第六章 聖霊の職務と御業

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ヨハネ十六・十二~十五、一コリント二・九~十六、十二・四~十四、二七

主は私たちの心を御霊による生活に向かわせてこられました。私たちが述べてきたことはみな、これと関係しています。聖霊の途方もない重要性を思い出させてもらうこと、それを常に心に留めておくことは、私たちにとって良いことです。私たちのためであるものはみな、今や、聖霊にかかっており、聖霊を離れては、全く何事も不可能です。主イエスご自身が、二つの大いに価値のあることを比較して、これを明らかにしておられます。すなわち彼は、ご自身が肉体をもって弟子たちと共に地上にとどまることと、ご自身が去って行って聖霊がその代わりの地位につくこととを比較し、後者を堅く支持して、「わたしが去って行くのは、あなたたちにとってよいことです。わたしが去って行かないなら、聖霊は来ないからです」と仰せられました。これは次のことを明らかに示しています。すなわち、彼の考えによると、聖霊が来ることは、ご自身が肉体をもってとどまることよりも、遥かに重要なことだったのです。

これに関連して、「あなたたちと共にここにいる間に話したいこと、話すべきことがたくさんあります。しかし、話すのはとても無理です。あなたたちには理解力がないからです」という言葉で彼が何を言っておられるのかがわかります。彼がどれほど長くとどまられたとしても、その理解力は変わる見込みも発達する見込みもなさそうなことは明らかでした。時間をかければこの困難を克服できるわけではありませんでした。彼らの内に何かがなされなければならなかったのです。それは肉身の彼ご自身ではなしえないことでしたが、聖霊来臨によって達成されることでした。その時、彼がずっと言いたかったことが伝わり、行いたかったことが果たされます。パウロが「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの(中略)神はそれらのものを御霊を通して私たちに啓示してくださいました」と述べているのは印象的ではないでしょうか。なんと明確にこれを使徒たちに見ることができることでしょう。それは主が正しかったことを示す著しい証拠であり、御霊来臨の最重要性を力強く示しています。ですから、私たちは御霊来臨の意味を知らなければなりません。

聖霊来臨の意味

私はこれを幾つかの断片に分けたいと思います。しかし、断片と言ってもかなりの内容があります。まず初めに、御霊来臨という直近の問題から離れて、事象の縁、周辺に下がらなければなりません。そして、そこには神の御旨、神の計画があることを思い出さなければなりません。これを私たちは知っており、信じています。そこから私たちは始めます。神には一つの偉大な構想(この言葉を使っても良いなら)、一つの偉大な計画、一つの偉大な御旨があります。それが動機で神はこの宇宙を創造されました。この計画と御旨には、広範に及ぶ包括的かつ緻密な秩序があり、諸々の器官や機能が関わっています。

これらの専門的に聞こえる言葉の意味を理解することが重要です。私たちは三つの言葉――秩序・器官・機能――を用いました。それらは神の宇宙とそのすべての部分に組み込まれています。神の宇宙の中心的存在である人自身の中に組み込まれています。人は中心的地位を占めています。そして、自分自身を見さえすれば、自分はこれに基づいて構成されていることや、自分の目的を果たせるかどうかは自分の存在が秩序を保っているかどうかにかかっていることがわかります。肉体または精神が秩序を失っているなら、使命は果たせません。肉体的秩序についてはよく知られており、体内の無秩序を取り扱うために一大科学が発展してきました。次に、機能と器官があります。神の宇宙は、その目的を果たすために、これらのものを備えています。

神の意図によると、見えるものは見えないものの示唆にすぎないことを忘れてはなりません。物質、可視的宇宙は一つのたとえであり、神の御言葉が明確に教えているように、地上の物事は、神の自然の秩序に従っているとき、霊的秩序の絵図となります。エペソ人への手紙の五章は、家族関係の問題でこれを明確にしています。そこでは夫と妻、妻と夫について述べられています。夫と妻が一つになること、その一つの徹底性、彼らの関係の性質は、次のことを明示します。すなわち、この関係は、それが正常なものである時、何か霊的なもの、キリストと教会の間の関係の絵図なのです。アダムとエバはキリストと教会の偉大な型です。御言葉の多くの文脈でこれを辿ることもできますが、もう一つの例を述べるだけにします。荒野の幕屋は天にあるものの模型であり、それ自体に意味があるわけではない、とはっきりと述べられています。

ですから地上に主は、天の秩序を描写する目的のために、一つの完全な秩序を制定されました。これらの絵図のどれかについて考えるなら、この三つのものが定着・支配していることがわかります。秩序に神は何とこだわっておられることか!もしその秩序を覆すなら、その目的を損なってしまいます。もしその秩序を犯すなら、その目的を無にしてしまいます。これは私たち自身の肉体構造によってかなり明確に示されています。宇宙においても同じです。万物の背後には神の一つの御旨、一つの計画があり、それには緻密な秩序・器官・機能が伴っています。

二番目の点はこれです。すなわち、この秩序が罪により、堕落により覆されたため、いわゆる天然の人には、神の御旨・計画を知るための器官・能力が欠けているのです。そして、それを知ることができないので、天然の人はその中で全く機能できないのです。とても多くのクリスチャンにとって、これを理解するには長い時間がかかります。しかし、この事実は明言されており、神にとってこの事実は決定的です。私たちがそれを理解してもしなくても、そうなのです。

三番目の点は、聖霊は神の御旨・計画・秩序をすべてご存じだということです。「神に属する事柄は、神の霊以外だれも知りません」。しかし、聖霊はご存じです。聖霊はあらゆる真理の中に導いてくださいます。聖霊はそれをご存じだからです。

現今の世界秩序は嘘、偽りです。聖霊はこの宇宙に関する真理をご存じです。それに関する神の考え、意図、思いを聖霊はご存じです。次に、その内容を聖霊はすべてご存じです。神の御心に応じる宇宙のための神の秩序がどのようなものか、聖霊だけがご存じです。神の御旨に関する器官と機能が何かご存じです。真理全体をご存じである聖霊は、それに専念しておられます。つまり、それが聖霊の仕事なのです。聖霊は神格の重要構成員であり、神の御旨全般と関係しておられます。聖霊はそれに専念しておられます。

四番目の点は、霊の人だけが神の御旨を知り、その中に入れるということです。

これは私たちを五番目の点に導きます。(今、私たちは周辺を離れて中心に進もうとしています。)それゆえ、御霊は人々を霊的にすることから開始されます。乱れた宇宙を再構成して、神の意図にかなう秩序ある統一体とするために、御霊はこの宇宙の周辺から開始するのではなく、中心から、すなわち人から開始されます。御霊は人々を霊的にすることから開始されます。つまり、ご自身の性質と力つまり賜物を人に与えることから開始されます。この霊的性質は人の霊を新しくし、その霊の中に人の霊の新たな命として内住します。そして、霊の賜物や霊の力を分与します。これらの賜物は様々ですが、直ちに私たちを霊的器官と霊的機能の領域の中に導きます。これが意味するのは、新生と、その結果である聖霊の内住により、私たちは生来持っているのとは別の器官を持つということです。知るための器官、理解するための器官、識別するための器官、判断するための器官、調べるための器官を持つのです。それだけではありません。生来持っていない、行うための能力、存在するための能力、獲得するための能力、達成するための能力を持つのです。これは私たちにとって大きな慰めにちがいありません。なぜなら、私たちが述べているのは、たんなる技能のことではないからです。天然の賜物や素質に関してもともと何が欠けていたとしても、神に属する事柄に関してそれがあなたにとって不利になることは決してありません。聖霊は賜物と力を与えてくださいます。そして、もともと欠けているものを補ってくださるだけでなく、天然が行える点を超えて進んでくださいます。

この五つの点は私たちをさらなる点に導きます。つまり、御霊による生活が絶対に必要であり、不可欠であるという点です。

ここに積極面の六つの点があります。しかし、もう一つの点を足してそれを七つにしないかぎり、この音階は霊的に完成しません。その点はどちらかというと消極面です。それは、御霊による生活には肉による生活を放棄する必要があるということです。

さて、霊的であるとはどういうことか、御霊による生活とはどのようなものか、聖霊に属していることがどれほど重大な問題なのか、私たちはある程度理解しました。主イエスはこれをご存じでした。それで彼は御霊の降臨を重んじられたのです。

霊の人の定義

少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿るように、と祈っています。

さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しい敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。「前もって手配されていたにちがいない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようには全く述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主にささげるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆する形跡は何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、きわめて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?

その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それがわかります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

これは難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの言葉から思い起こされるように、私たちは成長してそれへと至るのです。

外側の規則ではなく命の道である

前の黙想では祭司団について述べました。ここに祭司の諸々の特徴が示されています。シメオンは疑いなく祭司の機能を果たしていました。祭司職は役職ではなく、霊的なものです。真の祭司職は以下の事柄の基礎の上に構成されています。すなわち、御霊によって導かれること、御霊から教わることです。シメオンは子たる身分の真の霊の中にあります。それゆえ、霊的な意味で真の祭司です。

これは次のことを意味します。すなわち、もし主の民が霊的になりたければ、したがって、もし神の完全な御旨に至りたければ、何事にも命の道と聖霊の啓示によって入らなければなりません。これは物事の中に書物によって、あるいは伝統によって機械的に入るのとは異なります。ここに主の民が抱えている大きな必要があります。キリスト教はもう何世紀ものあいだ存在してきましたが、私たちが出会うキリスト教は、この世の中にある一種の型にはまった体制や体系です。そこでは、新約聖書の中にあるものをすべて拾い上げて、言わば、固定化されたもの、型にはまったものとして、この世の中へと体系化・投影しています。例えば、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい……」という命令を拾い上げて、一種の固定化されたものにしています。そして、その公認されたキリスト教組織に順応しようとするなら、だれでもそれを行わなければなりません。また、教会についての観念も、型にはまりきった形式的なものになっています。霊の事柄が固定化された機械的な体制や秩序になってしまいました。そして今や、それが伝統的キリスト教であり、それに同化して、それに合わせて行動するよう命じられます。これがおそらく、霊性に対する最大の障害の一つです。もしこれほど長い歴史がなく、直ちに初めに戻れたなら、状況は実に単純だったでしょう。そして、私たちはもっと早く直接的に真の霊的状態の中に入れたでしょう。しかし、私たちは始終、諸々の事柄というこの大きな重荷に苦労しています。まさにここに突破口が必要です。

いわゆるキリスト教は本質的に霊的なものであり、地的な体制や組織ではありません。その各部の中には霊的な方法で、命と啓示の方法によって入らなければなりません。模倣と命は全く異なります。ああ、ある事柄を客観的な方法で見ることと、命の中でそれにあずかることとは、何と異なっていることか!まさにそこに、事物の素晴らしさ、栄光、活力、エネルギー、力が見つかります。あなたはおそらく何年も、神の御言葉の中にある諸々の事柄について、御言葉どおりに語ってきたことでしょう。あなたはそれらを信じ、真理として公言してきました。しかし、何年もそうしてきた末に、突然あなたはそれらが意味するところを理解し、その事柄全体が別の形で臨みました。それ以前のあなたの話、宣べ伝え、信仰は、教理に関しては全く真実であり、全く正しくて正確でした。しかし、それはあなたにどんな影響を及ぼしたでしょう?今やそれはこのように様変わりし、真の喜びと楽しみ、命と興奮をもたらします。これが、命によって、啓示によって、事にあずかることです。言い換えると、それは御霊によって、見ることによって、事にあずかることです。

その時、エルサレムの他の多くの人々も入ってきて、この赤ん坊を見、おそらく、同じように振る舞えたでしょう。この赤ん坊を抱き上げて、祈りの言葉を唱え、祝福を求め、再び赤ん坊を下して、出て行くこともできたでしょう。そして、それっきりだったでしょう。しかし、この人は御霊によって入ってきて、ある発見をしました。この人の中には、ある霊的器官がありました。そして、彼は普通の人には見えないものに気づきました。「異邦人を照らす光、御民イスラエルの栄光」。シメオンは命によって、啓示によって、中に入りました。言い換えると、彼は御霊によって、あるいは御霊の中で入って来たのです。ご自身の民がこのような類の民になることを、主は必要としておられます。

これは神の御旨・計画全般、この計画の詳細全般にもあてはまります。ここで自分に対して述べられていることについて、いちいち頭を悩ませるべきではありません。私たちはこれらの事柄の包括的・基本的秘訣を得なければなりません。そうすれば、それはこのような形で成就することがわかるでしょう。もしこのような意味で私たちが霊的になるなら、もし聖霊が生活の中で現実に指揮しておられ、私たちが御霊によって歩いているなら、私たちは必然的に神のすべての御思いの中に入ることになります。ご自身の完全な御思いの中に入る一つの民を主は欲しておられます。それが可能なのは、彼らが外側の体制によって支配されなくなって、聖霊の中で神と共に歩むことがどういうことなのかを学ぶ時だけです。

この生活はとても壮大な生活です。それは神の偉大な御旨に至ります。私たちはその一部です。私たちは「御旨にしたがって召された者」です。私たちはこの御旨を知りたいと願っています。この御旨の中で自分の占める地位を知りたいと願っています。自分の器官、自分の機能を知りたいと願っています。これはどんな方法によるのでしょう?それらが何かを学ぶことによってではなく、命の中にあることによってです。私たちの人体の働きに関する科学的知識を得るのはとても興味深いことかもしれませんが、生きるのに必要ではありません。生きるなら、人体活動が生じます。次の呼吸をするかどうか考慮する必要はありません。座って、それについて悩む必要はありません。あなたは生きます。他のものはみなそれと結びついており、適切な順序で続きます。適切に呼吸することは、生きることと大いに関係しています。ですから、生きるなら、他のことはみなそれに続きます。これは、「聖霊の中で動き、生きなさい。そうすれば、神の御旨の計画と秩序が、ことごとく後に続きます」の言い換えにすぎません。あなたはその中に入る運命にあり、入らざるをえないのです。

このようにその目的は、主の民を主と共に歩むように導くことです。主に対して大きく開いており、主と共なる歩みが意味する一切のことのために整えられるように導くことです。時としてこれは、二次的性格を帯びた多くのものから離れることを意味します。おそらく、主と共に歩むために、多くの事柄を放棄すること、宗教的な事柄や、広く受け入れられているものさえも放棄することを意味します。それには代価が伴うかもしれません。誤解、孤独、その他の多くのものが伴うかもしれません。しかし、もしあなたが主に対して大きく開いており、他の何ものも問題ではないほどなら、そして、代価がどんなものでも、また、人々があなたのことを巨大なキリスト教体制・宗教的機械の一部と見なしてあなたに何を要求したとしても、神と共に歩むつもりでいるなら、あなたは花が太陽に向かって開くのと同じように自然に、神のあらゆる秘められたみこころの中に入るでしょう。そして、諸々の発見をなし、そこには夢見たこともない意義・可能性・能力・力の広大な領域があることを見いだすでしょう。

主はそれを私たちの前に広げて示したりはされません。御霊の中を歩む時、私たちはそれを発見するのです。

信者同士の関係性

この別の面についての短い御言葉に移ることにします。この面については、コリント人への第一の手紙の十二章で触れられています。

パウロはエペソ書で教会であるからだについて述べています。「彼のからだである教会」。これは会衆です。主の民のこの会衆は主の油塗られた器であり、主の御旨のためです。個々の信者が御霊を受け、御霊で油塗られるのが真実である一方で、主の油塗られた器であるのはキリストのからだ全体です。これはキリストが一つであるからであり、聖霊はすべての真の信者をキリストの中にもたらし、そうすることによってすべての真の信者を一つとされるからです。なぜなら、キリストは一つであって分けられないからです。言い換えると、これは「この油塗りは、言わば、各部に分配されるわけではない」と言うのと同じです。この油塗りは一つの油塗りです。私たちはみな一つ御霊の中で一つからだへとバプテスマされています。主は諸々の事柄を天からこのように見ておられます。主はこの一つの団体的実体を、一つの油塗りの下にあるものと見なしておられます。これは真の教会は本質的に霊的であることを意味します。なぜなら、教会は内住の聖霊によって構成されているからです。その性質は霊的であり、霊の人について述べたことがみな、神の御心にしたがっている教会にも言えます。これは重要です。それは神が油塗られた器であるこの会衆と密接に関係している実際的価値のためです。

この第一の実際的価値は命です。私たちが述べようとしていることを裏付ける経験を、あなたは一度もしたことがないかもしれません。それゆえ、今はその重要性がわからないかもしれません。しかし、これをあなたの心に留めてください。なぜなら、もしあなたが主と共に進み続けるつもりなら、あなたはこれと出会い、これを必要とするようになるからです。命は神が油塗られた器であるこの会衆と結びついています。聖霊の交わりの意義を理解してその上に立たなければ――聖霊の交わりとは信者同士の交わりです(聖霊と私たち自身の間の交わりであるだけでなく、すべての信者の間の聖霊の交わりでもあります)――私たちは損なわれるでしょう。こういうわけで、パウロはいわゆる祝祷をコリント人への手紙の最後に置いたのです。どうして彼がそれを最後に置いたのかは全く明らかです。

「私たちの主イエスキリストの恵み……」

これは、コリントで起きていたすべてのことを正すものでした。彼らはなんと知恵を求め、なんと諸々の賜物の問題を最重要視していたことか。次にパウロは十三章に至ります。「たとえ私が人々や御使いたちの異言で語ったとしても、愛がないなら、私は鳴り響く鐘や騒がしいシンバルになってしまいます」。たとえ私がこれらの賜物――預言、信仰等々――を持っていたとしても、愛がないなら――何だというのでしょう?大事なのは賜物ではなく、恵みです。そこで彼は「私たちの主イエス・キリストの恵み……」と結論付けました。

「……神の愛……」

そこには多くの分派があります。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロにつく」と言い、また別の人は「私はペテロにつく」と言います。原因はです。パウロは「神の愛」について語ります。

「……聖霊の交わり……」

あなたたちはみな六章と七章の状況にあります。ある人は、世人の前で、同じ会衆の別の人を訴えます。これは決して聖霊の交わりではありません。そこでパウロは言います、「……聖霊の交わりがあなたたち一同と共にありますように」。

これはそれよりももっと簡単な方法で試せます。あなたがへとへとで、疲れ切り、落胆している時、一時間のあいだ主の民に加わるなら、どうなるでしょう?その日を新たに始めることができるのです!それはあなたにとって命を意味します。それは霊の命です。それは主の定めであり、命は霊的な会衆と結びついています。なぜなら、それは主が油塗られた器だからです。悪魔の最大の狙いの一つは、主の民の命を損なうことです。それは彼らを散らし、分離・孤立させることによってです。これは次のことを意味します。主が二人または三人、もし可能ならさらに多くの人を得られるとき(最低限は二人です)、個人の力よりも強い力が生じるのです。

満ち満ちた豊かさはこの会衆と結びついています。聖霊の中にある、現実の、生き生きとした、霊的な会衆を得るとき、なんという拡大があることでしょう。光の中で、命の中で、なんと主が増し加わることでしょう。孤立、分離には、なんという制限の危険性があることでしょう。

均衡と釣り合いの問題

集会生活における主の民の交わりに関して、もう一つとても重要な問題があります。それは釣り合いの問題です。孤立や分離は、通常、不均衡な状態、釣り合いの欠如、何らかの極端さという結果になります。それは危険なものであり、正しくないものです。交わりを保つなら、均衡は保たれます。私たちは、互いに安全であるために、均衡・釣り合いを保つために、互いを必要とします。霊的な民が均衡の崩れた状態になる危険性に陥る時、主の矯正手段は、神の他の子供たちに対する調整を新たにさせることです。それは交わりの真価を認めて、それを享受するようになるためです。

これは、集会生活の背後、主の民の実際的関係の背後には、途方もない重要性と意義を持つ、天的な、永遠の、霊的事柄があることを、なんと示していることでしょう。主は、ただそのためだけに何かを行うことは決してなく、常に何か他の重要な決定的関心によって支配されておられます。会衆には多くの肢体がいるので、キリストの度量も大きくなることは明らかです。

聖霊がペンテコステの日に臨まれた時、その直接的結果の一つは、彼らが交わりの中に居続けたことでした。交わりは聖霊の結果です。その結果は命です。アナニヤとサッピラはこの交わりの原則を破ったので死にました。死はその方面にあります。命は交わりの中にあります。それは力であり、満ち満ちています。御霊が降臨された最初の時、これらの印がみなそこにありました。均衡と釣り合いが取れていました。それは、肢体たちが共にいたおかげで、キリストの度量が広がっていたからです。

これはまさに、油塗りの度量の拡大を意味します。私たちが個人的に知ることができるのは、油塗りのほんの少しの度量だけです。しかし、私たちが一緒になるとき、この度量は増し加わることがわかります。油塗りは主ご自身の臨在です。油塗りは神ご自身が来臨されることであり、神がご自身をお委ねになることです。こういうわけで、「二人または三人が共に集められている所には、わたしもそこにいます……」と記されています。

これにより数々の疑問が生じるかもしれませんが、私たちは今、御霊による生活の諸々の法則を据えているところです。その結果をあなたは証明しなければなりません。もし主と共に進み続けるなら、もし霊的であるなら、もし御霊によって導かれているなら、もし御霊によって中に入りつつあるなら、もし生活が全く御霊に明け渡されているなら、あなたはこれに達するでしょう。それは遅々としたものかもしれませんし、あるいは、あなたはその中に飛び込むかもしれません。いずれにせよ、あなたは必ずこれに達することになります。これが神の御言葉の背後にあるものです。それは天的で永遠のものです。内的意義を持たないたんなる外側の形式とは、なんと異なっていることでしょう。

どうか主が御言葉に関して私たちの心を守ってくださいますように。