第九章 奉献の雄羊

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:レビ八・六、一〇~一五、二二~二四、三〇

祭司団の聖別には二頭の雄羊が関係していました。全焼の雄羊(一八節)と奉献の雄羊(二二節)です。奉献の雄羊に関して、今回短く述べなければなりません。

奉献の雄羊――アロンとその子らはその頭の上に手を置くことによってそれと一体化されました――は、御父に対するキリストの生活のあの特別な面を表しています。すなわち、神の御旨に対する献身を表しています――キリストは奉献の雄羊です。「見よ、私はあなたの御旨を行うために参りました、ああ、神よ」。「私は彼を喜ばせることを常に行っています」。「私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その業を成し遂げることです」。これらの御言葉は、御子と御父との間の内なる関係を私たちに示しています。また、彼の人生の原動力を示しています。この原動力が彼を完全に支配していました。御父の御旨を行うことに彼は熱心でした。彼は御父の御旨にまったく熱心だったので、「彼らのために私は自分自身を献げます」と言うことができました。

祭司団を形成していたこの人々は、自分たちの手を奉献の雄羊の上に置きました。その後、その雄羊は屠られました。そして、その結果生じたその雄羊の血をモーセは取って、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りました。その意味は大いに明らかですが、この祭司団がまったく主に委ねられたこと、主によってのみ治められることを意味しました。第一に、彼らは主が仰せられたことによってのみ支配されるべきでした。第二に、彼らのなすべきことはみな、主の指示によって支配されなければなりません――手は奉仕の象徴です。働きは主の御旨の支配下に完全になければなりません。第三に、足、足の親指は、動き、行来はすべて神の御旨の中になければならないことを物語っています。奉献の雄羊の血がすべてを支配しました。

これはみなよく知られており、理解されています。しかし、私たちが生きているこのような時、それは私たちに対して特別に適用されなければなりません。主はこの一連の黙想で多くのことを私たちに語って下さいました。私たちの関心は、この奉献の雄羊の意義の中にあります。私たちは表明・啓示された神の御旨に耳を傾けなければなりません。手を捧げて、神のその御旨を自分の一生の仕事としなければなりません。そして、自分の歩みと、自分の進路を捧げて、今から後、この御旨の道が知らされたら、直ちにその道の中に入らなければなりません。このような一団を主は持つことを願っておられます。全人格、全生涯が神の御旨の中にある一団を、主は持つことを願っておられます。

その標準はキリストです。彼が基準です。ここに、主に完全に捧げられた雄羊がいます。この雄羊はキリストと、御父に対する彼の徹底的な献身とを物語っています。これを支配している言葉は、「キリストのように」です。命と交わりにおけるキリストとの合一は、御父に対するキリストの献身が私たちの献身の標準・基準でなければならないことを意味します。これは確かに最後までそうです。私たちは心の中で自分の手を伸ばして、言わば彼の頭の上に手を置き、神の御旨に対する彼の献身と一つになって一体化されなければなりません。「彼が私たち全員のために死なれたのは」と使徒は言います。「生きている者たちが、今後、自分自身に生きるのではなく、自分のために死んで復活して下さった方に生きるためです」。私たちはキリストとの一体化について多く語りますが、次のことを理解する必要があります。すなわち、微塵も躊躇することなく、キリストは最大の代価を払って最後まで神の御旨に明け渡されていたことを、私たちが理解する時、私たちは献身の真の基準を見ることになるということです。「彼がそうであるように、私たちもこの世でそうであるからです」。

ここに、罪を担う方であるキリストとの一体化以上のことが示されています。罪を担うキリストは、全焼の供え物と罪のための供え物によって、先に示されました。私たちはおそらくとても喜んで、そのような方である彼の頭の上に手を置いたことでしょう。それは一つの事であり、これは別の事です。彼が木の上で私たちの諸々の罪をその身に負って下さったことを、私たちは喜びます。今、それに続いて、私たちは別の面に来ます。キリストとの一体化の生ける面に来ます。ここで、私たちは神の豊かで完全な御旨を目にします。キリスト、奉献の雄羊である方、私たちの上に振りかけられる彼の血、彼の上に置かれた私たちの手を、私たちは目にします。

この聖別された祭司団がどれほど、あらゆることで、キリストを物語るものと一つだったのか、祭壇と一つだったのかに注意してください。祭壇の上に振りかけられたのと同じ血が、彼らの上にも振りかけられました(三〇節)。彼らは祭壇と一つであり、十字架と一つでした。モーセは幕屋と民の上に振りかけました。彼らは幕屋と一つであり、神の家と一つでした。彼らは油を塗る霊と一つであり、それによってすべてが一つにされます。この油塗りの油と血が、彼らを含むすべてのものの上に振りかけられました。そして、その油と血がすべて――祭壇、宮、衣、人々――を一つにします。これはすべて、一つの血、一つの御霊のおかげです。これはすべて奉献と呼ばれています。これは、つまり、すべてを主のものにすることです。

私たちはこれを認めなければなりません。もし私たちが、いかなる意味にせよ、自分自身をキリストに捧げたのなら、私たちはキリストに結合されているのです。これには次のような意味があります。すなわち、御父の全き御旨が私たちの生活のあらゆる部分を支配しなければならないのです。これは、私たちは罪から救われるべきであるだけでなく、主に献身するべきでもあるということです。