第一章 受け入れてもらえるすべての祈りの神聖な基礎

T. オースチン-スパークス

祈りの偉大な務めについて黙想するにあたり、受け入れてもらえるすべての祈りの神聖な基礎について思い出すときわめて助けになると思います。より専門的に思われるかもしれない点に進む前に、私たちは祈りの霊的基礎を認識しなければなりません。そして、それは、出エジプト記三〇章三四節以降に述べられている、金の祭壇上で炊くべき香の原料及び神聖さと関係しています。

私の意図は、これらの原料を解釈のために取り上げることではありません。ただ、主はこれらのかぐわしい香料に対してある条件を課されたこと、そして次に、それらに関して次のようなとても強い発言をされたことに言及することです。「……あなたたちは、自分たちのためにその成分にしたがって作ってはならない。それはあなたたちにとって、主への聖なるものでなければならない。それと似たものを作り、その香りをかぐ者はだれでも、その民から断たれる」。これが受け入れてもらえるあらゆる祈りの基礎です。ご存じのように、これらのかぐわしい香料、香の原料は、主イエスの道徳的卓越性――彼の恵み、徳、功績、価値――を象徴しています。この香は聖徒たちの祈りではなく、主イエスの功績と意義です。それは祈りに加えられ、祈りと混ざり合わされ、祈りを神の御前で有効かつ受け入れられるようにするものとなります。これらの原料が四重であることから、ここにはすべて揃っています。キリストの恵み、徳、道徳的卓越性がすべて揃っています。そして次に、気づいておられるでしょうが、塩(これは事を命の中に保つことを常に物語ります)をこれらの他の香料と混ぜ合わせなければなりません。これは次のことを示唆するように思われます。すなわち、主イエスの道徳的卓越性の提示といえども、死を意味するたんなる冷たい形式から常に自由でなければならず、生き生きとした活発なものであり続けなければならないのです。主イエスについての黙想が機械的・形式的なものになるおそれ、必要かつ真実なものとして知性の中に受け入れるものになって主イエスの功績に機械的に頼るようになるおそれが大いにあります。しかし、主が願っておられるのは、それが生き生きとしたものであり続けることです。主のもとに新たに行くときは常に、主イエスの命に対する新鮮な感謝があってしかるべきです。塩は諸事を死から守るためであり、それらを命の中に保つためであり、それらを新鮮かつ強烈なものに保つためです。私たちは主イエスのこれらの卓越性に対する強烈かつ新鮮な感謝を絶えず持つ必要があります。そうであるとき、祈りは受け入れてもらえる有効なものになります。塩はこれらの香料の一つではなく、その中に加えられる何かです。そして、その何かとは朽ちないものです。

次に、人自身によって、もしくは人自身のために、このような何物も作ってはならない、というとても明確な規定があります。この模造品はあってはなりませんし、人はそれを私的・個人的に使用してはなりません。それは常に主へのものであり続けなければなりませんし、主への聖なるものでなければなりません。そして、この規則を破ることは死を意味しました。ご存じのように、あるとき、異火をささげたところ、裁きと死という結果になりました。それでここでは、もしこれを人が作ったり、その模造品を人自身のためにまた人自身の個人的目的のために作るなら、その人はその民から断たれる、と告げられています。主イエスの道徳的卓越性を模倣することは不可能です。人は自分自身の内にそれを持つことはできません。主イエスの栄光のような栄光はありません。

ここで、神は明確かつ積極的に、「主イエスの性格は無比無類です。それに人は近寄れませんし、それは人がなりうる最善からも全くかけ離れています」と事実上述べておられます。神は主イエスの中に、他のどこにもないものをご覧になっています。そして、だれでも主イエスの功績を真似しようものなら、それはそのような人に対する死を意味します。私たちの道徳的誇りは、神に近づくための根拠になりません。主イエスはご自身の命を捨てられましたが、人が同胞のために命を犠牲にして捨てることをそれと同列に語るのは恐ろしい冒涜です。それはひどい冒涜であり、神の断固たる徹底的裁きに遭わなければなりません。だめです!神から見て、御子の道徳的卓越性に匹敵するものは何もありません。そして、それらの模造品、人が造ったもの、主イエスの独自性を認めないものは何であれ、それを持ち込もうとすることを神は私たちに禁じておられます。

ですから、受け入れてもらえるあらゆる祈りの基礎――それに基づいて私たちは御父に近づきます――は、主イエスの道徳的卓越性と栄光、恵み、徳、功績、意義という基礎です。これはとても単純ですが基本です。そして、祈りの問題で成功を収めるには、まずこれを認識しなければなりません。

祈りの五つの面

さて、祈りの主題に関して先に進むことができます。第一に、祈りの性質について、もしくは祈りを構成するものについて、異なる幾つかの観点から少しばかり述べたいと思います。他の多くの面があるかもしれませんが、祈りには五つの主要な面があると言えると思います:交流、服従、嘆願、協力、戦いです。祈りはこれら一つ一つのものです。そして、全き祈りはそのすべてを必要とします。もしくは、そのすべてを含んでいます。

交流としての祈り

第一に、祈りは交流です、祈りは交わりです、祈りは神に心を開く愛です、そして、それは祈りのすべての真の形態の基礎です。それを私たちの人体の二つの主要な活動になぞらえることができます。これらの肉体の諸活動について述べることは、有機的なものについて述べることであり、次に機能的なものについて述べることです。有機的な問題はとても深刻ですが、機能的な問題はさほど深刻ではないかもしれません。交流としての祈りは、私たちの体における有機的なものに相当します。私たちの有機的な構成要素の一つに、いわゆる呼吸があります。さて、あなたは決して立ち止まってそれについて考えたりはしません!考え抜いて、「もう一呼吸してもいいでしょうか?」「息をしてもいいでしょうか?」「今日、あとどれくらい呼吸しましょう?」とは決して言いません。食事に関してはそうできるかもしれません。それは機能に関することだからです。しかし、呼吸に関しては決してできません。それは有機的なことだからです。歩くかどうか、話すかどうか、考えるかどうか、議論することはできます。そして、考えるのをやめよう、歩くのをやめよう、話すのをやめよう、と自分に言い聞かせることもできます。それは機能に関することです。それは制御された意図的なことですが、呼吸に対してはそうしません。呼吸は続きます。しかし、もし呼吸が止まれば、歩くことも、話すことも、考えることも止まります。ですから、呼吸は他のすべての基礎です。

そして、霊的生活における交流としての祈りは、肉体における呼吸の役割を果たします。神との交流は持続的なものであり、継続的な、もしくは継続すべき呼吸のようなものです。それは食事のような定期的器官活動とは全く異なります。呼吸は全く無意識的であって、意図的ではありません。それを習慣と呼べるでしょう。そして習慣は、その常習者の意識をいとも容易に完全にすり抜けます。私たちは諸々の事柄を、その時点で自分がそれらの事柄をしていることを意識せずに、習慣的に行います。習慣が完全に形成されると、それはまさに私たちの行動の無意識的要素になります。そして、神との交流はこれです――継続的なものです。交流としての祈りはまさにこれです:私たちは主に触れ、自発的・無意識的に私たちの心を彼に対して開きます。これがすべての祈りの第一の基礎事項です。そして、これは私たちが注意すべきことです。呼吸すべきかどうかの問題について一度も議論しなくても、正常な呼吸が継続します。そして、この意味において、私たちは自分の呼吸に注意を払わなければなりません。

私がこれまで会った、神との交わりによるこの有機的生活を実証したすべての人々の中で、F.B.マイヤー博士が傑出していたと思います。どこにいても、また、環境がどうであれ、彼はよく突然ストップしたものでした。手紙を口述しているとき、会話しているとき、仕事の会合のとき、「少しストップしてください!」と言って祈ったのです。それが彼の生活習慣でした。彼は常に主に触れているように思われました。それは彼にとって呼吸のようなものでした。それは彼の生活の実り豊かさと主の事柄における彼の価値ある判断の秘訣を示している、と私は信じています。彼と親しく接した人々、特に困難な幹部会議で彼と親しく接した人々だけが、状況に対して下した彼の霊的判断の価値を知っていました。それはまるで主から彼に臨んだもののように思われたのです。

さて、これが祈りの基礎です。それは交流、交わり、主に対して自発的に心を開くことです。それは祈りのすべてではありませんが、あらゆる意識的活動の背景で送られている生活であり、主に触れる生活です。それはとても、とても尊いものです。それを持つとき、他のすべての祈りは大いにますます効果的になります。それは緊急時に祈るだけの生活とは大違いです。往々にして、必要以上に危機的な緊急事態が臨みます。それは、現状にとどまる代わりに神に立ち返る道を私たちに見つけさせるためです。私が思うに、頻繁に緊急事態が私たちに臨むのを主が許されるのは、失われたご自身との交わりを回復するためです。主の御心における、そのような緊急事態の永続的成果は、私たちがその交わりを再び失わないようにすることです。私たちはそれを保ち続けなければなりません。

服従としての祈り

次に、第二に、祈りは服従です。ここで私たちは、別の言葉を用いるおそれを意識しなければなりません。祈りは服従です。いわゆる信頼による受動的無為は祈りではありません。人々が信頼について語るのを私たちは聞いてきました。それは彼らにとって、たんなる受動性と無為を意味します。しかし、それは祈りではありません。服従は常に能動的であり、受動的ではありません。服従には常に意志が関係しています。意志を退けたりはしません。さて、これに注意深く留意してください。多くの人々は、ただ主に信頼してよりかかることが服従だと思っています。そして、主に対する彼らの姿勢は、そのような状態の性格を帯びています。しかし、それは祈りではありません。彼らに見られるような無条件の黙従は服従ではありませんし、祈りでもありません。服従は神の御心との一致を意味します。それは戦いを意味するかもしれません。それはほとんど常に行動を意味し、意志を持ち込みます。祈りは、どの観点から見ても、常に積極的です。決して受動的ではありません。信頼は別のものであり、祈りの範疇に入りません。信仰は祈りの範疇に入りますが、信仰は常に能動的なものであって、決して受動的なものではありません。安息の境地に至るために、信仰は戦いを要求するかもしれません。しばしばそうです。しかし、「信仰の安息」はいわゆる無条件の黙従ではありません。「信仰の安息」は、神の御心への適応の最終段階が達成されたことを意味します。服従は願いを控えることだけでなく、神のみこころとの一致を願うことでもあります。そして、必要なら願いを変えることです。願いはとても強力なもの、強力な推進力かもしれませんが、推進力は管理下になければなりません。それは、制動力への切り替えも可能にするためです。列車を走らせるには、ものすごい量の出力と力が必要です。しかし、現代の列車は、その強大な推進力を瞬時にブレーキに切り替えて停止させられる仕組みになっています。服従を目的とする祈りでは、まさにこれを何度も行わなければなりません。願望のこの力を、一方において停止させて、他方に向かわせなければなりません。前進する方向から、神のみこころの中に停止する方向へと転じさせなければなりません。これが服従です。服従は能動的なもの、積極的なものであることがわかります。

これに関して多くの疑問が生じるだろうことを私は予想しています。しかし、祈りの第二の面は服従であることを理解するのはとても重要です。服従は積極的なものです。それはただ神の御前でくずおれて、「はい、すべてうまくいくと私は信頼します。私はあるがままの状況に黙々と従い、それを主にお任せします」と言うことではありません。服従は積極的に神のみこころ、神の願い、神の御心と一致することです。これはとても多くの場合、きわめて深刻な戦いを意味しますし、時として頭を痛めることを意味します。しかし、これは必要です。後で再びこれに触れることにします。

嘆願としての祈り

第三に、祈りは嘆願、要求、願い求めです。あなたがどの言葉を好もうと、これはみな同じです。ここでは、祈りの働きにおけるこの主要な面に触れることにします。疑いなく、これは聖書の中で最も大きな部分を占めており、実際に「祈り」という言葉の意味を規定しています。

聖書的観点からすると、祈りは確かに嘆願です。神の御言葉を読むと、祈りは圧倒的に嘆願を意味することがわかります。この線に沿って大いに議論して、これがそうであることを立証・説得する必要はおそらくないでしょう。しかし、私は大いに確信していますが、話を終える前に、一つの注意点を強調する必要があることがわかるようになるでしょう。というのは、結局のところ、私たちの主な問題は願い求めの方面や嘆願の領域で生じるからです。もちろん、私たちは祈り続けます。それらすべての問題にもかかわらず、祈り続けます。私たちはそうするだろうと、私は信じています。しかし、同じように私たちは、嘆願、要求、願い求めのための土台を据えなければなりません。また、祈りには客観的有効性があることを、はっきりと完全に理解しなければなりません。しかし、疑いなく、私たちはみな、自分たちの要求と願い求めの祈りのとき、ささやかな問題を抱えています。その問題は、あるささやかな知的問題のためであり、それが入り込んで確信を蝕むのです。私が述べているのは祈りの客観的効力についてです。つまり、物事を客観的に変える力を持つ祈りについてです。内的に私たちに影響を及ぼすだけでなく、私たちの外側でかなえられる祈りについてです。あらゆる誤った議論に対抗する嘆願、要求、願い求めについてです。「神は全知だから祈りは不用である」「神は何でもご存じである」「神は何をするか、どのようにするかご存じであり、最初からすべての結末をご存じなのだから、どうして祈る必要があろう?」という誤った議論があります。また、「神は良い御方なので、祈りは余計である」「神は善良で、思いやりがあり、あわれみ深く、忍耐強い。神は愛なので、最善のことしか行われない。ゆえに祈りは余計である」「なぜ主に善をなすように、恵み深くあるように、親切心を示すように、そして自分たちのために最善をなすように嘆願するのか?なぜ神の善良さに信頼しないのか?祈りは余計である」という議論もあります。さらに、「神は予定しておられるので祈りは役に立たない。神は物事を永遠に決定しておられる以上、予定は有効であり、祈るのは役に立たない」という議論もあります。あるいは、この延長線上に、「神の主権――神は支配しておられ、統治の座に着いて万物を御手・御力の中に握っておられるという事実――に照らして見ると、祈りは信仰の欠如を意味する。なぜ求め、なぜ祈り、なぜ嘆願し、なぜ要求するのか、すべては神の御手の中にあり、神が主権によって支配・統治・監督しておられるというのに?」という議論もあります。さらに、「神の法と御旨は巨大なので、祈るのは厚かましいことである。神に物事を変えるよう求めるのは厚かましいことである。なぜなら、神はご自身の永遠の法にしたがってすべてを定められたのであり、物事は定まった命令にしたがって動いているからである。主にご自身の定めを踏み越えるよう期待すること、あるいは、そうするよう主に求めるのは、厚かましいことである」(四章を見よ)という議論もあります。

さて、あなたはこのように述べたことはないかもしれませんし、こうした疑問がこのように心に浮かんだこともないかもしれませんが、私はあえて言いましょう。こうした言葉が心に浮かんだことがあるにせよないにせよ、このように述べたことがあるにせよないにせよ、それらの言葉の意味するところが時々あなたの祈りの生活の中に巧妙に忍び込み、それに影響を与え、それから何かを奪い取ってきたのです。あなたが祈っていた時、形容しがたい何かが忍び込んできました。「まあ、主はご自身のなさることをご存じなのだから、どうして主に嘆願する必要があろう?主は善良で恵み深いのだから、どうして主に求める必要があろう?主は最初から結末をご存じなのだから、どうしてただ主に信頼しないのか?主の御目的は定まっているのだから、どうして状況を変えるために主との格闘を始めなければならないのか?主はご自身の目的を成就されるのであり、主は心を堅く定めておられるのだから、だれが主を変えることができよう?」。祈りが影響を受けます。思いの中に知的に紡がれた言葉によってではないかもしれませんが、入り込んできた違和感によってです。こうしたものがすべて思いや心の中に忍び込んできて、祈りの問題に関して邪魔したり弱めたりしがちです。そして、先に進むにつれて、ますますこれらを対処しなければならなくなります。私たちは次のことを理解しなければなりません。今日の現代主義は祈りの客観的効果を退けて、それに主観的価値の地位しか与えていません。つまり、祈りは祈る人に有益な影響を与えて、ある種の畏敬の念やそのようなものによって、おそらくは振る舞いや思いや理性に変化を生じさせるというのです。

これらの事柄のいくつかをさらに十分に取り上げる前に、言わせてください。嘆願の祈りについて常に心に留めておくべき二つの点があります。第一は、他の二つの面、すなわち、交流と服従が根本的に必要だということです。なぜなら、嘆願の祈りについては結局のところすでに述べたことを私たちは信じていますし、また、嘆願の祈りと共に結局のところ私たちは前進することになりますが、それでも主との交流が根本的に必要だからです。ですから、祈りは神へのたんなる願い求めに帰着するものではなく、彼との心の交わりから発するものなのです。そして、それには服従が必要です。それは、私たちの嘆願が自分自身の目的や個人的願望のためではなく、神のみこころに沿ったものとなり、神の御心と御意志との一つに基づくものとなるためです。私は「あなたたちがみこころにしたがって求めるものは何でも」という神の御言葉が完全に明らかにしていることを言い換えているにすぎないことがわかるでしょう。

次に、すでに述べたあらゆる知的困難の観点から見て、嘆願の祈りについて心に留めておくべきもう一つの点は、それは著しく信仰の行為になるということです。これらの知的困難のために、嘆願の祈りは大部分信仰の行為になります。たしかに、神の主権や予定等に関するこれらの線に沿って、論じようと思えば論じられます。それにも関わらず、神は状況を変えることができる、と私たちは信じています。祈りを損なって弱めるあらゆる議論にもかかわらず、私たちは求め続けます。これにより嘆願の祈りは著しく信仰の行為となります。それは問題から逃避するとても安直な方法だ、とあなたは言うかもしれません。まあ、まだ話は終わっていません。しかし、これが到達すべき結論です。この問題から安直に逃避することを私たちは望みません。

協力としての祈り

まだ祈りの二つの面があります。その一つをこの章で取り扱い、もう一つは後に残すことにします。

第四の面は協力です。そして、これは祈りの支配的目的です。それは他のすべての背後にあって、祈りのすべての面に関して私たちを正します。交流、服従、嘆願、戦いは、祈りは協力であることを私たちが理解する時、すべて調整されて正されます。なぜなら、祈りのこれらの他の面や相は協力のためだからです。協力が祈りの動機、実際、命、自由、力、栄光です。祈りの動機は神との協力です。実際のところ祈りは何かというと、神との協力です。祈りに命を持たせるには、祈りは神との協力であることを理解しなければなりません。神との協力としての祈りの中に入る時、私たちは命を得ます。もし神との協力の中にないなら、祈りに命はないことは確実です。もし実際に神と協力しているなら、祈りに命があることがわかります。

祈りにおける自由は、神との協力という線に沿って臨みます。この調整をするときはじめて、神の目的に同調するときはじめて、私たちは言わば「切り抜け」ます。神の目的に同調して積極的に協力するやいなや、私たちは先に進みます。そして、そこには自由があります。

同じように、祈りの力は神との協力と関係しています。神との協力は祈りの力です。神と協力して、その結果、祈りに効力があった、エリヤらのことを考えてみてください。なんということが成就されたことでしょう!

次に、祈りの栄光です。祈りが真に知的・霊的に神との協力の事柄である時、祈りは輝かしいものになります。協力によってわがままや、個人的なものはみな一掃されます。これがその主な意義の一つです。なぜならそれは、祈りは私たちを神の計画、神の方法、神の時、神の精神もしくは気質の中に導かなければならないことを意味するからです。これらはみな重要です――その計画だけでなく、計画を成就する神の方法も知ることが重要です。その計画とその方法を知るだけでなく、神の時にあずかることも重要です。そして次に、その時が来たら、執行するだけでなく、それに対する正しい霊の中にあることが重要です。それを御霊の中で、主の姿勢の中で行うことが重要です。これはみな協力です。私たちは正しい事柄の中に、正しい方法で、正しい時にいるかもしれませんが、それでも、主の霊とは異なる間違った霊の中にあるせいで、主の助けになっていないかもしれません。神と協力して祈ることは、これらすべてに関して調整をすることです。

祈りに不可欠な三つの要素があります。第一は願い、第二は信仰、第三は決意つまり意志です。これを述べるだけでよしとすることにします。

次に交流、服従、嘆願を一緒にすると、協力になります。これらが同行して、互いに、そして神のみこころに沿って調整される時、協力になります。

おそらく、この面を終えるにあたって、次のことを思い出すといいでしょう。往々にして、主はご自身の分を果たす前に、私たちが自分の分を率先して果たすことを要求されます。主は往々にして、願い、信仰、決意という問題に関して、私たちが率先することを要求されます。それは、水流を生じさせるために昔風のポンプに送り込まなければならない水滴のようです。ポンプに何かを与えないかぎり、水流は得られません。主は同じようにこれを私たちの側に要求されます。それは比較するとほんの僅かかもしれませんが、それによって主は完全に姿を現せるようになります。往々にして、祈り始めるには私たちの側で意志と信仰と願いを行使する必要があります。すると、主はそれに応えてくださいます。もしかすると、主は、願いが信仰による入念な意志の働きになってご自身に達するのをご覧にならないかぎり、応答されないかもしれません。祈り始める時、多くの邪魔に遭遇することがよくあります。何の効果もないように思われるため、あまりにも早々と諦めてしまうおそれがあります。主は流れを開始するためにこの水滴をまさに求めておられるのです!

これまで、祈りの四つの面についてだけ述べて、それらに関して生じる困難の幾つかに言及しました。しかし、それらの困難をまだ解決したわけではありません。祈りの五番目の面に二つの章を費やすことにします。そして次に、これらの困難について、それらに答える努力をしつつ、より詳しく扱うことにします。これらの困難は、しかしながら、実際には思いの領域にしか存在せず、時々信仰の道に割り込む一方で、信仰がそれらに対して勝利します。そして、それらの困難にもかかわらず、巨大な過去のいきさつを乗り越えるのです。