第五章 祭司団

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:レビ八章、ヘブ一・一~二、五、八、二・一、三・一、四・十四、五章、六章

レビ記八章に戻ると、聖所に属する祭司の一団が示されています。これを示しているこの章の節によると、この祭司団は聖所から離れてはならず、彼らの聖別の期間である七日間のあいだその扉から外に出てはなりませんでした。「七」は霊的完全を象徴します。ここでは霊的完全が期間全体を支配しています。あるいは、期間全体によって示されています。これから次のことがわかります。すなわち、この分離、この献身、聖所へのこの拘束は、ある完全な期間にわたらなければならないこと、そしてこうしてある完全な期間のあいだ彼らは聖所に属したこと、そして言わば、聖所の一部だったことです。その期間が何だったのかは、さしあたって述べる必要はありません。

もう一つ述べられているのは、彼らの務めは主に対するものであるということです。この世に対する、また人々に対する務めの面もありますが、この祭司団のこの務めの特別かつ主要な面は主に対するものです。

私たちの前にあるこの章の中にさらによく入り込む前に、神の御言葉の中にきわめて明確に示されている一、二の一般的事柄について述べることにしましょう。

祭司の一団

一つ目は、ご自身の民全体に対する主の御思いは、彼らが祭司の一団になることである、ということです。神はある水準をある人々に定め、それより高い水準を別の人々に定められた、ということをほのめかす示唆を神の御言葉の中に探しても無駄です。ご自身の民全体に対する神の御思い、神の召し、神の備えは、十分であり、完全です。ご自身の全き御思いに至ろうとしない人々に関して、神は何の備えも用意しておられませんし、何の指示も与えておられません。見たところ、様々な水準があることがわかりますし、様々な相違を考慮しなければなりませんが、主はそのように定められませんでした。「その高い水準は私に向いていません。それ以下のものが私には向いています。私はそのような高いものに召されていません。私は単純な人々の一人であり、それよりも低いもので満足しなければならないのです!」と言う人はみな、神の御心を全く誤解しています。神は常にご自身の民のことを、あたかも全き御旨に到達することになるかのように見ておられます。つまり、神の御言葉が示す申し分のない霊的状態にない民がいたとしても、神は決してその水準に降りて来てそれに順応したりされないのです。神は常に、あたかもこれらの人々がより優ったものに到達する運命にあるかのように話されます。これを理解することが重要です。私たちはしっかりと心に銘記しなければなりません。たとえ主の民の間に諸々の相違があったとしても、また、たとえ光・知識・理解・真理に関して様々な幅があり、それらを少ししか持たない人もいれば、他の人々よりもずっと多く持っている人もいたとしても、主は決してそのように仕組まれたわけではないのです。そうすることは決して主の意図ではありません。それは主の望みを示すものではありません。ご自身の民に対する主の御思いはご自身の豊かさです。この祭司団はとても堅固な団体であり、特別に名誉ある特権的地位にまさについているように見える一方で、神はご自身の子供たちのために特別な人数や階級を定められたことを示すものではありません。これは神の御言葉から証明できます。

主の民に関して、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれた、という偉大な包括的宣言がなされています。つまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているのです。神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位につけることを表していました。しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなってはいけません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出してください。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、思いの中から全く追い払わなければなりません。

神の民の失敗のせいで生じた相違

しかし、これがそうである一方で、同じように事実であるこの二番目の点があります。すなわち、相違が存在する事実です。これは神がそう定められたからでも、そうなるよう決定されたからでもなく、人々自身のせいです。最も内側の所に祭司の一団が生じます。次に、それよりも外側の所に、祭司の一団ではない別の団体が生じます。この団体はレビの一団と称しうるものです。次に、さらに外側の所に、一般人と称しうる群衆が生じます。この後者の名称は必ずしも非難の言葉ではなく、主の民の一般的な集団を意味するにすぎません。彼らは主の証しと特別な関係にはありませんが、それでも主の民であり、その御名によって呼ばれます。これはこのように実現していきますし、それはこのレビ記に見られるとおりです。

神は祭司の一団を得なければならない

目下の私たちの関心はこの祭司団です。なぜなら、この祭司団において、ご自身の民に関する神の全き御思いが実現・表現されるからです。神はそのような一団を得なければなりません。神が持つことになる一切のもの――神は一つの大群衆、一般的奉仕に携わる大きなレビの団体を持つことになるでしょう――にもかかわらず、神は祭司の一団を得なければなりません。さもないと、神の意図・御思いはすべて崩れて、神は敗北してしまいます。

ですから、私たちが今見ているのは次のことです。すなわち、神はアロンの息子たち、祭司の一団によって示されているものを持たなければなりませんし、持とうとしておられるのです。この点から遡って行って、主のためのあらゆる種類の真の奉仕にまで至ることが可能です。祭司たちはレビ人たちを通して働きます。しかし、注意してください。レビ人は祭司の働きを決してできません。レビ人は一般大衆のために働きますが、一般大衆はレビ人の働きを決してできません。レビ人の働きをするにはレビ人でなければならず、祭司の働きをするには祭司でなければなりません。しかし、祭司であるなら、同じようにレビ人の働きもできますし、主の民全員に奉仕することもできます。ご自身の民に対する主の特別な御旨に向かって進んで行くなら、主の奉仕から断ち切られることになる、とは思わないでください。

さて、要点を理解されたでしょうか?主の御心は、もっぱら、最終的かつ究極的に、祭司職の上に据えられています。主はそのようなものを求めておられます。このようなものを得るために、主はご自身の民のただ中で、レビ人たち――彼らは主のために尊いけれども多かれ少なかれ一般的な奉仕をしています――のただ中で働かれます。レビ人たちは必要なあらゆる種類のことを主のために行います。しかし、ご自身のために一般的な奉仕を行う者であるレビ人たちのただ中で主は働かれます。それはそれ以上のものを表す祭司の一団を得るためです。

私たちはこれらの関連性に再び注意しなければなりません。なぜなら、祭司がいなければレビ人は機能できないからです。たしかに祭司にはレビ人が必要ですが、注意しようではありませんか、主はこの祭司団を得ないかぎり、御旨全体を真に成就することは決してできないのであり、この団体を確保するために特別な苦しみ、特別な備え、特別な働きがなされているのです。その詳細はすべて「主がモーセに命じられた」とおりです。

新約聖書に示されているこの真理

この問題に関して新約聖書が使っている用語はとても単純な言葉です。私たちが述べた最初の点を見落としてはなりません。すなわち、神は常にご自身の完全な御思いに照らしてご自身の民を取り扱われますし、また、彼らに向かって語られるのです。そして、それに届かないもののために、決して何の備えもしておらず、それに届かない何ものにも決して満足できないのです。それに届かないものも生じるでしょうが、それは決して神を満足させません。

次に、新約聖書から完全かつ明確にわかるように、主は、多くの人はご自身の全き御旨に至らないことをよく承知したうえで、それにもかかわらず、一つの団体をそこに得るために労苦しておられます。その例をどこに探せばいいのでしょう?使徒パウロ自身と、この文脈で彼が述べていることをすべて見てください。例えば、コロサイ人への手紙の一章を見てください。他の章と同じくこの章でも、主の御心についての発言が次のような切迫した言葉で示されています。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えています。それは私たちが、キリスト・イエスにあって完成されたすべての人をささげるためです。このために私もまた労苦し、私の内で力強く働く彼の働きにしたがって奮闘しているのです」。あるいはまた、ピりピ人への手紙の偉大な三章を見てください。そこでは、パウロについて示されています。パウロは主のものであり、それまで主に仕えてきました。彼はあのような霊性・命・成長の域に到達したにもかかわらず、彼の存在の奥底でなおもこう自覚しています、すなわち、主はそこで止まってしまう何人をも欲しておらず、それより高いものに召しておられるのである、と。使徒はこれをこう述べています、「何とかして到達するためです」、あるいはまた、「それは私が捕らえるためです。そうするのは私がキリスト・イエスによって捕らえられているからです」。彼はこれらのことを例として述べており、他の信者たちにそうするよう促しているのです。

黙示録の最初の数章にある諸教会への手紙を見てください。これらの諸教会は主の民から成るものではなく、一般的・形式的・名ばかりで口先だけのキリスト教界を表しているにすぎない、と信じる者たちの一人では私はありません。それらは主が御手の中に握っておられる諸教会である、と私は信じています。それらは星々であり、主はそれらのただ中におられます。このようなことが全く主のものではないたんなる口先だけの教会にあてはまるとは私は信じません。ここでは、それらの諸教会は自分たちに対する主の願いよりも低い水準にあります。主は諸教会について考慮し、良い点を考慮されます――神の真の子供の来歴を考慮されます――諸教会がくぐり抜けてきたこと、耐えてきたこと、諸教会のそれまでの在り方、諸教会が行ったこと、諸教会の今の在り方について、まだ誉めるべきことがあります。しかし、主は決してそこにとどまることはできません。部分的なものを受け入れることはできません。諸教会がある地点に到達しただけでは、主は決して満足できません。それらの諸教会すべてに対して、主は勝利者に関する直接的な強い言葉を語られます。この問題について考え始めると、「勝利者」というこの言葉は――諸教会について述べられている言葉に照らして、そして特に、背教に陥ったわけではなく、自分たちの高い水準を維持しないで途中で敗れ去った者たちに照らして考えると――徹底的なもの、並外れたものを意味することがわかります。しかし、それには多くのことを超えて進む必要があります。「わたしはあなたの労苦とあなたの忍耐を知っています」。それ以上あなたは何を望むというのでしょう?それ以上神は何を望めるというのでしょう?「……ユダヤ人と自称しているがそうではない者たちをあなたは容認できない」。それ以上あなたは何を望むというのでしょう?主は全き御旨のために立っておられ、それに届かない何ものにも満足されません。主はそのために備えをしておられます。次のことは全く明らかです。すなわち、新約聖書は相違がある事実に注意してはいますが、「主がその相違を定められたのであり、この相違は主の意図を表している」という考えを決して許さないのです。

ですから私たちは、究極的に主は祭司の一団――それが何を意味するにせよ――を求めておられる、というこのことに直面します。レビ記八章は、それが何なのかを明らかにしています。この章の詳細をすべて扱うことはできません。それはとても包括的なものだからです。しかし、祭司の一団とは何かを明らかにする一、二の点に触れることはできます。

すでに見ましたが、それは主へと全く分離され、聖所の中に閉じ込められ、その主な務めが主に対するものである一団です。この務めは一つの思想によって全く支配されています。それは、より一般的な務めであるレビ人の務めほど規模は大きくありません。祭司が第一に考えるべきは主の満足です。そこには多くの違いがあります。祭司を支配しているのは、「自分は主のために働いて、主のために何でもしよう」という思いではありません。祭司が集中するのは、主ご自身の必要と願いに応えるもの、主を満足させるものです。それは主に対する務めです。

神の大きな喜び

さて、それの意味したことが、この懸案の章からわかります。モーセがアロンの息子たちの手をキリストの御業の両面を示すもので満たしたことに気づきます。キリストの御業の両面とは、すなわち、片方の面は贖いによって罪を取り除くこと、罪を全く取り除くことと関係していました。この面は、その道を旧創造や天然の人であるものから徹底的に清めるためであり、死の面です。次にもう片方の面を示すものとして、彼はかごから種なしパンを取り出しました。この種なしパンは主イエスの完全な罪なき人性を物語ります。古い人、罪深い人は取り除かれ、新しい人、キリスト、完全な人性がもたらされます。この祭司たちは手を満たしてもらいました。神が満足されるもので満たしてもらいました。これは主のための一般的奉仕の性質ではありません。主のための一般的奉仕には、天然の古い人から出たものがたくさんあります。それは主を満足させません。古い人の知性、意思、体、熱意、熱狂、企て、判断、観念の力が、ご自身の奉仕の中に入り込むのを、主は望まれません。実のところ、主を真に満足させるものは、その中にほんの少しの割合しかないのです。

祭司は遥かに高い立場に進み出ます。祭司が取るべきは霊的地位です。一方において、この霊的地位は十字架によって、天然の人からのものを、神の奉仕の中からすべて排除します。他方において、それは神に仕えることができるこの人なる御方をもたらします。これは単純ですが、これが神の啓示の根底にある諸々の法則であり、私たちはそれらの法則を理解しなければなりません。祭司は、祭司と称される人々のある特定の階級に属す人のことではありません。祭司は霊的地位についた人であり、この霊的地位についた人はだれでも祭司の務めを果たせます。この霊的地位の所在は、一方において、十字架によって天然の人が神の奉仕の中から取り除かれたことが理解されている所にあります。神が主権によって何を獲得されるかは、全く別の問題です。たとえ罪を犯している人が主のために働きを行っている時でも、主は主権的方法で何かを獲得されます。しかし、その人に関するかぎり、その状態に関するかぎり、それは決して主を満足させません。そして長期的には、自分がその状態の中にあった間、自分は決して主を喜ばせていなかったことに、その人は気づくでしょう。他方、祭司はキリストがすべての奉仕の基礎である地点、そこではキリストの力だけが適切である地点に達した人です。キリストは神の右手におられる人なる御方です。これを祭司は霊的に示します。

この同じ真理のさらなる絵図

これが霊的状態であることは、それを別の観点から見ればわかります。つまり、他の御言葉に照らせばわかります。子たる身分と祭司職は神の御言葉では同意語です。祭司はアロンとその息子たちです。祭司だったのはイスラエルの長子であり、レビ人がその長子の地位を引き継ぎました。そしてその後、この原則はさらに進んでアロンの息子たちにおいてその最高の表現形体に至りました。祭司職を常に支配しているのは子たる身分です。祭司職は子たる身分と一つです。型や象徴を離れて新約聖書に来ると、神の子供たち(children)と子ら(sons)のこの区別があることがわかります。不幸なことに欽定訳ではこれらの言葉は混同されており、区別されていません。改定訳ではこの区別がなされています。どうして二つの別の言葉を使っているのでしょう?それらは二つの別のものを表しているからです。子供(a child)は、ギリシャ語の用法によると、幼児であり、他方、子(a son)は成年に達し、家族の中で大人になり、責任ある立場に達した人です。主はこの二つの言葉を用いておられます。さて、これがへブル書三章と四章の根底にある点であり、引き続き五章に進んでも依然として祭司職について扱われています。五章では祭司職の表れの最も高度な型であるメルキゼデクに至りますが、使徒は「この方については述べるべきことがたくさんあります。しかし……」と言います!述べることができません。なぜでしょう?彼らは依然として幼児であって子ではないからです。彼らは依然として未熟であり、赤ん坊です。次に、この祭司職の問題について先に進むために、祭司職の真の意味を彼らに伝えるために、彼は「進み続けて成熟に至ろうではありませんか」というこの言葉を彼らに述べます。これは途方もない挿入句のようです。彼は祭司職について話しており、まださらに何かを述べようとしますが、阻まれて、言わずじまいです。彼はこの信者たちの未熟さによって障害に出会います。赤ん坊であることに何ら悪い点はありません。しかし、大人になっていてしかるべき時に赤ん坊でいるのは悪いことです。それゆえ使徒は中断して、「先に進め」というこの緊急の訴えをします。そしてそう述べたうえで、続けてまた祭司職について語ります。ですから、祭司団になるには霊的成熟に達しなければなりません。日毎に幼年期から遠ざからなければなりません。これは自然なことであり、恵みにかなっています。私たちは徐々に祭司の地位に近づいて行かなければなりません。

エペソ人への手紙の三章の終わり間近に、祭司の条件をよく表している言葉が書かれています。「こういうわけで、私は私たちの主イエス・キリストの御父に向ってひざをかがめます。この方から、天と地にあるすべての家族は名づけられています……(ここであなたは御父のもとに来て、祭司の家族を目にします)どうか御父が、彼の栄光の富にしたがい、力をもって、彼の霊により、あなたたちを内なる人の中で強めてくださいますように。またキリストが、信仰によりあなたたちの心の中に住んでくださいますように(ここの「住む」という言葉は「定住すること」、住まいを造ることです)。またあなたたちが、愛の中に根ざし土台づけられ(愛は常に祭司の特徴です。アロンについて最初に述べられたのは、彼の心に関してでした――主はモーセに『彼があなたに会う時、彼は心の中で喜びます』と仰せられました)、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、深さ、高さが何であるかを理解し(霊的知性が祭司の印です)、そして、知識を超越したキリストの愛を知ることができますように。また、あなたたちが神の全豊満で満たされますように」。これはみな何に導くのでしょう?読み続けましょう。「私たちの内に働く力にしたがって、私たちが求め、また思うすべてを、遥かに超えて豊かに行うことのできる方に、教会の中で栄光がありますように……」。確かにこれは豊満です!いつ教会の中に栄光があるのでしょう?祭司たちが自分の地位に就く時、祭司たちが自分の基準に達する時、祭司たちが機能している時です。

確かにこれはご自身の民すべてに関する主の御思いを私たちに告げます。主の民の間に区別を設けている箇所を探して、偉大な教会書簡であるエペソ人への手紙を覗いても無駄です。また、「今あなたたちの中には召されている人もいますし、そうでない人もいます」というようなことを示唆する箇所を探して、新約聖書やパウロのすべての書を覗いても無駄です。主の御思いは、すべての聖徒がご自身の豊かさに達することです。彼らがみな達するわけではないことを主はご存じですが、それにもかかわらず、主は御思いを変えて、「いいでしょう。わたしはあなたたちの何人かを免除します、そして、あなたたちの何人かがそこまで行くよう備えをします」とは仰せられません。祭司職は霊的な事柄です。ご自身の民に関する主の全き御思いの中を進んでいる一団は、主にとって価値があります。

主が求めておられるのは、ご自身の民を――彼らがご自身に応答する所ではどこでも――ご自身が願う最も高く最も完全な立場へと連れて行くことです。これにより、あらゆる方面で特別な価値と豊かさを有する務めが可能になります。もしこの道を進むなら、主のための何らかの奉仕を断念しなければならなくなる、とは思わないでください。私が耳にした話では、ある人々はこの類の事柄に対して、「主は伝道者になるよう私を召しておられます。教会に関するこの教えは私の興味を全く引きません。それは私の仕事ではなく、私と何の関係もありません。私はそれを理解できませんし、理解したくもありません。私の仕事が何か、主は全く明らかにしてくださっています」という反応をしたとのことです。新約聖書の中にそのようなことは一切ありません。もしあなたが全く霊的な意味で祭司なら、あなたは遥かに優った伝道の働き――それをこう呼ぶなら――をするでしょう。もし伝えるべきキリストの豊かさがあなたにあるなら、あなたがそれを伝える人は、直ちにその中に導かれるでしょう。私たちは、人々が主と共なる生活を始める最初の時に、さらに卓越したキリストの豊かさを彼らに伝える必要があるのではないでしょうか?クリスチャンである民の大勢は、再生されて十年、二十年、三十年、四十年たつのに、今日、再生された時から全く進んでいません。最初の時に、彼らにさらに伝えるものが何もなかったからです。だから多くの人は、「ああ、それが最初から示されていれば!」と言うのです。

これは自分を何らかの有益な奉仕から連れ出してしまう、とは思わないでください。それは、主にとって真に価値あるあらゆる種類の奉仕を強め、深め、豊かにします。主よ、私たちに理解力を与えてください。