第三章 イエス・キリストの死と復活

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ロマ五、ヨハ一二・二〇~二八、三一~三三。

私はヨハネによる福音書におけるキリストの死の地位について黙想してきました。そして、異なる方法で彼の死に対する多くの言及がなされていること、そして、それらはみなその結果として新たにもたらされたものと関係していることを見い出しました。それらのいくつかを見ることにします。

それと同時に、新約聖書のその後の書物では、主イエスの死と復活がどれほど頻繁に、「新しい」という言葉と関係しているのかを、新鮮な気持ちで思い出しました。それらの書でキリストの十字架とその結果について読む時、しばしば「新しい」という言葉が出てきます。その個所をあなたはすぐに思い出すでしょう。例えばローマ六・四にはこうあります、「それゆえ、私たちは死の中へのバプテスマを通して彼と共に葬られました。それは(中略)私たちも命の新しさの中を歩むためです」。キリストの死と復活の結果、命の新しさが生じました。

次にパウロは、コリント人への第二の手紙の中でキリストの死と、その死における私たちの彼との合一について述べ、それから彼の復活と私たちが彼にあってよみがえったことについて述べて、「もし誰でもキリスト(復活のキリスト)にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、それらは新しくなりました」と述べます。

主イエスの死と復活に関連してこの言葉が現れる個所を、さらに思い出すこともできるでしょう。しかし今はこの事実を述べるだけにします。なぜなら、ヨハネの福音書における主の死に関するこれらの言及はみな、何か新しいものを私たちの前にもたらすからです。それはキリストの死から、復活の中で生じたものであり、私たちに影響を及ぼします。これが私たちを今だけでなく絶えず占有しなければなりません。

ヨハネによるこの福音書をざっと見て、これらの事柄のいくつかに注意することにします。

ひとりの新しい人

三章一四~一六節:「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、彼にあって永遠の命を持つためです。神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛されました。それは彼を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためです」。

これらの御言葉の文脈を見ると、それらがその死、主イエスの十字架と関係している私たちをどこにもたらすのかがわかります。また、ここのこの問題には二つの面があることがわかります。

一四節によって示されている面があります。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」。確かにこれはこの事の死の面を表しています。そして次の事実は完全に明らかであり、何人も一瞬たりとも異議を唱えないでしょう。すなわち、主イエス、神の御子が、モーセによって荒野で上げられた蛇に対応するあの立場に置かれたのは、彼ご自身のためではなかったのです。イエス・キリスト、神の御子が個人的に蛇によって示されているのは正しいことである、とは決して誰も言わないでしょう。なぜなら、蛇は常に呪いの象徴であることを、あなたは直ちに思い出すだろうからです。この被造物にかつて臨んだ最初の呪いは蛇の上に宣告されました。そしてそれからずっと、蛇は呪いの化身です。さて、人の子はこの蛇のように上げられる、と述べられています。どうしてこの二つのものを一緒にするのでしょう?確かに、これらは遠く隔てておかれるべきであり、決して一緒に言及されるべきではありません。確かに、そこには何の関係もありません。使徒パウロはこの意味を完全に明らかにして、御霊によってガラテヤ人に書き送ります、「キリストは私たちのために呪いとなって(中略)私たちを呪いから贖って下さいました」。文字通りには「私たちの代わりに」です。ですから、呪いとされたこの立場で、彼は十字架に付けられたのであり、そしてそれは私たちの身代わりだった以上、確かにそれは代表者として私たち自身を死によって取り除くことです。ですからキリストの死は、神の呪いの下にある人を代表していました。なぜなら、人は死の中に虜とされていたからです。神の御子が中に踏み込んで、私たちの身代わりとなり、呪いとされ、神の裁きを受けて、私たちとして死なれました。これが死の面です。

この類の人が道から取り除かれるとき、あなたは何を得るでしょう?何か新しいもの、ひとりの新しい人のために用意された道を得ます。ですから、一六節はこの別の面を示します。神がその愛するひとり子を与えて、呪いの下で罪の中にある人の立場を取らせたのは、「彼を信じる者が一人も滅びることなく(彼は彼らのために滅びたのであり、彼らは「彼はその行いによって自分たちのために滅んで下さったのである」と信じています)、永遠の命を持つため」です。キリストの死は、人のための新しい立場の基礎を据えます。人自身の立場は裁きの下にある立場であり、永遠の死に定められています。キリストはその中に踏み込んで、人の立場を取り、呪いとされ、代表者として裁かれて神から分離されました。今や彼の復活により、それからの逃れ道と、人のための新しい地位のための立場が備えられています。それは何でしょう?それは、そこでは人はもはや呪いの下にはなく、神から分離されておらず、裁きの下になく、死に定められていない、ということです。むしろ、キリストにあって人はよみがえらされ、神に受け入れられ、祝福の立場にある、ということです。これはとても単純であり、大量の福音がその中に込められています。しかし、次のことがわかるでしょう。すなわち、この福音書における、キリストの死に対する最初の言及は、この死を神の御前で人のために新しい立場を用意するものとして示しているのです。そして、これは素晴らしいことです。人は死の中にありました。今、人は命の中にあります。人は罪の中にありました。今、人はキリストの義の中にあります。人は神から分離されていました。今、人は主イエスの死と復活――人はこれを自分のためのものとして信仰を通して信奉します――を通して神との合一の中にあります。これが主イエスを信じることの意味です。主イエスを信じるだけでなく、主イエスに基づいて信じることなのです。

新しい養い

六章五三~五四節:「それゆえイエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、私はあなたたちに言います。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません。私の肉を食べ私の血を飲む者は永遠の命を持ちます。私は彼を終わりの日によみがえらせます』」。

このような言葉が用いられる時は、キリストの死が前提となっています。主イエスはそう語ることで御自身の死を見つめ、御自身の死を視野に入れておられます。そしてまさにこの御言葉が前提としているのは、キリストが死なれたのは私たちが――彼が言わんとされたこの意味で――彼の肉を食べ、彼の血を飲むためだったということです。食べることと飲むことの意味は、内的に受け入れることに他なりません。私たちはここでさらに進んで、私たちは今や、キリストの死の最初の提示と受容の先にある、永遠の命の立場にあることを見ます。私たちは今や、主がまさに同じ章でニコデモに向かって語られた「上から生まれた」立場にあります。私たちはこの立場をこのように述べることができるでしょう、「私は開始しました。私は神との新しい関係の中に入りました。私は救われました。私が大いに必要としているのは、維持してもらうこと、そして成長することです。この立場に保ってもらうことです。しかし、そこにただ留まるのではなく、この命の中で増し加わること、成長・発達することです」。これが御自身の子供たちに対する神の御旨です。彼らを再生させてその状態にとどまらせ、「そうです、私は救われました」と言えるようにはするものの、それ以上は何もしない、ということは神にはありません。

仮に私が背丈の大きな一人の子供である人をあなたに示し、「この子は四十歳ですが、依然としてミルク瓶で養ってもらう必要があり、依然として乳母車で運んでもらう必要があります。また、依然として世話してもらう必要があり、依然としてすべてのことをしてもらう必要があります」と告げたら、あなたは何と言うでしょう。あなたはそれを悲劇と呼ぶでしょう。精神的・肉体的に発達していないのです。そのようなクリスチャンがたくさんいます。彼らは確かに再生されていますが、決してそれ以上進んだことはありません。彼らに言えるのはただ、「自分は救われた」ということだけです。彼らは決して成長しなかったのです。

そこで、ここで持ち上がる問題は、新生を通して神の子供になった者として、私たちは成長して神の子らの完全な身の丈に至らなければならないということです。そのために私たちは養ってもらわなければなりませんし、食物を得なければなりません。自分が持っている命を維持してもらわなければならず、この命を増し加えるものを得なければなりません。こうして私たちはこの第二段階に進みます。そしてここで私たちは、キリストの死はそのためであることを見ます。キリストの死は、一方において、その死によって古い人を取り除き、他方において、復活のキリストの豊満をもたらします。これは、彼は命を与えて下さるということだけでなく、命を与えることによって彼はこの命に必要なすべてのものを豊かに与えて下さるということでもあります。私たちはとても多くの人が、「始めても前進し続けられないのではないかと心配です」と言うのを聞いてきました。私たちが述べてきたことは、それに対する答えです。復活の命の中にある主イエスは十分な備えであり、私たちを命の中に保ち、神の民である私たちに対する神の全き御旨に到達させることができます。これがここで主イエスが言わんとしておられることです。彼はこの新しい生活における私たちのすべての要求を十分に満たすことができる、と彼は私たちに告げておられます。しかし私たちは、彼は死んで復活されたという立場に基づいて彼を受け入れなければなりません。

「私の肉を食べ(中略)私の血を飲む」という御言葉は、キリストが死なれたことを前提としています。その血は流されなければなりません。つまり、利用可能なものとなるために、その命は注ぎ出されなければなりません。そして私たちは常に、キリストが私たちのために御自身から解き放たれたものに与らなければなりません。それは成長するためです。私たちはこれを完全に理解することは決してないでしょう。これらの人々は理解しませんでした。彼がこれらのことを話された時、ある人々が直ちに「この人はどのようにして自分の肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と叫びました。神の子供たちであるこの人々にとって、その方法は謎だったかもしれません。しかし、その事実は全く謎ではありません。事実、私たちの中には主にあって何年も進み続けて来た人もいます。考えうるあらゆる反対――それは進み続けることを私たちに止めさせるためです――に直面してきたにもかかわらずです。もし後退することができたなら、私たちは挫折し、敗北し、困惑し、打ちのめされ、粉々にされ、滅ぼされ、この命を失っていたでしょう。そうなっていたに違いありません。なぜなら、地獄全体がこの新しい命に対して荒れ狂い、悪の全軍勢が私たちを後退させるために私たちの道に割り込んで来たからです。私たちが進み続けてきたのは、自分の意志や決意の力だけによるのではありません。なぜなら、何度も私たちは絶望する地点に至ったからです。しかし、私たちは進み続けました。そして、進み続けています。なぜでしょう?事実、私たちはキリストに信頼しており、信頼される時キリストは支えて下さるからです。主イエスの復活は命をもたらすだけでなく、命の完成に必要なすべてのものをももたらして、それを完全にして下さいます。

新しい関係

一〇章一七~一八節:「父が私を愛して下さるのは、私が自分の命を捨てるからです。それは、私がそれを再び得るためです。誰かがそれを私から取り去るのではなく、私がそれを自分から捨てるのです。私にはそれを捨てる力があり、またそれを再び得る力があります。この命令を私は私の父から受けたのです」。

ここにキリストの死に対するもう一つの言及があります。その文脈を見ると、「私は良い羊飼いです(中略)私は自分の羊を知っています」と主が述べておられることがわかります。次に彼は、「私には、この囲いに属さない別の羊もいます。私は彼らも導かなければなりません(中略)そして一つの群れ、ひとりの牧者となります」と仰せられます。彼が第一に述べておられるのは、彼の羊であるユダヤ人の信者たちです。次に彼は、「この囲いに属さない別の羊」について語られます。彼の念頭にあるのは、彼のもとに来ることになる異邦人の信者たちです。そこで彼は「別の羊(中略)一つの群れ(中略)ひとりの牧者」と仰せられます。あなたはユダヤ人の種族の羊と、異邦人の種族の羊を見ることはないでしょう。そのようないかなる区別もすることはできないでしょう。彼らは一つの群れになります。二つの群れが一緒にされて一つの囲いの中にもたらされます。「こちらはユダヤ人の信者で、あちらは異邦人の信者です」と言えるような、羊の二つの種族、二つの種類があるわけではありません。羊を区別するのは不可能でしょう。これはキリストの死と復活の結果である、と述べられています。

パウロはこれを説明してくれます。彼はあなたに、「キリストはその死によってユダヤ人と異邦人との間の敵意を滅ぼして、その復活によってこの両者――ユダヤ人と異邦人――からひとりの新しい人を造られました」と告げます。一人の人、一つの完全体である人、完全な実体が、二人の人である、と想像するのは不可能です。それは馬鹿げた考えです。さて、ひとりの新しい人が意味するのは、多様なものはすべて排除されて、一種類の人、ひとりのの新しい人になったということです。ヨハネ一〇章の中で、この絵図的方法で主イエスが示しておられるのは、このことです。

これがみな意味するのは、死と復活の結果、この地上のあらゆる異なる人種出身の信者たちは、一つの共通の命を持つようになったということです。それは、彼らの存在の最も内側深くにある現実において、彼らが一つとなるためです。これは何か新しいものです。これはパウロが新しい人と称しているものです。それはひとりの団体の人です。

これは実際に真実です。私たちの中で主を真に知っている人々にとって、また主にとって真実です。私たちの国籍が何かは関係ありません。この地上で私たちがいかなる者なのかは関係ありません。私たちには何か共通のものがあります。私たちは全く異なる領域の中に生きています。私たちはキリストの中にあります。様々な国籍の多くの人々を一つの部屋の中に集めることになったとしましょう。もし彼らがみな再生された神の子供なら、彼らは自分たちの存在の最も深い現実においては一つであり、完全な交わりの中にあることを見い出すでしょう。それは、彼らはキリストの一つの命に与っているというこの内なる真理のためです。キリストとは関係ない状況や、キリストの中にない人々の場合、もちろん、そこにはあらゆる種類の多様性や相違があること、そしてそれらの相違が作用し始めて際立ち始めることに、あなたは気づくでしょう。しかしキリストの中には、彼のものである者たちがみな集まって一つになるある地点があります。そこには、私たちの心と私たちの霊の完全な交わりがあります。そこでは、この世、この地上に属する他の事柄は二の次であり、二の次の地位に保たれなければなりません。

これが、キリストの死から生じる新しい事柄の一つです。すなわち、御自身の死の中に彼はすべての国民を包含されたのです。異なる言語や異なる言葉は呪いの結果であることを、あなたは思い出さなければなりません。しかし、キリストは御自身の死によって、この呪いを引き受けてそれを滅ぼされました。主イエスとの復活による合一の中で、私たちは自分が霊の中でこの呪いの上に引き上げられたことを見い出します。多くの言語のせいで地上には依然としてある困難があるかもしれませんが、霊の中で私たちは一つです。私たちには、私たち全員が理解できる一つの言語があります。私たちはキリストの中にあります。私たちの交わりはそこにあります。これは主イエスの復活と共に生じた新しい事柄です。

新しい世界

一二章三一~三二節:「今は、この世が裁かれる時です。今、この世の君は追い出されます。私は、地上から上げられるなら、すべての人を私自身に引き寄せます」。

ここには、主イエスの死と関係している二つのものがあります。第一に、この世が裁かれること、第二に、この世の君が追い出されることです。

この世の裁きはキリストの十字架でなされました。この世を裁くとはどういうことでしょうか?神の御言葉がその答えを与えています。「全世界は悪しき者の中に横たわっています」。「全ての人は罪を犯して、神の栄光に欠けています」。「罪の報酬は死です」。主イエスはその十字架でこの世の裁き、罪深い世の裁きを身に負われました。この世の裁きが十字架で彼の上に転嫁されました。そして、この世が裁かれました。「もしこの世が裁かれているなら、なぜ将来の裁きを待っているのでしょう?」と、あなたは言うかもしれません。もしあなたが信仰によって、この世――あなたはその一部分です――の裁きを主イエスによってなされたものとして受け入れるなら、あなたには恐れつつ待つべき裁きはありません。この世――あなたはそれに属しています――の裁きをキリストが引き受けて下さったことを理解しているなら、裁きは永遠に過ぎ去っています。もしあなたが彼を信じる信仰の立場を取ったことがないなら、この世の裁きにおける裁きが依然としてあなたを待ち構えています。

要点は次の通りです。すなわち、彼にあってこの世は彼の十字架において裁かれたので、あなたも私も主イエスの復活によってこの世の外にあるのです。私たちはこの世から逃れました。それは、私たちは裁かれるべきこの世の一部ではもはやなく、それから解放されている、というこの霊的意味においてです。それでは、私たちには何があるのでしょう?新しい世界です!ただ神の子供たちだけがこの言葉、その意味を理解することができます。彼らは確かに理解します。自分が再生されているのかどうか、キリストとの生ける関係の中に真に入っているのかどうか、あなたは試すことができます。それは、自分の霊とこの世との間に衝突を見い出すか否かによってです。あなたは以前のように不敬虔な人々と気楽にやっていけるでしょうか?あなたにとってこの世はあなたを悩ますものでしょうか?その中にあって自分はよそ者である、自分はそれに属していない、気持ちの上では本当にその外にいる、と感じているでしょうか?この感覚がますます強まっていくため、この世の中を行くとき、それは人工的な世である、その中にいる人々はみな人工的な生活を送っている、と感じるほどでしょうか?これがあなたがその外にいる証拠です。もしあなたにそのような感覚が何もないなら、今あなたはこの問題を真剣に調べなければなりません。なぜなら、神の真の子供に臨む最初のものの一つは、この世からの分離の感覚、この世との衝突の感覚だからです。彼らは仕事に戻って行き、自分の知っていることを何も話していないのに、とても奇妙なことに、この世の人々は何も話を聞いていないのに、衝突の感覚が生じます。霊の事柄は、音声の言葉がなくても、響き渡ります。

これが私たちが主に属しているかどうかの試金石です。気持ちの上では、私たちはこの世の中によそ者として生きているでしょうか?これは私たちの世界ではありませんし、家でもありません。ここにあるものはみな私たちとは無縁です。「今は、この世が裁かれる時です」。私たちの世界は新しい世界です。決して裁かれることのない世界です。それは復活したキリストの世界です。

キリスト復活に続く期間について扱っている記録の一部を見ると、その十字架後、彼は決して再びこの世に現れなかったことがわかります。御自分の者たちにしか彼は現れませんでした。その時、彼はこの世の外におられたのです。

新しい主また主人

「今、この世の君は追い出されます」。これはキリストの死によって生じることです。この世の君は私たちを束縛していました。彼は私たちの主人、私たちの主でした。私たちはこれまで悪魔を意図的・意識的に礼拝してきた、ということではありません。それでも、私たちは生来悪しき者の中にある事実はそれによって変わらない、ということです。使徒ヨハネは「全世界は悪しき者の中に横たわっています」と述べています。生来私たちはサタンの王国の中にあり、彼が私たちの主です。もし彼が主イエスの十字架によって追い出されるなら、新たな可能性が生じます。すなわち、別の主人、別の主を持つ可能性です。ですから、キリストの復活と、信仰による彼との私たちの合一により、私たちは新しい主人、新しい主を持ちます。

ヨハネによる福音書のこれらの段階の各々の中に何があるのかわかります。第一に、永遠の命を持つ新しい人があります。次に、この新しい人のための、その養いのための新しい備えがあります。次に、一つの群れにおける新しい関係、一人の羊飼い、信者たちとの新しい関係があります。次に新しい世界があります。次に新しい主また主人があります。これはみなとても単純ですが、これはみな主イエスの死と復活と関係しています。

これを自分自身の生活や経験で知っている人々は、これを思い出して喜ぶでしょう。そして、自分自身をこれに適応させようとするでしょう。その享受の中にない人は誰でも、それは誰にでも開かれているように自分たちにも開かれていることを知るでしょう。

「神はそのひとり子を賜るほどに世を愛されました。それは彼を信じる者が一人も滅びることなく(この世と共に、呪われたものと共に、悪魔と共に滅びることなく)、永遠の命を持つためです」。

これは新しい扉であり、新しい道です。それによって私たちは、すべての新しいもの――それは十字架に付けられて復活したキリストにあって私たちのものです――を得ます。