第一章 復活後の四十日

T. オースチン-スパークス

さて、すでに述べた四十日について、キリスト復活後の四十日について考えることにします。この期間には、私たちがすでに述べたことがすべて具体的に示されています。つまり、霊的であって、この世の外にあるものです。この四十日間の行動により、キリストは霊性の意義を示されました。そして、聖霊の降臨により、使徒たちと教会はこの基礎の上に確立されました。この両者の関係を理解することが重要です。この四十日間により主イエスは何かを示しておられたのであり、聖霊降臨により使徒たちと教会はその基礎の上に確立されました。「それは何だったのか、何なのか」と包括的に問うなら、「それは現経綸において、どのようにキリストは臨在しておられるのか、どのようにキリストを知るのか、という問題である」と言えるでしょう。「四十」という数字は私たちにとって霊的生活の一つの相を意味し、主の臨在の現実について学ぶことと関係しています。

信仰の新秩序

使徒たちの働きの最初の章の物語によると、主は昇って行かれ、その後、雲が視界を遮ります。これが最初の点です。主が天に迎え入れられる時、この雲が視界を遮りましたが、それは全く新しい秩序を示すものであり、確立するものでした。それは信仰の秩序ですが、その信仰はあの四十日の全容を背景としています。これは理解するのがとても簡単です。

主が現れたり消えたりされたこと、遠く離れた様々な場所で何度も弟子たちの不意を突かれたことを、あなたは思い出すでしょう。それには、弟子たちが関わっていたのは、肉体を離れた霊やたんなる幽霊ではなく、生ける御方である主ご自身であることを示す、数々の顕著な証拠が伴っていました。それらにはみな特定の目的があったことがわかります。主は遊んでいるわけでも、弟子たちをからかっているわけでもありませんでした。四十日間にわたる主の行動、働き、出現とその方法には、ある確固たる重大な目的がありました。それらすべてを背景としつつ、その後、弟子たちの前で主は昇天して、雲が視界を遮ります。聖霊は芸術的効果を狙って言葉を用いたりはされません。聖霊が言葉を用いられるとき、それには意味があります。このささやかな句を挿入する価値があると聖霊が思われるとき、聖霊はただきれいな絵を描いていて、「そこには雲があった」と述べておられるわけではありません。聖霊は霊的意味を持つそれ以上のことを述べておられます。彼が述べておられるのは、到来した秩序は、今や、視覚の秩序ではなく、信仰の秩序である、ということです。この雲は、導入された新しい秩序を、つまりこの経綸の支配的原則である信仰の法則を物語っています。どんな根拠に基づいてでしょう?この四十日の全容に基づいてです。この四十日間に起きたことは大いに現実的であり、真実であるため、自分たちはこの基礎の上で前進できる、と信じる信仰です。もはや主は見えず、雲が視界を遮っていても、この期間と同じように主は臨在しておられ、この先もその都度主を知ることができる、と信じる信仰です。これこそが、この期間に主が確立しようとされたことです。

信仰の秩序をもたらしたこの雲の目的は、この四十日間のこの秩序が生活の標準的な秩序、物事の標準的な状況となるように、弟子たちを導くことでした。

復活の主の臨在と復活の主を知る知識

想像力を働かせて(こういったことについてそうしても時には許されると思います)この使徒たちの立場に身を置いたとしましょう。自分ならどのようにあの上の部屋に戻って来るでしょう。思い出してください、使徒たちは過越でパンを裂いたとき、その上の部屋に主と共にあまり長くとどまりませんでした。主はそこにおられ、彼らは主を見ました。彼らの中の一人は、主によりかかれるほど主のそば近くにいました。彼らは主の御声を聞きました。それは間違いありません。あの過越の晩、主はそこにおられました。さて、十字架、復活、四十日といった奇妙なことがすべて起きて、彼らはあの同じ部屋に戻って来ました。彼らはどのように戻って来たのでしょう?どう感じていたのでしょう?

さて、あなたはある感慨深い折に、一人の愛すべき友と地上に共にいたことがあるかもしれません。その時、様々な事を語り合い、二人の間で取り決めをしたかもしれません。その取り決めは素晴らしい性質を帯びた、格別に印象的で意義深いものだったことでしょう。その友人は、おそらく、その後亡くなって、少しの時間がたちました。その友人はもはや昔のようにはあなたと共にいません。友が亡くなった後、初めてその部屋に戻る時、あなたはどう感じるでしょう?死が生じた、と感じるでしょう。そこにはある溝があります。当時の出来事が洪水のようにすべて思い出されますが、もはや友はいません。すべて消え去りました。喪失、痛み、悲しみの大きな感覚が生じます。悲劇的雰囲気がその場に漂っています。普通はそうなります。

この弟子たちはそこに戻りました。彼らはどう感じたでしょう?これらのことの後、彼らがそこに戻ったとき、死が生じたかのように彼らは感じていたでしょうか?友はいなくなってしまった、世界は空虚である、すべては虚構である、人生は空虚だ、と感じていたでしょうか?いいえ、そんなことは全くありません。彼らがあの上の部屋に戻ったとき、主は去られたこと、しかし、主は常にそこにおられることを、彼らは自覚していました。主は死なれましたが、生きておられました。彼らは主を失いましたが、それでも主を持っていました。この四十日の趣旨は、主は常に彼らと共におられることを彼らに知らせることでした。主が求めておられたのは、彼らに関してこのような状態を造り出すことでした。すなわち、主は死なれたけれども生きておられ、主は肉声で彼らに語るのをやめられたけれども、彼らは主を知ることができ、主を知り続けることができる、という状態です。彼らは、自分の主人を失った人々のように、あの上の部屋に戻って来たのではなく、主と共に進み続ける者として戻って来ました。主は働くのをやめたわけではなく、働き続けておられました。語るのをやめたわけではなく、語り続けておられました。彼らがまたもやあの上の部屋で主の臨在の中にいるのを見ます。主はこの四十日によって彼らをこの立場に導かれたのです。

その目的がわかります。また、この経綸に対する信仰の基礎がわかります。それは主の臨在の性質であり、主を知ることができる方法です。それが霊性です。この基礎の上に教会を確立するために聖霊は来臨されました。あなたや私、あるいは、主の民のどの団体も、もし真に聖霊の統治に服するなら、それは、ここに示されている完全な意味で、上の部屋となるでしょう。私たちは主の臨在を悟り、主はご自身を私たちに知らせてくださるでしょう。これはとても単純ですが、霊性の基礎であり、元より霊性の性質です。教会の霊的性質は、主の生ける臨在と、ご自身を知らせてくださる主のおかげです。

主はご自身を彼らに知らされました。四十日のあいだ、主は彼らにご自身を現わされました。四十日でこの基礎を据えた後、別れの時が来て、雲が視界を遮り、彼らには主が見えなくなりました。続いて聖霊が来臨し、この四十日の基礎に基づいて、この四十日が意味するところ――それは主の生ける臨在と、主は絶えずご自身を知らせてくださるということです――にしたがって、教会が確立されます。この真理を新約聖書の中に見ることができます。また、それ以降ずっと、聖霊が何かを完全に御手の下に置かれる時にも見ることができます。主はそこにおられ、絶えずご自身を知らせてくださるのです。

天の御座に着いている人である復活の主に順応すること

さて、この章のいくつかの句を取り上げることにします。

「イエスが上って行かれるとき、彼らがじっと天を見つめていると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見つめて立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは……』。」

「ガリラヤの人たちよ……」「白い衣を着た二人の人」。ここでも、聖霊は言葉に関して何の間違いも犯しておられません。聖霊は「ふたりの天使」と言うこともできましたが、そうされませんでした。聖霊は「ガリラヤの人たちよ……」と言ってから、「白い衣を着た二人の人」と仰せられました。ここに地的な人々と天的な人々がいて、地的な人々は天的な人々によって正されます。あるいは、天的な人々が地的な人々を天の現実に順応させた、とも言えるでしょう。「ガリラヤの人たちよ」。さて、ガリラヤ人という呼称は非難を表すものであり、軽蔑を示すのに用いられるものでした。他の人々は心の中で、ガリラヤ人のことをやや軽蔑していました。ですからここでは、天的統治により地的非難と天的栄光とが一緒にされています。この箇所には、実は天使である二人の人がいます。「彼らはみな仕える霊であって、救いの相続者である者たちに仕えるために遣わされたのではないでしょうか?」(ヘブ一・十四)。これは天的事柄の行政、統治です。

この二人の人によって天的行政が臨み、地に属する人々の間にあった考えを正しました。天的栄光が臨んで、地的非難を受けていた人々を天的栄光に順応させました。二という数字は聖書では証しを意味します――「二人の証人の口によって」。「彼は彼らを二人ずつ遣わされた」。二という数字を見つける時はいつでも、証しに関して主が必要とされる最低限のものを見いだします。しかし、主にとって証しにはそれで十分です。

さて、これらの句の意味について考えることにしましょう。天からの二人の人が、この人々を正します。この人々は聖霊の力の下に来て、天的な人々にならなければなりません。彼らは霊的な人々になるために、天の現実に順応させられつつあります。彼らはじっと天を見つめて立っています。彼らは心中どう思っているのでしょう?どんな表情を浮かべているのでしょう?おそらく、彼らの心には一つの大きな疑問、あらゆる種類の感情・希望・恐れが湧き起こっていたでしょう。「主が行ってしまう」「主を失ってしまう」「取り残される」。まるであの雲は、結局のところ、天のキリストと地のキリストとの間に大きな分断を生じさせようとしているかのようです。この二人の人の「……なぜ天を見つめて立っているのか?このイエスは……」という言葉は、その時彼らの内で起きていたことに対する答えとして受け取らなければなりません。彼らの眼差しに対する答えとして、また、彼らの眼差しの奥にあった彼らの気持ちに対する答えとして、受け取らなければなりません。この二人の人は「かつておられたイエスは」と言ったのではなく――「依然としておられるイエスは」と言いました。実質的に彼らはこう言いました、「彼は全く同じままです。あなたたちから離れて天に迎え入れられましたが、彼は依然としてイエスのままです」。こうして弟子たちはこの天的な人々によって、次の事実に順応するようにさせられました。すなわち、このイエスは天で生きておられるという事実です。その時から彼らは、「イエスは変わることなく、天でも依然としてイエスのままである」という基礎に立ち返り(なぜなら彼らはこの二人の人の言葉からはっきりとこのような結論を下したからです)、この基礎に基づいて進まなければなりません。彼は再び戻って来られますが、依然として天のイエスのままです。

「これは強調しすぎであり、分析が細かすぎる」とあなたは思うかもしれません。しかしその背後には、指摘する時間がないほど多くのことがあります。

証しの道具と性格

聖霊が彼らを証しの中に導かれた瞬間から、この二つの特徴がある事実に注意してください。その特徴とは、聖霊は何度も二人の人を証しの道具に構成されたこと、そして、彼らの証しは常に「神がよみがえらせてご自身の右に上げられたナザレのイエス」だったことです。彼らはこれをどこで得たのでしょう?彼らの中の二人がご自身の秩序を代表するよう、主が常に配慮されたのはどうしてでしょう?パウロとバルナバが一緒に遣わされ、決裂した後は、パウロと他のだれかが遣わされました。主は証しのために常に最低限として二人を維持しようとされました。その証しは常にナザレのイエスであり、それ以外のものではありませんでした。その証しは、「……このイエスをあなたたちは殺して木に架けましたが、神はご自身の右に上げられました……」です。これは天からの二人の人によって確立されました。「このイエス」――彼は生きており、上げられて天におられます。二人の人は天の証しに同調しました。この天の証しは、復活の命と天に上げられたナザレのイエスに関する事実に対するものであり、この経綸のためのものです。

これがこの経綸を支配しています。二人の中にこの証しがあります。そしてこの証しは、イエスは神の右で栄光を受けておられる、という事実に対するものです。今、聖霊が臨んで、この基礎の上に教会と信者を構成されます。それは教会と信者が、「イエスは生きておられる」という真理の化身になるためです。この真理はたんなる客観的事実として告げられるべきものではなく、器によって表現されるべきものです。「彼が生きていると、どうしてあなたにわかるのですか?彼を見たことがないのに」。「それは信仰によります」。「ああ、そうですか、信仰は疑いなく抽象的なものです。あなたはどうやってそれを証明するのですか?」。「私はその事実の化身です」。「ああ、それはうぬぼれです。あなたは高ぶっています」。「いいでしょう。私は地上でこの基礎に基づいて生きることにします。そうすればわかるでしょう」。主はこの基礎に基づいてあなたを取り扱われます。主はあなたの天然の命を砕き、あなたの天然の能力を砕き、それらを終わらせて、天然的な知識や知恵を清算されます。そしてついには何も残らなくなります。その時、主はある基礎に基づいて事を行われます。その基礎は圧迫に耐えうるものであり、あの働きを生み出せるものです。それは、イエスは信者と教会によって具現化される、という証しです。これがご自身の教会に対する神の御旨です。教会はこれからなんと遠く離れてしまったことでしょう。教会に対する神の御旨は、教会がイエスの証しの具現化・現われとなることでした。最初の時はそうでした。自分ではこの世の知恵やこの世の力に立ち向かえない人々を、神は選ばれました。彼ら自身は全く軽んじられている者でした。タルソのサウロのように、ひとかどの者と見なされるこの世の経歴が彼らにあろうものなら、主は彼らを捕らえて、彼らからそれをすっかり取り上げられました。そして、生きる望みを失って死を覚悟する境地に彼らを導かれました。それは、彼らが自分自身にではなく、死者をよみがえらせる神に頼るようになるためでした。主はこれを何度も行われました。そして彼らはこの証しになりました。あの証しの化身そのものになったのです。

これからの逸脱がわかります。神が得る必要のあるものがわかります。それは霊性です。霊性は高尚な真理、進んだ教えに専念することではありません。霊性は、聖霊による、復活したキリストそして栄光を受けたキリストの具現化です。これを満たすとき、あなたは不滅のものに出会います。

これが、この経綸で主が心に定めておられるものです。私たち自身は無であり、無以下です。主は私たちの知恵を打ち砕き、粉々にし、空にして、私たちを混乱させておられます。すべてが役に立たなくなって、この基礎に基づいて進めなくなる地点に、私たちは達しようとしています。試してみますが、それと一緒に進むことはできません。私たちはおしまいです。その時、主が常に来てくださり、私たちの命、私たちの知恵となってくださいます。しかしその知恵は、私たちに理解・把握できるような形で頭脳の中に形成されるものではありません。それはまさに営為であり、その結果から、それが神の知恵であることがわかります。主がどのようにそうなさっているのか、あなたにはわかりません。自分や他の人々によって、主の諸々の道を理解することはできません。しかし最終的に、働いていたのは神であって自分ではなかったことを証明する結果が生じます。「特定の方面で能力を与えてください」と、私たちの中の数人は主になんと叫んできたことでしょう。例えば、行政上の目的のためにです。しかし、組織・決定・決断という古い基礎の上では主の働きを全く行えないことに私たちは気づきました。私たちにできたのは、次に行うよう主が自分に仰せられたことだけであり、なぜそうするよう主が自分に仰せられたのかはわかりませんでした。その特別な動きに関して、私たちは行き先を知らずに出て行きました。しかし、主がその道を示されたことはわかっていました。その結果はどうだったでしょう?自分の機知や知恵では決して成し遂げられなかったことが成し遂げられたのです。それは神の証印を帯びており、永続します。それはこの世や自分自身からではない知恵です。

言わんとしていることを示すために、私たちはこの点に光を当てました。これは包括的であり、多くの面があります。天からの二人の人が地上の他の人々を天に順応させます。

天的関係・法則の理解と確立

さて、その結果について見ることにします。その直接的結果は、彼らが理解力をもって行動したことです。彼らはエルサレムに戻って、上の部屋に行き、祈り続けました。何をなすべきか、彼らにはわかっていました。彼らは正しかったのでしょうか?確かに正しかったのです。彼らは今や天の支配下にあり、天の動きと関わっていました。聖霊はそのような彼らに出会われました。それで、聖霊は彼らを照らし、新しい経綸を開始されました。彼らは聖霊に対して正しい立場にありました。どう行動すべきか、次の段階は何かに関する理解力によって、彼らは行動していました。これは知性における霊性です。

「白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立った」。そばに立った!繰り返しますが、このとてもささやかな句の価値を理解するなら、「言葉や語句を誇張している」とは感じないでしょう。「そばに立った」というこの句が現れる箇所を挙げてみてください。例えば、二テモテ四・十七の中のこの句を見てください。「しかし、主は私のそばに立って、私を力づけてくださいました……」。何のために主はそばに立たれたのでしょう?新しい立場にある人ならだれでも支えるためです。彼らは奇妙な立場、全く新しい立場に至りました。かつてそのような立場についたことはありませんでした。この道筋を辿った経験はなく、当てにするべきものも、頼るべき経験もありませんでした。

使徒行伝の書は霊的原則に関する書です。主は、この弟子たちが確立されたことを、驚くべき、超自然的な、並外れた形で示しておられます。この経綸の間、主はこれらの原則に同じ証拠を伴わせる必要はありません。主はこれらの原則を確立するために、最初にそうされました。例えば、アナニヤとサッピラが破った原則があります。その原則とは、教会における聖霊の絶対的主権です。この原則は、最初に据えられるやいなや、破られました。そのため、主はこの原則を据える一方で、それを明確に確立し、それでアナニヤとサッピラが屠られたのです。多くの男女がこの経綸を通して全く同じことをしてきましたが、同じような形で打たれたりはしませんでした。決してその場で死んだりはしませんでした。これは、神にとってこの原則が弱体化したこと、神はそれに対する態度を変えられたことを意味するのでしょうか?決してそんなことはありません。原則を破るなら、霊の命の領域で必ず被害を受けることになります。そしておそらく、肉体の命においても被害を受けることになります。パウロはコリント人への手紙の中でこれについて述べています。「このせいで、あなたたちの間の多くの者は弱く病んでおり、多くの者が眠ったのです」。人々の体は病んでおり、コリントでは何人もの人が死にました。それは、ある霊的原則を破った結果でした。私たちはこう考えることができるでしょう。私たちが原則を破った瞬間に主が裁きをもって介入して打たれるにせよ、あるいは、主が忍耐のうちに静観されるにせよ、その原則に対する主の態度は全く同じなのです。

別の例を挙げましょう。聖霊の賜物には異言の賜物が伴っていました。これにより、ある原則が確立されました。これは、この経綸の間ずっと、聖霊の臨在には常に異言が伴うことを意味しません。主はご自身の原則を確立するために驚異的な賜物をお与えになりました。その原則とは、聖霊の臨在が意味するのは、あなたは上げられて天然の水準を超越すること、あなたは新しい領域の中に移されて、天然によってはできないことを行うための新しい能力と力を得る、ということです。例えば、もしそれが天の言語の賜物であり、地上のすべての異なる言語の人々がそれを理解したとするなら、それは何を意味するでしょうか?新創造における神の働きの目標に私たちが到達する時、私たちはみな一つの言語を話すであろうこと、そして、みなが互いに理解しあうだろうことを意味します。あるいは、別の言い方をすると、罪を通して人々の上に降りかかった呪い、分裂と混乱であるところのものの結果が、永遠に終わるだろうことを意味します。これを御霊は保証されます。主は最初に、並外れた顕現によって、この原則を確立し、ご自身がその原則を据えたことをきわめて明確に示されました。私たちは毎回常にこの顕現を期待すべきではありません。むしろ、この法則を認めて、この時点に見られるこの原則を破らないように注意しなければなりません。

やや脱線してしまいましたが、それは、この二人の人によって象徴されている主がそばに立って、全く新しいものを確立し、新しい立場にあって支えてくださることを示すためです。この二人の人がそばにやって来て、この弟子たちを天の基礎の上に、キリストは生きておられ高く上げられているという基礎の上に確立しました。

この二人の人は「このイエスは」と言いました。なぜ彼らは「この主は」「この神の御子は」と言わなかったのでしょうか?彼らは絶対的正しさでそう言えたでしょう。ここでも、聖霊はこのふたりの使者を二人の人として描写しており、ふたりの御使いや、ふたりの天的存在として描写していません。そう言ったとしても、全く正しかったでしょう。その理由がわかるでしょうか?それは次の事実を明確に示すものだったのです。すなわち、神はこの経綸のために、栄光の中にある一人の人なる御方を新しい種族の頭とされたのであり、栄光の中にある人であるこの御方との私たちの合一こそがこの経綸の定めである、という事実です。神は一人の新しい人なる御方を持っておられ、人々をこの新しい人と同じかたちの中に導かれつつあります。この人は神ですが、人でもあられます。

この経綸の目的は、人々をこの人なる御方に順応させることです。それで、二人の人が天からやって来て、地上にいる人々を天におられる人に順応させました。聖霊は来臨して、地上の人々を天におられる人にしたがって構成し、地上の人々を天におられる人のようにしました。使徒パウロは彼の手紙の中でこれを明示しています。彼の全般的目標は、キリストにあって完全なすべての人をささげることです。天におられるキリストが治めておられますが、それは形式的意味においてではありません。彼の統治は霊的なものです。そして、あなたや私が「自分たちは霊的采配によって治められている」と述べる時、それはキリストの統治と同じことを意味します。彼は神の御思いの完全な表現です。ですから、神の御思いのこの完全な表現が私たちを統治しなければなりません。神の御思いとは何でしょう?それは私たちの心の中の抽象的観念ではありません。神の御思いはひとりのパースンです。神の御旨とは何でしょう?神の御旨はひとりのパースンです。主イエスを見なさい。そうすれば、神の御心が十分にわかります。神の御旨が十分かつ完全にわかります。キリストにしたがって構成されることは、神の御思いと神の御旨によって構成されることです。聖霊は私たちに諸々の真理をもたらしておられるのではありません。キリストを私たちにもたらしておられるのであり、私たちをキリストの下にもたらしておられるのです。私たちを霊的な方法で、神の御思いの完全な表現であるあの人なる御方に同形化しておられるのです。

これは個々の信者に言えるだけでなく、なおのこと教会にも言えます。つまり、教会は一人の「新しい人」であり、キリストにある一人の人の身の丈の全き度量に至らなければならないのです。神が求めておられる人間性は栄光の中におられるキリストの人間性であり、この人間性は地上の人間性よりも優っています。この証しは天の人に対するものであり、地上の人々によります。言葉によるのではなく、この天の人を表現することによります。彼は「あなたたちはわたしの証し人になります」と言われました。証し人とは何でしょう?証し人は情報を与える者のことではありません。法廷でそれを試して、それが受け入れられるかどうか見てみなさい。もしあなたが法廷に証人として呼ばれて、自分が受けた情報を与え始めるなら、あなたはすぐに「あなたが聞いたことを告げても役に立ちません。あなたは自分が知っていることを話さなければなりません。もしあなたが何も知らず、自分が知っていることを話せないなら、あなたは退席しなければなりません」と告げられるでしょう。証し人は、第一に、真理の化身である人です。

これが天の人に対する証しであり、この経綸を画している主の昇天から再来まで及びます。これが霊性です。聖霊は来臨して、キリストの復活とその天的命という基礎の上で、私たちをキリストにしたがって構成されます。それは、私たちの中にある彼の復活の命という手段によって、主イエスの復活の事実が私たちによって表わされるためです。霊性とは、あなたと私が主の復活の命によって特徴づけられることです。

すでに述べたように、これは一つの転機であり、一つの過程です。この転機は再生される転機です。この過程は、この命が増し加わる過程であり、私たちがますます主の復活の命によって生きるようになる過程です。キリストを知る知識が成長する過程です。天のキリストにはなんと途方もない豊かさがあるのでしょう!人に関する神の御思いの表現であるキリストを、私たちは永遠に学び続けることになるでしょう。霊性とは、漸進的に――キリストが神にとってどのような御方なのかにしたがって――彼を受け入れることであり、彼を私たちの命とすることなのです。