第八章 団体的器

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ローマ一二・三~八、一コリント一二・四~七、エペソ一・二二~二三、四・一五~一六、コロサイ一・一八、二・一九、一テモテ四・一四、二テモテ一・六

私たちの前の黙想に続けて、その反対側の面、団体的な面について述べるべきことが残っています。それは、教会に関する神の究極的御旨に対する御霊による生活の関係です。御言葉が示していることを理解するなら、私たちが述べたことは個人的なものだけでなく団体的なものでもあることがわかります。

教会には二つの称号・名称があります。私が思うに、それらは数々の名称の中で最高のものです。第一は、一コリント一二・一二にある「そのキリスト(the Christ)」です。この節を読むとき定冠詞を維持しなければなりません。「体が一つであるように(中略)そのキリストもそうだからです」。これは教会の最高の名称のように思われます。もう一つはエペソ二・一五にある「新しい人」です。これらは両方とも、「彼のからだである教会」という他の名称によって示されています。パウロが意味するところによると、このからだは団体的に表されたキリストです。また、それは「ひとりの新しい人」です。

この二つの名称――「そのキリスト」と「ひとりの新しい人」――は、代表権という観念全体を示しています。そして、それは今やここでは、もっぱら団体的なものとして示されています。私たちは個々の信者の中におられる子たる身分の霊について多く述べてきました。しかし、それよりも遥かに完全な意味で、子たる身分の霊は教会の中におられます。私たちが一つからだの中へとバプテスマされたのは一つ霊の中でであり(一つ御霊によってではありません)、子たる身分の霊の中でです。

これは、個人がからだの中でからだに服することの重要性を意味します。使徒が「私に与えられた恵みにより、私はすべての人に勧めます。各人は思うべき限度を超えて思い上がってはなりません。私たちは互いに肢体だからです」と述べた時、彼はこれに導いていたのです。一つのからだがあり、私たちは互いに肢体です。そして、個人をこのからだに優るもの、それ自身に意味があるものとして、このからだよりも重視してはなりません。使徒が完全に明らかにしているように、個々の信者は重要であり、とても重要なのですが、この個人の重要性が突出してはなりません。

これは私たちを、神の御言葉の中に示されている、キリストのからだの偉大な真理のもう一つの決定的な面に導きます。それは、聖霊とからだの中の秩序です。

聖霊とからだの中の秩序

聖霊によるパウロのこれらの書を、そこに見られる事実という光に照らして、あるいは、それらに出会う状態という光に照らして読むとき、息を飲まずにはいられません。このからだに関してパウロが持っているのは、驚くべきビジョンです。それらを読む時、これらの事柄から一歩下がって見さえするなら、これは驚くべきことであるか不可能であるかのいずれかであると感じるでしょう。多くの人は降参して後者の結論に至りました。

パウロはここで教会、キリストのからだを、次の二つの特徴と共に示しています。すなわち、すでに完全であって、すでに機能しているものとして示しているのです。彼は現在形で語ります。「からだ全体が、しっかりと組み合わされ結び合わされ(中略)増し加わって行きます」。このからだは一つです。彼は教会について、まるでそれがいつの日かしっかりと組み合わされるようになるかのようには述べていません。彼は教会について、すでに完全なものとして述べており、さらに注目すべきことに、今すでに機能しているものとして述べています。「このかしらから(中略)からだ全体が、しっかりと組み合わされ結び合わされ(中略)増し加わって行きます」。あなたはこれに息を飲み、幾つかの問いを発して、それに関する結論に至らずにはいられません。実際のところ、私たちが目にしているように、このからだはしっかりと組み合わされていません。それは混乱の中にあり、無秩序の中にあります。このように調整されているもの、このように関係しあっているもの、このように完全に組み合わされているものの表れである、と称しうるものに出くわすことは、稀にしかありません。それとは反対のものに遥かに多く出くわします。完全に組み合わされている二人の人を見つけるのはほとんど困難です。それでもパウロは、そのようなものであるからだ全体について語ります。私たちはそれについて、「理想論であって、不可能だ!」と言います。私たちの見るところ、それは確かにそうではありません。パウロはこれらの言葉を数百年前に記しました。まるで教会は当時そのような状態であったかのようです。そして、パウロ自身の時代の状態を見て、コリント人とガラテヤ人への手紙を読みさえするなら、彼の観念と現実の矛盾した状態とは異なることが分かります。

それは不可能なことではありません。もしパウロが見た通りに私たちもそれを見るなら、きっと私たちも同じ事を言うでしょう。キリストのからだである教会についてパウロが見たのは、明らかに霊的なものであって、時間に属するものではありませんでした。彼は教会を下からではなく上から見ました。彼が見ていたのは信者たちの人間的な面ではなく、争いや軋轢を生じさせる信者に関する面でもありません。適応性、交わり、一体性の破損や欠如を見ていたのでもありません。彼はその内なる関係性を見ていたのです。

これは説明するのが最も難しいことの一つです。私たちはそれを理解できますし、パウロが言わんとしたこともわかります。そこにそれに対する鍵があります。その鍵とは、キリストは一つであるということです。キリストの中に争い、軋轢、分裂、分派はなく、あるのは完全に調和のとれた、秩序ある命です。キリストの霊である聖霊――それゆえ聖霊はキリストであるものと完全に一つです――は、キリストをそのすべての肢体に分配されます。彼ら自身がいかなる者なのかということと、キリストが彼らの中でいかなる者なのかということとは、別問題です。キリストは、私たちの人性のこのすべての争いの中に入って来られますが、それによってその性質を帯びるわけではありませんし、御自身の完全な調和と一体性を失うわけでもありません。私たちの内におられるキリストからのものが、一つの方法で、一つの目的をもって、一つの事を成し遂げつつあります。明確に定められた計画を為しつつあります。それは完全に一つであり、完全に関係しあっています。あなたに与えられているのはキリストの一つの面、一つの特徴であり、他方、私には別の特徴が与えられており、三番目の人にはまた別の特徴が与えられています。しかし、これらの特徴すべてがひとりの完全な人を構成しており、この目標のために必要です。もし私たちが御霊の中に生きているなら、もし私たちの生活が御霊の中にあるなら、私たち自身がいかなるものであれ、私たち全員を通してキリストのあの完全な一つが存在することになります。すなわち、キリストからの何かが一人一人の中に働いていることになります。それは、他のすべての者たちの内におられる彼と関係しているものであり、キリストを完全に表現します。

これがパウロの見たものであり、私たちが見なければならないものです。このように使徒はコリントの状況を調べました。ある人は「私はパウロにつく!」と言い、別の人は「私はアポロにつく!」と言い、また別の人は「私はペテロにつく!」と言いました。パウロは「キリストは分けられたのですか?」と言いました。彼が言わんとしたのは、「それはあなたであって、キリストではない」ということです。あなたは真理を犯しており、現実を損なっています。現実は、キリストは一つのままであるということです。あなたは自分自身のうちに生きているので矛盾しているのです。しかし、キリストが一つである事実は残ります。このような一連の状況を放棄して、キリストの立場の上に来るなら、あなたはこの偉大な事実の中に入るでしょう。

このようにパウロは、まるで天から見ているかのように、万事――私たちが目の当たりにしており、教会・キリストのからだ・主の民らしきものとして私たちの前に現れるすべてのもの――を透視しました。彼はまるで天から見ているかのように、この事実、この現実を透視して、教えました。それは何でしょう?それは、キリストは一つであるということです。また、彼は御霊により御自身の様々な特徴や御自身のパースンの様々な面を与えておられるけれども、御自身を分裂させることはなさらないということです。彼は一つのままです。そして、この一つは私たち自身が知っているものよりも深いのです。たとえ神の子供である私たちが分かれて互いに敵対しあっていたとしても、キリストのこの一つは残ります。

パウロはそれ以上のものを見ました。彼はそれが機能しているのを見ました。この事実を認識・理解して、彼は私たちが注目すべきことを言いました。それは、この事実がそのからだにおいて可能な限り完全に表現されるようになるためです。この事実と、この事実の表れとは異なります。私たちはこの事実に対して責任を負っていません。私たちはこの事実を造り出すことも変えることもできません。この宇宙の何物も、キリストが一つであるこの事実を変えることはできません。キリストを分解、分裂、解体して、相争う断片にできるものは、何もありません。何物もそうすることはできません。かしらは天におられ、この宇宙のあらゆる分裂的力に対する普遍的勝利の力を帯びておられます。そして、何物もキリストのこの絶対的一つに触れることはできません。あなたと私は、たとえキリストの肢体であっても、極めて激しく争うかもしれませんが、この一つという事実は変わりません。その顕現、その表れは別の問題であり、そこから私たちの責任が始まります。パウロはこの一つという背景にある現実・事実を見ていたので、私たちの責任に関する事柄を述べないわけにはいきませんでした。私たちはそれらの事柄を考慮しなければなりません。それは、この事実が私たちの間で可能な限り事実として表されるようになるためであり、あるいは、この事実が私たちにおいて働くようになるためです。

これらの事柄のいくつかに触れることにします。この問題の重要性に、あなたは十分気づいており、意識しておられるでしょう。これは重大な主題、重大な考えに関する教えの提示であるだけではありません。神の究極的御旨がこの宇宙で表されること、神が人の姿で表現されることと関係しているのです。これが私たちの宿命であり、私たちの存在はこのためです。これを認識しない限り、私たちは自分の宿命を見失っています。神は私たちの存在を御子のかたちに同形化しつつあり、この宇宙の中にひとりの団体的な人――それは完全に表現されたキリストです――を生み出しつつありますが、この神の御旨を理解しない限り、神が何をしておられるのか、また、なぜ神はこのように私たちを取り扱っておられるのか、私たちは適切に知ることも理解することもできません。

増し加わりに必要不可欠な秩序

第一に、このからだ(もしよければ、この団体的な意味で「新しい人」という言葉を使うこともできます)は、秩序を通して成長し、増し加わります。

使徒はこれを完全に明らかにしています。それが成長するのは、このからだがしっかりと組み合わされる時です。それは神の増し加わりと共に増し加わります。それは、しっかりと組み合わされて、すべての関節がその度量に応じて働くことに基づきます。ですから、秩序・成長・増し加わりは、この秩序によります。肉体の比喩に再び向かう必要はほとんどありません。使徒がキリストのからだについて記した時、彼の念頭には肉体がありました。体の中に秩序だった状態――使徒はそれをしっかりとした組み合わせと称しています――がなければ、体は決して成長・発達しません。これは確かにそうです。

素晴らしいことに、主はこの肉体の世界の諸々の肢体を、その場所がその用途に最も適するように創造されました。私たちの肢体が別の配置をしていたと想像してみて下さい。そうだったら、私たちはどれほど不便だったことでしょう。私たちはふざけたくはありませんが、この問題を単純化して、その原理を強調したいと思います。あなたの親指があなたの手の反対側にあったとしましょう。そして、そのような仕方で働いて、すべての物を外側で掴まなければならないとしましょう。いびつな形をした物を取ろうとするたびに、どれほど制約が生じるのかが直ちにわかります。さて、主には一つの秩序があります。その秩序が受け入れられて機能しているなら、最大の増し加わりという結果になります。この秩序は神の御旨を断固として実現しようとします。不調な体では私たちの体の肉体的可能性を実現できないのと同じように、神の秩序がなければ、私たちは神の御旨を実現できません。

この秩序における包括的要素はキリストの頭首権であり、もちろん、私たちがそれに結びつくことです。「かしらにしっかりと結びつきなさい。この方から、からだ全体は供給を受け……」。キリストの頭首権と私たちがそれに結びつくことが、包括的要素です。すべての器官の中心はかしらである彼です。もしかしらがからだから切り離されるなら、あるいは、何らかの方法で機能的に分離されるなら、からだのいかなる部分も機能できません。かしらとからだの間に何らかの方法で神経障害や断絶が入り込むなら、全身が不調になって機能できなくなります。すべてがかしらの中に集約されています。このようにキリストの頭首権は、彼のからだである教会の秩序にとって必要不可欠なものになります。キリストの頭首権について述べることは、聖霊の統治について別の言い方で述べることに他なりません。聖霊はかしらであるキリストから降臨されます。

象徴について述べると、かしらに油が注がれて、次にかしらからからだに流れ下らない限り(アロンの頭に注がれた油は彼の衣の裾に流れ下りました)、いかなる機能もありえません。ですからここでは、聖霊はかしらの上にあるものとして示されています。それはすべての肢体のためであり、すべての肢体をかしらと一つ油塗りの下にもたらします。一つ御霊の中で私たちはみな、一つかしらの下で、一つからだの中へとバプテスマされました。なぜなら、この油はこのかしらに与えられているからです。これは聖霊の統治であることがわかります。

さて、肢体の個々の機能の問題に取り組まなければなりません。その何たるかに関して、私たちは自分自身の機能の問題を最初に取り上げる必要はありません。それは考えるべき最初の問題ではありません。他の人々に対する私たちの関係についても同じように、私たちが思い悩むべき問題ではありません。私たちが為すべき第一の事は、聖霊の統治の下に、油塗りの下に来ることです。その統治の結果、秩序が生じます。個人の意志はキリストに服さなければなりません。そして、個人がキリストに服する時、その個人は聖霊によって適切な機能の中に導き入れられ、また、キリストの他のすべての表現との関係の中に導き入れられます。調和はこのような方法で生じます。それは自発的です。

霊的関係と機能の性質

第二に、キリストの肢体たちは、御言葉の中に示されているように、機能中のキリストの器官です。

キリストのからだの肢体たちは、機能中のキリストの器官です。これは、私たちが主に結合されて一つ霊である結果です。身体的観念をまったく取り除いて、どのようにキリストのからだが聖霊によって内住されている新しくされた霊の結合体であるのかを理解しましょう。これは多くの肉体の結合体ではありませんし、それらを教会と呼ぶことでもありません。それは単なる会衆です。私たちを教会にするのは、霊の中で私たちが共に何者なのかです。信者たちは教会ではありませんし、会衆も教会ではありません。教会は霊的です。なぜなら、教会は霊の結合体だからです。これはまさに、サマリヤの女を取り扱ったときに主が指摘されたことではないでしょうか?「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたたちは『エルサレムで礼拝しなければならない』と言っています」という彼女の言葉に対して、「真の礼拝者たちが霊と真理の中で父を礼拝するときが来ます」と彼は返答されました。それはサマリヤの宮の問題でも、エルサレムのユダヤ人の宮の問題でもありませんでした。真の礼拝者たちは御父を霊の中で礼拝します。そして、御父は御自身を礼拝するそのような者たちを求めておられます。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理の中で礼拝しなければなりません」。事実上、主は、「私は宮やすべての外面的組織に取って代わるために来ました。そして教会は今や、私が来たことにより、場所や会衆ではなく、霊の結合体なのです」と仰せられました。どこでも二人または三人が私の名の中に集められている所には――私もそこにやって来て彼らに加わるのでしょうか?そういうようなことではありません。どういうわけか人々は次のような考えを抱いています。すなわち、二人または三人が共に集まって、「主よ、私たちはあなたの御名の中に共にやって来ました。どうか私たちの間にやって来て、その一員になって下さい」と述べることが、その意味だと思っています。それはそのように述べることではありません。それは、その上に主の臨在を要求すべき立場を用意する問題では決してありません。主は、「二人または三人が私の名の中に共に集められているところには、私もそこにいます」と述べておられます。「すでに私を自分の内に住まわせている二人または三人」。これが教会です。それは霊の結合体です。私たちが述べているのは肉体的なものについてではなく、霊的なからだである教会についてです。「主に結合される者は一つ霊です」。これが合一の性質であり、からだの肢体たる身分の性質です。

キリストの肢体たる身分は、私たちの物理的関係とは別物です。何と多くの観念を私たちは取り除かなければならないことか。私たちは自分の名前を或る特定の教会名簿に書き記して、「自分は教会に加わった」と言います。教会の肢体たる身分は、キリストの肢体たる身分であり、私たちの霊における彼との合一によります。そして、この合一は私たちの霊に内住しておられるキリストによってもたらされます。この霊は一つの器です。

さて、前に述べたことに戻ることにします。聖霊は従順な信者にキリストの何らかの器官、すなわち、霊的な器官を与えて下さいます。これについてしばし考えて下さい。聖霊は従順な信者たちにキリストの何らかの器官を与えて下さいます。これが御霊の賜物の意味です。一コリント一二章とエペソ四章についての私たちの前の黙想で、私たちはその幾つかに言及しました。それですべてを尽くしたわけではありません。なぜなら、キリストの諸々の霊的器官を完全に列挙するのは不可能だからです。しかし、幾つか例があります。

按手
(a)神によるその取り決め
(b)その意義

按手に関して、私たちはテモテへの手紙の二つの御言葉に言及しました。預言により、長老の按手と共に与えられた、彼の内にある賜物について、パウロは述べています。御霊によってテモテに与えられた賜物がありました。それは按手の時に授けられました。これは按手が必要なものであることを示しています。なぜなら、これは神の御言葉の中にあるからです。私たちは神の御言葉に対して、自分自身に対して、そして主に対して、全く正直でなければなりません。そして、これらの事柄の一つたりとも妨げてはなりません。これにより、按手というこの問題について調べることが必要になります。

按手が意味する第一の点は、一つからだの事実です。新約聖書の中にある按手の例を挙げるなら、按手は回心者たちが今や一つからだの肢体であることを認知・承認するものだったことがわかります。その最初の例がサマリヤです。サマリヤ人たちが主に立ち返り、長老の何人かがエルサレムからそこに下って、キリストのこの真の御業を見ました。信じたこの人たちに言及して、御言葉は「彼らは彼らの上に手を置いた」と述べています。まず第一に、これはユダヤ人とサマリヤ人の間における、御霊の素晴らしい勝利です。この人々の関係に関する私たちのすべての知識に照らして見ると、そうであることがわかります。またこれは、キリストが真の礼拝者――彼らが礼拝するのはサマリヤの山でもエルサレムでもありません――に関してサマリヤの女に語られた御言葉の素晴らしい成就です。重要なのは霊的な証しです。按手によってなされる証しは、彼らが一つである事実に対するものでした。彼らは一つからだ、一つ霊でした。それは、一つからだという事実に真に適うものでした。次に、信者たちの頭の上に手が置かれたゆえに(この文脈に関して私たちは多くの点を飛ばしました。これはみな使徒八章にあります)かしらであるキリストの主権について一つの宣言がなされました。あるいは、言い換えると、かしらに対する肢体の服従についての宣言がなされました。

これを明らかにするために、頭首権の問題について聖書全体にわたって詳しく述べる必要があるでしょう。頭首権について述べる時、一方の頭首権は他方における服従の存在を意味することを、主は完全に明確にしておられます。彼は男の例を用いておられます。キリストが教会のかしらであるように、男は女のかしらです。これは、教会はキリストに服すべきことを意味します。最大の益がそのようにして得られます。主の意図は、この秩序によって最高の目標に達することです。この秩序が覆されるとき、何らかの制限が生じます。これはみな、キリストと教会の天的事実を示しています。キリストに対する服従ということでは、女が服従するように男もキリストに服従しなければなりません。会衆の中の女だけでなく男にも、パウロには言うべきことがあることがわかります。それは、会衆の中で男はどう振舞うべきかについてです。女はおおいをかけるべきであり、男はおおいをかけてはなりません。それは天の前における秩序の問題であり、私たちはみなキリストに服従しなければなりません。服従は、キリストの頭首権の下における私たちの地位――その地位がいかなるものだったとしても――を意味します。

さて、私たちは按手、一つからだの事実、かしらであるキリストへの服従について述べてきました。からだを代表する肢体たち(「長老」はそのような公的機関ではなく、使徒たちの団体も必ずしもそうではないことに注意して下さい。アナニヤはパウロの上に手を置きましたが、使徒ではありませんでした。彼はダマスコの会衆を代表していました。言えるのはせいぜいこれくらいです。アンテオケに行くと、使徒ではなかった五人の人を見い出します。彼らはその会衆の中で、神の下で霊的責任を負っていたにすぎません。彼らが主に仕えて断食していた時、主は「私のためにバルナバとサウロを取り分けて……」と仰せられました)、代表的な肢体たちがテモテの件で祈り、彼の上に手を置いて、一つからだの事実とキリストに対する彼の服従とを承認した時、彼らは御霊によってある特定の方法で祈るよう導かれました。「この若者にある印・特徴を帯びさせて下さい。主がある特定の方法で彼を資格付けて下さいますように」と彼らは求めました。それは霊感された祈りであり、預言的祈りになりました。後になって、テモテには特定の特徴があることが誰の目にも極めて明らかになりました。「伝道者の働きをしなさい。あなたの務めを完全に果たしなさい」。テモテは伝道者の賜物という特徴を帯びていました。これはどのようにしてそうなったのでしょう?彼らが彼の上に手を置いた時、彼らはそのことを祈り求めたのではないでしょうか?それは預言的祈りでした。この祈りの中で、彼の務めが何なのか、彼の使命が何なのかを聖霊は示し、彼に資格を与え、そのための賜物を彼に授けられました。ですから、すべての肢体の機能的関係は賜物によります。

これはキリストのからだにおいて止むことになっていたし、その方法、その証し、その結果についてもそうである、とは私は信じません。それが止むとき、キリストのからだの機能も止まずにはいられません。ですから、その証しは継続しなければなりません。また、からだの一体性、キリストの頭首権、祭司たちがキリストのからだの中で機能するのを可能ならしめる聖霊の賜物――これらは信者たちのためにこの証しの中に存続しけなければなりません。

「賜物」という言葉の意味を狭めないようにしましょう。それは三つか四つの事柄に狭められてきました。そして、この真理全体が損なわれてきました。「一つの特定の賜物が聖霊の確かな印であり、その賜物を得ていないなら聖霊を受けていない」と考える人が少しいます。そのような類の事から、主は私たちを解放して下さいます。ある人々が重視しているものは賜物の中で最も小さなものの一つであることを(異言のことです)、パウロはとても明確に示しています。それよりも重要な他の賜物があります。知恵の賜物、知識の賜物、理解力の賜物、啓示の賜物があります。これらはとてもとても重要な賜物ですが、それらの賜物を公に大々的に用いることはできません。それらは、人々の前で誇示できるものではありません。それらは、静かではあるもののとても価値ある方法で働きます。また他の賜物は、まったく隠れて働きますが、それでも聖霊の賜物です。

要点は、聖霊はキリストの何らかの能力をその肢体たちに与えて下さるということです。すべての肢体が、キリストの何らかの能力によって機能する肢体でなければなりません。霊的能力と身体的能力との間には、ある対応があるかもしれません。見る能力がありますが、主は御霊によってある肢体たちを御自身のために見る者たちに構成されます。これは、おそらく、識別力、知覚力ではないでしょうか?皆がこの識別力を持っているわけではありません。ああ、それを得ていない人たちが、自分はそれを持っていると考えて他の人々をあらゆる種類の問題に巻き込む――彼らは識別力を持たずに行動するからです――代わりに、自分はそれを持っていないことを知りますように。この賜物を持っている人々もいます。識別力を持たない人は、自分よりもはっきりと見えている人々との交わりの中で働く方がいいでしょう。モーセは義父に「私たちと共に来て、私たちの目となって下さい」と言いました。この例では彼は間違いを犯したと私は思います。しかし同時に、主は御自身の民のために目を必要としておられます。

体の各部分を取り上げて、それに対応する霊的能力を見つけることができます。主が他の人々のために述べておられること等を、他の人々よりも遥かに明確かつ迅速に聞く人々がいます。包括的な要点はこうです。すなわち、キリストの霊的な諸々の能力は御霊によってその肢体たちの間に分配されており、その肢体たちはそれに応じて機能しなければならないのです。その時、からだは成長し、建て上げられます。

使徒が言うには、私たちはこれらの事実を理解して、霊の中でキリストの機能する肢体に構成される道を歩む必要があるだけでなく、この賜物を守る必要もあります。主はある事のために確かにあなたを霊的に構成されたことを、心に留めて下さい。それに達しないことがないように注意してください。それが休眠するのを許さないように気をつけて下さい。あなたの内にある神の賜物を奮い立たせて下さい。

からだを認めること

使徒が私たちに教える次の点は、キリストのからだは相互に認めあわなければならないということです。それについてはかなり述べたばかりです。ここでは、それをはっきりと指摘することにします。ここでもまた、冒頭の御言葉がこの点で適切です。「……あなたたち一人一人に言います。思うべき限度を超えて思い上がってはなりません」。もし思い上がるなら、他の肢体たちを無にするか、彼らの占めるべき地位よりも彼らを低くしてしまいます。一つの肢体が状況を支配する時、キリストのからだに大きな害を及ぼします。主が持つことを願っておられるのは、肢体相互の服従・承認です。ですから、「主を畏れて互いに服従しあいなさい」とペテロは述べています。

キリストを供給すること

さらに、互いにキリストを供給しあわなければなりません。私たちはキリストの何か、キリストを供給するためのキリストの能力を持っています。つまり、私たちによって供給されるべきキリストの度量を持っています。私たちの任務は、互いにキリストを供給しあうことです。このようにしてからだは成長します。

私は、ある句を初めて聞いた時のことを忘れません。その句をあなたたちの多くはしばしば聞いてきました。それは一九二五年のアメリカでのことでした。私は、神のある働きをアメリカに建て上げるために大いに用いられた、主のある僕について話していました。私は主のこの僕に関心があり、彼女について知りうることをすべて知りたいと思っていました。私は、彼女の生涯のあいだ彼女ととても親しい関係にあった一人の人に会いました。私は彼から、彼が知っていることをすべて聞こうとしました。彼は彼女の晩年について私に話してくれました。そして、とてもさりげなく、話の流れの中で、彼は「私はよく彼女のところに行って、主の御名の中で彼女に命を供給したものでした」というこの句を用いました。彼はこの句を、まるでそう述べるのが世の中でごく自然であるかのように述べました。主の御名の中で彼女に命を?当時、それは私にとって新しい観念でした。次に、私の思いは神の御言葉に直ちに立ち返りました。この句を支持する御言葉は何かあるのでしょうか?この句を支持するとても多くの御言葉があることを私は見い出しました。使徒ヨハネが次のように語るのを、あなたは聞いたことがあるでしょう。「誰でも死に至らない罪を犯している兄弟を見たなら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至らない罪を犯している人々に、命を与えて下さいます」(一ヨハ五・一六)。これは私たちの務めの一部です。キリストは私たちの命ではないでしょうか?そして私たちは、キリストにあって機能している者として、互いに命を供給しあえるのではないでしょうか?確かにできます。これに私たちは召されています。こうしてからだは成長します。ああ、どうか主が、私たちが死ではなく、さらに多くの命を供給しあえるようにして下さいますように。

聖書全巻に照らして見ると、霊的秩序はほとんど軍隊的観念であるように思われます。これは、勝利の問題は秩序と大いに関係しているからです。例えば、民数記を見ると、軍を秩序づけることが征服と関係していることがわかります。彼らは秩序だった一団として、ラッパの音により進まなければなりませんでした。新約聖書に来ると、私たちは戦いの中にあることがわかります。エペソ人への手紙を見て下さい。キリストとの一体化を通して、あなたは秩序だったからだの中に、諸々の正しい関係の中に入ります。これは秩序だった一つのまとまりであり、御霊に満たされています。次に、主権者たちや権力者たちとの私たちの戦いが来ます。どうして、これが最後に来るのでしょう?明らかに、もしからだの中に無秩序があるなら、勝利の歩みも、悪の軍勢に対する勝利もありえないからです。主は秩序の中にある彼のからだ、正しい関係の中で機能している彼の民を持たなければなりません。

すでに述べましたが、この秩序の詳細や方法といった問題全体を取り上げるのは、私たちの分ではありません。しかし、もし私たちが御霊の中で生活するなら、それが生じるでしょう。この秩序の諸々の法則が何かを、私たちは理解しなければなりません。それらの諸法則はすでに示されており、私たちはそれに従順でなければなりません。これは偉大な現実です。この現実は事実であるとパウロは述べています。しかし、彼はまたこうも述べています。すなわち、増し加わり、建造、成長、勝利を実現するには、あなたは天然の基礎に基づいて生活してはならないのです。天然の基礎の上では分裂が生じます。その立場を放棄して、キリストの立場に来なさい。そうすれば、あなたは一体性の立場に達します。それは成長、増し加わりを意味します。あなたはもはや肉的、赤子ではなくなり、成熟に達します。この秩序はとても重要なものであることを認めて下さい。もしどこかの地元の会衆が聖霊によって支配されるなら、その集会においてこれが表されるでしょう。そのようなものを得る望みを失ってはなりません。地上の目に見える主の民の不完全で未熟な状態から目を離して、天から見て下さい。主は天から、進行中のすべての事をご覧になっています。主はその肢体たち一人一人の霊的価値を御覧になっています。主は各肢体を御自身との関係の中にもたらすことを願っておられます。それは、主が彼らを諸々の状況との接触の中に導き入れられるようになるためであり、人々――この人々は彼らが主から得ているものを必要としています――との接触の中に彼らを導き入れられるようになるためです。

この問題に関して多くの理解力と光を与えて下さい、と私たちは主に求める必要があります。