第七章 神の究極的御旨に対する御霊による生活の関係

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:へブル一・一~三、二・五~十二、三・一~二、七~八

このへブル人への手紙の重要性はますます増していくように思われます。これは私たちが持っている最も重要なものの一つである、としばしば私は思います。ここにいくつかの句を挙げてあります。これらの句はこの手紙に対する鍵です。それだけでなく、この手紙よりも遥かに重要なものに対する鍵でもあります。

二章五節に「私たちが語る来るべき世界」とあります。あるいは、さらに直訳すると、「私たちが語っている」です。その途方もない意味に感銘を受けないでしょうか?「あなたは何を考えているのですか、どうしてこれを書いたのですか、あなたの記述全体を支配しているものは何ですか」と尋ねるなら、使徒は「私たちが語る(私たちが語っている)来るべき世界です」と言うでしょう。この手紙に記されていることはみな、これと関係しています。それは私たちに、来るべき世界――神はこれに御心を定めておられます――だけでなく、その世界の統治権をも確保するための、神の方法と手段をすべて示しています。ですから、この手紙で述べられているのは、来るべき世界の主権についてであり、この手紙によると、私たちはこの神の御旨と関係しているのです。

これを分解して、生じるいくつかの点について見ることにします。

神の当初の御旨

これは一章と二章に明確に示されています。神は特別な構想を持っておられました。それは、人を造ってご自身の思想を表現させること、つまり、人に被造物に対する支配権を持たせることでした。「人は何者なので、あなたはこれを御心に留められるのですか?人の子は何者なので、あなたはこれを顧みられるのですか?」。この後半の句は、さらに直訳すると、「あなたはこれに言及されるのですか」となります。「あなたは、少しの間、彼を御使いたちよりも低いものとされました。あなたは彼に栄光と尊貴の冠を与え、御手のわざの上に立てられました。あなたは万物をその足の下に服従させられました」。これが神の意図でした。これが神の永遠の御旨の中に含まれていました。すなわち、人に被造物、世界に対する主権を持たせることです。これが神の当初の御旨でした。

次に、堕落という大きな悲劇が起きます。人は神の御旨の完全な基準に決して到達できません。人はそれに取りかかりましたが、その最初の段階で堕落して、保持していた地位だけでなく、保持するはずだった地位をも失いました。私たちは、人の堕落とそれに伴うすべての結果に直面しています。こういうわけで、この手紙が次に示すのは、当初の意図・御旨の実現です。

当初の意図・御旨の実現

これは(1)御子の受肉、(2)御子の償い・贖いの御業という手段によって実現されます。「神は(中略)この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。(中略)御子は罪の清めを成し終えてから、高き所におられる大能者の右に座られました」。神は御子にあって当初の御旨を実現されます。

そこで使徒は言います、「しかし、人自身に関するかぎり、万物が人の足元にあるのを私たちは見ていません。神の当初の御旨が人において実現されるのを私たちは見ていません。ただ、人なる御方、神の御子、神の御子であり人の子でもある御方が、死の苦しみにより、栄光と尊貴を冠として与えられたのを見ています。また、代表者である彼に関するかぎり、万物が彼の足元にあるのを見ています」。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座していなさい」。これは御子に対して述べられています。「私たちはイエスを見ています」。この受肉の称号、人の子の称号は、常にこの神聖なパースンの人性と関係しており、それがここで用いられています。ですから、第二に、この当初の御旨がキリストにあって受肉と十字架を通して実現されたことがわかります。

次に生じる第三の点は、子らの天的召しと協力関係です。

子らの天的召しと協力関係

「ですから、聖なる兄弟たち、天の召しにあずかっている者たち(天の召しにおける協力者たち)よ。私たちの告白する使徒また大祭司のことを、よくよく考えなさい」。使徒は後ほど言います、「もし私たちが最初の確信を最後までしっかりと保つなら、私たちはキリストと共にあずかる者となるのです」(改定訳、欄外)。これは、キリストとの交わりの中で来るべき世界を支配する主権を意味します。この主権は、来るべき地に対するものだけではありません。裁きによって追放・一掃されて居場所をなくすことなくその世界にいるのは良いことであり、素晴らしいことです。しかし、この御言葉が述べているのは、それだけではありません。その世界を統治することをも述べているのです。これは、さらに優ったものです。そこにいる人がみな、統治するわけではありません。来るべき世界を統治するために召し出されるのは、この特定の経綸の人々です。その世界を統治する手段となるのは教会です。キリストが統治を遂行されるのは、彼のからだを通してです。火による清め・刷新・清算の後、新しい天にいて新しい地と関係を持つのと、来るべき新しい地にいるだけなのとでは、違いがあるのです。罪が人類の中に入り込んで人類を混乱させただけでなく、宇宙は大きな騒乱状態にあること、そのため、この宇宙におけるこの世界の立場も狂ってしまったことは、明白であるように思われます。空中の権を持つひとりの君がいて、大気圏と大きな関係にあります。これはみな取り除かれます。新しい天と新しい地が到来します。その新しい地は素晴らしい地でしょう。そこには諸国民がいるでしょう。しかし、そこには天の都、新しいエルサレムがある、とさらに告げられています。これは比喩的表現にほかなりません。それは教会の絵図であり、諸国民はその光の中を歩みます。それが見せているのは、この都の行政です。

これが天の召しです。エペソ書とピリピ書を書いた時点で、使徒パウロはたんなる救いよりも優るものの存在を十分な形で見るようになっていたようです。一つの節だけ思い出すことにします。ピリピ人への手紙第三章のよく知られている節です。「後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって身を伸ばしつつ、キリスト・イエスにあって上に召してくださった神の賞を得るために、目標に向かって進み続けています」。自分の救いを確保するために何かをする必要はパウロには全くありませんでした。彼は、来るべき世界の住人になることよりも優ったものを垣間見たのです。彼はキリストとの御座における合一を見ました。「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの座に座らせよう」。これが教会の召しであり、ここで天の召しが意味しているものです。

使徒は、自分が言わんとしていることを説明するために、一つの歴史的出来事を示します。彼は私たちを荒野におけるイスラエルに、良き地に入ることに失敗したあの世代に連れ戻します。そして、彼らに成就した警告の言葉を思い起こさせます。「ですから、聖霊も仰せられるように、『今日、御声を聞いたなら、神を怒らせた時のように、荒野における誘惑の日のように、あなたたちの心をかたくなにしてはならない。あなたたちの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも四十年のあいだわたしのわざを見た。こういうわけで、わたしはこの世代を嫌悪して言った。(中略)わたしが激怒して誓ったように、彼らを決してわたしの安息に入らせない』」。その世代は過ぎ去り、次の世代が良き地を得ました。その地の人々は彼らに服しました。これに使徒は絵図という手段で言及しているのです。来るべき世界は、今日この天の召しに召されつつある人々の支配下に置かれます。主は仰せられます、「あなたにはわたしの声が聞こえますか?聞こえるなら、あなたの心をかたくなにして、わたしの意図を見失ってはなりません」。神の意図は来るべき世界の主権です。ですから、これが、この召しとこの御声の意味であり、キリストとの協力関係の意味です。

子らの訓練

この御旨とこの召しに関連して、この手紙に次に現れる点は子らの訓練です。この召しは子たる身分によって実現されることになりますから、もし子たる身分に到達したければ、訓練を受けなければなりません。こういうわけで、使徒は子たる身分を基調として手紙を始め、その音色を何度も響き渡らせ、これに関連する「兄弟たち」という言葉に繰り返し言及し、その後、十字架の偉大な贖いの過程、償いの御業、祭司の働きについて述べて、人の贖い――それは人が神の当初の御旨に立ち返れるようになるためです――に関連するすべての点を取り扱った後、十二章に到達し、子たる身分の問題をその訓練に関して取り上げます。ここでは、あなたたちは子として取り扱われており、「これはあまりにもたいへんな訓練、懲らしめであり、あまりにも奇妙な経験、試練である」と思いそうになります。しかし、少し待ってください。来るべき世界の主権、キリストとの協力関係、そして栄光と尊さを意味することになるものはみな、懲らしめと訓練によります。主は「受け入れる子をすべて鞭打たれる」とパウロは述べています。これは神の子供としての私たちと関係しているだけでなく、それ以上のことを意味します。ギリシャ語本文ではこの点はとても明確であり、「受け入れるすべての子」(あるいは直訳すると、地位につける)となっています。子(son)は子供(child)よりも優っています。子(son)は家で成年に達した者であり、子供(child)は家に生まれた者です。子たる身分(sonship)に達すると、父親は子(son)を誉れと責任を伴う地位につけます。私たちはだれかのことを「自分の右腕」と言いますが、聖書は「右手の子(son)」について述べています。

この問題について、使徒はさらに述べています。「懲らしめを耐え忍びなさい。神はあなたたちを子(sons)として取り扱っておられるのです」。これは「主はその愛する者を懲らしめられる」という前の見解に続くものです。それから使徒は続けます、「その上、私たちの肉の父は私たちを矯正するのに、なお彼らを敬うとするなら、なおさら、私たちは私たちの霊の父に服従して、生きるべきではないでしょうか?」。御父は私たちの霊を取り扱っておられます。霊を発達させられた人たち、霊的に成熟に達した人たちが統治することになるのは、来るべき世界においてです。この人々が来るべき世界を治めることになります。これは、御霊による生活と神の究極的御旨との間の関係という私たちの主題の直近に私たちを導きます。問題は霊的教育、霊的発達の問題です。

子たる身分が人に対する神の御旨を規定する

さて、これに関連してさらに一、二点言うべきことがあります。第一は、この「子(son)」や「子たる身分(sonship)」という言葉は、人を創造した時に神の御心の中にあったものを私たちのために規定している、ということです。人は人ですが、神がこの特定の御旨のために目指しておられるのは完全な意味における人であり、完全な意味における人が「子(son)」という言葉で示されています。さて、私たちが「神はご自身を代表する者を得ることを望まれた」と述べた時、何を言わんとしていたのか、あなたは理解されたでしょう。神が「われわれのかたちに、われわれの姿に似せて、人を造ろう」と仰せられた時、それは言い換えると、「われわれを代表する者を造ろう」ということだったのです。

これがどれほど私たちのために様々な方法で物事を解き明かしてくれるのかがわかるでしょう。例として、一人の代表者をどこかの領域、あるいはその領域の一部に遣わすことを考えましょう。その代表者は私たち自身としてそこにいます。彼は物事に関する私たちの思いを持っています。物事に関して私たちに由来する権威を持っています。彼がどう取り扱われるかが、私たちがどう取り扱われるかです。私たちは一つです。これこそまさに、預言者たちに関して旧約聖書中に頻出する、「人の子(Son of man)」という句の意味です。その文脈を見ると、神がご自身の代表者にあって語っておられること、その預言者たちが受けた取り扱いを神はご自身に対する取り扱いと見なされたこと、「人の子」という句はまさに「代表者」を意味することがわかります。神は来るべき世界をひとりの代表者、ひとりの団体的代表者によって統治されます。

ですから、代表権は子たる身分によります。次のことを覚えておきましょう。子たる身分を得るのは、成熟に達して責任を負うようになる時であり、人の子(man's son)の完全な意味は父親を代表する者ということなのです(これは特にギリシャ人の間でそうでした。彼らはこの句を直ちに理解したでしょう)。私たちは時々、子(son)のことを子供(child)として述べることがありますが、言わんとしていることはわかります。しかし、ギリシャ人の間ではそんなことは決してありえませんでした。父親が成年に達した自分の子(son)のことを子供(child)として述べるのは恥ずべきことだったでしょう。子供は成年に達すると、責任と信頼と誉れを伴う地位に置かれました。なぜなら、今や、成熟した者、完全に成長した者と見なされたからです。幼年期よりも優る子たる身分は、代表権を表しています。神は御子(His Son)にあって代表されており、この御子は多くの子ら(sons)を栄光へと導かれます。子たる身分は、キリストと成熟に達したその肢体たちとを表す包括的言葉になります。彼らは来るべき世界を統治します。

子たる身分に固有の主権

この手紙の中にきわめて明確に現れるこのさらなる点があります。それは主権・統治は子たる身分に固有のものであるということです。この二つは同行します。もし私たちが「神が万物の相続者として定められた」神の御子の中にあるなら、「私たちは共同の相続人」です。私たちは神の御子の交わりの中へと召されています。しかし、私たちがその地位を霊的知性、霊的成長、霊的成熟のゆえに得られるようになるために、彼は私たちと共に働いておられます。この手紙を読み通せば、嗣業や相続権といったものは常に子たる身分と関係していることがわかります。

子たる身分と主権によるこの代表権にも、いくつかの特徴があります。

第一に、それは復活の立場と関係しています。主イエスは生まれた時から神の御子だった一方で、復活において特に神の御子として定められました。これを使徒は強調してはっきりと述べています。文字どおりには、「聖潔の霊によれば、死者の中からの復活により神の御子として定められた」と彼は述べています。復活の立場は、肉からのものがすべて取り除かれた立場です。復活の立場の上で、子たる身分が視野に入ってきます。ですから、子たる身分は、その中ではすべてが神から発する関係を物語ります。主イエスの生涯が示す子たる身分について見るとき、これはまさに神の御子である彼にあてはまることがわかります。

これは次の点に導きます。すなわち、子たる身分による代表権は聖霊による、という点です。私たちからのものは何もなく、すべては御霊からです。ここに御霊による生活と神の御旨との関係があります。子(son)はあらゆることで御霊によって支配されている者です。「なぜなら、だれでも神の霊によって導かれている者は、神の子ら(sons of God)だからです」。

次に三番目の点が来ます。子たる身分と主権によるこの代表権は、神の秩序の中にあります。秩序はここでは大きな問題になります。この神の秩序は、まず、かしらであるキリストへの服従を意味し、そして、私たちの霊の父が私たちを取り扱われるとき彼に服従することを意味します。無秩序とは、もちろん、神の事柄において自分が何らかの形で統治・支配することであり、主が訓練のために自分を取り扱われるのを拒むことです。これは初っ端からすべてを台無しにします。このような状態がはびこっている所では、神は決して御旨を達成できません。

順応性の必要性

もう一つの点は、私たちの側に順応性が必要とされることです。これは神にとってとても重要な点です。私たちに順応性はあるでしょうか?神の御言葉の中には、順応性の原則に関する多くの例や絵図があります。使徒は奉仕に関して、「霊の新しさの中で」と述べています。その意味を知っている人がいるとすれば、彼がまさにそうでした。救われる前の昔の時代の彼の霊を見てください。それは個人的支配、個人的敵意の霊でした。しかし今、彼は奉仕についてこのように「霊の新しさの中で」と述べています。パウロはもはや「自己の霊」、タルソのサウロの強い自己意思の中で仕えてはいません。そこには新しい霊があり、彼の奉仕の中に霊の新しさを見ないわけにはいきません。要点は、彼には順応性があったということです。タルソのサウロが自分を低くして、「主よ、あなたはどうされるのでしょう?」と言うまで、主は何もできませんでした。タルソのサウロがかつてそのような心境になったことがあるかどうかは疑わしいです。何度も彼は調整しなければならなかったように思われます。彼はビテニヤに入って行こうとしました。もしタルソのサウロをその立場に置いたなら、彼は行っていたでしょう。そして、だれの導きも求めなかったでしょう。しかし使徒パウロとして、御霊の導きがそれに反対しているのを彼は知りました。それで彼は行きませんでした。さらに、彼はアジアに入ろうと思いましたが、聖霊に禁じられたので行きませんでした。その後、この内なる抑制を彼が意識していることがわかったので、主は別の行路を示されました。パウロはその行路を受け入れました。彼には順応性があったのです。

例として、十一人の弟子を挙げることもできます。この人々の順応性、彼らが復活の主にどう順応したのかがわかります。彼らは王国に関するとても強い観念を持っていました。そして、最後まで、主が彼らと共におられた時ですら、「主よ、あなたが王国をイスラエルに回復してくださるのは、この時ですか?」と依然として言っていました。彼らは主の返答に立腹して立ち去ったでしょうか?彼らはエルサレムに戻り、先延ばしにして、そこで待ち、その新しい状況に順応しました。

これが、ヘブル人への手紙とガラテヤ人への手紙全体の中に記されています。それは、新しい立場に順応する一つの事例です。このヘブル人たちはユダヤ教の中で、宮の奉仕の厳格な課程の中で育てられました。今、使徒は彼らに告げます、「キリストは、そこに記されていることをすべて成就されました。キリストがすべての予型の本体として来臨された以上、それらの予型は用済みです。もはや宮も、祭司もありません。もはやいけにえはなく、そのようなものはもはや全く神の眼中にありません。この御方にあって、それはすべて成就されて、除き去られました」。これは、彼らが順応しなければならないことを意味しました。大事なのはもはや地的体系ではなく、天的体系でした。イエスの御名の中に共に集められることが宮でした。いけにえは主イエスの贖いの御業の中に集約されています。同じように祭司職も、天におけるキリストの祭司の働きの中に集約されています。天で彼は絶えず生きていて、とりなしておられます。この問題は、神は私たちと共に何を行えるのか、何を用いられるのか、私たちの順応性によって御旨に至るための自由な道を得ておられるのか、ということに尽きます。

これはみな、御言葉の中にとても明確に示されています。しかし、私たちに適用される時になると、それはとても実際的な問題になります。主の民の多くは、真理に順応するのを思いとどまります。それはしばしば、自分が「とても重要であり、とても尊いものである」と見なしてきたものとの断絶を意味します。結局のところ、それは自分の思い込みだったことがわかります。神の目から見ると、それは自分が思っていたような地位を全く占めていなかったのです。そのため、それを後ろに残していかなければなりません。それよりもさらに高く、さらに完全なものに、さらに霊的で天的な観念に、私たちは順応しなければなりません。

このヘブル人信者たちにとって問題だったのは、新しい状況に適応するには、エルサレムの宮はもはや神の眼中にはないことを理解して、それを過去のものとして視界から去らせなければならないことでした。その奉仕は今や、すべて終わらされて、キリストの中に集約されています。したがって、彼らにとって、宮とそのすべての奉仕は終わったのです。彼らがそれから離れるとき、何が起きるでしょう?ユダヤ人社会全体が、背教者である彼らに反対するでしょう。ですから、使徒パウロはこの問題を提起して、「ですから、そしりを耐え忍びつつ、宿営を出て、彼のみもとに行こうではありませんか」と言います。起きるのはこういうことでしょうか?その代価はこれなのでしょうか?宿営を出ることをそれは意味するのでしょうか?どんな宿営でしょう?おそらく、広く受容・認知されている宗教規定という宿営でしょう。彼らはそしられるでしょう。どんなそしりでしょう?彼のそしりです。私たちには順応性があるでしょうか?もし代価のゆえに立ち止まるなら、私たちに順応性はありません。そして、もし順応性がなければ、神は目標に達することができません。神の目標は来るべき世界に対する主権です。

私たちの召しがわかります。その召しに到達するのに何が必要かわかります。そして、この偉大な包括的事柄、すなわち、御霊による生活、聖霊の統治下にある生活がわかります。ああ、この偉大な目標、この経綸を支配している御旨の光は、なんという促しと励ましを与えてくれることでしょう。その御旨とは、すなわち、諸国民の中から一つのからだを確保して、そのからだに属さない贖われた諸国民を統治させ、来るべき世界を支配させることです。

これをもっとよく調べて、これが正しいかどうかを確認してください。きっと、これこそ天の召しであることがわかるでしょう。