第四章 御霊に満たされる

T. オースチン-スパークス

私たちにとても馴染み深い一つの句が新約聖書にあります。「御霊に満たされる」という句です。この句が、一つの例外を除いて、ルカの書き物にしか現れない事実に私は感銘を受けてきました。その一つの例外はエペソ人への手紙の中にあります。

ルカの書き物における彼の目的は、キリストを人の子として、神の完全な人として示すことです。彼がこの書を友人であるギリシャ人のテオピロに宛てて書くことに取り組んだとき、これがそれを支配していたことを私たちは知っています。テオピの思いは理想的で完全な人の周囲を巡っており、それゆえ、彼はそのような人を探すことに心を傾けていました。この思いに応えて、ルカは一つ目と二つ目の書を友人に宛てて書くことに取りかかりました。その際、彼が目的とし、注意深く意図したのは、キリストをそのような人として示すことでした。ですから、その福音書と使徒行伝の両方で、この人、キリスト・イエス、人の子について特に述べられています。

神の御心にしたがっている人

一つの例外を除いて、「御霊に満たされる」という句はルカの書き物にしか現れませんが、これには意義があります。私が思うに、これは次のことを明確かつ決定的に示しています。すなわち、神の要求どおりの者に人をするのは、御霊に満たされることなのです。あるいは、別の言い方をすると、神が人に対するご自身の御心として、ご自身の理想として、ご自身に応える人として示しておられるこの人は、御霊に満たされている人なのです。これを再び別の言い方で述べると、主イエスによって示されているこの人に到達できるようになるには、まず御霊に満たされることが必要なのです。御思いを満足させるものを神が人において示すには、その人は御霊に満たされたこの人、この人の子にしたがっていなければなりません。

この例外もまたとても啓蒙的であり、意義深いです。なぜなら、この例外は団体的な人に関して現れるからです。エペソ書では「一人の新しい人」、この団体的な人が示されており、それに関連して御霊に満たされなければなりません。ですから、ルカにおいてもパウロにおいても、この原則が成り立つことがわかります。御霊に満たされることは、人に対する神の目的を実現するための道であり基礎なのです。

これを念頭に置いて、私たちは進むことができます。そしてもう一度、主が私たちに何を言っておられるのかを理解して見渡すことにします。

御座にある人

私たちが達した要点は、第一に、神は、子たる身分に関して、一つの人性を完成されたということです。彼はこの性質を引き受けて、この完成された人間の命、人性を天にもたらされました。これが第一段階です。こう述べるにあたって、次のことを繰り返す必要があるかもしれません。この特別な人性の中には罪深いものが何かあった、ということを私たちは言っているのではありません。ちょうど、赤ん坊に落ち度はなく、赤ん坊として完全であっても、あらゆる意味で、内的にも外的にも、成長して完全な人にならなければならないのと同じように、キリストは完成されたのです。それは、道徳的な意味で彼の中に不完全なものが何かあったからではありません。試みを受けて、彼の人性の中にあったこれらの完全な力が成熟に至ったからです。ですからこのような意味で、この完全に成長した人が神の御前におられます。それは成熟した、完全な人性です。

聖霊の降臨と御業

二番目の点は、聖霊はその結果来臨されたということです。それが確立されないかぎり、聖霊は決してこの経綸に来臨してその真の御業を行えませんでした。そして、主イエスの高揚と栄化の結果、聖霊は来臨されました。ですから聖霊の御旨は、最初から、天におられる主イエスと深く関係していました。聖霊が来臨されたのはその結果であり、この人にあって団体的に二重のことを行うためでした。

第一に、彼の御業はこの人、キリスト・イエスの完成された人性を、新創造に必要不可欠かつ最低限必要なものとして、植え付けることです。敵が利用しうるものは何でも、あらゆる手段、あらゆる口実が、これに反対します。敵の手段は往々にして宗教的な手段です。この本質的問題を蝕むことによりよく成功するものの一つは宗教であることに気づきます。宗教は神の本質的御旨に対する最大の敵になるおそれがありますし、実際そうであることが証明されてきました。私たちは絶えず何に出会っているでしょう?(私がある特定の領域について話したとしてもお許しください。その領域はたまたま私たちの調査の対象となり、私たちの目に留まったものであり、それを特に攻撃するつもりはありません。それを取り上げるのは例証としてです。)私たちが絶えず出会う人々は、「あなたたちは本当に再生されていますか?」と尋ねられると、「そんなものは必要ありません。私たちは堅信礼を受けており、教会やその類のものに加わっています」と答える人々です。彼らは幼児の時にバプテスマされました。再生や新生の経験は無視されています。それについて述べるのがどれほど不快でも、これは事実です。このような方法や他の多くの方法で、敵がこの問題を逸らすのに大成功を収める手段は宗教です。往々にして、いわゆる教会がこの本質的なものの地位に置かれます。そして敵は、邪悪で悪魔的な超自然的手腕の限りを尽くして、聖霊がキリストを信者の中にもたらされる時、なんとかして事を覆そうとします。一度キリストが内側におられるようになるとき、あなたはまさに神と出会います。悪魔は神が味方されるものすべてに対応しなければなりません。キリストを内側に持つのは途方もないことです。それはまさに栄光の望みです。しかし、それに代わるどんな代替物があるのかご覧なさい!無数にあるのです。

聖霊が来臨されたのは、第一に、キリストを信者の中にもたらすためです――キリストは人として神と全く連携しておられます。私たちと関係しているすべての人にこれが実際に起きた、と信ずべきもっともな理由を得るまで、私たちは決して満足するべきではありません。精神的同意や合意やそのようなものではなく、真の再生が必要です。

キリストとの合一が意味するところはみな、内側にもたらされたキリストというこの単純な句・表現にまとめられます。言い換えると、それは私たちの新しくされた霊の中に住んでおられるキリストです。それは私たちの魂よりも深く、さらに内側にあります。キリストの主な住まいは私たちの魂ではありません。なぜなら私たちは依然として、キリストではない理屈や考えを続けているからです。キリストではない感情・情熱・願い、意思・選択・行動を続けているからです。これはみな魂です。キリストはそれよりも深い所に住んでおられます。これを理解することがきわめて重要です。なぜなら、様々な理由で精神のバランスを失った人が大勢いるからです。そしてこの事実のせいで、彼らは全く恐ろしいことを想像し、感じ、述べ、行うようになります。しかしそれにもかかわらず、最も深い実在においては、彼らはそれでも神の子供なのです。損なわれたのは外側の人的構造だけであり、それはおそらく神経に対する過度の負荷のせいです。彼らは精神病院に入ります。これらの不幸な出来事や、私たちの人間性に臨むこれらの事柄のせいで、彼らは神の子供ではなくなった、と言うべきでしょうか?決して言ってはなりません。キリストは私たちの魂よりもさらに深いところに住んでおられます。すなわち、私たちの新しくされた霊に住んでおられます。こういうわけで、この取り引きが現実になされることが大いに必要です。それは、外側で何が起きようとも、肉体的・精神的・霊的に、どんな力に遭遇することになっても、私たちの霊の中にキリストは住んでおられる、という最も深遠な事実が残るためです。そこに子たる身分があります。それは霊の合一の問題です。

聖霊来臨に関する第二の点は、キリストは一つなので、御霊の御業はすべての信者をキリストにあって一つのからだにする、ということです。キリストを一人の信者の中に、あるいは個々の信者たちの中にもたらすことは、多くのキリストを多くの信者の中にもたらすことではありません。信者の数だけキリストがおられるようになるという問題ではありません。キリストは一つのままです。キリストは一つであって分けることができず、しかし御霊によって多くの信者の中にもたらされます。そうである以上、聖霊は多くの信者たちからキリストにある一つのからだを造られます。キリストは一つなので、そのからだは一つです。「一つからだ(中略)一つ御霊(中略)一つ主」。ですから、聖霊は個々の個人を扱っておられるのではありません。個人は聖霊の御旨の一部であり、キリストの本質的からだの一部です。このからだによりキリストは来るべき代々の時代にご自身を全く表されます。このからだは教会と呼ばれています。それ以外の教会は聖書にありません。神の御言葉が認める唯一の教会は、その中にキリストが住んでいて、信者たちを一つの団体的なからだとされる、信者たちの団体です。

「体は一つでも多くの肢体があり、その一つ体の肢体はみな、数は多くても一つの体であるように、そのキリスト(the Christ)も同様だからです」(一コリ十二・十二)。この冠詞は欽定訳では省かれていますが、ギリシャ語にはあります。新約聖書におけるギリシャ語の冠詞にはとても大きな重要性があることがわかっています。その有無は、話の一部の有無よりも遥かに多くのことを意味します。それは彼方まで及ぶ真理を支配します。この観点から見たそのキリスト(the Christ)はどのような方でしょう?そのキリスト(the Christ)はかしらと肢体たちであり、みな一つのからだなのです。

聖霊がここにおられるのは、第一に、キリストを信者の中にもたらすためであり、そうすることにより、彼は信じるすべての人の中に一つのキリストを形成されつつあります。一つのからだを構成されつつあります。そして、それが新約聖書にある教会です。

信者の主要な包括的義務

これを理解する時、信者たちは内なるキリストに関してある義務を負うことになります。第一の包括的義務(さらに多くのものを含む義務)は、信者は新生以前の立場とそれが意味する一切のものを放棄しなければならないということです。これは、信者は生来の在り方という立場をすべて放棄しなければならないことの言い換えにほかなりません。主イエスは偉大な数々の真理を具現化するのにとても単純な比喩を使われました。彼はご自身が具現化している真理がどのようなものなのかを決して話されませんでした。なぜなら、霊的理解力が全くなく、聖霊も来臨していなかったからです。その後、聖霊が来臨された時、彼が述べた断片的言葉が光で照らされて拡充されました。彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、日毎に自分の十字架を取り上げてわたしに従いなさい」。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子(教わる者)になれません」。「自分を否む」!この句を握って自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場を全く拒絶して、それによって支配されてはならない、ということです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架が意味するところに基づいて、生来の私たち自身である一切のものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、あの立場ではなく彼の立場の上で生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

ここでもまた主イエスは、彼の立場の上で生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「わたしの中に住んでいなさい」。「ぶどうの木の中に住んでいなければ、枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできません」。この絵図は全く明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それは自分自身の中に住むことではありません。それは自分自身の外側に出て彼の立場につくことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

内なる命の法則によって歩む

これにも幾つかの段階があります。一つはこれです。すなわち、聖霊はキリストを内側にもたらしてくださったのですから、私たちはそれ以降、主と共なる新しい歩みによって生活行動しなければなりません。私たちは彼が歩まれたように歩まなければならない、私たちは彼が歩まれたように歩むべきである、とヨハネは述べました。彼はどのように歩まれたのでしょう?ご自身の歩みに関する彼ご自身の言葉は全く明確です。すなわち、彼は御父の中に住み、御父の中に自分の命を持ち、御父によって生き、自分自身からは何もせず、御父が行われることは何でも行ったのです。それは御父にあって歩む、慎重かつ絶え間ない歩みでした。言い換えると、御父との内的な関係と交流、交わり、一体性による歩みだったのです。このように彼は歩まれました。ですから、私たちの生活はあらゆる点でキリストとの内的歩みによって行動するものでなければなりません。その歩みは外的命令、外的組織による歩みとは異なります。クリスチャンならそれに順応するよう期待されている、あるキリスト教の組織があります。それは設立・確立されているものであり、クリスチャンとして私たちはそれに順応して当然と思われています。それは最初に考慮すべきことではありませんし、誤りに導くかもしれません。私たちの歩みは、第一に、外的規則・組織・命令にしたがったものではありません。私たちの生活は主と共なる内的なものでなければなりません。今や、すべては内側から、内なる主から発しなければならないことを、私たちは理解しなければなりません。これは言葉が伝えるよりも遥かに多くのことを意味します。

いくつか例を挙げて、これを説明することができます。エルサレムに本部がある、完全に確立されたユダヤ教の組織がありました。そして、一人のユダヤ人として、主イエスはそれに完全に順応してその支配に服するよう期待されました。ですから、エルサレムで祭りがある時、彼の兄弟たちは「あなたは祭りに上って行って、自分を公に示すべきです」と彼に言いました。「やましいことが何もないなら、どうして人目を忍んで離れているのですか。実際、もし上って行かないなら、アブラハムの不実な子と見なされるでしょう」。人間的理屈のあらゆる観点から見て、彼は上って行くべきでした。たしかに彼は誤解されるでしょう。しかし、これに加えて、他のありとあらゆる意見もありました。もし上って行かないなら、他の人々は道に迷ってつまずくのではないか、また、結局のところ、これは神ご自身が設けられた組織であり、神に由来しているものではないのか?等々。彼の返答は「あなたたちは上って行きなさい(中略)わたしは上って行きません」でした。彼らが上って行った時、イエスも上って行かれました。これはとても単純であり、その意義を見落とすことはありえません。これはただ次のことを示しています。すなわち、彼は外側で確立された何ものにも支配されることを拒み、主によって、御父によって支配される立場に立たれたのです。「父よ、あなたはわたしがそこに行くことをお望みでしょうか?わたしにそう期待しておられますでしょうか?そうすべきでしょうか?一般に認められている既成の体制に合わせるべきでしょうか?」。そこに行くことを御父が望んでおられることがわかるまで、彼は動くことを拒まれました。そして、それがわかった時、彼は上って行かれました。その前ではありません。人々がそれについてどう思うかは問題ではありませんでした。彼を内的に支配していたのは御父であって、自分に課せられたもの―― 一般的に受け入れられている既成のもの――ではありませんでした。

内住のキリストは信者をこの基礎の上に置かれます。それ以降、キリスト教――この世の秩序・組織として構成されてきたものであり、内なる主にはよらないもの――に支配されてはなりません。聖霊は降臨してこれを行い、これを実現されました。すなわち、私たちが内なる主によって生きるようにしてくださいました。これが意味するのは、もちろん、内なる主を知ることです。

聖霊に対する服従

第二に、これは信者にとって、御父の霊の訓練に服すべきことを意味します。この訓練により、私たちは子たる身分、つまり成熟に達します。それは、もちろん、霊的知性、霊的力、霊的豊満を意味します。これは大まかな説明です。これを分解することにしましょう。

私たちは御霊による御父の訓練に服さなければなりません。御父の霊は、子を扱うように私たちを扱われます。聖霊はこの訓練の働きに取りかかられます。それはへブル人への手紙では懲らしめと呼ばれています。その意味は子供の訓練にほかなりません。この働きはきわめて明確です。私たちが主との内なる合一のこの生活を受け入れるなら、聖霊は私たちを取り扱ってくださいます。私たちは五分間でこれを卒業することはできません。とても多くの人が抱えている問題は、それがあまりにも遅々としているように思われるため、彼らがこの問題を断念してしまうことです。慰めを受けるために次のことを覚えておきましょう。すなわち、主は通常、「主は自分に何をしておられるのだろう」と心配している個々の人からご自身を隠されるのです。自分が進歩しつつあること、とてもよくなりつつあることをあなたが知れば、あなたはその経験に栄光を帰して、それを仰々しいものにしだすでしょう。この自己が神の聖なるものをどれほど損なうのか、また、その忌まわしい恐るべき高ぶりにより、どれほど尊い実を駄目にしたり、それを自分のものにしようとしたりしているのかは、ただ神だけがご存じです。ですから、主は通常私たちから隠れておられます。そして、私たちの感覚は大いによくなっていくよりは、むしろ大いに悪くなっていきます。ますます豊かになっていくよりは、むしろますます乏しくなっていきます。もしかすると、私たちが昔と同じようには感じておらず、かつてなかったほど悪く、乏しく、貧しく感じている事実は、主が働いておられる印なのかもしれません。

要点はこうです。すなわち、自分自身の立場ではなくキリストの立場の上で生きることに関して、私たちは聖霊のこの訓練の御業に服さなければならないのです。それは一つの過程、一つの長期的な過程になるでしょう。私たちがこの地上にいる間、たとえどんなに長くここにとどまったとしても、この過程は決して終わらないかもしれません。私たちが携え上げられるその瞬間、大いなる完全化の御業が加えてなされるかもしれません。多くのことがその短い時間に集中してなされるかもしれませんし、あるいは、私たちの応答の遅さや、もしかすると反逆を主は考慮しなければならないため、その過程の期間は長引くことになるかもしれません。いずれにせよ、次の事実は残ります。すなわち、聖霊は私たちに、自分自身の立場の上で生きることとキリストの立場の上で生きることとの違いを教えてくださるのです。ただしそれは、私たちが聖霊にそうしていただくならばの話です。

まず最初に、私たちは一つの包括的行為によって服従し、自分自身を聖霊の御手の中に置かなければなりません。その後、聖霊がその段階的過程と共に進まれる時、私たちは何度も、何度も、何度も、聖霊に対して「はい!」と言うよう求められることになります。私たちは打たれ、倒れ、つまずき、この問題に関して失敗するでしょうが、聖霊はまさにこれらのことを私たちの教育のために用いられます。子供たちと全く同じように、私たちはある事柄をしないよう学びます。それはそれらのことを行って苦しむことによります。

これはみな成熟へと、すなわち霊的知性へと導きます。ご自身の民の中に、ご自身の子供たちの中に霊的知性を持つことは、主にとってとても重要です。それはおもに、彼らの上に課せられることになる責任のためです。この人生には責任が課せられるでしょう。他の人々を助け、照らすことです。なぜならこの過程の中で、私たちは今や祭司の地位についており、そして祭司の職務は常に、あなたも思い出すでしょうが、教えることだったからです。祭司の地位は子たる身分と結びついています。それは霊的力を意味します。ああ、天然的力と霊的力の違いを私たちが明確に認識していれば!多くの時、神によって自分をきわめて徹底的に弱くされた人々の天然的弱さを通して、最大の霊的力が臨みます。

主の目的は豊かさです。「……すべての中ですべてを満たしている方の豊満」「あなたたちは彼にあって満ち満ちています」。経験的には、これは聖霊の教えと訓練によって実現されます。それに私たちは服さなければなりません。その服従は、私たちが終始わきまえるべきものです。もし主に服従しないなら、私たちは自分に対する主の取り扱いの目的を破ることになるでしょう。

信者の諸々の関係

次の点は、私たちの諸々の関係は内なるキリストによって支配されなければならないということです。お気づきのように、最初に私たちは個人と団体を分けました。今まで個人に関することについて述べてきましたが、次に移って団体に関することを理解することにします。キリストは御霊によって内側におられるのですから、私たちの諸々の関係はこの事実によって支配されなければなりません。これは二、三のことを意味します。

第一にそれが意味するのは、相互の関係の基礎を認識し、据え、最終的な支配的法則として確立しなければならない、ということです。キリストはすべての信者の中におられます。もし彼らが真に新生しているなら、キリストは御霊によって内側におられます。私たちは信者として、これが私たちの関係の基礎であることを明確に確立しなければなりません。お互いを見る時、外見によって支配されてはなりません。私たちの諸々の関係は今や、私たちの内側におられるキリストという基礎に基づきます。これは確立された法則です。それが私たちの出発点です。

それが行動において意味するのは、私たちはこの基礎を保たなければならず、人々の性質によって動かされてはならない、ということです。これは出会う人の種類に応じて二つの形で働きます。人々が素晴らしく、親切で、思いやりがあり、紳士的で、思慮深く、公平なら、もちろん、すべてはとても容易です。彼らとやっていくのは難しくありません。しかし往々にして、これによって人々は純粋に天然的な水準に陥って、悲惨なことになります。かなりの被害がそれによって生活の中に生じます。素晴らしい人々が集団の中心になり、他の人々はそのような人々になつきます。彼らがあまりにも素晴らしいからです。しかし最終的に、それは禍を意味します。互いにやっていく時、互いの素晴らしさに心を奪われてはなりません。それによって決して影響されてはなりません。それはとても危険です。この面の性質は相互の関係の基礎ではないことに注意してください。アブサロムはとても素晴らしい人であり、キスや麗しい言葉でイスラエルの人々の心を勝ち取りました。おそらく、彼は見目麗しい人だったのでしょう。しかし、その結果はご存じでしょう。

他方、信者たちのそれとは反対の生来の姿によって支配されてもなりません。私たちの関係は、互いの内に見る大きな難点や、自然に嫌悪感をもよおさせるものによって、支配されてはなりません。互いに手を切って、「一緒にやっていけません」と言ってはなりません。さて、これはとても実際的です。それは私たちに何かを要求します。人々の性質は全く私たちの関係の基礎ではありません。

いずれにせよ、人々の性質によって支配されてはなりません。これは彼らが主の子供である場合の話であって、キリストが内におられるという基礎によります。

交わりのために成長する重要性

そしてさらに、霊的交わりには霊的成長が必要です。交わりというより積極的なものに欠けていても、関係を持つことはできます。その関係は残りますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。交わりは私たちの関係性の所産たるべきものであり、交わりに至らない関係性はその麗しさも、実り豊かさも、真の目的も失っています。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、一緒に進み続けることはできません。たとえ主と共に進んで行くことをあなたが望んでいても、あなたの自己が常に優勢なら、私はあなたと一緒に進んで行くことはできません。また、あなたもそのような立場では、私と一緒に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです。「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。たしかに二人は関係を持つことはできます。同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません。一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。一緒に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織だったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

これが豊かに実を結ぶ道です。御霊の基準によって共に進むこの立場に至る時、私たちは絶対的有用性の立場に立つことになります。とても多くのことがこれにかかっています。多くの場合、人は知的に何かを見たり、何かをつかんだり、他の誰かから教わったりして、それによって進み続けようとしますが、それは彼らの存在中に造り込まれておらず、たんなる受け売りにすぎません。それは彼らの存在中に聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって造り込まれていませんし、彼らの内側から現れることもありません。事が聖霊によって内側に造り込まれているかどうかという問題では、念には念を入れる必要があります。

これは難しく思われるかもしれません。これは多くのことを考え抜き、常に警戒していることを意味する、とあなたは思うかもしれません。いいえ。これは結果であり、自然の成り行きです。御霊による生活のこれらの詳細や方法のすべてを把握する必要はありません。秘訣は内住の主の支配であり、これはだれにでも可能です。ここで私たちは諸々の霊的事実を自分の前に置き、次に自分を主に明け渡して、これらの事柄を自分の内で生けるものにしてもらわなければなりません。これはみなある基本的事柄の結果であり、この基本的事柄を指摘するにとどめたいと思います。なぜなら、人工的なものや、筋違いなものや、誤った立場に陥って、必然的に禍へと至る危険性があるからです。私たちは自分を主に明け渡して、御霊による生活とは何かを教えてもらわなければなりません。それは遅々としたものであり、痛ましい経験を通るかもしれませんが、主とその権益にとってきわめて大きな価値があります。これには、この句が伝える以上に重大な内容があります。

御霊による生活とは何でしょう?これを一つの句として、一つの観念としてとらえるなら、これは、自分の内にある一種の力であって、自分をあちこちに揺り動かすものである、とあなたは感じるかもしれません。それはあまり快くありません。聖霊は何をしておられるのでしょう?何に向かって働いておられるのでしょう?何を求めておられるのでしょう?聖霊の働きの唯一の目的は、神の右手におられる主イエスの人性の意義の栄光を表すことです。聖霊の役目はこの人なる御方、キリスト・イエス、この神の人を私たちの中にもたらして、私たちの地位につかせることです。それは私たちの内に別のパースンを構成することです。このパースンは私たちとは異なっており、物事に関するご自身の考え、物事を行う私たちの方法とは異なるご自身の方法を持っておられます。そして私たちは、聖霊の働きにより、次のような地点に達しなければなりません。すなわち、聖霊の働きに服することによって、彼が着実かつ確実に、私たちの地位を占めるようになられる地点です。この意味で私たちをキリストで置き換えることは一つの過程ですが、これが聖霊が求めておられるものです。

覚えておいてください、すべては内なるキリストによって支配されなければなりませんし、その価値や真正性はその中にあるキリストの度量によって決定されることになります。私たちがキリストのために何を行うかによってではなく、その中にあるキリストご自身の度量によって決定されることになります。すべてはこれによって決定されますし、そうでなければなりません。