序論

T. オースチン-スパークス

私たちの前にあるものは、幾つかの方法で述べることができます。そこで、少なくとも私たちの黙想の序論の部分について概観しようと思います。

神の現在の御旨

1.この世から一つの民を招集すること

まず第一に、この経綸の特別な性質を思い出すと助けになるでしょう。この経綸は主イエスの昇天から彼の再来までの期間を含みます。また次のことを思い出すと良いでしょう(悲劇的なことに、主の民はこの経綸中、常にこれを覚えていたわけではないからです)。すなわち、この時代、この経綸における、この世に対する神の主な関心事は、それから何かを取り出すことであって、それに対して何かを行うことではないし、その中で何かを得ることでもない、ということです。この問題についてはっきりしない限り、私たちは主に関する他のどの問題――主の御業、主の御旨、主との交わりの生活の問題――でも混乱してしまうでしょう。

主がもっぱら専念しておられるのは、この世から何かを取り出すことです。それ以外のことはみな、裁きに向けてこの世を整えることにすぎません。地上から取り出す神の活動が完了する時、この世に対する裁きがなされます。ですから、この世を改善すること、その中に神からの何かを設立すること、地上で神のために何かを確立すること、といった考えはすべて間違った考えであり、多くの誤謬へと導きます。そして結局は失望という結果になります。

2.この招集は主に霊的なものである

この経綸における神の主要な働きに関して、次に思い出すべきは、地上からのこの摘出は主に霊的なものである、ということです。もちろん、主は御自身の民を代々この世から引き出しておられます。最終的に、彼の出現を待ち望んでいる人々の残りの者が、文字通り見事に引き出されるでしょう。しかし、この引き出しは、この経綸全体にわたって、霊的なものです。文字通りの、あるいは物理的な引き出しは、一つの局面の終わりにすぎません。

この霊的引き出しは、第一に、一つの転機によります。新生という転機によります。この転機により、私たちは次のことを自覚するようになります。すなわち、自分は別の領域から生まれたこと、自分はもはやこの領域には属していないことです。また、新生によって得た自分の存在の最も深い実在は、この世からのものではなく、天からのものであることです。これがこの世から摘出される転機です。

それから、第二に、この転機が一度生じた後、継続的な摘出、贖い、解放(どれでも好きな言葉を選んでください)が続きます。それは、ある意味において、巡礼、退去です。私たちがまことの道を主と共に歩んで行くにつれて、私たちは霊的な意味でこの世からますます遠ざかって行きます。

これらは単純な初等的真理であり、誰にも目新しいものではありませんが、基礎を据えるために強調する必要があります。

3.神が御自身の民をこの世に残しておられる目的

神に属するものがこの世にとどまっているのには三つの目的があります。いま述べているのは、危機を切り抜けてその過程の中にあるけれども、依然としてここにあるものです。ここにありますが、この地上には属しません。それがとどまっている間、とどまっているのには三つの目的があります。それぞれ三つの異なる方面に対してです。第一に神に対して、第二にそれ自身に対して、第三にこの世に対してです。

それがここにある目的――神に対する目的――は地上で神の権益を代表することです。ダビデは自分の王国を追放されてエルサレムから追われた時、祭司ザドクを契約の箱と共にエルサレムに送り返しましたが、それは、そこが彼の場所であること、また彼がいつかそこに戻って来ることの証しでした。それと同じように主は、この世から追放されていますが、戦略的に御自身の民をここに置いておられます。ここは主御自身と関係があり、この民は主の権益をここで代表しています。ですから私たちは、この横奪者の諸々の主張に対してこの地上のここで慎重に立ち向かうよう命じられています。私たちは、この世の君であるという悪魔の主張に対して異議を申し立てます。それは、正当な支配権を持つ御方の権利のためです。私たちはこの目的のために、神に対して、ここに堅く立ちます。

この目的の別の面――ここにある神に属する事柄自体に対する目的――については、神に属するものの真の性質を学ぶ目的のためです。これらの別の事柄の間にとどまっている間、私たちがこの地上に残されているのは、教育的目的のためです。そして私たちの学びの方針は、神に属する事柄の性質を学ぶことです。私たちには学ぶべき学課がたくさんあり、知るべき事柄がたくさんあります。それは、人に属するものと神に属するもの、アダムに属するものとキリストに属するもの、地に属するものと天に属するもの、肉に属するものと御霊に属するものの違いについてです。私たちの学びはこの方面におけるものです。

それはとても経験的・実践的事柄です。もしあなたと私が突然天に引き上げられていたなら、すなわち、救われた瞬間天に移されていたなら、私たちは神に属するすべての事柄の性質を直ちに完全に知るようになっていたでしょう。しかし、今はわからない方法で知るようになっていたでしょう。別の言い方をすると、もしそうだったなら分からなかったような方法で、私たちは今それを知るようになりつつあるのです。もしそうだったなら、私たちはそれを客観的なものとして、自分たちの周囲の至る所で確立されているものとして知るようになっていたでしょう。そして、そのような方法でその中に入っていたでしょう。しかし私たちはここに、相争う諸々の要素の中に残されており、それによって私たちはそれを経験的な方法で学びつつあります。そして、それは苦難を通して、矛盾を通して、訓練を通して、膨大な内的歴史を通して、私たちの中に造り込まれつつあります。それは私たちのまさに存在中に造り込まれつつあります。これが御民を教える神の方法です。これは最も有益な方法です。そうでなければ、神は別の方法を取っておられたでしょう。

次に、神に属する事柄がここにある目的――人に対する面――については、それは証し(testimony)と証し人(witness)の問題です。この二つの言葉は同じことを意味しません。証し人は道具であり、証しは証し人によって与えられるものです。主は真理の化身である何かをここに持たなければなりません。それは化身であるので、真理を示します。これが証し人と証しの違いです。私たちが人に対して、この世に対して、地上のここにいるのは、真理の化身・表現になるというこの目的のためです。

ですから、次のことがわかります。主は、本質的であり全く御自身に属するものを、一時の間ここに残しておられますが、これはそれをここに定住させるためではありません。それをここに確立するためではありませんし、それをここで事物の一部とならせるためでもありません。そうではなく、それがここにあるのは神の諸々の目的のためです。そしてそれらの目的がある点に達して、主が御自身の知恵と主権により「その器を天に移した方がよい」と見なすようになる時、主はしかるべき行動を取られます。

神の模範である人の子

これはみな、キリストの生涯の二つの特徴に集約されます。

(a)この世の中にあるが、しかしそれに属さない。あの短い滞在の中に、この地上ではなく天と連携して生きる生活のすべての法則が込められています。彼の居場所は、ここにいる間、御父のふところの中にありました。彼は神と共におられ、この世に属していませんでした。彼はこのような関係の諸々の法則によって生きました。そして彼がこのように生きたのは、人は神によって生きるよう召されているという事実を示すためでした。確かに彼は神でした。これはさしあたって問題ではありません。しかし、私たちは別の面を強調します。それは、なぜ彼はここで生きる必要があったのかを理解するためです。それは次の事実を示すためでした。すなわち、人はたとえ地上に生きていたとしても、それでも諸々の法則――それに従うならこの世の人とは異なる存在にしてもらえます――に治めてもらうことができる、という事実です。

これは複雑に聞こえるかもしれませんが、一つの単純な事実に還元できます。彼は人としてこの世の中に生きましたが、それでもそれに属さなかったのです。そしてそのように生きるために、この世の法則ではなく天の法則によって治められている者として行動しなければなりませんでした。これが彼の生活の一つの面であり、私たちが述べていることはこれに集約されます。

(b)天の中にあるが、しかし教会の中で聖霊によりその天的生活を表す。すべてはこれに集約されます。聖霊が遣わされた主な目的は、教会の中でキリストを「再び生きる」ことであり、そうすることによって、教会をキリストにしたがって一人の天的な人に構成することです。こういうわけで、御霊による生活とは何か、御霊によって治められる生活とはいかなるものなのかを、理解することが必要になります。

偉大な支配的法則である霊性

キリストの生涯のこの二つの局面が結合しているけれどもそれでも分かれている挿入期間があります。この挿入期間の間、この二つの局面が出会い、分かれます。この挿入期間とはキリスト復活後の大いなる四十日です。地上における彼の生活の最初の局面はこれに至り、天における彼の新しい生活もこれに至りました。この両者が出会います。彼は依然としてナザレのイエスですが、ある違いがあります。この期間これらが出会いますが、一つではありません。異なっており、分かれています。マリヤは、復活の朝キリストに会った時、古い流儀にのっとって進み出ようとしたことでしょう。彼女は彼に抱きつこうとしましたが、彼は「私に触れてはならない」と仰せられました。ある違いがあります。ある変化があります。一言で言うと、昔の類の関係は終わりを迎え、別の関係になろうとしていたのです。しかしそれでも、最も根本的な現実は存続します。この二つの局面、地的局面と天的局面が、この四十日間で出会いますが、それでもそれらは別のものであり、分かれています。これらの局面の両方を支配する一つの偉大な包括的法則、この挿入期間に明確に示されているのは、霊性です。

霊性は大いなる決定的真理です。それは万事の真相を決定し、万事の価値を決定し、万事を支配します。マリヤは、他の者たちと共に、「キリストを所有するには、彼に会い、彼に触れ、彼を抱きしめなければならない」と考え、信じていました。キリストは彼らに二つのことを教えました。一つは、そうしても真にキリストを所有することにはならない、ということです。最も根本的な現実、最も根本的な真理、キリストの最大の価値に照らして考えると、そうすることはキリストを所有することではありません。他方、まるで本当にキリストに会って、彼に触れたかのように彼を所有すること、そして、彼が肉体をもってここにおられる場合よりもいっそう実際的に彼を所有することも可能です。あらゆる現実の中で最も偉大なこの支配的法則は霊性です。

霊性とは何でしょう?この四十日について考えるなら、霊性は肉にしたがってではなく霊にしたがってキリストを知ることに帰着することがわかります。人の肉的な標準、移ろいゆくものや目に見えるものに関する魂的標準にしたがってではなく、神聖な命の力にしたがって、内なる霊的な方法でキリストを知ることです。一言で言うとこれが霊性です。これについては、もっと述べなければなりません。

この二つの局面が出会い、重なってはいるものの、それでも分かれているところがわかります。主は、これらの局面を一緒にされたとき、それらは同じものではなく、一つではないことを、完全に明らかに示されました。そこにはこの重要な違いがあります。私の理解では、それがこの四十日の目的でした。それは次の事実を彼らの前に示し、彼らの中に確立するためでした。すなわち、霊性は、キリストとの私たちの関係についての、また、この関係に関するすべての事柄についての、偉大な支配的原則である、という事実です。

決定的区別

霊性については、もちろん、さらに述べる必要があります。私たちは霊性を、抽象的な、この世のものではない、空気のような神秘的要素――積極的で実際的なものとはまったく関係がない――と混同してはなりません。霊性の意味に関して、人々は心の中に奇妙な観念を抱いています。芸術批評家の画廊を通ると、彼がたびたびこの言葉を口にするのを耳にします。芸術作品のことを「霊的」云々と彼は言います。そして、霊性を帯びているある作品についてあなたに告げます。あるいは、偉大な音楽作品を聞きに行くと、同じことを耳にします。「霊性」のあるなしで真の芸術的価値が決まります。建築の分野でもこの言葉が使われています。建築物に関して、その実際の構造や装飾についてだけでなく、無形の要素についても述べられます。それは「霊的」要素です。

私たちは霊性に関する私たちの観念の中からこの観念を全く取り除かなければなりません。それは霊性に関する聖書的意味ではありません。それは神秘的な、この世のものではない、抽象的で、空気のようなものですが、神の御言葉が霊性という言葉で意味しているものではありません。おそらく、これについて述べる必要はないかもしれません。しかし、私たちが霊性について述べる時、非現実的な領域に心が漂ってしまう人々もいるでしょう。神の御言葉に適う霊性の上に、極めて大きな問題がかかっています。極めて途方もない結果がかかっています。

これに関する馴染み深い例を挙げましょう。契約の箱の運搬方法・手段に関して、神は御言葉を通して啓示されました。契約の箱をとある場所からエルサレムに運ぶ日が来ました。ダビデは運ぼうとしました。ダビデの側には、「契約の箱を決まった場所に置かなければならない」という神の御言葉がありました。また彼の僕の側には、主に対する心からの献身と、主の権益に対する心のこもった熱心さがありました。そして次に僕は、献身的愛情と熱心さにより、主の御旨と思ったことにしたがって(主の御旨に関する彼の認識は完全に正しいものでした)行動しました。しかし、その御旨を遂行し、その計画を成し遂げようとしたとき、悲劇が降りかかりました。主はその日打たれたので、ウザは主の御前で死にました。何が間違っていたのでしょう?神の御旨は間違っていませんでした。契約の箱は決まった場所になければならないことが、神の御旨でした。その献身的愛情には何の問題もなく、主に対するその熱心さにも何の問題もありませんでした。

問題、欠陥はどこにあったのでしょう?主が御自身の御旨を実現される方法、為すことを欲しているものを主が為す方法、主がそれを成し遂げる方法について、当時の人々は認識しそこなったのです。間違っていたのは目的、動機、献身的愛情、熱心さではありませんでした。それをいかに為すべきかという問題に関して認識が誤っていたのです。つまり、ダビデは神の御言葉の中に啓示されている水準、神の御言葉の中に具現化されている水準よりも低い水準にしたがって行動したのです。それは霊性における失敗でした。なぜなら霊性の特徴は霊的知性であり、この知性は神の意図に関するものだけでなく、神の方法に関するものでもあるからです。神の御旨に関するものだけでなく、その御旨を成就する方法に関するものでもあるからです。

神がなさりたいことについて一般的な観念を持っていても、その方法については定かではないおそれがあります。しかし、これはそれに尽きません。その領域で悲劇が起きるおそれがあります。ですから、この事例の場合、霊性は御旨を遂行するための主の御思いについて認識する問題であることがわかります。

これは実際的でしょうか?これが実際であるかどうか、ウザに尋ねてみなさい。主が打たれたあの日、それは実際だったのかどうか、ダビデに尋ねてみなさい。私たちが切り抜けられるか否かは実際的な問題です。それはとても実際的であるため、生か死かの問題になります。主の祝福がその上にとどまるか保留されるかは、実際的な問題です。極めて重大な結果が霊性に伴います。なぜなら、霊性は主を内なる方法で知ることを意味するからです。ですから、霊性はとても実際的であり、とても現実的です。それは私たちの生活に極めて重大な結果をもたらします。

私たちはこの馴染み深い例を挙げましたが、この例は物事の一つの局面に触れるものであり、霊性が何を意味するのかを示しています。ダビデは最終的に神の意図を認識するようになりました。そして、神の御旨をすべて理解したか、あるいは部分的にしか理解していないかは、重大な問題であることを理解するようになりました。ダビデが理解した御旨の一部は、主は契約の箱を特定の位置、特定の場所に置くことを望んでおられる、ということでした。彼にはそれで十分でした。この目的に対する彼の熱意にとって、それをなす方法はあまり大した問題ではありませんでした。とにかく、それを行いさえすればよかったのです。しかし、この事例からわかるように、主にとって方法にはとても大きな意義がありました。正しいことを行う間違った方法があり、全体を禍にもたらすかもしれません。ここでの結果は疑いなく、神の御旨を正しく認識したのに間違った方法で行ったことによる悲劇でした。それは霊性における失敗でした。なぜなら霊性は、主の権益における主の方法に関して認識することを意味するからです。

神の性質の所産である霊性

この時代の霊的な人々や、霊的なものである教会について述べる時、それが意味するのは、それらは神秘的である、ということではありません。私たちはこの言葉を、キリストのからだである教会、キリストの奥義的からだに関してよく耳にします。それが意味するところに私たちはとても注意深くなければなりません。聖霊は使徒パウロを通して、霊性をとても実際的な問題に適用しています。例えば、次の御言葉はキリストの肢体たちに宛てられています。「目は手に向かって、私はあなたを必要としない、とは言えません」。これは何ら神秘的ではありません。これは実に実際的です。自分の目に自分の手に向かって「私はあなたを必要としません」と言わせてみなさい。そして、この言葉に従って仕事をして、どれくらい先に進めるのか見てみなさい!それはとても実際的な問題であることがわかります。キリストのからだは神秘的――実際的・積極的益の領域外にあるものという意味――ではありません。

この霊的な経綸において、霊的な民、霊的な人々、あるいは教会について私たちが述べる時、それは霊的である、それは隠された縁遠いものである、ということを言わんとしているのではありません。神の子供や教会の真の性質は、この世から隠されているものであり、この世にとっては謎です。それに関して天然の人は、「どうすれば人は再び生まれることができるのですか?」「どのようにしてこの人は自分の肉を私たちに与えて食べさせることができるのですか?」「どのようにして死者はよみがえるのですか?」と言ってばかりいます。光で照らされていない人にとって、それは謎であり隠されています。それにもかかわらず、霊的な人々、そして教会の霊的性質は、とてもはっきりとした、とても積極的なものです。なぜなら霊性は、第一に、人がもともと持っている性質とはまったく異なる性質を持つことを意味するからです。その性質は、質においても能力や可能性においても、まったく異なっています。天然の人は御霊に属する事柄を受け入れることができませんし、知ることもできませんが、霊的な人にはできます。「こう記されてある通り、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かばなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えて下さった』のです。そして、それらを神は、御霊を通して私たちに啓示して下さいました……』」(一コリ二・九)。

霊性は、ですから、通常の人の性質よりも遥かに優る性質を持つことを意味します。その能力や可能性は、人に通常属している能力や可能性よりも遥かに高度です。これが霊性の性質です。それは神聖な可能性、神聖な能力であり、聖霊の働きと臨在のおかげで、内側にもたらされます。

これは事実であり、あなたも私もそれが事実であることを知っています。しかし、それは私たちとそれを持たない人々との間に、極めて実際的な困難を生じさせます。この困難を解決しようと試みてみなさい。再生されていない人に向かって主に属する事柄について話し始めてみなさい。そうするなら、無反応に直面することがわかるでしょう。宗教について、キリスト教や神学について話したとしても、たとえ(私たちにとって最も偉大な現実である)新生から話し始めたとしても、その経験をしたことのない人々、上から生まれていない人々は理解しません。「『再び生まれる』という言葉であなたが何を言わんとしているのか、私にはわかりません」と彼らは言うでしょう。その先に進んで、主に属する事柄――それらは主と共に歩む私たちの行程で私たちに臨んだものです――について話しても、その領域を自分が一人で進んでいること、霊的でない人々はみな締め出されていること、そして、この二つの領域の上に橋を架けようとしても無駄であることを、あなたは見い出すでしょう。これは私たちの生活の最大の問題です。他の人々に関するこの問題では、聖霊の十全性に全く拠り頼むしかないことを、私たちはよく承知しています。

たとえ持てる力をすべて注ぎ出して、自分の生涯の終わりまで宣べ伝えたとしても、神の御霊が活気、照らし、能力を聴衆に与えて下さらないなら、その宣べ伝えは空しく、私たちは愚か者のようであり、自分の力を空しく費やしたことになります。霊の事柄を天然的な心に理解させることは決してできません。しかしそれでも、これらの霊の事柄は神秘的で蒸気のような抽象的事柄であり、非現実的な空気のようなものにすぎない、とは言えません。それらは宇宙で最も偉大な現実です。それは想像上の事柄である、とは私たちは一瞬たりとも認めません。キリストとの合一によって私たちに臨んだ他のいかなる事柄も、想像上の事柄ではありません。それらはとても現実的であるので、私たちのまさに存在そのものです。もし誰でも自分の信仰を捨てて、自分の信条について心変わりするなら、「それはその人が外套のように身にまとったものだったのであり、真実ではなかった」と見なすことができます。

神を知る内的な知識

さて、先述したことにより、真の霊性とその真価が何であるのかを説明する道が拓かれます。神の民全員ととても強く、明らかに、堅く関係しているのが確実な一つのことは、傷むことのない不滅のものについての問題です。宇宙のその他のものがすべて崩壊する時、他のものがみな荒廃して滅びる時、持ちこたえるものについての問題です。天と地が震われて、震われうるものが震われる時、この震い分けに耐え、この火に耐え、永遠に不滅であり続けるものが現れるでしょう。これは私たちと実際的な方法で関係しており、私たちが地上のこの場所にいる結果と関係しています。

霊性の大きな特徴は霊的知性であり、霊的知性は主の御思い、御旨、神が求めておられるものについて主を内なる方法で知ることです。なぜなら、これは他のあらゆるものよりも長続きするからです。この経綸における神の卓越した至高の活動にあずかるとは、こういう意味です。この世とそれに関するものはみな、永続しません。ですから、私たちはその中に根を下ろしません。その中に深い土台を据えません。それと連合して建て上げて、それに神の名をつけることをしません。宗教的な方法でそうしようとすらしません。あなたも私も、この経綸における神の至高の活動の中に入らなければなりません。これはこの世の外に出て、神御自身と協力することです。これは他のものがみな消え去っても残ります。これは民の中に存在しているかもしれませんが、その本体は神を知る内的な知識です。これが霊性です。

霊的な民、霊的である教会について述べる時、私たちが述べているのは、高次の知性、人の知性や知識よりも優った知識を持ち、それに従って働く民や教会のことです。これは実際的な面です。それに相応しいた活動へと導かない、神の御思いに関するいかなる種類の知的理解も、間違った理解であるか、あるいは、その目的に届かないものであるかのいずれかです。とても多くの人々は、霊的な思想や観念について考え、常に表面の下を探って見えない何かを理解しようとしていますが、彼らは極めて非実際的です。生活の中に何の結果もありません。神聖に見える思想を持つだけでは不十分です。それらの思想を実際的方法で表さなければなりません。

神の働きは神の諸々の原則にしたがってなされなければなりません。そして、それらの原則は聖霊によって啓示されます。これが生活と働きにおける霊性です。この経綸においては、その違いは大いに明らかです。その正しさはあの人々からわかります。彼らは神の御言葉の中にある数々の観念を握って、次に、ペリシテ人の荷車に相当するものを造りました。ダビデがそれを組み立てたのです。つまり、彼らはこれらの観念にある形を与えたのです。その形は手で触れるものであり、地に属するものでした。彼らはそれをこの世の中に確立しました。そして、自分たちの秩序――彼らはそれを時として教会と呼びます――を定めて、「これは御言葉にしたがっています。この御言葉にしたがって、私たちはこれを行ったのです」と言います。こうして、多くの異なるものが設立されます。それらはみな互いに矛盾していますが、それにもかかわらず、それらすべてが「神の御言葉によって設立された」と主張しています。これは正しいことでしょうか?それらの多くは互いに排斥しあっていますが、それにもかかわらず、神の御言葉によって自分自身を裏付けています。これは正しいことでしょうか?さて、そのどれも、それがこの地上に存在するものであり、この地上に確立されているものである限り、御言葉の中にある神の御心を認識することに失敗します。ここですべてが正道を踏み外したのです。ここですべてが誤ったのです。こういうわけで混乱と矛盾が生じ、神の御心の表れとは受け入れられないこのような状況が生じます。それが実質的に言っているのは、「神にはたくさんの異なる御思いがあり、その中に一致するものは何もない」ということです。神の御思いは一つです。神の御思いを持つには、あなたは本質的に霊的でなければなりません。そして霊的な思いを持つとき、あなたは表現における一つを得ます。使徒たちがその偉大な実例です。

私たちは後で使徒たちの働きのこの最初の章を見ることにします。そしておそらく、その先に進むことになるでしょう。しかし、今強調すべきは次の点です。ここに見られるように、キリストと関わって来たそれまでの年月のあいだ一致していなかった人々が、みな共に立ち上がって語り、心、言葉、思いの一つ(oneness)を示したので、まるで一人の人であるかのようだったのです。聖霊降臨の直接的表われは、それまで到底一つではなかった人々の間に極めて顕著な方法で一つが生じたことでした。ああ、人々を隔てる偏向性や相違!一つは聖霊降臨の強力な素晴らしいしるしです。それは神の御霊の完全な支配下にある人々の中に働く、神の一つの御思いです。これが霊性です。それは神の御思いを知る知性です。ですから、霊の人と教会の中には、霊的な事柄である、天然の人が持つよりも高次の知性にしたがった働きがあります。それは、したがって、他のものがすべてなくなっても残るものであり、あらゆる試みやあらゆる試練に持ちこたえるものです。それは神を知る内的な知識であり、絶えず成長してゆきます。

今日、私たちに対する主の関心事は、私たちが霊の思い(これは個人に関することであり、団体的な人、一人の新しい人である教会に関することです)に関する神の御心を知ることであり、聖霊により天のキリストにしたがって構成されることです。そして、聖霊が神の天的な人である主イエスの命、心、知性を私たちの内に複製することです。

どうか私たちの目がこれに対して開かれて、私たちがこれについて考えてゆくとき、主が私たちにますます自由を与えて下さいますように。