第四章 祈りにおける知的困難

T. オースチン-スパークス

祈りの五つの相、すなわち、交流、服従、嘆願、協力、戦いについて考えたので、今さらに少し進んで、祈りに関する問題のいくつかを考えることにします。すでに述べたように、非常に多くのとき、私たちの思いの背後にある反対や疑念の名状しがたい感覚が、祈りを損ない麻痺させる影響を及ぼします。そして私たちは時々、それまで一度も真剣に取り組んで分析・規定したことのない知的困難によって妨げられます。私たちの今回の目的は、確実に確信をもって祈りのための立場を清めることにより、これらの困難のいくつかを明確化し、分析し、見極めることです。

祈りと神のみこころ

これに関連して、祈りの主な困難の一つが、神のみこころに関連して生じます。これは、もちろん、黙想と熟慮を要する非常に広大な領域であり、とても多くの数の異なる相、面、点を含んでいますが、私たちはそれを少し狭めようと努めることにします。先に進むにつれて、私たちが述べることの中にはさらに多くの内容があることがわかるでしょう。

神のみこころに関する基本的な問題は「それは絶対的なものか、それとも相対的なものか?」であるように私には思われます。私たちが取り扱っているのは、私たちに対する神のみこころは絶対的なものなのか、それとも相対的なものなのか、というこの問題です。こう述べても、あまりあなたの助けにならないかもしれません。それはとても学問的に聞こえますが、意味を説明することにします。

神が状況を許しておられるのは、それが彼の絶対的みこころだからでしょうか、それとも、それによって私たちを発達させて何らかの立場に至らせるためでしょうか?後者の場合、神のみこころは相対的であって絶対的ではありません。すなわち、状況は神の御心を絶対的に示すものではなく、むしろ、他の目的のために神がそれを許されたのであって、したがって、神の相対的みこころを表しています。今、祈りに関する神のみこころを包括的に考慮するための土台・基礎を得ました。私たちが扱っているのが神の相対的みこころの場合、その結果は以下の二つのいずれかになります。すなわち、その状況がその目的を遂げたら、脇にやられて、神のみこころの中にすっかり残らなくなるか、あるいは、残ることを許されはするものの、私たちがその状況の優位に立って、その状況は私たちの僕になるかです。その状況が存在するのは、神がご自身の完全なみこころ・御旨のためにその存在を欲しておられるからではなく、私たちをある立場に保つのに必要だと見なしておられるからです。私たちが完全な被造物だったなら、神のみこころは常に絶対的だったでしょう。神の相対的みこころのための余地はなかったでしょう。なぜなら、私たちを新たな立場に至らせる状況を許す必要は神にはなかったでしょうから。しかし、私たちは不完全な堕落した被造物なので、私たちに対する神のみこころは絶対的であるよりも相対的であることの方が多いのです。

服従と執拗さの対立

それで、服従と執拗さという線に沿って、この問題が私たちに生じます。この二つは互いに反しているように、対立・矛盾しているように思われます。執拗さと服従をどうすれば両立できるのでしょう?執拗さは服従を排除するのではないでしょうか?服従は執拗さを排除するのではないでしょうか?これらは互いに対立しているように思われますが、それでもそうではありません。祈りのときに生じるこの問題は、扉を叩き続けること、叩くのを続けることであり、それでも服従することです。服従はあなたの叩く原動力を取り去るのではないでしょうか?あなたが叩く原動力は、あなたが服従を学んでいないことを意味するのではないでしょうか?頭の中で常にそう考えているわけではないかもしれませんが、この疑念が忍び込み、背後にとどまり、往々にして祈りから積極性、確信、明確さを奪い去ってしまいがちです。そのため、あなたは自分が緩衝地帯にいることに気づきます。

これは問題であり、私たちはできるだけ明確にこれに決着をつけなければなりません。この問題を解くのは、私が思うに、道徳的要素が入り込んでいること、そして、神がもっぱら関わっておられるのは道徳的な要素・課題であることを、理解する道によります。私たちの中に克服すべきもの、あるいは、切り抜けるべきものがあるのです。そしてこれは次のことを意味します。すなわち、神の相対的みこころにより、多くのことが起きるのを主は許されるであろうこと、あるいは、多くのことが主によって送られるであろうことです。その目的・理由は、私たちの中の或るものを乗り越えさせること、あるいは、私たち自身で或るものを切り抜けさせることです。なぜなら、道徳的要素が視野にあるからです。(私は今、「道徳的」という言葉をその最も広い意味で用いており、いかなる狭い意味でも用いていません。)私たちは理解しなければなりません。新創造は道徳的なものであり、私たちに関する限り完璧ではないのです。新創造はそれ自身においては完全完璧ですが、私たちにおいては完璧ではありません。旧創造が依然として存在しています。旧創造が実在しており、それは新創造の外にありますが、それが新創造に及ぼす影響は甚大です。罪は信者に対して消滅していませんし、信者に影響を及ぼすこの世も消滅していません。悪魔は信者に対して消滅していないことは言うまでもありません!しかし、この旧創造のまさに中心に、道徳的なものである新創造があります。しかし、それは道徳的なものです――それはその幼年期にある、と言えるでしょう。そして、その道徳的要素・要因は発達させられて、私たちを道徳的な被造物にしなければなりません。この言葉の完全な意味においてそうしなければなりません――つまり、信頼できる被造物、知的な被造物、新しい意識、新しい価値観、新しい原理認識を持つ被造物です。新しい天的世界全体が到来しました。そして、その知識と知恵を知的に所有しなければなりません。その秘訣を知り、その美徳を造り込まれなければなりません。再生によって主は私たちをたんなるロボットや機械にされたわけではありません。私たちの意志、感情、願望、理性や知性とは無関係に、外部からの働きかけを受けさせたり、あちこちに運んで、私たちとは無関係に、何かをさせたり、やらせたりはされません。そんなことは聖書に全く反します。

しかし、主は私たちを道徳的な被造物に構成されました。新しい徳性、新しい天的体系、天然の人とは違う全く新しい知性にしたがって構成された被造物です。私たちは判断、価値、評価の全く新しい体系を持っています。そして、何事においても主は今や私たちに諮られます。内側からの新創造の感覚、意識、確信、暗示に関して自分自身を訓練するよう、主は私たちに求められます。こういうわけで新創造は道徳的なものですが、旧創造が依然としてそれを取り巻いて包んでいるため、この新創造が成長するのは征服、戦いによります。厳しい訓練による服従と克服で勝利することによります。周到で、力強い、集中的な、永続的取り組みによります。聖霊によって力づけられている新しくされた意志は、機械的に働くのではなく、主にあって自らを訓練するよう求められます。神のみこころの中で祈ることは、聖霊がやって来て、あなたの意志や意思を握り、あなたの知性によらないことを言わせることではありません。それは全く誤った領域です。人の知性が片隅に一掃されて、その人も他のだれも理解できないことをまくしたて始めることが、今日かなりありますが、これは新創造ではありません。聖霊は、ご自身が用いるどの人についても、その知性や理解力をこのように停止したりはされません。むしろ、理解力を行使するよう求められます。「私は霊によって祈り、また、理解力によっても祈ろう」と使徒は言いました。聖霊による祈りは、聖霊に明け渡しすぎるあまり、自分自身の道徳的命(再びこの言葉をその完全な意味で用いています)をすっかり失うことではありません。

教育としての祈り

次に、私たちに関する主の御心においては、道徳的問題が何よりも重要であることがわかると、祈りは教育・訓練であることがわかります。私たちは「祈りの学校」について話しますが、これは実に適切な名称です。教育と訓練は同じものではありません。教育は知識を得ることと関係しており、訓練は実行的に表現された道徳的価値と関係しています。この定義を理解してください。これは重要だからです。私たちは「教育を受けた人」について話しますが、それは多くのことを知っている人という意味です。しかし、「よく訓練されている人」について話すとき、実際的価値のある人を私たちは思い浮かべます。教育を受けていても全く役に立たない人が大勢います。私たちは、ですから、祈りによって発達させられますし、主は私たちが祈りによって発達させられ、広げられるように案配されます。これは、一方において、霊的知識の獲得を意味します。祈りによって発達させられないかぎり、それは得られません。祈りによって十分に発達させられるとき、どれほど様々なことを学ぶのか、どれほど秘訣を理解して様々なことを知るようになるのかは、注目に値します。そして次に、他方において、このように祈りによって発達させられることによって、私たちは道徳的立場に導かれ、道徳的にいっそう高い水準に導かれます。その意味については間もなく見ることにします。祈らない人々は、無知で弱いままであり、教育や訓練にもあずかれません。神の御心を知ることも、御心にしたがって行動することもできません。

ですから、私たちはさらに認識しなければなりません、祈りは個人的に有益であるだけでなく、団体活動でもあるのです。参入すべき神の計画があります。祈りには個人的・主観的意義があるだけではありません。個人の祈りに由来する道徳的意義ですら、客観的、集団的であり、相関的なものなのです。

執拗さの性質

さて、少し要約に努めることにします。執拗な祈りには三つの面があります――しかし、なぜ執拗さが要求されており、必要であり、正しいのか、あなたは理解しているでしょうか?服従は、前に指摘したように、能動的なものです。積極的なものであって、受動的なものではありません。それは神の御心と調和します。そして次に、道徳的特徴を発達させるために、執拗さが続きます。

内側に造り込まれたキリストの道徳的卓越性

さきほど述べたように、執拗な祈りには三つの面があります。第一に、道徳的面であり、それにはそれ自身の二つの側面があります。私たちは金の祭壇にささげる香料について述べました。また、これらの香料はキリストの道徳的美徳を表すことを指摘しました。一方において、これらを信仰によって把握・適用しなければなりません。そしてこれが執拗な祈りの道徳的面の一つの側面です。すなわち、信仰によって丹念に粘り強く主イエスの道徳的美徳と栄光を把握・理解するのです。これは訓練であり、非常に多くの時、私たちの天然的自己から生じて祈りを挫折させる諸々の議論の侵入を退けることを意味します。主の御前に出る時、私たちはたしかに自分の無価値さ、空虚さ、弱さを覚えつつ出なければなりません。しかし、これは私たちの訓練の基礎ではありません。なぜなら、それは決着済みでなければならないからです。それでも時として、私たち自身の罪深さ、弱さ、無力さに悩んでばかりいるせいで、積極的かつ効果的な祈りが妨げられ、停止させられ、阻止されることすらあります。そのため、キリストの道徳的美徳と卓越性を積極的に行使する必要があります。それは、私たちがそれらで自分の両手を満たして神の御前に出るためです。

敵は有罪判決、罪定め、訴えを神の御前に提示します。しかし、私たちは両手で主イエスの卓越性を握らなければなりません。そうしないかぎり、私たちは御座に至れません。なぜなら、それらの卓越性抜きでそこに至ることはできないからです。この罪定めを慎重に拒否しなければなりません。祈りの生活とかなり疎遠になってしまって祈れない人々を私たちは知っています。なぜなら、彼らが祈りだそうとするやいなや、内省、自己分析、自意識、自己の欠点が侵入してくるため、突き抜けて積極的なものに至ることが全くできないからです。

一方において、ですから、信仰の行使が必要です。粘り強い信仰で、私たちを神にもたらしてくれる、これらの香料、すなわち、主イエスのこれらの卓越性と美徳を適用する必要があります。

次に、この道徳的要素のもう一つの面があります。それは、これらの卓越性と美徳が私たち自身の魂の中に聖霊によって造り込まれなければならない、という面です。神の御前におられる主イエスは神ご自身の御心にかなう代表者ですが、彼は代表者であるだけでなく、キリストにある新創造のすべての肢体がその方から自分たちの性格を得るべき人でもあります。完全な人――完成された人――である彼のすべての美徳と卓越性が、彼のすべての肢体たちに分配されなければなりません。それは、彼らが彼から自分たちの性格を得て、彼ら自身の魂が彼の御性質にあずかるものとなるためです。これらのキリストの美徳は試験された美徳、試みられた美徳、実証された美徳、勝利の美徳であり、今や活動的な美徳であって、たんなる受動的な美徳ではありません。主イエスは(これを謹んで述べてもよいでしょうか)注目と称賛を受けるべき一つの模型や最高の標本として博物館の中に展示されているわけではありません。そうではなく、彼には包括的な力と実際があります。彼は生きておられます。彼は模型や像ではありません。彼はご自身を分与される生けるキリストであり、聖霊によって、彼の肢体である私たちに供給されます。彼の信仰は、成就・完成・研鑽されたもの、そして、美しい標本を見るように見るべきものであるだけでなく、それによって私たちが生きるべき信仰でもあります。彼の忍耐も同じ性格を帯びています。私たちはキリストの忍耐に従う者、あずかる者となるよう召されています。こう述べるだけで、あなたの心に多くの聖書の御言葉が押し寄せてくるでしょう。「あなたたちの信仰に(中略)加えなさい」。加えなさい、加えなさい、加えなさい――そして、これらは私たちに加えられるべきキリストの美徳です。

私たちが召されたのは、使徒が言うには、「キリストにあずかる者」となるためです。ですから、彼の信仰、彼の忍耐、彼の献身、彼の従順、彼の苦難、彼の愛はみな、徹底的に試験され、試され、実証され、勝利しました。しかし、それは私たちとは無縁のものではなく、私たちと関係しています。「彼は尊い卓越した偉大な約束を私たちに与えてくださいました。それはこれらの約束を通してあなたたちが神の性質にあずかる者となるためです」。

執拗な祈りの道徳的面とは、ですから、キリストの美徳と卓越性が私たちの中に造り込まれることです。神が直ちに、今日、明日、一週間、一か月、一年たっても祈りに応えてくださらず、そのため執拗さすなわち忍耐が必要とされる時、彼は何をしておられるのでしょう?彼は私たちの中に御子の道徳的卓越性、完成された勝利の信仰、完成された勝利の忍耐、完成された勝利の献身と彼への従順を造り込んでおられるのです。彼がそれを要求しておられるからです。祈りは確かに訓練学校です!これらの美徳は訓練によって生じます。覚えておきましょう。神には目的があるのです。また、キリストとの私たちの協力関係――私たちはそれに召されています――はついには道徳的なものになるのです。それは性格と関係したものになるでしょう。神の相対的みこころのゆえにです。罪は神の絶対的みこころではありませんが、神はそれを許容されました。ああ、そうです、しかしそれは私たちが征服するためであり、新創造の道徳的命を発達させるためです。苦難は神の絶対的みこころではありませんが、神はそれを許容されましたし、今も許容しておられます。それは、ですから、彼の相対的みこころです。これは、彼の許可と許しは一つの目的のためであることを意味します。この目的が達成される時、その苦難はなくなるかもしれませんし、あるいは、私たちをある立場にとどめておくために依然として存続を許されるかもしれません。しかし、そのためにその苦難が許された立場に至ったので、神の相対的みこころは果たされました。これは他のすべてのものに当てはまります。例えば環境です。私たちの生活に到来する多くの環境は神の絶対的みこころではありません。挫折は神の絶対的みこころではありませんが、神の許しなく何事も神の子供に臨むことはありえない以上、それは許容されたみこころなのです。

霊的理解力の獲得

さて、これにより次の問題が私たちに生じます。すなわち、神は状況によって何を意図しておられるのかを知ることを祈りの中で求める、という問題です。神は状況によって何を意図しておられるのかを、深い心の慮りと苦しみを通して知ることが、私たちの訓練です。私たちはより高い命の水準に到達しました。ですから、執拗な祈りの二番目の点は知識です。第一が道徳的命であり、知識が第二です。自分自身を神の御手の中に全く委ね切っているのに、明らかに矛盾する奇妙な経験の中に導かれる人々がいます。主がなさりたいことに関する明確な感覚があるかもしれませんが、それを行うのは到底無理なのです!開けた道はなく、扉はすべて閉ざされています。遅延に次ぐ遅延!主は何をしておられるのでしょう?それが及ぼす第一の効果は、私たちを祈りによって発達させること、私たちを執拗さによって拡げることであるにちがいありません。私たちはそれを諦めることができません。それを主にすべて任せよう、と私たちは決意するかもしれませんが、自分がそれに何度も戻ってしまうのを見いだします。また、私たちが無関心でいるのを主は許されません。主は私たちの側に、いっそう豊かな知識と理解力を求めておられます。これは私たちに対する主のすべての道と密接な関係にあります。そして、もちろん私たちが経験的に知ってはいるものの、おそらく自分の心にもっとはっきりと銘記すべき一つのことは、本や講義から神の諸々の原則を学ぶことはできないし、霊的知識を得ることもできない、ということです。それらを知る唯一の方法は産出の過程によります。まず第一に、受胎しなければなりません。これは内的な事柄です。次に形成、そして次に苦しみを経て誕生に至らなければなりません。これは生命過程です。神聖で霊的な事柄はマニュアルからは学べませんし、聖書からも学べません。聖書にあることを学ぶ唯一の道は生きた経験によります。聖書は蓄音機ではなくマイクロホンです。違いは何でしょう?蓄音機は自分の中に音を蓄えたものです。マイクロホンは彼方にある何かを伝えます。聖書は蓄音機ではありません。私たちが聖書を読むことによって、私たちの理解力のために、彼方から何かが到来しなければなりません。蓄音機的な聖書知識を得るおそれがあります。つまり、本としての聖書を徹底的に知っているかもしれませんし、きわめて素晴らしい分析や図表を持つこともできるのですが、依然として――生き生きとした実際的・霊的用途に関して――主にとって少しも役に立たないままかもしれないのです。

しかし、マイクロホン的な御言葉理解を持つとき、私たちは聖書を持ちます。そうです、しかし、それ以上です。神が聖書を通して語られ、私たちは生きたものを得ます。私たちはみな、子供のとき海辺で、貝殻を拾って耳に当て、海鳴りを聞きました。その貝殻を町の家に持ち帰って、耳に当てると、依然として海鳴りが聞こえました。これは本当でしょうか?それは子供じみた幻想です。私たちが子供で、貝殻を町中で持っていた時、私たちはこう考えました。自分が耳にしているのは海鳴りであり、その貝殻の中に海鳴りがすべて蓄えられているのだと。そして、それを自分の耳に当てさえすれば、海鳴りが聞こえるのだと。このような考えは、貝殻に関する子供の考えです。しかし、これはそういう類のことではありません。その貝殻はじょうごのように機能しているにすぎません。大気中の音の振動を集めて、耳だけでは聞こえない音を聞こえるようにしているのです。その貝殻は、より大きなものを伝える送信器にほかなりません。

一冊の本として見た神の御言葉は、まさにこの貝殻のようです。私たちが神の御霊の中にあるとき、それは私たちに主の御心を伝えます。しかし、それを通して私たちに働かれる聖霊の働きがなければ、それはまさに他の本と同じです。私たちはそれを読むかもしれませんが、他の本から得られる以上の光は得られません。必要なのは霊的知識ですが、多くの人は聖書をたんなるマニュアルにしています。

さて、私たちが述べているのは、本や講義から神聖な諸原則を知ることはできないし、霊的な知識を得ることもできない、ということです。これらの原則が私たちに到来するのは、ただ命と経験という道によります。生き生きとした性格を帯びていることが私たちの内になされ、命が私たちの中に形成され、発達させられます。そして次に、その完全な成就に向けて、それは私たちを苦しみの中に導きます。これが霊的知識を得る道です。それは執拗な祈りによって到来します。こういうわけで神は執拗な祈りを要求されるのであり、それを必須のものとされるのです。神の御前における私たちの魂の苦しみから、長引く苦悩の経験の中で、私たちは霊の事柄を知るようになります。多くのとき、急ぐことは――長期的には――時間の損失にしかなりません。そして、いっそう十分な知識を得るために戻らなければなりません。あまりにも大急ぎだったからです。主は多くの人々を戻して縛り付けなければなりません。それは、彼らを動けなくして、長期間のあいだそこで彼らに深遠な学課を学ばせるためです。こうして、主の御心では何が必要不可欠なのかを彼らは学びます。出て行く前に知るようにされる人々もいますが、出て行く前にせよ、あるいは、戻らざるをえない場合にせよ、主の御旨は同じです――それはあなたが知ることです。

ですから、主の遅延は主の発達の時なのです。それは執拗な祈りによってであり、霊的知識のためです。

祈りの中で責任を負うこと

次に、第三に、団体的な面があります。ネヘミヤは彼が日夜祈った祈りについて述べましたが、その祈りは他の人々と関連していました。なぜなら、それは主の民と関係していたからです。キリストの祈りも同じ性格を帯びていました。キリストの祈りはご自身のためだけではなく、ご自身の民と関係していたのであり、昼も夜も彼らのためになされました。パウロの諸々の祈りも明らかに同じ順番でした。「……あなたたちのために祈ることをやめません」「すべての聖徒たちのために(中略)祈りと嘆願の限りを尽くして絶えず祈り」。ここには粘り強さと執拗さがありますが、それは団体的であり、他の人々と関係していました。「執拗な」「執拗さ」という言葉を使う時、思い浮かぶ女性は、不義な裁判官に立ち向かった女性です。彼女は教会を表しています。この言葉に対するキリストの注釈は、「神は、昼も夜もご自身に向かって叫んでいるご自身の選民のために、復讐してくださらないでしょうか……」でした。

聖徒たちのために彼らの敵に復讐するとはどういうことでしょう?それは最終的に偉大な団体的事柄になります。兄弟たちを訴える者、彼らを昼も夜も神の御前で訴えていた者が投げ落とされる時、偉大な結果になります。偉大な裁き主がこの訴える者、教会を悩ます者に復讐されます。そして、これには団体的面があります。真夜中に尋ねて来た友人の事例もまた、他の人々と関係しており、たんなる個人的なものではありませんでした。その人は友人が扉を叩き続けるので起き上がりました。友人の執拗さによって寝床から引っ張り出されました。しかし、これは他の人々と関係していました。これはみな、ある企て、ある計画、ある団体行動を意味し、主の民はみなそれに関わっています。神は私たちを個人的にある所に連れて行くだけでなく、すべての彼の民と共に私たちを諸共にある所に連れて行かれます。「私たち全員が到達するまで……」。私たちの苦しみ、私たちの道徳的訓練、これらの反対や遅延は、私たちを発達させて完全に広げるものであり、からだ全体に関連して私たちの内に働きます。それは他の人々と関係するものになります。なぜなら、それはからだのためだからです。

主はご自身のからだ全体を完成させようとしておられます。そして、すべての部分が全体に関してしかるべく働かなければなりません。ある日、私たちの試練、困難、困惑の累積的効果が、完成されたからだ全体にわたって見られるようになるでしょう。その時、私たちは理解するでしょう。私たちが苦しんだ時、私たちは一人ぼっちで苦しんでいたわけではなかったのです。私たちの苦しみは自分だけのものではなく団体的なものであり、他の人々と関係しており、全体の一部だったのです。そして、それらは私たち自身の個人的益よりも遥かに大きなものに貢献していたのです。神の全き御旨が私たちの個人的経験に色彩を与えるのを、私たちは許さなければなりません。私たちが経過する出来事は、主が私たちを孤独な受難者になるよう選ばれたからではなく、からだ全体が彼の目的だからです。それで、私たちはからだに関して苦しむのです。からだのために私たちはキリストの苦しみの欠けたところを補います。この諸々の苦しみは他の人々と関係していることがわかります。それらは神の絶対的みこころではなく、次のようなさらに進んだ意味で相対的みこころです。すなわち、それらは神のさらに大きな御旨に向かって進んでいるのです。このさらに大きな御旨に到達する時、その時、苦しみにおける神のこの相対的みこころは終わり、もはや痛みや苦しみはなくなります。私たちは神の計画全体を見なければなりません。そして、私たちに命令・要求されている祈りにおける粘り強さと執拗さが、これら三つのものに影響を及ぼすことに気づかなければなりません。天的模範に基づく信者の個人的な道徳的命と、霊的知識の増し加わりが、私たちを執拗な祈りへと召す諸々の遅延の背後にある理由です。今は知らないけれどもやがて知ることになる何かがあります。全く知らない何かを私たちは学ぶことになります。そして、このように発達させられることが、自分の知らないことを知るようになる道なのです。

この訓練、この苦しみは、神の御旨全体と関係しており、神のすべての聖徒と関係しています。神のみこころの中に強制のようなものはありません。それは執拗さの思想とは無縁です。執拗さは――そうは思われないかもしれませんが――神と協力することです。執拗さの効力は神を強制して事をなすよう説き伏せることである、と私たちは思うかもしれません。しかし、神が私たちをその道の中に引き寄せられたのは、ただ神のみこころに協力するよう私たちを引き寄せるためだったのです。「私たちの中に征服すべきものがある」と述べた時、私はこれを言わんとしていたのです。克服すべきあらゆる種類の旧創造に属するものがあります――私たちの願望、私たちの感情、私たちの好み、私たちの判断、私たちの観念、私たちの評価です。祈りの訓練、働き、苦しみにより、私たちは神と協力するようになりました。そして、次のことを見いだしました。すなわち、長期的には、事をなすよう主を説き伏せようとすることだと思っていたものは、主が私たちをある所に至らせる彼の道だったのです。その所で、主は望むことをすることができました。主には奇妙な道があります。しかし、ついには主の正しさが証明され、「知恵の正しさはその働きによって証明」されます。