第二章 内なるキリスト

T. オースチン-スパークス

「イエスが上って行かれるとき、彼らがじっと天を見つめていると、見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見つめて立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたたちが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」(使一・十~十一)。

「……ついに私たちはみな、信仰の一に、神の御子を知る知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達します。(中略)彼は肉体の中で敵意を滅ぼし、数々の規定から成る戒めの律法を廃棄されました。それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和を造るためであり、また十字架を通して、両者を一つからだの中で神と和解させるためでした。それによって敵意を殺してしまったのです。」(エペ四・十三、二・十五~十六)

「……あなたたちは新しい人を着たのです。この新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識に至るように、新しくされつつあります。そこにはギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はありえません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。」(コロ三・十~十一)

「……また、実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。」(エペ四・二四)

「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです。」(ガラテヤ三・二七)

人の子の完成

主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。彼には罪がなく、彼は自発的にご自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったどの事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはされませんでした。この基礎の上で彼は、あらゆる種類の試みや試練――それはだれもが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、私たちは比較的何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決してわかりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動するのを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。

ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてそのような形で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

この人性、この命を、彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に、上げられました。その神の右手で彼は完成された人として明示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して成長して完全な度量・完全な能力に至られました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに告げておられます、「あなたたちは新生しており、信仰を通して御霊を持っているので、今や、まさにこの命にあずかっているのです」と。この人性について物質的観点からではなく、完全な人間性・完全な性質の観点から考えるようにしましょう。この人性は完全に神を満足させました。そして、聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥の現実となっています。それは私たちに与えられたキリストです。そして、主の食卓でパンを食す時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、私たちは今や、自分の天然的存在ではなく栄光の中におられるイエスご自身という基礎の上で、生活を営み、選択しているという事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎の上で生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの形で自己の立場の上で生きるのか、ということに関してです。これが、「私はキリストと共に十字架につけられました……」というパウロの偉大な声明の奥底にある真理です。つまり、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストになったのです。

ペンテコステの結果

これは私たちを確かに、ペンテコステの意義、聖霊の意義へと導きます。再び問いましょう。聖霊の意義は何でしょう?聖霊の役割はまさに、主であり救い主であるキリストを私たちに示すことです。主はキリストを絶対的主権の地位に就かせました。したがって、人々は救われる前に、キリストに服さなければなりません。これを理解するよう、主は人々に求めておられます。これを逆にするなら、不適切な結果を招くおそれがあります。というのは、キリストが救い主としてまず示されて、人々が救い主である彼のもとに来ることがよくあるからです。人々がそうするのは、罪が招いたあらゆる不幸や不都合から抜け出したいからです。これはまさに自分自身のために救いを願うことであり、したがって不適切な結果を招きます。神の順序を守るには、イエス・キリストをまず主として理解しなければなりません。これは彼への絶対的明け渡しを意味します。自分のために何を得るのかが第一ではなく、彼が何を獲得されるのかが第一です。人生における彼の権利が第一です。彼の主権への全き服従というこの基礎により、救い主である彼のあらゆる祝福への道が拓かれます。これが新約聖書の順序です。聖霊がなさる第一のことは、主であり救い主であるキリストを示すことです。

内なるものとして啓示されるキリスト

二つ目は、キリストを私たちの内に信仰を通して啓示することです。キリストが私たちに示される時、次に信仰が試されます。従順の問題、従順の中で表される信仰の問題が持ち上がります。それは瞬時のことかもしれませんし、同時に起きているので同じことのように思われるかもしれません。パウロの場合、それは同時か、ほぼ同時だったように思われます。なぜなら、彼に対するキリストの出現は、彼に対してキリストを提示することでもあったからです。彼はそれを回想して、それはまた神の御子が自分のうちに啓示されることでもあった、と述べています。それらは一つの事の二つの面です。ほとんど同時かもしれませんし、そうではないかもしれません。それらは御霊の動きであり、まず信仰と従順を要求します。この基礎の上で聖霊は再び動いて、信仰を通してキリストが私たちの内に啓示されます。これは偉大なことです。私たちに関するかぎり、すべては御霊の動きのこの状況にかかっています。なぜならこれは、私たちとは「全く異なる」ものが自分の中に臨むことを、しかも、主権の観点からそれが自分の中に臨むことを、意味するからです。このように神の御子が自分の内に聖霊によって啓示されることは、自分の心の中にキリストが照らし出されることや、キリストを見る光を内側に与えられることではなく、キリストが分与されることを意味します。自分の内におられるキリストが啓示されることを意味します。キリストが自分の内に啓示されるだけでなく、自分の内におられるキリストが啓示されるのです。キリストは以前は客観的でしたが、今や主観的になります。それは私たちとは「全く異なる」何かです。キリストは自分とはなんと異なっておられることか。これを理解するには一生かかります。キリストは今や御霊によって私たちの内におられますが、それは主権者としてです。なぜなら、私たちを御前にひれ伏せさせることが聖霊のこの働きの目的だからです。

ここで戦いが始まります。私たちのクリスチャン経験はすべてここから始まります。これが私たちの鍛錬、訓練、懲らしめの基礎です。霊的歴史がこの基礎の上に築かれていきます。私たちとは全く異なっておられるキリストが、細部に至るまで、あらゆる意味で、私たちよりも優位に立たれます。霊的知性はこれに由来します。これが霊性の何たるかです。それは、自分とは全く異なっておられるキリストを理解・知覚・認識することであり、次に、この知性とその働きに従うこと、つまりそれにしたがって働くことです。聖霊の降臨はキリストの主権を意味しますが、これはきわめて実際的なことです。それは、「そうです、私たちはキリストを神の御子として、主として、御座についておられる御方として、理解しています。そして、私たちはそのような御方である彼に服します」と言うことにとどまりません。聖霊は来臨して、私たちの人生全体にわたって、あらゆる点について、またほぼ毎日、これを適用され始めます。私たちの思い、意志、心、道に対するイエス・キリストの主権という問題に対する要求が、立て続けに私たちに臨むかもしれません。私たちにおける聖霊のこの反応は、私たちの行動に対するものです。私たちの行動に対して、聖霊が反対しておられるのです。それで、自分の行動が間違っていたことに私たちは気づきます。聖霊のこのような反応はみな、次の事実を明らかにします。すなわち、聖霊にとって、内側に啓示されるキリストは主権に関するものなのです。そして私たちは、自分とは全く異なっておられる彼に服することを学びます。

神の安息に入る

これにはいくつかの段階があります。最初の段階は、神の安息の中に入る問題です。そして、自分自身を終わらせる問題です。この問題がなんと速やかに聖霊によって生じるのかがわかります。自分とは大いに異なっておられるキリストがこのように与えられた目的がすべて実現されるためには、自分自身を終わらせなければなりませんし、自分自身の働きを終わらせなければなりません。これは、他方において、神の安息の中に入らなければならないことを意味します。つまり、十字架を受け入れて実際に通らなければならないのです。これは、ヨルダン川をイスラエル人が実際に通らなければならなかったのと全く同じことです。そしてその時、ヨルダン川は彼らの生涯の安息のための実際的活動原理となりました。それにもかかわらず、ヨルダン川が彼らの意識、彼らの認識中に一つの事実として確立されなければなりませんでした。それは将来全体の基礎としてです。私たちも同じように十字架を基礎として確立しなければなりません。これが神の安息の中に入る道です。

イスラエルが良き地に渡ったのを私たちは見ます。良き地は彼らに対する神の安息を表していました。その前の世代について主は仰せられました、「わたしは怒りの中で誓う。彼らがわたしの安息の中に入ることはない」。そして彼らは荒野で滅びました。良き地に渡った世代は予型的・象徴的に神の安息の中に入ったものとして示されています。それはどのような安息だったのでしょう?絶え間ない戦い、戦闘、征服、力強い活動という安息でした。

この安息の原則が、最初のエリコで確立されます。神はご自身の安息の性質を彼らに知らされました。それは、彼らにエリコの周りを毎日行進させて、何もするのを許さないことによってでした。これに大きな困難は何もありません。次に七日目に、彼らはこれを七回行わなければなりませんでした。その結果、この障害物は完全に崩れ去りました。これは彼らが行ったことではありませんでした。信仰の中で彼らは神の安息の中に入りました。そして、神があとの事を行われました。これが、それに基づいてその地を征服する原理だったのです。

私たちの中には聖霊によって神の天的な人がおられますが、もしあなたや私がこの人と密接な関係にある一切のものの中に入って行こうとするなら、神の安息がその基礎であることに私たちは気づくでしょう。神の安息とは何でしょう?それは、十字架で成就された御業を、つまりキリストにあって神の御業は終わったことを、私たちが事実として受け入れることです。もしこれに決着をつけたことが一度もないなら、その結果、前進することも成長することもないでしょう。自分自身を終わらせてキリストで全く占有されることが神の安息です。自分自身の救い、自分自身の聖別、自分自身の霊的生活、主のための自分自身の働き、自分の人生にはこの地上で主にとってどんな価値があるのか、という問題に捕らわれてばかりいるなら、どうなるでしょう。何らかの形、何らかの意味で、たとえそれが霊的な形だったとしても、自分自身にかかりっきりになっているなら、どうなるでしょう。霊的関心や霊的問題に気を取られるあまり、自分自身の霊的成長や発達、自分はどれだけ役に立っているのか、どれだけ多くの働きをしているのか、を見てばかりいるなら、どうなるでしょう。私たちは成長しないでしょう。これは、結局のところ、主に関する事柄の最初の段階ですが、主の民の多くはこの段階の最後に達するのに長い時間がかかります。キリストは私たちへと至る神からの義、聖別、贖い、知恵とされました。私たちは万事の基礎としてこれを確立しなければなりません。私たちの救いの問題は私たちが信じるとき決着がつきます。それは自分で自分に与えられるものではありません。自分の救いを失わないよう、それを自分で保ち、世話し、見張らなければならない、といったものではありません。救いはキリスト・イエスにあります。そして彼は今、十字架と復活を通って、どんな破壊的力も及ばない所におられます。彼は私たちの宝、私たちの救いをご自身の内に確保してくださっています。なすよう私たちが求められているのはただ、自分の信仰を私たちの救いである主イエスに向けることだけです。

聖別の問題も同じです。彼は私たちへと至る聖別とされました。私たちは主イエスに占有されて、自分自身の立場を捨て去るべきです。そうすれば聖別の御業がなされます。主がそれを引き受けてくださいます。私たちの責任はキリストに信仰を置くことから始まり、それに尽きます。聖別の問題でもそうです。あとのことは主がしてくださいます。

主に対する私の有用性、私の使命、私の奉仕、私の務めという問題を、私はすべて自分の肩に担わなければならないのでしょうか?そんなことは決してありません!奉仕と主に対する有用性という問題によって、神の子らのなんと多くが打ちのめされ、打ち砕かれ、悩まされてきたことでしょう。第一に、それは私たちの問題ではありません。自分の生活で何がなされなければならないのかは、私たちが主と共に歩むことに全くかかっています。私たちは務めについて全く誤った考えを抱いています。私たちは務めを、何らかの事物の秩序、その中に自分で入るもの、自分で取り上げるものと見なしていますが、務めはそのようなものではありません。務めは私たちの内におられるキリストの自発的流れであり、私たちを通して流れるキリストからのものが多ければ多いほど、私たちの務めはより偉大なものになります。主のための奉仕に関する機械的考えから遠ざかりましょう。キリストを私たちの中に導入された聖霊は、私たちの内におられるキリストという基礎の上に、すべてを建て上げられます。

これが神の安息に入ることです。世の基が据えられた時から、働きは終わっていました。「私たちがその中を歩むよう前もって用意されていた」働きは終わっていました。予め定められていた働きの中を、それについて何も知らないのに、どうすれば歩めるのでしょう?御霊にあって歩みなさい。そうすれば、予め定められていた働きの中に自分がいることにあなたは気づくでしょう。キリストの完了した働きの中に安息しなさい。それは私たちの救いに影響を及ぼし、私たちの聖別に影響を及ぼし、私たちの使命に影響を及ぼします。全くキリストに専念しなさい。聖霊が私たちに知らせてくださる彼に従うこと、これが安息に入ることです。

御霊の中に居続ける

ヨシュアは聖霊の力の型であり、これまでよく言われてきたようなキリストの型ではありません。良き地はキリスト、キリストの豊満、キリストにある宝の型です。キリストは乳と蜜の流れる地です。私たちがその中に入るのは聖霊の力によります。人々が完全に従って、ヨシュアに服した時、彼らはその豊かさを所有し、勝利の民となりました。私たちがなすべきことはただ、自分は御霊を持っていること、御霊によって動かされていること、自分は終わらされたことを確信することだけです。あとの事は彼の義務です。

この問題について熟慮して、それをごく単純な形で強調することにします。「主イエスが自分の人生の中に来てくださった」と信じる何らかの理由が、あなたにはあるでしょうか?その証拠が何かあるでしょうか?その証拠は何でしょう?それらの証拠は全くあなたにはよらないのではないでしょうか?つまり、それらはあなたが生み出したものや、あなたから発したものではなく、むしろ、もっと洗練された霊的言葉であなたが述べるであろうように、主が示されたもの、主がなさったものではないでしょうか?そのような証拠が何かあるでしょうか?もしそうなら、なぜあなたは進み続けてその完成に至らなければならないのでしょう?あなたがそれを始めたのでしょうか?それはあなたに由来するのでしょうか?決してそんなことはありません。主が何か一つの事で主導権を取られたからには、どうして主が残りのことでも主導権を取ってはならないことがあるでしょうか。主がそれをなしえたのはどうしてでしょう?あなたがそのために主に信頼したからです。あなたが自分の救いを実現したのでしょうか?いいえ、主が実現してくださったのです。他の細かな問題でもあなたは主に信頼して、主がそれを引き受けてくださったのではないでしょうか?主がこの基礎の上にあなたの全生涯を保ってはならないことがどうしてあるでしょう?それは主の道を進み続けることにほかなりません。

あなたはもがき、張り詰め、苦悩し、絶望しかけているかもしれません。そして、「自分はこれらの事柄の中に入り込めるのだろうか、この高い領域に至れるのだろうか」と疑問に思っているかもしれません。おそらく、「それはとても無理だ」とあなたは思い込みかけているかもしれません。おそらく、あなたは鳩の翼に思いを馳せているかもしれません。その翼は飛び去ります――何を目指してでしょう?安息でしょうか?いいえ!飛び去っても決して安息は得られません。問題はあなたが次の基本的事実を認識していないことです。すなわち、聖霊はキリストをあなたにもたらしてあなたの中に住まわされたのであり、もしあなたが自分自身の働きをやめて自分自身のために再び戦いにとりかかるのを断固として拒否し、「自分自身を聖霊の御手の中に委ねるなら、あとのことは主が行ってくださる」と信じるなら、主が残りのことをすべて行ってくださる、という事実です。これ以外の道をあなたに告げることは私にはできません。これ以外の道を私は知りません。それは、十字架を通して自分自身の立場から退いて、復活・昇天したキリストの立場を取る問題です。それは、これが十字架の立場に基づいて、聖霊により、私たちの内に成就されるためです。その時、状況は変わります。

成長に不可欠な安息

あらゆる事で神の安息の中に入ることが必要です。主に対する自分の有用性という問題が私たちを悩ませており、主の民の多くを悩ませています。それが個人的な心配事になる時、私たちはこの心配を捨てなければなりません。「主を失望させませんように」と、私たちは祈り深く気を遣います。しかし、もしそれがさしあたって自分が直面していない奉仕の中に入る問題であり、自分の生涯の仕事について心配しそうになっているなら、それは全く私たちの責任ではありません。私たちは次の事実を確信しなければなりません。すなわち、もし主が私たちに何かを行うことを望んでおられるなら、もし私たちが適切に整えられているなら、もし私たちを主が自由に用いることができるなら、もし主が私たちの中に開かれた道を持っておられるなら、主に対する私たちの有用性に関して、それが小さなものでも大きなものでも、主ご自身が責任を負ってくださるのです。この世の静かな片隅に引っ込んで、そこで百パーセント主に仕える方が、何か偉大な目的のために出て行って、そこで多くの活動――しかし実際のところその十パーセントくらいしか主の働きではありません――をするよりもましでしょう。神の安息の中に入ることは成長のための基礎です。

これに続くのは、子たる身分の霊の働きです。私たちが神の安息の中に入らないかぎり、子たる身分の霊の働きは決して始まりませんし、決して開始されません。へブル書四章は神の安息について述べています。次に五章(十二節から)と六章には次のような言葉があります、「この人(メルキゼデク)については、言いたいことがたくさんありますが、あなたたちはそれらを受け入れることができません(中略)時間の上では、あなたたちは教師になっているべきなのに、キリストに関する初歩的な原理をだれかに教えてもらう必要があります――赤ん坊のように世話してもらう必要があります。初歩的な原理について話すのをやめて、成熟に向かって進もうではありませんか。再び基礎を据えることをしないで……」。次に、基礎的な事柄の名称が述べられています。著者は事実上こう述べています、「あなたたちはこれらの初歩的な事柄に専念してばかりいます。しかし、結局のところ、それらは基礎にすぎません。それらはみな原理ですが、結局のところ、初歩的な原理にすぎません。あなたたちがそこにとどまって、これらの問題を何度も何度も繰り返し、初歩的な原理に専念しているかぎり、あなたたちは赤ん坊のままであり、成熟には至れません。一度かぎり永遠に、初歩的な原理に決着をつけ、基礎を据えて、成熟に向かって進みなさい」。これは何を意味するのでしょう?ああ、これらの問題を超えて神の安息の中に入り、それから進み続けて発達・成長することです。あなたの霊の確立・発達にとって基礎的なこれらの事柄に決着をつけましょう。安息の中にないかぎり、あなたは成長できません。子たる身分の霊、成熟の霊は、私たちが神の安息の立場に達しないかぎり、先に進めません。この立場は、キリストがすべてであって、すべての中におられる立場です。

使徒がガラテヤ人への手紙の中で与えている例を挙げましょう。この手紙の議論の流れはすべて覚えておられるでしょう。彼は幼児(infant)と、奴隷(slave)と、子(son)との間の違いを述べています。子供は教師の下にあります。つまり、幼児期にあります。奴隷は無知な立場にある者です。奴隷は無知であり、教えを受けておらず、確信がありません。奴隷と幼児は似た立場にあり、霊的に未熟です。彼らは無知であり、幼児の状態にあり、彼らに知識や秘密を託すことはできません。なぜなら、彼らはそのような立場にあるからです。他方、子がいます。パウロは子を奴隷や幼児と対比しています。子はすべてにあずかります。彼にはわかっています。ですから、これらの者たちは対照的です。幼年期と隷属は律法と関係しています。パウロはこう論じています。その結果は何でしょう?遅かれ早かれ、内なる知識の欠如のせいで破綻してしまいます。ユダヤ教の律法であれ、キリスト教の律法であれ、そうなることがわかります。キリスト教的律法主義がたくさんあります。それをだれかに課して、その結果に注意を払いなさい。クリスチャンの両親が家庭で子供たちを育てる問題を取り上げましょう。もし私たちが自分の子供たちを律法の下で育てるなら、たとえそれがキリスト教的な律法(つまり、キリスト教を子供たちに、一つの体系として、律法として、順守して行うべき多くの事柄として課すこと)だったとしても、何が起きるでしょう?成年に達すると彼らはその律法から離れ、キリスト教から去ってしまいます。私たちの中には自分でこれを経験して知っている人もいます。また、多くのクリスチャンの親たちが子供のことで心を痛めている事例からも、これがわかります。彼らは子供たちをキリスト教の中で、自分たち自身のキリスト教の中で厳格に育てました。彼らはそれを子供たちに課しました。しかし、子供は成長すると、去ってしまったのです。何が問題なのでしょう?律法――ユダヤ教の律法であれキリスト教の律法であれ――の下にあることと、キリストを心の中で知る立場にあることとは、全く違います。一方は幼児期であり、他方は成年、成熟、子たる身分(sonship)です。キリストが聖霊によって内側に真に植え付けられないかぎり、安全、確かさ、保証はありません。律法は決してこれをなしえません。「主がその中に住んでいる人が後退するようなことはない」と言っているのではありません。おそらく、ガラテヤ人への手紙の要点は、彼らが御霊を受けたのは律法の働きによるのではなく、信仰の従順による、ということです。パウロは彼らに言います、「さて、覚えておいてください。もしあなたたちが律法に戻るなら、あなたたちはキリストから離れることになります」。これは、ある体系から、外面的信仰告白から離れることよりも、遥かに重大なことです。

ですから、子たる身分は、原則的に、御霊によって内側に住んでおられるキリストであることがわかります。それは私たち自身とは「全く異なる」ことがわかります。内なるキリストによって私たちは成長します。それ以外の立場では成長できません。

何が起きたのかわかります。聖霊は神の御心にしたがって人なる御方をもたらして私たちの中に住まわされました。この御方は私たちとは異なります。次に、私たちは明け渡し、降伏し、すべてを彼に手渡さなければなりません。それは、自分は彼とは全く異なる者であることを知るためです。次に、私たちは自分自身であることを徐々にやめていきます。そして、キリストご自身が私たちの思い、私たちの心、私たちの意思、私たちの道、私たちのあらゆるものに広がっていきます。そして私たちはそのような方法で神の御子のかたちに同形化されつつあります。これが子たる身分の霊の働きの目標です。