりません。ですから、時のしるしを誤解してはなりません。
次に二番目の点です。反キリスト、罪の人、悪魔がますますのさばっているように思われる、と彼らは考えました。たしかにそうでした。「しかし」と使徒は言いました。「罪の人、反キリストが現れないかぎり、主の日は来ません」。「ああ、私たちは反キリストではなくキリストが来られると思っていました!」。ああ、しかし、反キリストが来ないかぎり、キリストは到来されません。混同してはなりません。この世にサタンによる一大運動が巻き起こり、まるでサタンが受肉したかのように思われたとしても、そして、サタンが受肉したもの――それは人の姿や組織の姿を取るかもしれませんが、その形がどうであれ――がキリストに属するものを必死になってすべて消し去ろうとしたとしても、それは悪いしるしではありません――主はまさに来ようとしておられるのです!悪魔がすべてを押し流そうとしているように思われる時、これは良い知らせです。これは前兆です。主は近いのです。
「しかし、これらのことが起き始めたら、上を見上げて、あなたたちの頭を上げなさい。あなたたちの贖いが近いからです」とイエスは言われました(ルカ二一・二八)。ですから、苦難が増加し、忍耐が試され、サタンがのさばって権力を手中にしつつあるように思われたとしても、欺かれてはなりません――「自分たちの希望は実現されない」とあなたたちに言う者どもを許してはなりません。これを逆手に取って言いなさい、「これらのことこそまさに、私たちの希望がまさに実現されようとしている証拠なのです」と。これは苦難の時のための良い知らせであり、苦難の中にあるクリスチャンのための良い知らせであり、サタンが最悪のことを行っている時のための良い知らせです。主は近いのです!
この問題全体の要約
しかし、この問題全体をどの御言葉で要約すればいいのでしょう?これまで私たちはずっと、すべてを結論づけられる短い節を探そうとしてきました。その節は次の節だと思います。
「あなたたちを召された方は信実ですから、そのこともまた行ってくださいます。」(一テサロニケ五・二四)。
これがこの問題全体の結論であり要約です。そうです、愛する者たちが死んで、主のもとに行きつつあります。時は長引いています。悪魔が力を得て、最悪なことを行っているように見えます。主の民である私たちは苦難の中にあります。それでも、神は私たちを守り抜くことができます。「そのこともまた行ってくださいます」。これ以上なにを望むのでしょう?他の一切のものに対抗して――「彼はそのこともまた行ってくださいます」。これは良い知らせです!結局のところ、最後にまとめると、良い知らせとは、事は私たちに任されているのではない、ということです。それは主の問題です。私たちがなすべきは、神を信じること、神の諸々の道を理解しようと努めること、堅く立つこと、最後まで望みを持ち続けることです。そうするなら、主が引き受けてくださいます。「あなたたちを召された方は信実ですから、そのこともまた行ってくださいます」。これが良い知らせです!